去年(2016年)の暮れの12月21日に石坂敬一氏より電話があり、翌22日の電話で久しぶりに会おうよということになった。それで、12月29日に、以前、彼と彼の奥さんとの3人で食事したことのある、麻布十番の和食屋で会うことにした。
電話で、共通の友人のノブこと吉成伸幸氏も呼ぼうということになり、久しぶりに3人が顔をそろえることになった。(このあと、文中敬称略)
*
僕が出版社に勤めていたころ、男性雑誌の編集者時代にレコード会社東芝EMIの石坂敬一と知りあい、その縁で同じ音楽業界にいた吉成伸幸とも知りあった。
その頃、石坂敬一はビートルズやピンク・フロイドなどの人気ロックバンドの担当ディレクターだった。
僕らがノブと呼んでいた吉成伸幸は、サンフランシスコ留学後、当時音楽出版社に籍を置きながらビートルズなどの訳詞や音楽評論などもやっていた。
初めて会った時からこの2人とは気が合い、僕らはしばしば会って、話したり飲んだりした。3人で会うときもあったし、別々に2人で会うときもあった。
僕が雑誌から離れて仕事での接触がなくなったあとも、2人とは時々会って近況を語りあったり飲んだりして関係は続いた。
ふり返れば、お互い知りあってから40年の月日が流れていた。
*
12月29日夜、会うことになっている麻布の料理屋に、予定の時間になっても石坂敬一の姿はなかった。
どうしたことかと電話したところ、待ち合わせの時間を間違えていたとのことで、時間に遅れることのない石坂にしては珍しいことだった。それに、最近病気を抱えていたと聞いていたので、席で待っていた僕と吉成伸幸は心配したのだった。
脚がおぼつかなくなっていた石坂は、杖を突きながらもしっかりと歩いてやってきた。
僕らは久しぶりの3人での会合を祝い、いく種類かの肴と日本酒を熱燗で頼んだ。日本酒を飲むのは珍しかったが、和食にはこれでいい。
僕らは、いつものように、とりとめもなくいろんなことを話した。ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランや様変わりした近年の音楽のことなども話した。
僕が、音楽業界では充分やり尽したんじゃないの? と石坂に問うと、日本のロッカーを世界に送り出すことが心残りだ、そのための準備は周到にやっていたのにと、彼は答えた。
自分の思い描いた領域まで行かなかったことへの口惜しさと、やるべきことはやったという矜持を言葉に滲ませた。
音楽業界を牽引してきた彼のことだ、誰よりもやったと思う。
事実、石坂敬一は自分流のやり方で音楽業界を突進していった。若いときから、誰にもできないやり方で、彼はやり通してきた。彼の後ろ姿を見て、彼に追いつこうと、あるいは追い抜こうと走る者もいたが、彼はいつも平然と先にいた。
僕は、ある種の天才だと思って見ていた。
ほどほど飲んだところで、最後に店の名物であるソバかうどんを食べて、切り上げることにした。石坂は、僕はいいやと言ってソバは頼まなかった。
お互い、酒量は若いときほどはないが、旨い酒だった。
僕らは、また会おうと言って別れた。
*
翌々日の12月31日の午後、吉成伸幸から電話が入った。
それは、石坂敬一が亡くなったという思いもよらない知らせだった。30日の夜倒れて、31日の朝死亡したとのことだった。
何ということだ。言葉が出なかった。
家人によると、30日は外へは出かけていないというので、29日に飲んだ僕らが最後の宴席となったことになる。
*
2017年1月1日、朝日新聞には次のような死亡記事が載った。
「石坂敬一さん(元社団法人日本レコード協会会長、オリコン社外取締役)31日死去、71歳。葬儀の日取りは未定。
東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)時代にビートルズ担当ディレクターを務め、ユニバーサルミュージック代表取締役会長兼最高経営責任者(CED)、ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長兼CEDなどを歴任した。」
*
1月9日、港区高輪の高野山東京別院にて親族・近親者による、石坂敬一の通夜が行われた。
その夜、寺院の上には大きな月が輝いていた。
翌1月10日、同高野山東京別院にて告別式が行われた。
僕も吉成伸幸も両方出席した。
お別れの会は、後日2月8日、青山葬儀所にて行われる。
*
あれは、石坂敬一がユニバーサルミュージックの代表取締役を実質的に辞めるといった頃のことである。
辞めた後どうするの? と訊くと、船で世界一周でもしようかな、と本気なのかどうかわからない顔で言ったことがあった。
僕は、それは君らしくないね、君は倒れるまでビジネスに関わっているのが本分だと思うが、と言ったら、彼は黙って笑っていた。
普通のサラリーマンのように仕事をリタイアした後、気休めに海外旅行で世界遺産を周る老後なんて彼らしくないと思ったのだ。
