リリー・フランキー著の『東京タワー』がテレビドラマ化された。僕は、まだこの本がこんなに評判になる前、本屋で手に取ってすぐにいい本だと直感した。そして、立ち上げたばかりのこのブログに書き綴った。去年の夏だった。
<05年8月30日「東京タワー」ブログ参照>。
初版2万部のこの本は、じわじわと人気が広がり、予想を遥かに超える200万部突破というメガヒットとなった。そして、満を期してのドラマ化だ。通常、活字を超える映像はなかなかないものだ。文章の持つ想像力と行間に漂う吐息を映像で伝えるのは、難しいからだ。
しかし、主人公の大泉洋、オカンの田中裕子、オトンの蟹江敬三はそれぞれいい味が出ていた。友人の佐藤隆太もいい。このドラマは、本にはない広末涼子を出現させるなど、『東京タワー』のエッセンスを抽出していた。
この本をドラマ化しようとして、思い半ばで急逝した久世光彦が撮ったらどのような内容になっただろうかと思った。僕は、久世の湿った映像が好きだった。
ここで書こうとしているのは、ドラマのことではない。このドラマの中で、沖縄出身のBIGINによって歌われていた「東京」という歌である。
もともと、フォークブームの最中の1974年、秋田出身のマイペースという3人組が歌ったこの曲は、当時の東京をよく表わしていた。
1970年に雑誌「an・an」(アンアン)が創刊され、翌71年「non・no」(ノンノ)が次いだ。この頃から、日本の若者の風俗は急変したと言っていい。その推進役をこの2誌が担ったのだった。
最も変わったのはファッションだったが、それと付随して都市、つまり街が紹介された。それは旅という形で表現された。東京、大阪などの都会をはじめ、京都や地方の金沢、倉敷、津和野などが小京都としてリニューアルされ、一気に日本の都市が身近なものとなった。
毎月(月2回刊)のように、都市、特に東京の街のファッション風俗から雑貨屋などのお店までの情報が掲載された。若者は、地方にいながらにして、都会の情報が知り得るようになった。そして、東京の街中を、アンアン、ノンノを片手に歩く若者を見るようになった。
そんな時に流れたのが、「東京へは、もう何度も行きましたね…」と歌うマイペースの「東京」だった。地方から見た東京は、すでに旅行で行くところではなく、恋人の住む街へしばしば会いに行くという、身近な存在になっていた。
といってもまだ憧れの残滓は残っていて、最後のリフレンで繰り返し歌われている、君の住む「美し都」であり「花の都」でもあった。
当時、僕はこの東京に対する形容詞が、何とも大時代的だと思って、面はゆい感じがしたものだ。それは、戦前に流行った藤山一郎の「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)の「楽し都、恋の都、夢のパラダイスよ、花の東京」を想起させたからだ。
この宝塚が歌うような、「花の都」や「恋の都」は、元来、巴里(パリ)に形容されたものであろう。それが、流れ流れて、極東の東京までやって来た。
パリにしろ東京にしろ、都会は、いつの時代でも夢をはぐくんできた。しかし、それは蜃気楼のように実態のないものである。多くは、掴みそこねて、また故郷へ帰っていくか、都会で燻って埋没していくしかない。七色の虹は、シャボン玉のように儚く消えてしまうのだ。
それでも、東京は何かある。そう思って、僕はずっと東京を離れられないでいる。泥まみれであれ、枯れ果てようとしていれ、何せ、腐っても「花の都」なのである。浅はかで、偽りに充ちた「恋の都」なのである。
<05年8月30日「東京タワー」ブログ参照>。
初版2万部のこの本は、じわじわと人気が広がり、予想を遥かに超える200万部突破というメガヒットとなった。そして、満を期してのドラマ化だ。通常、活字を超える映像はなかなかないものだ。文章の持つ想像力と行間に漂う吐息を映像で伝えるのは、難しいからだ。
しかし、主人公の大泉洋、オカンの田中裕子、オトンの蟹江敬三はそれぞれいい味が出ていた。友人の佐藤隆太もいい。このドラマは、本にはない広末涼子を出現させるなど、『東京タワー』のエッセンスを抽出していた。
この本をドラマ化しようとして、思い半ばで急逝した久世光彦が撮ったらどのような内容になっただろうかと思った。僕は、久世の湿った映像が好きだった。
ここで書こうとしているのは、ドラマのことではない。このドラマの中で、沖縄出身のBIGINによって歌われていた「東京」という歌である。
もともと、フォークブームの最中の1974年、秋田出身のマイペースという3人組が歌ったこの曲は、当時の東京をよく表わしていた。
1970年に雑誌「an・an」(アンアン)が創刊され、翌71年「non・no」(ノンノ)が次いだ。この頃から、日本の若者の風俗は急変したと言っていい。その推進役をこの2誌が担ったのだった。
最も変わったのはファッションだったが、それと付随して都市、つまり街が紹介された。それは旅という形で表現された。東京、大阪などの都会をはじめ、京都や地方の金沢、倉敷、津和野などが小京都としてリニューアルされ、一気に日本の都市が身近なものとなった。
毎月(月2回刊)のように、都市、特に東京の街のファッション風俗から雑貨屋などのお店までの情報が掲載された。若者は、地方にいながらにして、都会の情報が知り得るようになった。そして、東京の街中を、アンアン、ノンノを片手に歩く若者を見るようになった。
そんな時に流れたのが、「東京へは、もう何度も行きましたね…」と歌うマイペースの「東京」だった。地方から見た東京は、すでに旅行で行くところではなく、恋人の住む街へしばしば会いに行くという、身近な存在になっていた。
といってもまだ憧れの残滓は残っていて、最後のリフレンで繰り返し歌われている、君の住む「美し都」であり「花の都」でもあった。
当時、僕はこの東京に対する形容詞が、何とも大時代的だと思って、面はゆい感じがしたものだ。それは、戦前に流行った藤山一郎の「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)の「楽し都、恋の都、夢のパラダイスよ、花の東京」を想起させたからだ。
この宝塚が歌うような、「花の都」や「恋の都」は、元来、巴里(パリ)に形容されたものであろう。それが、流れ流れて、極東の東京までやって来た。
パリにしろ東京にしろ、都会は、いつの時代でも夢をはぐくんできた。しかし、それは蜃気楼のように実態のないものである。多くは、掴みそこねて、また故郷へ帰っていくか、都会で燻って埋没していくしかない。七色の虹は、シャボン玉のように儚く消えてしまうのだ。
それでも、東京は何かある。そう思って、僕はずっと東京を離れられないでいる。泥まみれであれ、枯れ果てようとしていれ、何せ、腐っても「花の都」なのである。浅はかで、偽りに充ちた「恋の都」なのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます