娼婦は、公娼であれ私娼であれ、どこの国へ行っても見受けられる。
アムステルダムの飾り窓のように堂々と観光地化した街中でのショーウインドウの存在から、街角に立っていたり、通りを歩きながら客を待ちうける女まで様々な形態がある。そのなかでも、盛り場の裏の路地あたりで、誘蛾灯のように妖しい光を灯している館(店)で待つ女が最も一般的といえるだろう。
娼婦は、しばしば最も古い職業といわれるが、資本が自分の体以外に必要ないので、この説はあながち推測にすぎないとも言えまい。
日本では買春防止法(1956年)ができて以来買春は法律で禁止されているが、フランスでは買春は法律違反ではないという。とは言っても、フランス映画などでも見られるように、しばしば取り締まりを行って検挙している場面が見受けられる。
フランスでの買春に対する法律は、簡単に言えば、買春それ自体は禁じられていないが、それを実践しようとして行動を起こすことはほとんどが禁止になっているらしい。複雑な文法を駆使するフランス人らしい、小難しい解釈だ。
「パリ、娼婦の館」など、この手の研究に余念がないフランス文学者の鹿島茂の「パリが愛した娼婦」(角川学芸出版刊)は、パリの娼婦を歴史的に観察したうえで、その周辺のヒモの存在理由などにも分析をのばして、面白い。
古いパリの娼婦の考え方や経済的根拠などは、この本ではエミール・ゾラの「ナナ」を格好の資料としているので、いずれこちらも読まないといけない。
娼婦を仏和辞典(大修館書店)で引けば、「prostituée」(プロスティチュエ)とだけあり、素っ気ない。
しかし、この本「パリが愛した娼婦」によると、高級娼婦は「ファム・ギャラント femme galante」と言うらしい。古くは「クルティザーヌcourtisané」、七月王政期には「ロレットlorette」とか「ココットcocotté」、第二帝政期には「ドゥミ・モンデーヌdemi-mondaine」あるいは「リヨンヌlionné」、そして第三共和政期には「グラン・ドリゾンタールglande horizontale」など、名前を変えている。
高級娼婦とは、金銭を媒介としてアムール(肉体であるが)を売るのは私娼と同じだが、客の選択権を有した娼婦のことである。それも、普通の客が買えるという値段ではなく、そもそも値段はないのだが破格の値段がつく娼婦のことで、巷の話題になったり小説の材料になったりする、当時の有名人でもあったらしい。
当時と書いたが、ゾラやバルザックの時代だけではなく、今日とて高級娼婦は存在するだろう。
この本の中で、最も興味をひいたのは、娼婦とヒモの関係についてだ。
時々いい女にどうしようもない男がくっついていたり、場合によっては結婚までしているのを見受けることがある。女は売れっ子(水商売や芸能人の場合もある)で稼いでいるのだが、男は適当な肩書きはあるのだが何をしているのか分からないといったケースだ。こういうのを、陰で男はヒモだと言われたりする。
高級娼婦には大金持ちのパトロン(かつては往々にして貴族だが)がいるが、普通の娼婦にはなぜかヒモがいる。
ヒモは、働かないで娼婦の稼ぎで食っている。どうしてこんな将もない男に貢ぐのかと思うが、ヒモでないといけない根拠があるのだという。
娼婦は、商売柄、金銭を媒介としたセックスをしていると、心は確実にすり減っていく。そのすり減っていく部分を補填する「愛」が必要となる。その愛の対象は、普通の男の愛では満たされないのだという。
娼婦にとって、常に愛の独占を計ろうとするノーマルな男というのは、商売の対象ではあっても、愛の対象外なのである。
客として女の前に現れても、ときに愛を訴える男がいるに違いない。娼婦に恋しないとは限らない。
しかし、純な男がどんなに真剣に愛を訴えようが懇願しようが、女には響かない。むしろ苦痛だという。
どうして、そうなのだろう。
金銭を媒介としてセックスを取引する娼婦にとって、客というものは、セックスであれ愛情であれ、総て労働の対価でしかない。だから、真剣な愛の訴えであればあるほど、苦痛であり疲れさせるものでしかないというのである。
