ゴールデン・ウイークには、柳川に行く。柳川は、佐賀市からバスで約40分、筑後川を渡っていく。筑後川には、珍しい旧国鉄佐賀線(現在廃線)の昇降橋があり、それを眺めながらバスは佐賀から福岡県大川市に入っていく。
昇降橋とは、高い船が通る時には真ん中の橋桁が持ち上がるのだ。現在も昇降橋は健在で、歩道橋として活躍している。
柳川では、この時期、水天宮の祭りをやっているのだ。水天宮は、市内に張り巡らされた掘割の南西端、沖端川近くにある。川下りのほぼ終着点で、すぐそばには旧立花藩主の別邸「御花」、また北原白秋の生家がある。
このお祭りは、日本の祭りの原点といえるものがある。
水天宮の脇の掘割の周りには、ずらりと縁日の屋台が並ぶ。トウモロコシ、たこ焼き、金平糖、リンゴ飴、アイスクリームなどの食べ物。また、お面、子どものおもちゃなどの祭りの定番から、籠や包丁などの刃物を並べた店もある。金魚掬い、矢投げ、籤(くじ)屋もある。
そして、掘割には、この祭りの主役ともいえる、6艘の舟に支えられた大きな屋形船が浮かべてある。その船は、甲板が舞台になっていて、夕暮れ時から、音が聴こえ始める。きちんと整列した子どもたちが、演奏するのだ。三味線に笛、それに太鼓で奏でられるメロディは、単調だがリズミカルで妙に哀歓がある。
時折、旅芸人による歌と踊りが入る。子どもの演奏のあとは、大人の演奏になる。
舞台に上って演奏する子どもは、小学3年から中学1年までとの決まりがあると、今日演奏する子どもが教えてくれた。まだあどけない顔の子どもでも、和服を着て三味線をひいていると何だか色っぽく見えてくる。
この柳川の情景を、福永武彦が「廃市」という情緒深い小説にしている。
しかし、柳川といって僕が一番深い思い入れを抱くのは、檀一雄だ。この柳川(檀の祖父母の実家がある)出身ともいえる放浪の作家の生き方に、僕は憧れてきた。檀は、父の仕事の関係であちこち引越ししながらも、子ども時代、正月は必ず柳川で過ごしている。
柳川の掘割をなぞった遊歩コースの途中に、檀の文学記念碑が建っている。そこには、檀の次のような「有明海陸五郎の哥」という詩が刻まれている。
ムツゴロ、ムツゴロ、なんじ
佳(よ)き人の湯の畔(ほとり)の
道をよぎる音、聴きたるべし。
かそけく、寂しく、その果てしなき
想いの消ゆる音
僕は若い時、柳川を歩いていて、偶然に入った寺で檀一雄の墓を見つけた。それは、赤い石を四角に彫刻した、周りの墓石とはまったく違った形で、墓碑銘が刻んであった。最近、柳川に行くたびにその墓のことを思い出すのだが、それがどこだったか思い出せないでいた。
今回、やっとその寺を見つけたのだ。その寺は、立花氏の菩提寺である福厳寺だった。
墓石は、僕の記憶のままだった。墓碑銘には、次のように刻まれていた。
石ノ上ニ雪ヲ
雪ノ上ニ月ヲ
ヤガテ我ガ
殊モ無キ
静寂ノ中ノ
想ヒ哉
僕は、檀の墓に敷きつめられていた小さな白い石を1個拾ってポケットに入れた。
この墓碑銘を刻んだ墓石を見て、ポルトガルのサンタ・クルス村を思い出した。檀が、一時住んだ村で、海の見える広場に檀の石碑が建って、ここにも檀の一篇の詩が刻まれている。こちらも赤い石で、形は円い。
1996年、僕が会社を辞めて1人ポルトガルを旅したときのことだ。ふと思い立って、海辺のこの村を訪ねた。
その村で、檀が通ったという小さな居酒屋の戸を開いた。檀と親しかった居酒屋の主ジョアキンは、檀と同じ日本人で同じ名前(Kazuo)の僕を歓迎してくれた。彼は、ポルトガルの「ダン」という銘柄のワインを取り出して、僕のグラスに注いだ。
