ヴァイオリンのコンサートへ行って来た。専門家でない者にとっては、音楽のコンサートは、芝居と一緒で、大ファンでもない限り、知りあいが出演しているとか、何か縁がないと行かないものである。
僕のヴァイオリン教室の先生が出演するというので、これは是非と言って鑑賞した。「MARI室内合奏団」による弦楽奏コンサートである。会場は、府中グリーン・プラザ・けやきホール。ヴァイオリンを中心に、ヴィオラ、チェロ、ベースの合奏であった。先生は、賛助出演ということで、残念ながら独奏はなかった。
まずは、モーツァルトの「ディベルティメント」より第2番、そして楽しい第1番である。
僕は、島田雅彦のデビュー作「優しいサヨクのための喜遊曲」を、何という気障なタイトルをつけてとずっと思っていた。恥ずかしながら、その喜遊曲がディベルティメントなのだとは、最近知ったのだった。
それを知ってから、ディベルティメントを聴くのが楽しくなった。何しろ、読んで字のとおり喜遊曲なのだ。話は逸れるが、最近の島田雅彦は、「レクィエム」を書いているようだが。
音楽は素人を承知で言ってしまうと、ヴァイオリンはワインのようだと思った。
独奏の最初は、小森奈緒美さんである。曲は、モーツァルトの、やはり「ディベルティメント」第17番より「メヌエット」である。
若さを卒業し、ちょうど脂の乗り切った年頃の優しそうな人である。風情と同じく、流れるように淀みない音色だ。ただただ聴き惚れる。
この年頃の人は、ブルゴーニュの白であろうか。果実の風味と酸味をたっぷりと含み、芳醇な味が出たころだ。何の料理にも合う。肉にも野菜にも。宴の最初に飲んでもいいし、最後に飲んでもかまわない。何の欠点もない。賛辞のみだ。
次に独奏された女性は、年配の中村幾代さん。この合奏団のミストレスである。みんなと一緒に座っているだけで、その人だけが違うのが分かる存在感である。曲は、ベートーベンの「ロマンス」ヘ長調。
演奏も、メリハリがあり力強い。どんどん引き込まれるものを感じる。年齢を感じさせない、それどころか年齢の持つ揺るぎない力を持っているのが分かる。
もう、熟成したボルドーの赤のビンテージものであろう。料理は、ステーキとチーズぐらいでないと対抗できない。ボルドーの赤、カベルネ・ソーヴィニヨン系は、長く寝かせれば寝かせるほど味にコクが出るが、保存が良くないと、とんでもないもの、つまり出自が分からないものになるから十分な観察が必要だ。
次は、若い山中美穂さんと鈴木明子さん。現役の学生であろうか、何しろはつらつとしている。曲は、J・S・バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調」。
表情も変えずに、手が器用に目まぐるしく動くのには感心だ。う~ん、本当に器用だ。羨ましい限りだ。その躍動感を見ているだけでも楽しい。
このころの演奏家は、若いボージョレーであろうか。若くていいのだ。いや、若いからいいのだ。何しろ、葡萄というより摘み取ったばかりの苺の風味がする。採りたての、さっぱりとしたまろやかな味を楽しむのだ。それはまた、食欲をそそるのだ。これから、どんな味に変わるかは別に、今が旬なのだ。
最後に、アンコールとして、日本の曲が演奏された。「カエルの歌」とか「カラス」等々で、子どもの頃に聴いたことがある曲だ。指揮者で主催者の梶原マリさんは、「西洋音楽のあとで、お茶漬けを食べたくありませんか」とおっしゃって、これらの日本の曲をトリとして出された。
しかし、悲しいかな、やはりお茶漬けはお茶漬けである。オードブルから肉を食べてワインを飲んだあとは、デザートを食べるかコーヒーを飲みたい。茶漬けの味は、お琴や尺八でならそれなりの哀愁と味が持てるであろうが、モーツァルトやベートーベンのあとでは、荷が重いのは明らかであった。
以上は、専門家ではない戯言、「かりそめのモノ書きのための喜遊曲」ですので。
僕のヴァイオリン教室の先生が出演するというので、これは是非と言って鑑賞した。「MARI室内合奏団」による弦楽奏コンサートである。会場は、府中グリーン・プラザ・けやきホール。ヴァイオリンを中心に、ヴィオラ、チェロ、ベースの合奏であった。先生は、賛助出演ということで、残念ながら独奏はなかった。
まずは、モーツァルトの「ディベルティメント」より第2番、そして楽しい第1番である。
僕は、島田雅彦のデビュー作「優しいサヨクのための喜遊曲」を、何という気障なタイトルをつけてとずっと思っていた。恥ずかしながら、その喜遊曲がディベルティメントなのだとは、最近知ったのだった。
それを知ってから、ディベルティメントを聴くのが楽しくなった。何しろ、読んで字のとおり喜遊曲なのだ。話は逸れるが、最近の島田雅彦は、「レクィエム」を書いているようだが。
音楽は素人を承知で言ってしまうと、ヴァイオリンはワインのようだと思った。
独奏の最初は、小森奈緒美さんである。曲は、モーツァルトの、やはり「ディベルティメント」第17番より「メヌエット」である。
若さを卒業し、ちょうど脂の乗り切った年頃の優しそうな人である。風情と同じく、流れるように淀みない音色だ。ただただ聴き惚れる。
この年頃の人は、ブルゴーニュの白であろうか。果実の風味と酸味をたっぷりと含み、芳醇な味が出たころだ。何の料理にも合う。肉にも野菜にも。宴の最初に飲んでもいいし、最後に飲んでもかまわない。何の欠点もない。賛辞のみだ。
次に独奏された女性は、年配の中村幾代さん。この合奏団のミストレスである。みんなと一緒に座っているだけで、その人だけが違うのが分かる存在感である。曲は、ベートーベンの「ロマンス」ヘ長調。
演奏も、メリハリがあり力強い。どんどん引き込まれるものを感じる。年齢を感じさせない、それどころか年齢の持つ揺るぎない力を持っているのが分かる。
もう、熟成したボルドーの赤のビンテージものであろう。料理は、ステーキとチーズぐらいでないと対抗できない。ボルドーの赤、カベルネ・ソーヴィニヨン系は、長く寝かせれば寝かせるほど味にコクが出るが、保存が良くないと、とんでもないもの、つまり出自が分からないものになるから十分な観察が必要だ。
次は、若い山中美穂さんと鈴木明子さん。現役の学生であろうか、何しろはつらつとしている。曲は、J・S・バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調」。
表情も変えずに、手が器用に目まぐるしく動くのには感心だ。う~ん、本当に器用だ。羨ましい限りだ。その躍動感を見ているだけでも楽しい。
このころの演奏家は、若いボージョレーであろうか。若くていいのだ。いや、若いからいいのだ。何しろ、葡萄というより摘み取ったばかりの苺の風味がする。採りたての、さっぱりとしたまろやかな味を楽しむのだ。それはまた、食欲をそそるのだ。これから、どんな味に変わるかは別に、今が旬なのだ。
最後に、アンコールとして、日本の曲が演奏された。「カエルの歌」とか「カラス」等々で、子どもの頃に聴いたことがある曲だ。指揮者で主催者の梶原マリさんは、「西洋音楽のあとで、お茶漬けを食べたくありませんか」とおっしゃって、これらの日本の曲をトリとして出された。
しかし、悲しいかな、やはりお茶漬けはお茶漬けである。オードブルから肉を食べてワインを飲んだあとは、デザートを食べるかコーヒーを飲みたい。茶漬けの味は、お琴や尺八でならそれなりの哀愁と味が持てるであろうが、モーツァルトやベートーベンのあとでは、荷が重いのは明らかであった。
以上は、専門家ではない戯言、「かりそめのモノ書きのための喜遊曲」ですので。