かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

石坂敬一がいた時代③ 皆既月食の夜の「我がロック革命」

2018-02-02 03:20:21 | 人生は記憶
 
 地球の丸さが、僕を君に夢中にさせる
 地球が丸いから…
  Because the world is round it turns me on.
  Because the world is round…
   「Because」The Beatles(対訳:吉成伸幸)

 昨晩の2018年1月31日、皆既月食の夜だった。
 僕はいつものように遅い食事をしながら、時々外に出て空を見上げて月の動きを見守った。月は丸い満月で、色はいつもより濃いオレンジ色で、ウサギの影がより鮮明だ。
 皆既月食は、月全体が丸い地球の影に入るときに起こり、日本では2015年4月4日以来という。地球の大気で屈折された太陽光が月に当たるため、赤銅色、いわゆる濃いオレンジ色に見える。
 21時過ぎには月はゆっくりと欠けてきたが、全体の丸さを見失わないようにとも言うように、薄く月の表面にオブラートの光を残していた。
 僕の小さなデジカメを通してみると、肉眼で見るよりは濃いオレンジ色で、見まがうことなく立体的だ。レンズを通してみると、普段は平坦に見えるおぼろげな月は、しっかりと丸い球に見える。(写真)
 やはり、月はただ単に月でなく、月球なのだ。
 月の表面で静かに動いている弓のような影は、地球の影。ということは、地球もきっと丸いのだ。

 *

 皆既月食の夜、石坂敬一の「我がロック革命 それはビートルズから始まった」(東京ニュース通信社刊)を読んだ。
 東芝EMI時代はビートルズ、ピンクフロイドなどのディレクター、その後、ポリグラム、ユニバーサルミュージックの代表取締役社長、日本レコード協会会長などを歴任した音楽業界の第一人者だ。
 僕は彼との仕事上の付き合いは短かったが、彼がなくなるまで友人関係は続いた。そう、彼がなくなる直前に麻布で、吉成伸幸も含めて3人で会って飲んだのだった。
 あれから1年が過ぎたのだ。

 ※参照→「石坂敬一がいた時代」①「突然の別れ」ブログ、2017.1.29、②「目指したのは格好いい耽美派」ブログ、2017.2.16

 石坂敬一は、大学を卒業後、レコード会社に就職し、好きなレコード業界で活動し、そして突然いなくなった。
 この本は彼の死後、去年の秋に出版された。レコード業界で彼がやってきたことを生前に語ったのをまとめた、いわば石坂敬一の自伝である。死後になってもこうした本が出版されるのは、彼が優れたビジネスマンという枠を超えて、いかに個性的豊かな人間だったかを物語っている。
 ビートルズとの出会い、東芝EMI時代、その後のレコード業界での経営者時代を、酒でも飲みながら話しているような本だ。
 一貫しているのは、ビートルズ、とりわけジョン・レノンに対する純粋な少年にも似た愛だ。
 彼がJ・レノンに初めて個人的に会った時に、「この人のそばに長くいたい、電話番でも使い走りでも何でもいい、ジョン・レノンのためになら何でもするという気持ちが芽生えた」と話している。
 そして、ジョン・レノンの死に関連して次のように語っている。
 「ジョン・レノンが死んだ次の日から自分のことを「最後のエコノミック・アニマル」、あるいは「自分はギターのコードを3つしか知らないけど、世界中の誰よりも客席をドライヴすることができる」というジョン・レノンの言葉にあやかって、「ハード・ドライヴィング・ビジネスマン」と呼ぶことに決めた」
 彼の言葉によればこの時期を契機に、ビジネスマンとして数字を重視した、当初の目標でもあった社長に向かって仕事の舵を方向転換することになる。