案の定そのあとすぐに、ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長になったので、周りを驚かせた。
そして、石坂敬一がワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長の職を辞し、実務から本格的に離れたときだから2年ぐらい前の頃である。
彼は、ピアノをやろうと思っているんだ、と言った。それは、唐突のようにも思えたし、前から温めていたことのようにも思われた。
生活のほとんどをビジネスに取り込んで生きてきた彼が、仕事から離れた後どうするのかと思っていた僕はその言葉を聞いて、何となく彼の人間的な側面を浮かびあがらせたようで、ほのぼのとした気持ちになった。
そして彼は、ショパンの幻想即興曲を弾くんだと、今まで見せたことのないような無邪気な笑顔で付け加えた。
それからすぐに、僕は新聞広告で「ショパンを弾く哲学者」というタイトルの本を見つけたので、彼にこのタイトルを何の説明も加えずにメールで書き送った。
すると、僕のことではないよね、どうとりゃいいの、と返事のメールがきた。
電話で、サルトルやニーチェ、ロラン・バルトもショパンを弾いていたらしいよ、と僕が言うと、彼はどうにも腑に落ちないという声で、(こんなメールをよこすなんて)君は変わっているねと言った。僕は僕なんだ、サルトルでもニーチェでもないと言いたかったのかもしれない。
その後、ピアノはどう? と訊くと、うん、やっているよと、さりげなく答えるだけだった。
しかし、あとで聞いたのだが、彼はものすごく熱心にピアノの練習に励んでいた。もう体力的に大変だからやめましょうと言うまで集中してやっていた、と彼にピアノを教えていた知人は教えてくれた。
彼のことだ、人並み外れた熱中力でピアノに向かっていたのだと思う。そして、さらりとショパンを弾く姿を見せたかったのかもしれない。あくまでも格好よく。
2016年の最末日、石坂敬一は脱兎のごとく人生を走り切った。もう、誰も追い着くことはできない。
彼のショパンを聴くことも、決して叶わなくなった。
*
うつし世は はかなきことと 知りせども
楽しきことも 哀しく染むとは
沖宿
電話で、共通の友人のノブこと吉成伸幸氏も呼ぼうということになり、久しぶりに3人が顔をそろえることになった。(このあと、文中敬称略)
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僕が出版社に勤めていたころ、男性雑誌の編集者時代にレコード会社東芝EMIの石坂敬一と知りあい、その縁で同じ音楽業界にいた吉成伸幸とも知りあった。
その頃、石坂敬一はビートルズやピンク・フロイドなどの人気ロックバンドの担当ディレクターだった。
僕らがノブと呼んでいた吉成伸幸は、サンフランシスコ留学後、当時音楽出版社に籍を置きながらビートルズなどの訳詞や音楽評論などもやっていた。
初めて会った時からこの2人とは気が合い、僕らはしばしば会って、話したり飲んだりした。3人で会うときもあったし、別々に2人で会うときもあった。
僕が雑誌から離れて仕事での接触がなくなったあとも、2人とは時々会って近況を語りあったり飲んだりして関係は続いた。
ふり返れば、お互い知りあってから40年の月日が流れていた。
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12月29日夜、会うことになっている麻布の料理屋に、予定の時間になっても石坂敬一の姿はなかった。
どうしたことかと電話したところ、待ち合わせの時間を間違えていたとのことで、時間に遅れることのない石坂にしては珍しいことだった。それに、最近病気を抱えていたと聞いていたので、席で待っていた僕と吉成伸幸は心配したのだった。
脚がおぼつかなくなっていた石坂は、杖を突きながらもしっかりと歩いてやってきた。
僕らは久しぶりの3人での会合を祝い、いく種類かの肴と日本酒を熱燗で頼んだ。日本酒を飲むのは珍しかったが、和食にはこれでいい。
僕らは、いつものように、とりとめもなくいろんなことを話した。ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランや様変わりした近年の音楽のことなども話した。
僕が、音楽業界では充分やり尽したんじゃないの? と石坂に問うと、日本のロッカーを世界に送り出すことが心残りだ、そのための準備は周到にやっていたのにと、彼は答えた。
自分の思い描いた領域まで行かなかったことへの口惜しさと、やるべきことはやったという矜持を言葉に滲ませた。
音楽業界を牽引してきた彼のことだ、誰よりもやったと思う。
事実、石坂敬一は自分流のやり方で音楽業界を突進していった。若いときから、誰にもできないやり方で、彼はやり通してきた。彼の後ろ姿を見て、彼に追いつこうと、あるいは追い抜こうと走る者もいたが、彼はいつも平然と先にいた。
僕は、ある種の天才だと思って見ていた。