とは言っても、娼婦とて女である。もし、万が一金銭を媒介としないセックスを持ったとする。そうすると、娼婦たちは心の中のプロフェッショナルな意識で、セックスをして金を取らないことに罪悪を感じるというのである。
また、奇跡的にだが、普通の男と娼婦が金銭を伴わないセックスでもって、普通の恋愛におちいったとする。すると、今度は女の心の中に「負い目」が生まれるというのだ。私はこんなに汚いのにといった負い目が、厄介なことに女を追いつめることになる。男がそのことに触れないで黙っていようと、いや黙っていればいるほど古傷が痛み出すのである。
なにやら、「プリティー・ウーマン」のようである。いや、あのようにハッピーエンドにうまくいく例はないと言えるのかもしれない。
つまり、肉体を商売にしている女の心のすり減りは、普通のノーマルな男では補うことはできないというのである。
となると、残る選択肢はヒモとなる。
ヒモの特徴は、肉体を商売にした仕事に対しての蔑視のなさにあるという。だから、ヒモになれるのだが。
娼婦にとってこういう男は、傍にいても精神的に安定した常態でいられる。
そしてもう一つ重要なことは、女に一人の男を養っているという「生きがい」を生み出すのである。
それと同時に、自分は一人の男を「愛している」という幻想を、ヒモが与えてくれるのである。
自分の働きで一人の愛する男を養っているのだと思うと、また仕事への生きがいも生まれてくるというのである。
このように、ヒモは、娼婦にとってセックスワーカーとして働き続けるための存在理由となっているのである。
それは、サラリーマンが嫌な労働でも、専業主婦や家族のために忍耐強く働き続けるのと同じだという。
もしヒモが、まれに倫理的で、自分で働きに出ると言いだしたら、娼婦は必死で止めにかかるだろう。それは、サラリーマンが、妻がパートに出ると言いだすのを渋るのと同じだというのも、何やら頷ける。
う~ん、ヒモの存在理由とはこんなところにあったのか。
フランス語で、ヒモは「ストゥヌールsoutoeneur」(下から支える人)とか「プロクセネットproxenete」(保護する人、仲介する人)と言うらしい。辞書を見ると、なぜか俗語で、「マクローmaquereau」(鯖)と出ている。
つまり、よいヒモとは、決して自分から働きに出るとは言いださず、家でぶらぶらしている男である。
そして、よいヒモの条件として、時折平手打ちで殴ったりすることを付け加えている。そういえば、映画などでヒモはすぐに癇癪を起こして殴る場面がある。
殴る理由は、取るにたらぬ簡単なことでいい。そうされることによって女は、私はこんなに愛されていると確認するというのである。
ここまでくると、愛の深層領域だ。
娼婦と客の相対的関係は、今日の水商売の女と客の関係にも通じるものがある。
盛り場のクラブやキャバクラでは、今夜も恋(擬似恋愛)の駆け引きが行われていることだろう。その裏には、件(くだん)のヒモが存在しているのかもしれない。
少し前に恋愛学たるテレビ番組で、銀座の一流クラブのママが出演して、私は(水商売としての)仕事はプロだが私生活では男にいくら貢いだことか、別れるときはぼろぼろよ、と苦笑していた。
つまり、仕事としての客相手と、私生活での男関係(男対応といおうか)とはまったく違うということらしい。
この本「パリが愛した娼婦」で、パリでの娼婦の歴史とともに、男にとって女は複雑で、男と女の関係はいつまでも分からないと、改めて感じた。
恋愛学は奥深く、なかなか到達点が見えない。それどころか、すぐ先すら見えない。
*
――メトロのシャンゼリゼ・クレメンソーを出ると、そこは、既に日も暮れ、街の明かりに照らされたシャンゼリゼの通りが目に入った。プラタナスの並木に沿って建ち並ぶ店々も、行き交う人々も眩しく映った。私は一人、パリに来ていることを噛みしめた。
通りのウィンドウを覗きながら歩いた。所々道にはみ出してテーブルを並べているカフェでは、一人でビールを飲んでいる人もいれば友人らしい人と語らっている人もいる。通りにも店にも、華やかで和やかな空気が漂っている。
しばらく歩いていると、私の前を私と同じようにゆっくりとウィンドウを覗きながらそぞろ歩きしている女性が目に入った。亜麻色の長い髪にフレアーのワンピースが歩くたびに波を打っている。
私は立ち止まって、ウィンドウを覗き込むその女性の横顔を見とれるように見つめた。柔らかなウィンドウの光が、彼女のふさふさとした黄金色の髪や、首筋から続くなだらかな肩の線、さらにくびれた腰からふんわりと広がったスカートへ、さらにその中から伸びた脚を伝わって靴の先まで、身体全体に降り注いでいた。
彼女との間隔が少しずつ短くなった。そして、追いついた。目が合った。彼女がにっこり微笑んだ。どうしたというのだろう、こんな美人が。極東から来た旅人に対する愛想笑いか、単なる形式的な挨拶か。私も思わず笑い返してみたら、もう彼女はウィンドウを覗き込んでいた。
やはり、お愛想の笑いだったのだ。私は再び歩き始め、もう一度彼女を見つめる。彼女と再び目が合うと、彼女は微笑んだ。そして、話しかけてくる。こんなことがあろうかと、私は思わず頬をつねりたくなった。そして、お互いおもむろに、ひと言ふた言話しはじめたのだった。
しかし、あゝ、何と、彼女は娼婦! 思いがけないことに、美しき娼婦だった。
「二〇〇フラン」
「おゝ、君は美しい。しかし、ごめん。今日はとても疲れているんだ。というのも、私は今日、日本からパリに着いたばかりなんだ」
彼女の名はエバ。わかったわという合図の微笑みを返した。そして、また何事もないように歩き始めた。彼女が私の前を通り過ぎたときに、甘い香りが鼻先をかすめた。
美しい花の都パリは、曲者(くせもの)だ。
――「かりそめの旅」(岡戸一夫著)第1章、初めての旅、パリ――より。この本に関する問い合わせは、ocadeau01@nifty.com へ。
アムステルダムの飾り窓のように堂々と観光地化した街中でのショーウインドウの存在から、街角に立っていたり、通りを歩きながら客を待ちうける女まで様々な形態がある。そのなかでも、盛り場の裏の路地あたりで、誘蛾灯のように妖しい光を灯している館(店)で待つ女が最も一般的といえるだろう。
娼婦は、しばしば最も古い職業といわれるが、資本が自分の体以外に必要ないので、この説はあながち推測にすぎないとも言えまい。
日本では買春防止法(1956年)ができて以来買春は法律で禁止されているが、フランスでは買春は法律違反ではないという。とは言っても、フランス映画などでも見られるように、しばしば取り締まりを行って検挙している場面が見受けられる。
フランスでの買春に対する法律は、簡単に言えば、買春それ自体は禁じられていないが、それを実践しようとして行動を起こすことはほとんどが禁止になっているらしい。複雑な文法を駆使するフランス人らしい、小難しい解釈だ。
「パリ、娼婦の館」など、この手の研究に余念がないフランス文学者の鹿島茂の「パリが愛した娼婦」(角川学芸出版刊)は、パリの娼婦を歴史的に観察したうえで、その周辺のヒモの存在理由などにも分析をのばして、面白い。
古いパリの娼婦の考え方や経済的根拠などは、この本ではエミール・ゾラの「ナナ」を格好の資料としているので、いずれこちらも読まないといけない。
娼婦を仏和辞典(大修館書店)で引けば、「prostituée」(プロスティチュエ)とだけあり、素っ気ない。
しかし、この本「パリが愛した娼婦」によると、高級娼婦は「ファム・ギャラント femme galante」と言うらしい。古くは「クルティザーヌcourtisané」、七月王政期には「ロレットlorette」とか「ココットcocotté」、第二帝政期には「ドゥミ・モンデーヌdemi-mondaine」あるいは「リヨンヌlionné」、そして第三共和政期には「グラン・ドリゾンタールglande horizontale」など、名前を変えている。
高級娼婦とは、金銭を媒介としてアムール(肉体であるが)を売るのは私娼と同じだが、客の選択権を有した娼婦のことである。それも、普通の客が買えるという値段ではなく、そもそも値段はないのだが破格の値段がつく娼婦のことで、巷の話題になったり小説の材料になったりする、当時の有名人でもあったらしい。
当時と書いたが、ゾラやバルザックの時代だけではなく、今日とて高級娼婦は存在するだろう。
この本の中で、最も興味をひいたのは、娼婦とヒモの関係についてだ。
時々いい女にどうしようもない男がくっついていたり、場合によっては結婚までしているのを見受けることがある。女は売れっ子(水商売や芸能人の場合もある)で稼いでいるのだが、男は適当な肩書きはあるのだが何をしているのか分からないといったケースだ。こういうのを、陰で男はヒモだと言われたりする。
高級娼婦には大金持ちのパトロン(かつては往々にして貴族だが)がいるが、普通の娼婦にはなぜかヒモがいる。
ヒモは、働かないで娼婦の稼ぎで食っている。どうしてこんな将もない男に貢ぐのかと思うが、ヒモでないといけない根拠があるのだという。
娼婦は、商売柄、金銭を媒介としたセックスをしていると、心は確実にすり減っていく。そのすり減っていく部分を補填する「愛」が必要となる。その愛の対象は、普通の男の愛では満たされないのだという。
娼婦にとって、常に愛の独占を計ろうとするノーマルな男というのは、商売の対象ではあっても、愛の対象外なのである。
客として女の前に現れても、ときに愛を訴える男がいるに違いない。娼婦に恋しないとは限らない。
しかし、純な男がどんなに真剣に愛を訴えようが懇願しようが、女には響かない。むしろ苦痛だという。
どうして、そうなのだろう。
金銭を媒介としてセックスを取引する娼婦にとって、客というものは、セックスであれ愛情であれ、総て労働の対価でしかない。だから、真剣な愛の訴えであればあるほど、苦痛であり疲れさせるものでしかないというのである。
とは言っても、娼婦とて女である。もし、万が一金銭を媒介としないセックスを持ったとする。そうすると、娼婦たちは心の中のプロフェッショナルな意識で、セックスをして金を取らないことに罪悪を感じるというのである。
また、奇跡的にだが、普通の男と娼婦が金銭を伴わないセックスでもって、普通の恋愛におちいったとする。すると、今度は女の心の中に「負い目」が生まれるというのだ。私はこんなに汚いのにといった負い目が、厄介なことに女を追いつめることになる。男がそのことに触れないで黙っていようと、いや黙っていればいるほど古傷が痛み出すのである。
なにやら、「プリティー・ウーマン」のようである。いや、あのようにハッピーエンドにうまくいく例はないと言えるのかもしれない。
つまり、肉体を商売にしている女の心のすり減りは、普通のノーマルな男では補うことはできないというのである。
となると、残る選択肢はヒモとなる。
ヒモの特徴は、肉体を商売にした仕事に対しての蔑視のなさにあるという。だから、ヒモになれるのだが。
娼婦にとってこういう男は、傍にいても精神的に安定した常態でいられる。
そしてもう一つ重要なことは、女に一人の男を養っているという「生きがい」を生み出すのである。
それと同時に、自分は一人の男を「愛している」という幻想を、ヒモが与えてくれるのである。
自分の働きで一人の愛する男を養っているのだと思うと、また仕事への生きがいも生まれてくるというのである。
このように、ヒモは、娼婦にとってセックスワーカーとして働き続けるための存在理由となっているのである。
それは、サラリーマンが嫌な労働でも、専業主婦や家族のために忍耐強く働き続けるのと同じだという。
もしヒモが、まれに倫理的で、自分で働きに出ると言いだしたら、娼婦は必死で止めにかかるだろう。それは、サラリーマンが、妻がパートに出ると言いだすのを渋るのと同じだというのも、何やら頷ける。
う~ん、ヒモの存在理由とはこんなところにあったのか。
フランス語で、ヒモは「ストゥヌールsoutoeneur」(下から支える人)とか「プロクセネットproxenete」(保護する人、仲介する人)と言うらしい。辞書を見ると、なぜか俗語で、「マクローmaquereau」(鯖)と出ている。
つまり、よいヒモとは、決して自分から働きに出るとは言いださず、家でぶらぶらしている男である。
そして、よいヒモの条件として、時折平手打ちで殴ったりすることを付け加えている。そういえば、映画などでヒモはすぐに癇癪を起こして殴る場面がある。
殴る理由は、取るにたらぬ簡単なことでいい。そうされることによって女は、私はこんなに愛されていると確認するというのである。
ここまでくると、愛の深層領域だ。
娼婦と客の相対的関係は、今日の水商売の女と客の関係にも通じるものがある。
盛り場のクラブやキャバクラでは、今夜も恋(擬似恋愛)の駆け引きが行われていることだろう。その裏には、件(くだん)のヒモが存在しているのかもしれない。
少し前に恋愛学たるテレビ番組で、銀座の一流クラブのママが出演して、私は(水商売としての)仕事はプロだが私生活では男にいくら貢いだことか、別れるときはぼろぼろよ、と苦笑していた。
つまり、仕事としての客相手と、私生活での男関係(男対応といおうか)とはまったく違うということらしい。
この本「パリが愛した娼婦」で、パリでの娼婦の歴史とともに、男にとって女は複雑で、男と女の関係はいつまでも分からないと、改めて感じた。
恋愛学は奥深く、なかなか到達点が見えない。それどころか、すぐ先すら見えない。
*
――メトロのシャンゼリゼ・クレメンソーを出ると、そこは、既に日も暮れ、街の明かりに照らされたシャンゼリゼの通りが目に入った。プラタナスの並木に沿って建ち並ぶ店々も、行き交う人々も眩しく映った。私は一人、パリに来ていることを噛みしめた。
通りのウィンドウを覗きながら歩いた。所々道にはみ出してテーブルを並べているカフェでは、一人でビールを飲んでいる人もいれば友人らしい人と語らっている人もいる。通りにも店にも、華やかで和やかな空気が漂っている。
しばらく歩いていると、私の前を私と同じようにゆっくりとウィンドウを覗きながらそぞろ歩きしている女性が目に入った。亜麻色の長い髪にフレアーのワンピースが歩くたびに波を打っている。
私は立ち止まって、ウィンドウを覗き込むその女性の横顔を見とれるように見つめた。柔らかなウィンドウの光が、彼女のふさふさとした黄金色の髪や、首筋から続くなだらかな肩の線、さらにくびれた腰からふんわりと広がったスカートへ、さらにその中から伸びた脚を伝わって靴の先まで、身体全体に降り注いでいた。
彼女との間隔が少しずつ短くなった。そして、追いついた。目が合った。彼女がにっこり微笑んだ。どうしたというのだろう、こんな美人が。極東から来た旅人に対する愛想笑いか、単なる形式的な挨拶か。私も思わず笑い返してみたら、もう彼女はウィンドウを覗き込んでいた。
やはり、お愛想の笑いだったのだ。私は再び歩き始め、もう一度彼女を見つめる。彼女と再び目が合うと、彼女は微笑んだ。そして、話しかけてくる。こんなことがあろうかと、私は思わず頬をつねりたくなった。そして、お互いおもむろに、ひと言ふた言話しはじめたのだった。
しかし、あゝ、何と、彼女は娼婦! 思いがけないことに、美しき娼婦だった。
「二〇〇フラン」
「おゝ、君は美しい。しかし、ごめん。今日はとても疲れているんだ。というのも、私は今日、日本からパリに着いたばかりなんだ」
彼女の名はエバ。わかったわという合図の微笑みを返した。そして、また何事もないように歩き始めた。彼女が私の前を通り過ぎたときに、甘い香りが鼻先をかすめた。
美しい花の都パリは、曲者(くせもの)だ。
――「かりそめの旅」(岡戸一夫著)第1章、初めての旅、パリ――より。この本に関する問い合わせは、ocadeau01@nifty.com へ。
本法にいう「売春」とは、「対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交すること」をいう(2条)。
売春は禁止ではあるが、それだけでは処罰されないという。それを勧誘・斡旋したり、場所を提供したり、それにより利益供与を得ると罰則が与えられる。
これは、内実フランス法と同じではないか。
う~ん、売春に関してはどこも複雑な解釈をしている。