 *

 面白かったというか、うん、そうだったねと頷いたのは、ビートルズが人気になりだして、日本公演(1966年)をした頃の日本での反応だ。
 当時、普通の人間が洋楽を知るソースは大体においてラジオの深夜放送においてであった。石坂も学生時代、深夜放送でビートルズを知り、徐々にビートルズに熱中していく。しかし、日本ではさほど大きな話題とはなってはいない。
 ビートルズの来日公演のときはマスコミも大々的に取り上げたが、彼は「大学の友だちは「へえ、ビートルズが来るんだ」というような淡白な反応で、盛り上がりを共有できる仲間は一人もいなかった」と述べている。そして周りの学生たちを称して、「彼らの興味の対象はロックよりフォークで、ビートルズよりPPM(ピーター・ポール&マリー)の方が人気があった」と付け加えている。
 今でこそ、多くのミュージシャンや音楽通を自称する人間が「ビートルズの出現は衝撃的だった、ビートルズに大きな影響を受けた」などと吹聴するが、一部を除けば当時はこのようにビートルズ旋風を巻き起こしていたわけではない。
 石坂より少し下の年代である亀和田武も「60年代ポップ少年」で、当時日本中の若者がビートルズに熱中していたという説に異論を唱えている。
 当時の同級生が同窓会などで、ビートルズへの熱狂を語ったりすることに、「オマエ、嘘をいっちゃいけないよ。オマエが休み時間に毎日、楽しそうに歌っていたのは、三田明の「美しい十代」と、舟木一夫の「高校三年生」じゃないか」と、思い出の捏造を冷笑している。
 当時、洋楽では、僕はビートルズよりベンチャーズが人気があったと思う。
 しかし、ビートルズはいつしか伝説のグループになっていく。

 ビートルズに大きな影響を受けた石坂だが、彼は早くからビートルズに傾倒し、学生時代に当時東芝EMIのビートルズ担当ディレクターだった高嶋弘之のところに出入りするほどだった。

 *

 石坂は直線的な人間だった。目的のためには全身で向かっていった。それが脂ぎったり汗水かいたりしないところが彼らしかった。
 「今度、常務になったよ」とか、「いわゆるヘッドハンティングでポリグラムの社長になったよ」と言ったときも、奢った素振りとか、態度の変化は何もなかった。あらゆることが、当然の成りゆきのようにふるまっていた。
 石坂の行動力からして、経営者として彼が部下に求めるものは、とてもハードだったことは想像に難くない。しかし、粉飾や衒いがないから反論はしにくかったであろう。確かに、「ハード・ドライヴィング・ビジネスマン」だったに違いない。
 しかし、僕と会うときはいつも穏やかで、忙しいのにそんな態度はおくびにも出さなかった。何より彼は、自分の仕事が好きだった。
 僕らが会うのは、東芝EMI時代の若いときは六本木のパブ・カーディナル、そのあとはホテルオークラのバーが多かった。

 初めて会った頃の、ウェーブをかけた長い髪、ロックアーチストの様な高いロンドンブーツ、幅広のパンタロンの君の格好が、業界の音楽ディレクターの、特に洋楽ディレクターのファッションを変えたね。
 ある時、会社の経営者になったと思ったら、髪は短くし、スーツにネクタイのビジネスマン・スタイルに変身していた。
 おや、おやと思った。バンバンの「いちご白書をもう一度」(作詞・曲:荒井由実)ですか。
 ともかく、何事も君は一直線の人間だった。

 君と会った最後の夜、僕が「もう音楽業界では充分やったでしょう」と言うと、君は「日本人アーティストを世界に送り出すことが…」と、言葉を飲み込んだ。
 僕が「あのアーティスト…」と言葉を繋ぐと、
 「うん、クリエイションのことだ。準備も段取りもやったんだが…」と悔しさを込めて、言葉を絞り出した。
 クリエイションは竹田和夫を中心としたロックバンドで、東芝EMI時代の石坂が洋楽のディレクターでありながら日本人のアーティストを売り出すということで、ことさら力を入れていた。1975年に初アルバム「クリエイション」をリリースした時、雑誌の編集者だった僕も彼らを取材した。そのとき、グループの彼ら4人を神宮の並木道を並んで横断している姿を写真に撮って載せたのは忘れられない。いわゆる、ビートルズの「アビイ・ロード」のオマージュだ。
 その後、クリエイションはどうなったのだろうか。

 全速力で走り切った石坂敬一。
 君だって、やり残したことがあった。その言葉に、人間味を感じた。
 満月ばかりではない。月も欠けたり満ちたりする。
 今(2月1日の深夜、正確には2日の早朝)外を見ると、おやおや、10日前に積もった残り雪がやっと溶けたと思ったら、また庭は真っ白になっている。

 *

 僕は、昨日(1月31日)皆既月食の日、ビートルズを聴きながら石坂敬一の自伝を読んで、彼を偲んだ。そして、今日1日家を出ることもなく、再びビートルズを聴きながらこうして書いていると、またしても雪が降ってきた。
 自然は、人が何を考え何をしようと、絶え間なく動いているのだ。
 
 
 ビートルズで僕が好きなのは、「アビイ・ロード」(ABBEY ROAD)。

 空の青さが、僕を泣きたくさせる
 空が青いから…
  Because the sky is blue, it makes me cry.
  Because the sky is blue…
   「Because」The Beatles(対訳:吉成伸幸)

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