ほどほど飲んだところで、最後に店の名物であるソバかうどんを食べて、切り上げることにした。石坂は、僕はいいやと言ってソバは頼まなかった。
お互い、酒量は若いときほどはないが、旨い酒だった。
僕らは、また会おうと言って別れた。
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翌々日の12月31日の午後、吉成伸幸から電話が入った。
それは、石坂敬一が亡くなったという思いもよらない知らせだった。30日の夜倒れて、31日の朝死亡したとのことだった。
何ということだ。言葉が出なかった。
家人によると、30日は外へは出かけていないというので、29日に飲んだ僕らが最後の宴席となったことになる。
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2017年1月1日、朝日新聞には次のような死亡記事が載った。
「石坂敬一さん(元社団法人日本レコード協会会長、オリコン社外取締役)31日死去、71歳。葬儀の日取りは未定。
東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)時代にビートルズ担当ディレクターを務め、ユニバーサルミュージック代表取締役会長兼最高経営責任者(CED)、ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長兼CEDなどを歴任した。」
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1月9日、港区高輪の高野山東京別院にて親族・近親者による、石坂敬一の通夜が行われた。
その夜、寺院の上には大きな月が輝いていた。
翌1月10日、同高野山東京別院にて告別式が行われた。
僕も吉成伸幸も両方出席した。
お別れの会は、後日2月8日、青山葬儀所にて行われる。
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あれは、石坂敬一がユニバーサルミュージックの代表取締役を実質的に辞めるといった頃のことである。
辞めた後どうするの? と訊くと、船で世界一周でもしようかな、と本気なのかどうかわからない顔で言ったことがあった。
僕は、それは君らしくないね、君は倒れるまでビジネスに関わっているのが本分だと思うが、と言ったら、彼は黙って笑っていた。
普通のサラリーマンのように仕事をリタイアした後、気休めに海外旅行で世界遺産を周る老後なんて彼らしくないと思ったのだ。
案の定そのあとすぐに、ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長になったので、周りを驚かせた。
そして、石坂敬一がワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長の職を辞し、実務から本格的に離れたときだから2年ぐらい前の頃である。
彼は、ピアノをやろうと思っているんだ、と言った。それは、唐突のようにも思えたし、前から温めていたことのようにも思われた。
生活のほとんどをビジネスに取り込んで生きてきた彼が、仕事から離れた後どうするのかと思っていた僕はその言葉を聞いて、何となく彼の人間的な側面を浮かびあがらせたようで、ほのぼのとした気持ちになった。
そして彼は、ショパンの幻想即興曲を弾くんだと、今まで見せたことのないような無邪気な笑顔で付け加えた。
それからすぐに、僕は新聞広告で「ショパンを弾く哲学者」というタイトルの本を見つけたので、彼にこのタイトルを何の説明も加えずにメールで書き送った。
すると、僕のことではないよね、どうとりゃいいの、と返事のメールがきた。
電話で、サルトルやニーチェ、ロラン・バルトもショパンを弾いていたらしいよ、と僕が言うと、彼はどうにも腑に落ちないという声で、(こんなメールをよこすなんて)君は変わっているねと言った。僕は僕なんだ、サルトルでもニーチェでもないと言いたかったのかもしれない。
その後、ピアノはどう? と訊くと、うん、やっているよと、さりげなく答えるだけだった。
しかし、あとで聞いたのだが、彼はものすごく熱心にピアノの練習に励んでいた。もう体力的に大変だからやめましょうと言うまで集中してやっていた、と彼にピアノを教えていた知人は教えてくれた。
彼のことだ、人並み外れた熱中力でピアノに向かっていたのだと思う。そして、さらりとショパンを弾く姿を見せたかったのかもしれない。あくまでも格好よく。
2016年の最末日、石坂敬一は脱兎のごとく人生を走り切った。もう、誰も追い着くことはできない。
彼のショパンを聴くことも、決して叶わなくなった。
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うつし世は はかなきことと 知りせども
楽しきことも 哀しく染むとは
沖宿
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