夜が更けるとともに居酒屋に集まってきた地元の酔っ払いの男たちは、誰もが檀を知っていて親しみを持って彼のことを語った。僕は、言葉も分からないまま、夜が更けるまで彼らに紛れて飲んだのだった。
2000年の暮れ、博多湾に浮かぶ能古の島に渡った。檀が晩年暮らしたところだ。その白い家は少しポルトガル風で、丘の上に博多湾を見下ろすように建っていた。すでに主のいない家の庭で、僕は実をつけているボンタン(ざぼん)を千切りながら、檀の気持ちを測った。
檀は、能古の島で倒れ、福岡の九大病院に入った。『火宅の人』が最後の仕事だった。そして、それが檀の代表作ともなった。
柳川の壇の墓石の裏の墓名には、真っ先に「律子」と刻んである。檀の作品『リツ子・その愛/その死』の、先妻の人である。その次は「次郎」である。『火宅の人』の冒頭に出てくる檀の次男である。
そして、檀一雄は、1912年2月3日生まれで、1976年1月2日没とある。老いても豪快な姿しか記憶にないので、もっと長生きしたと思っていたら、何と64歳で彼は死んでいた。
檀の『風浪の旅』の中の「小値賀島の女」ほど、面白い旅はない。深夜、東京で酔ってバーから出てきた檀の前にいた名前も知らない女(あとでバーの女と知る)と、その晩思いつきで、当時あった深夜飛行機「ムーン・ライト」で二人して福岡に行き、その足で彼女の故郷である長崎の小値賀島に行く話である。
この話は壇も好きなようで、『火宅の人』にも登場させている。
僕も、檀のような旅がしたいといつも思っていた。水天宮の祭りの音色に後ろ髪を引かれながら、早い時刻の終バスで佐賀に戻った僕は、佐賀の酒場で飲んだ。
ゆきずりの まぼろしの 花のうたげ
くるしくも たうとしや 壇一雄「恋歌」
昇降橋とは、高い船が通る時には真ん中の橋桁が持ち上がるのだ。現在も昇降橋は健在で、歩道橋として活躍している。
柳川では、この時期、水天宮の祭りをやっているのだ。水天宮は、市内に張り巡らされた掘割の南西端、沖端川近くにある。川下りのほぼ終着点で、すぐそばには旧立花藩主の別邸「御花」、また北原白秋の生家がある。
このお祭りは、日本の祭りの原点といえるものがある。
水天宮の脇の掘割の周りには、ずらりと縁日の屋台が並ぶ。トウモロコシ、たこ焼き、金平糖、リンゴ飴、アイスクリームなどの食べ物。また、お面、子どものおもちゃなどの祭りの定番から、籠や包丁などの刃物を並べた店もある。金魚掬い、矢投げ、籤(くじ)屋もある。
そして、掘割には、この祭りの主役ともいえる、6艘の舟に支えられた大きな屋形船が浮かべてある。その船は、甲板が舞台になっていて、夕暮れ時から、音が聴こえ始める。きちんと整列した子どもたちが、演奏するのだ。三味線に笛、それに太鼓で奏でられるメロディは、単調だがリズミカルで妙に哀歓がある。
時折、旅芸人による歌と踊りが入る。子どもの演奏のあとは、大人の演奏になる。
舞台に上って演奏する子どもは、小学3年から中学1年までとの決まりがあると、今日演奏する子どもが教えてくれた。まだあどけない顔の子どもでも、和服を着て三味線をひいていると何だか色っぽく見えてくる。
この柳川の情景を、福永武彦が「廃市」という情緒深い小説にしている。
しかし、柳川といって僕が一番深い思い入れを抱くのは、檀一雄だ。この柳川(檀の祖父母の実家がある)出身ともいえる放浪の作家の生き方に、僕は憧れてきた。檀は、父の仕事の関係であちこち引越ししながらも、子ども時代、正月は必ず柳川で過ごしている。
