かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

東京の下町

2006-07-04 02:28:08 | 気まぐれな日々
 九州の田舎町育ちの僕には、東京の下町といってもことさら興味があるわけではない。子どもの頃に見慣れた風景だからだ。
 しかし、東京の急激な変貌を見るにつけ、東京の下町を見ておこうという気になった。というのも、東京駅近くの日本橋で友人がやっている料理屋(当日はイタリアン料理)に数人で行くことになったので、ついでに脚を伸ばして近くの下町を歩くことにしたのである。
 行った先は、佃と月島。東京湾の中州である。築地から橋を渡った一角がそこであるから、都心のすぐ近くである。
 
 地下鉄月島駅を出て地上にあがると、平屋の家の周りに幾つもの高層ビルが目につく。まずは佃を歩き始めると、ひときわ古い家が目についた。昔ながらの雑貨屋だ。店主とおぼしきおじさんが一人いるが、客はいない。おもむろに入ってみる。
 売っているものも、昔ながらの駄菓子からするめ、洗剤まであるが、どう見ても品数は少ない。家と同じく、品物も今風でないのだ。壁には、水着のアグネス・ラムのポスターが貼ってある。懐かしい。1970年代中頃、僕が男性月刊誌をやっていた時の、今でいうグラビア・アイドルだ。もう1枚は、デビューした頃の三浦友和のポスターだ。
 どう見てもこの店は、レトロを意識して古いものを売っているというのではない。時代に合わせずに、そのままでいたら、何もかもが自然に古くなったという感じだ。
 おじさんに話を聞いてみると、家は昭和5年に建てられたものだという。
 「幸い、この辺は戦争の時にも空襲にあわなかったから、結構家は残ったんだよ」
 この家の真向かいは、更地になってビルが建てられようとしている。
 「先月まで、家があったんだけどね」と、次々となくなっていく昔の家を、それでも自分は古い家を守っているんだという矜持を持って話した。そして、奥から街の変遷、移り変わりをまとめた写真集を持ってきて、懐かしそうな顔をしながら見せてくれた。そこには、かつてあった下町が写っていた。

 隅田川のほとりに行くと、船が留っていて、船宿があった。川縁の神社で、佃の由来を、江戸時代、この一帯に摂津(大阪)の佃村の住民が移り住んだことからと知る。
 昔ながらの佃煮屋が3軒残っていた。そのうちの1軒も、昭和初期の建物だという。しかし、この建物も、下町の象徴的存在として、お土産屋と同じ商業的価値として残っているにしか過ぎない。

 月島の西中通を歩いた。ここは、今ではもんじゃストリートと言うように、もんじゃ屋が並んでいる。広島のお好み焼き屋だって、こんなに並んではいないのに。
 下町の特徴に、家と家の間の狭い通路をあげることができる。その通路を挟んだ家の2階を回廊で繋げてあるのも、もう滅多に見ることができない建築だろう。そもそも、建築基準法で認められないであろう。

 街の散策のあと、下町の楽しみの一つ、銭湯に入ることにした。この日のサブ・テーマだ(メインは、夜のイタリアンの食事とワインである)。温泉ではなく、銭湯に入るのはいつ以来だろうか。
 佃と月島には、歩いている範囲で4つの銭湯があった。面積からして、今どき異常に多い数である。銭湯を探すには煙突を探すに限るのだが、この辺ではビルが建ち並んでいて、煙突を探すのは一苦労だ。ビルの中にある銭湯もある。それにかつてのように煙突は大きくない。申し訳ないように、目立たなく立っている。
 佃にある東湯という、外から見ても昔の銭湯の風情があるところに入ってみた(写真参照)。
 やはり、番台におばさんがいる。この銭湯は、「私がやり出してもう45年ぐらいかねえ。その前からあったし」と、おばさんは言う。
 何と言っても、風呂場に掲げてあるタイルの壁画が、銭湯の出し物の一つと言える。ここは、銭湯にしては珍しい風景画だ。霧が立ちこめているので、中国の桂林あたりかと思ったら、西穂高と書いてある。銭湯に来れば、日本の山も、幽玄の山岳になる。銭湯には富士山が定番だが、登山好きの主人だったのだろう。
 僕が学生時代に住んでいた高田馬場の銭湯は、泳いでいる鯉が何匹か描かれていた。湯に入っていても、大きな鯉に見下されているみたいで、あまり気分の良いものではなかった。
 ここの銭湯は、顔馴染みの人が多いようで、脱衣場では会話が弾んでいた。銭湯が社交場というのは、生きていた。
 「常連客が多いのですか」と番台のおばさんに訊くと、「そうだわねえ。しかし、今日は、見なれない顔が多いわねえ」と答えた。僕らのことか。

 月島から、料理屋のある東京駅近くの日本橋までゆっくり歩いた。いわば、東京の表の銀座から一歩外れた通りである。東京の裏通りは、週末ということもあり、都会の華やかさの陰の部分を十分に感じさせた。ビルの谷間に侘びしさも漂わせていた。

 東京の下町を歩いて分かったのは、もう下町といえるところは虫食いのようになっていて、すでに形骸化していたということだ。ひっそりと絶滅品種のように、人知れずなくなっていくのだろう。
 先に挙げた雑貨屋のおじさんの言葉を思い出した。
 「バブル期に、街は相当変わったね。うちにも、ビルにしないかという話が来たがね。あの時の金額は相当な額だったね」と、前の敷地のビルの工事を見ながら呟いた。その顔には、この家もいつまで持つかと言っていっているように見えた。
コメント (2)
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