歴史小説の作家第一人者であった永井路子さんが、この2023(令和5)年1月27日に亡くなった。97歳だった。
大学卒業後、出版社の小学館に入社し編集者を務めながら作家活動を始める。1964(昭和39)年、「炎環」で直木賞を受賞。多くの歴史上の人物に新しい光を当てた作品は、NHK大河ドラマの「草燃える」や「毛利元就」の原作にもなった。
私が、この本は歴史小説を超えた作品だと思ったのは、永井さんの最後の作品となった「岩倉具視 言葉の皮を剥きながら」(文藝春秋、2008年)である。深い資料に基づき描かれた岩倉具視の幕末維新時代の活動・生き方を見ながら、私は徳川家の政権構造、公家の摂関政治の有り様を学んだ。
※ブログ「岩倉具視」(2008-07-24)参照。
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/9386569ce84ffe5afa74686ce0080461
永井路子さんは、父親を早く亡くした関係で母方の永井家の娘として茨城県古河町(現:古河市)で育った。
母の永井智子は、レコードも出している声楽家でオペラ歌手でもある。そして、第2次世界大戦時、疎開で東京から地方へ逃れるとき、彼女の夫とともに作家の永井荷風を連れ出し行動を共にしている。永井荷風は同じ姓だが、血縁関係はないようだ。
御主人は歴史学者の黒板伸夫である(2015年亡)。
*「女の愛と生き方」
永井路子先生からは、妹さんの代筆であったが、今年も年賀状が届いたのだった。
思い返せば半世紀がたった。
私が学校を卒業し、出版社に勤めるようになってまだ手探りの編集者の時代だった。
入社後の雑誌編集部から書籍編集部へ移り、私が最初の一般書として担当したのが、永井先生の本「女の愛と生き方 女性史探訪」(鎌倉書房刊)であった。
単行本としては服飾・洋裁、料理などの実用書しか出していなかったその出版社の、戦前の創設期を除いて、戦後最初の文芸書でもあった。
出版は1972(昭和47)年である。(写真)
この本は、小野小町、清少納言、お市の方など、歴史に登場する女性の生き方を、現代の視点で捉えたものである。最初は婦人雑誌「マダム」に連載されたもので、単行本にするにあたって加筆修正された。
私は、あるときは新しく加筆された原稿を受け取りに、あるときは印刷所から刷りあがってきた校正刷りを持って、当時先生が住まわれた鎌倉の自宅へ通った。
鎌倉へ行くのは、至福のときだった。
「女の愛と生き方 女性史探訪」は重版し、先生に大変喜んでいただいた。
*感謝の文
永井先生は神奈川の鎌倉から東京の品川へ越された。
2009(平成21)年、私はフリーの編集者になっていて、それまで気ままに海外を旅してきたことを書いた本「かりそめの旅―ゆきずりの海外ひとり旅」(現在、絶版)を出版した。
永井先生に拙著を送ったところ、私の本に対する感想が書かれた手紙を頂いた。思いもかけない過分なお褒めの言葉だった。
私は、その本が絶版になり、のちに追加の旅を加えた第2版を出す予定だったので、先生の文を載せさせてもらいたいのだがとお願いすると、「どうぞ、どうぞ」との親切な返事を頂いた。
その一部を紹介したい。
「何と心の揺れる「かりそめの旅」でしょう。数々の恋愛遍歴、そしてさまざまの想いを抱えてのさまざまの旅。初めてのパリへの旅には、岡戸さんの人生漂泊の想いと未知の「くに」への不安が伝わってきます。
荒(すさ)み果てたこの世に、こんなロマンがあるとは……」
その後、第2版の原稿はとっくに書きあげたというのに、私の怠惰のせいで出版の段取りは壊れた時計のように止まったままである。
*「荷風のように生きたら」
永井先生の、心に残っている言葉がある。
私がもうとっくに中年も過ぎた頃のこと、「いい年になったのですが、まだ独り身なんです」と、言ったところ、先生は意外なことをおっしゃった。
「いいじゃないの。荷風のように生きたら」
私はしばらく言葉をおいて、「ええ……」としり込みするばかりだった。
そして、やはり永井先生は文学者だと感じ入った。
永井荷風は若いときにアメリカ、フランスの生活を経験した洒落者だが、中年以後、浅草の歓楽街、向島・玉の井の私娼街などを好んで散策し、遊びに耽り、そこを舞台にした小説を多く残している文豪である。
1959〈昭和34〉年、79歳のとき、長年通い続けた浅草の洋食屋アリゾナキッチンで昼食中に体調を崩し、その翌月千葉県市川市の自宅で一人亡くなった。
「荷風のように生きたら」かと、ふと思うときがあるが、なかなかできないで年をとっている。年をとるのも難しい。
「もう老人ですが……」と、永井先生に相談することもできなくなった。
