黄金週間のこの季節、柳川は少し活気づく。
福永武彦の「廃市」にうたわれたように、モノクロームのような印象のこの街が、色彩を帯びる。
街にめぐらされた掘割りを、船頭が竹の竿1本で漕いで周る「川下り」は、この季節のためにあるようだ。日ごろは静かな水を湛えた堀に、観光客を乗せた船が列をなしたり、船と船がすれ違うさまは、この季節さながらだろう。
そして、5月の3日から5日まで行われる水天宮の祭りがある。この祭りは僕の好きな祭りで、祭りの原点を思わせる。
黄金週間になると、この水天宮の祭りが行われていると思うと、柳川に行きたくなる。何度も見ているのに、行きたくなる。行って長くいられるわけではない。祭りのお披露目が始まるのが夕方からなのに、佐賀へ戻る最終のバスが、7時過ぎなのである。だから、ゆっくり鰻を食っていられるわけではない。
佐賀から西鉄バスで柳川に行く。
佐賀県と福岡県の県境には筑後川がある。その筑後川に入り諸富橋を通ると、南の方に赤い橋が見える。中央に2本の塔のような建造物を持っている。まるで、バリ島の寺院の割れ門のようだ。
この橋が、1日に何回か塔の間の橋桁が持ち上げられて、高い船が通れるようになる、日本で初の昇降橋だ。
かつて佐賀市から柳川を通って福岡県の瀬高駅まで通っていた、国鉄佐賀線の面影を残す遺産である。日本が車社会(特に地方が)となり、やがて佐賀線は廃線となり、鉄道としての橋は使われなくなった。かつては電車(鉄道)で、柳川まで行けたのだ。
筑後川を通ると家具の大川で、すぐに柳川に行きつく。
柳川へは最近よく行っている。今年の冬は、元吉屋で鰻を食べるだけに行った。
だから、今回は「川下り」の堀に沿ってではなく、歩いたことのない裏通りを歩いて、水天宮に向かうことにした。
だいたいの街の概略は頭に入っているが、西鉄の柳川駅前から、もらった1枚の観光案内図を片手に歩く。
途中、サクランボが赤く実っているのが目に入った。横には黄色い金柑がなっている。サクランボを千切って食べてみると、もう甘酸っぱい味がした。
民家の間をぶらぶらと歩いていると、真勝寺という寺に行き着いた。その先の長命寺も、観光案内図にも載っていない初めての寺だ。長命寺の門に構えていた木造の対の仁王像は、素朴で逞しい。
堀に沿って古い倉の連なる「並倉」を過ぎると、本町に出て、その先に福厳寺がある。ここは、大きな禅寺で、ずいぶん前にやはり街中を歩いているときに出くわした寺で、檀一雄の墓があって、驚きと感慨を受けたところでもある。
久しぶりに檀の墓を参ろうと思った。
法名石のところを見ると、檀一雄のあとにも何人か加えられていた。
堀と堀の間の道を、東に曲がりながら道なりに進むと、とつぜん「御花」(元立花藩主別邸)に出た。この辺りは、「川下り」の終点でもある。
「御花」のもうすぐ横は、水天宮だ。
昔の縁日のように、屋台が並んでいる。老若男女いろいろな人が、アイスクリームを舐めたり、イカをほおばったりしながら、道をそぞろ歩いている。祭りに付きものの、金魚すくいもある。今日は、この祭りに町の人たちが集まっているのだ。
堀に浮かんだ大きな屋形船には、出番を待つ子供たちが座っている。
ここでは、この屋形船に設えた舞台で、子供たちによる三味線、笛、太鼓による囃子が奏でられる。合い間に、旅芸人の一座であろうか、時代物の寸劇も行われる。
祭りの法被を着た街の人に、いつから始まるのかと訊いたら、5時半だと言う。もうすぐだ。
始まりの音がした。子ども達の演奏が始まる。(写真)
しかし、このまま、見とれていると鰻を食べる時間がなくなる。目的の元吉屋は、ここから北のバス通りの京町にある。
しかし、ここで食べると時間も計れる。この水天宮のある川端に元吉屋の別館があるというのを思いだし、そこで食べることにした。
窓から川の柳を見ながら、付きだしの鰻の骨の唐揚げでビールを飲む。そして、名物の鰻のせいろ蒸しを食べる。
食べ終わった後、また屋形船の子供たちの演奏を見ていると、あっという間に7時5分前だ。