柳川の掘割をなぞった遊歩コースの途中に、檀の文学記念碑が建っている。そこには、檀の次のような「有明海陸五郎の哥」という詩が刻まれている。
ムツゴロ、ムツゴロ、なんじ
佳(よ)き人の湯の畔(ほとり)の
道をよぎる音、聴きたるべし。
かそけく、寂しく、その果てしなき
想いの消ゆる音
僕は若い時、柳川を歩いていて、偶然に入った寺で檀一雄の墓を見つけた。それは、赤い石を四角に彫刻した、周りの墓石とはまったく違った形で、墓碑銘が刻んであった。最近、柳川に行くたびにその墓のことを思い出すのだが、それがどこだったか思い出せないでいた。
今回、やっとその寺を見つけたのだ。その寺は、立花氏の菩提寺である福厳寺だった。
墓石は、僕の記憶のままだった。墓碑銘には、次のように刻まれていた。
石ノ上ニ雪ヲ
雪ノ上ニ月ヲ
ヤガテ我ガ
殊モ無キ
静寂ノ中ノ
想ヒ哉
僕は、檀の墓に敷きつめられていた小さな白い石を1個拾ってポケットに入れた。
この墓碑銘を刻んだ墓石を見て、ポルトガルのサンタ・クルス村を思い出した。檀が、一時住んだ村で、海の見える広場に檀の石碑が建って、ここにも檀の一篇の詩が刻まれている。こちらも赤い石で、形は円い。
1996年、僕が会社を辞めて1人ポルトガルを旅したときのことだ。ふと思い立って、海辺のこの村を訪ねた。
その村で、檀が通ったという小さな居酒屋の戸を開いた。檀と親しかった居酒屋の主ジョアキンは、檀と同じ日本人で同じ名前(Kazuo)の僕を歓迎してくれた。彼は、ポルトガルの「ダン」という銘柄のワインを取り出して、僕のグラスに注いだ。
夜が更けるとともに居酒屋に集まってきた地元の酔っ払いの男たちは、誰もが檀を知っていて親しみを持って彼のことを語った。僕は、言葉も分からないまま、夜が更けるまで彼らに紛れて飲んだのだった。
2000年の暮れ、博多湾に浮かぶ能古の島に渡った。檀が晩年暮らしたところだ。その白い家は少しポルトガル風で、丘の上に博多湾を見下ろすように建っていた。すでに主のいない家の庭で、僕は実をつけているボンタン(ざぼん)を千切りながら、檀の気持ちを測った。
檀は、能古の島で倒れ、福岡の九大病院に入った。『火宅の人』が最後の仕事だった。そして、それが檀の代表作ともなった。
柳川の壇の墓石の裏の墓名には、真っ先に「律子」と刻んである。檀の作品『リツ子・その愛/その死』の、先妻の人である。その次は「次郎」である。『火宅の人』の冒頭に出てくる檀の次男である。
そして、檀一雄は、1912年2月3日生まれで、1976年1月2日没とある。老いても豪快な姿しか記憶にないので、もっと長生きしたと思っていたら、何と64歳で彼は死んでいた。
檀の『風浪の旅』の中の「小値賀島の女」ほど、面白い旅はない。深夜、東京で酔ってバーから出てきた檀の前にいた名前も知らない女(あとでバーの女と知る)と、その晩思いつきで、当時あった深夜飛行機「ムーン・ライト」で二人して福岡に行き、その足で彼女の故郷である長崎の小値賀島に行く話である。
この話は壇も好きなようで、『火宅の人』にも登場させている。
僕も、檀のような旅がしたいといつも思っていた。水天宮の祭りの音色に後ろ髪を引かれながら、早い時刻の終バスで佐賀に戻った僕は、佐賀の酒場で飲んだ。
ゆきずりの まぼろしの 花のうたげ
くるしくも たうとしや 壇一雄「恋歌」