大学卒業後、出版社の小学館に入社し編集者を務めながら作家活動を始める。1964(昭和39)年、「炎環」で直木賞を受賞。多くの歴史上の人物に新しい光を当てた作品は、NHK大河ドラマの「草燃える」や「毛利元就」の原作にもなった。
私が、この本は歴史小説を超えた作品だと思ったのは、永井さんの最後の作品となった「岩倉具視 言葉の皮を剥きながら」(文藝春秋、2008年)である。深い資料に基づき描かれた岩倉具視の幕末維新時代の活動・生き方を見ながら、私は徳川家の政権構造、公家の摂関政治の有り様を学んだ。
※ブログ「岩倉具視」(2008-07-24)参照。
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/9386569ce84ffe5afa74686ce0080461
永井路子さんは、父親を早く亡くした関係で母方の永井家の娘として茨城県古河町(現:古河市)で育った。
母の永井智子は、レコードも出している声楽家でオペラ歌手でもある。そして、第2次世界大戦時、疎開で東京から地方へ逃れるとき、彼女の夫とともに作家の永井荷風を連れ出し行動を共にしている。永井荷風は同じ姓だが、血縁関係はないようだ。
御主人は歴史学者の黒板伸夫である(2015年亡)。
*「女の愛と生き方」
永井路子先生からは、妹さんの代筆であったが、今年も年賀状が届いたのだった。
思い返せば半世紀がたった。
私が学校を卒業し、出版社に勤めるようになってまだ手探りの編集者の時代だった。
入社後の雑誌編集部から書籍編集部へ移り、私が最初の一般書として担当したのが、永井先生の本「女の愛と生き方 女性史探訪」(鎌倉書房刊)であった。
単行本としては服飾・洋裁、料理などの実用書しか出していなかったその出版社の、戦前の創設期を除いて、戦後最初の文芸書でもあった。
出版は1972(昭和47)年である。(写真)
この本は、小野小町、清少納言、お市の方など、歴史に登場する女性の生き方を、現代の視点で捉えたものである。最初は婦人雑誌「マダム」に連載されたもので、単行本にするにあたって加筆修正された。
私は、あるときは新しく加筆された原稿を受け取りに、あるときは印刷所から刷りあがってきた校正刷りを持って、当時先生が住まわれた鎌倉の自宅へ通った。
鎌倉へ行くのは、至福のときだった。
「女の愛と生き方 女性史探訪」は重版し、先生に大変喜んでいただいた。
*感謝の文
永井先生は神奈川の鎌倉から東京の品川へ越された。
2009(平成21)年、私はフリーの編集者になっていて、それまで気ままに海外を旅してきたことを書いた本「かりそめの旅―ゆきずりの海外ひとり旅」(現在、絶版)を出版した。
永井先生に拙著を送ったところ、私の本に対する感想が書かれた手紙を頂いた。思いもかけない過分なお褒めの言葉だった。
私は、その本が絶版になり、のちに追加の旅を加えた第2版を出す予定だったので、先生の文を載せさせてもらいたいのだがとお願いすると、「どうぞ、どうぞ」との親切な返事を頂いた。
その一部を紹介したい。
「何と心の揺れる「かりそめの旅」でしょう。数々の恋愛遍歴、そしてさまざまの想いを抱えてのさまざまの旅。初めてのパリへの旅には、岡戸さんの人生漂泊の想いと未知の「くに」への不安が伝わってきます。
荒(すさ)み果てたこの世に、こんなロマンがあるとは……」
その後、第2版の原稿はとっくに書きあげたというのに、私の怠惰のせいで出版の段取りは壊れた時計のように止まったままである。
*「荷風のように生きたら」
永井先生の、心に残っている言葉がある。
私がもうとっくに中年も過ぎた頃のこと、「いい年になったのですが、まだ独り身なんです」と、言ったところ、先生は意外なことをおっしゃった。
「いいじゃないの。荷風のように生きたら」
私はしばらく言葉をおいて、「ええ……」としり込みするばかりだった。
そして、やはり永井先生は文学者だと感じ入った。
永井荷風は若いときにアメリカ、フランスの生活を経験した洒落者だが、中年以後、浅草の歓楽街、向島・玉の井の私娼街などを好んで散策し、遊びに耽り、そこを舞台にした小説を多く残している文豪である。
1959〈昭和34〉年、79歳のとき、長年通い続けた浅草の洋食屋アリゾナキッチンで昼食中に体調を崩し、その翌月千葉県市川市の自宅で一人亡くなった。
「荷風のように生きたら」かと、ふと思うときがあるが、なかなかできないで年をとっている。年をとるのも難しい。
「もう老人ですが……」と、永井先生に相談することもできなくなった。
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