川端の堀のほとりに2人で座っている町の小父さんに、「京町へ行くにはどのくらいかかる?」と訊いたら、「どうやって行くの?」と逆に訊かれた。「歩いて」と答えると、「相当かかるよ」と言う。
「20分ぐらいで行くでしょう」と、自分の経験で答えた。
すると小父さんが、「いや、30分はかかるよ」と言うはなから、もう1人の小父さんが「40分はかかるかも。その先にバスが出ているから、それで行った方がいいよ」と、バスが走っていそうな大通りを指差した。
腕時計を見ると、7(19)時ちょうどだ。
柳川に着いたとき、西鉄のバス停で調べてあるが、西鉄駅前からの佐賀行き最終は、日曜・祭日は7(19)時26分だ。すぐ近くの次の京町は、19時27分ぐらいだ。
僕は、小父さんに「ありがとう」と言って、急いで京町方向に向かった。
途中バス停があったので時刻表を見ると、1時間に1本で、次のバスは19時10分だ。あと8分あるが、それなら歩こう。バスはあてにならない。
だいたいの街の構図は頭の中に入っているが、最短距離を地図と腕時計を睨みながら、競歩のように歩いた。
柳川高校、伝習館高校、それに小・中学校といくつかの学校を横目で見ながら歩いた。どの高校も、有名大学の合格者数の一覧を壁に掲げているのが、季節柄か。テニスで有名な柳川高校は、文武両道と謳っている。
京町のバス停に着いたのは、19時23分だった。汗がにじみ出た。
毎日の生活は怠惰だが、歩くのは速いのだ。
それに、旅に出ると(小さな旅でも)勤勉になるのだ。
もう街は暗く染まっていた。
佐賀に向かうバスの窓から、筑後川に架かる昇降橋を見た。夜の橋は、色とりどりに明かりがついていて、きらめいていた。いつからこのような粋なことをしだしたのだろうか。地味な佐賀県が。と言っても、県境に架かっているから、もう片方の橋の端っこは福岡県になるのだが。
この橋は貴重な産業遺産だ。いや、文化遺産といって言い。
黄金週間も、柳川の水天宮の祭りも終わった。
東京に戻る日も近づいた。
福永武彦の「廃市」にうたわれたように、モノクロームのような印象のこの街が、色彩を帯びる。
街にめぐらされた掘割りを、船頭が竹の竿1本で漕いで周る「川下り」は、この季節のためにあるようだ。日ごろは静かな水を湛えた堀に、観光客を乗せた船が列をなしたり、船と船がすれ違うさまは、この季節さながらだろう。
そして、5月の3日から5日まで行われる水天宮の祭りがある。この祭りは僕の好きな祭りで、祭りの原点を思わせる。
黄金週間になると、この水天宮の祭りが行われていると思うと、柳川に行きたくなる。何度も見ているのに、行きたくなる。行って長くいられるわけではない。祭りのお披露目が始まるのが夕方からなのに、佐賀へ戻る最終のバスが、7時過ぎなのである。だから、ゆっくり鰻を食っていられるわけではない。
佐賀から西鉄バスで柳川に行く。
佐賀県と福岡県の県境には筑後川がある。その筑後川に入り諸富橋を通ると、南の方に赤い橋が見える。中央に2本の塔のような建造物を持っている。まるで、バリ島の寺院の割れ門のようだ。
この橋が、1日に何回か塔の間の橋桁が持ち上げられて、高い船が通れるようになる、日本で初の昇降橋だ。
かつて佐賀市から柳川を通って福岡県の瀬高駅まで通っていた、国鉄佐賀線の面影を残す遺産である。日本が車社会(特に地方が)となり、やがて佐賀線は廃線となり、鉄道としての橋は使われなくなった。かつては電車(鉄道)で、柳川まで行けたのだ。
筑後川を通ると家具の大川で、すぐに柳川に行きつく。
柳川へは最近よく行っている。今年の冬は、元吉屋で鰻を食べるだけに行った。
だから、今回は「川下り」の堀に沿ってではなく、歩いたことのない裏通りを歩いて、水天宮に向かうことにした。
だいたいの街の概略は頭に入っているが、西鉄の柳川駅前から、もらった1枚の観光案内図を片手に歩く。
途中、サクランボが赤く実っているのが目に入った。横には黄色い金柑がなっている。サクランボを千切って食べてみると、もう甘酸っぱい味がした。
民家の間をぶらぶらと歩いていると、真勝寺という寺に行き着いた。その先の長命寺も、観光案内図にも載っていない初めての寺だ。長命寺の門に構えていた木造の対の仁王像は、素朴で逞しい。
堀に沿って古い倉の連なる「並倉」を過ぎると、本町に出て、その先に福厳寺がある。ここは、大きな禅寺で、ずいぶん前にやはり街中を歩いているときに出くわした寺で、檀一雄の墓があって、驚きと感慨を受けたところでもある。
久しぶりに檀の墓を参ろうと思った。
法名石のところを見ると、檀一雄のあとにも何人か加えられていた。
堀と堀の間の道を、東に曲がりながら道なりに進むと、とつぜん「御花」(元立花藩主別邸)に出た。この辺りは、「川下り」の終点でもある。
「御花」のもうすぐ横は、水天宮だ。
昔の縁日のように、屋台が並んでいる。老若男女いろいろな人が、アイスクリームを舐めたり、イカをほおばったりしながら、道をそぞろ歩いている。祭りに付きものの、金魚すくいもある。今日は、この祭りに町の人たちが集まっているのだ。
堀に浮かんだ大きな屋形船には、出番を待つ子供たちが座っている。
ここでは、この屋形船に設えた舞台で、子供たちによる三味線、笛、太鼓による囃子が奏でられる。合い間に、旅芸人の一座であろうか、時代物の寸劇も行われる。
祭りの法被を着た街の人に、いつから始まるのかと訊いたら、5時半だと言う。もうすぐだ。
始まりの音がした。子ども達の演奏が始まる。(写真)
しかし、このまま、見とれていると鰻を食べる時間がなくなる。目的の元吉屋は、ここから北のバス通りの京町にある。
しかし、ここで食べると時間も計れる。この水天宮のある川端に元吉屋の別館があるというのを思いだし、そこで食べることにした。
窓から川の柳を見ながら、付きだしの鰻の骨の唐揚げでビールを飲む。そして、名物の鰻のせいろ蒸しを食べる。
食べ終わった後、また屋形船の子供たちの演奏を見ていると、あっという間に7時5分前だ。
川端の堀のほとりに2人で座っている町の小父さんに、「京町へ行くにはどのくらいかかる?」と訊いたら、「どうやって行くの?」と逆に訊かれた。「歩いて」と答えると、「相当かかるよ」と言う。
「20分ぐらいで行くでしょう」と、自分の経験で答えた。
すると小父さんが、「いや、30分はかかるよ」と言うはなから、もう1人の小父さんが「40分はかかるかも。その先にバスが出ているから、それで行った方がいいよ」と、バスが走っていそうな大通りを指差した。
腕時計を見ると、7(19)時ちょうどだ。
柳川に着いたとき、西鉄のバス停で調べてあるが、西鉄駅前からの佐賀行き最終は、日曜・祭日は7(19)時26分だ。すぐ近くの次の京町は、19時27分ぐらいだ。
僕は、小父さんに「ありがとう」と言って、急いで京町方向に向かった。
途中バス停があったので時刻表を見ると、1時間に1本で、次のバスは19時10分だ。あと8分あるが、それなら歩こう。バスはあてにならない。
だいたいの街の構図は頭の中に入っているが、最短距離を地図と腕時計を睨みながら、競歩のように歩いた。
柳川高校、伝習館高校、それに小・中学校といくつかの学校を横目で見ながら歩いた。どの高校も、有名大学の合格者数の一覧を壁に掲げているのが、季節柄か。テニスで有名な柳川高校は、文武両道と謳っている。
京町のバス停に着いたのは、19時23分だった。汗がにじみ出た。
毎日の生活は怠惰だが、歩くのは速いのだ。
それに、旅に出ると(小さな旅でも)勤勉になるのだ。
もう街は暗く染まっていた。
佐賀に向かうバスの窓から、筑後川に架かる昇降橋を見た。夜の橋は、色とりどりに明かりがついていて、きらめいていた。いつからこのような粋なことをしだしたのだろうか。地味な佐賀県が。と言っても、県境に架かっているから、もう片方の橋の端っこは福岡県になるのだが。
この橋は貴重な産業遺産だ。いや、文化遺産といって言い。
黄金週間も、柳川の水天宮の祭りも終わった。
東京に戻る日も近づいた。
家ちかいしね。
ただ、派手に騒ぐだけでなくて、懐かしさを感じさせる。