生きる目的とは何だろう。
長く生きてきたとて、いっこうに分からない。周りを見渡しても、分かっているとは思えない。
それ(生きる目的)を見出すために生きているという言い方をする人がいるが、それならば、それを見つけたと言い残して死んでいった人が相当数いてもいいものだが、そんな人は、なかにはいるのだろうが、私は知らない。
例えば、自分探しのためといっても、自分が何たるかが分かったところで、それが何というのだ。あるいは、人のため、世のためという大義名分はもっと怪しい。
生きる目的など考えてもみない、考えたところでしょうがないという人がほとんどだろう
となるとやはり、自分にとって楽しいこと、面白いこと、胸のときめくことなどに出合うために生きている、というのがもっとも素直な考え方のような気がする。
「生きるチカラ」(集英社)の著者植島啓司は、「僕はこれまで大学教授にしてギャンブラーとよく書かれたけれど、多くの場合は旅行者であり、また、毎晩のように女の子たちと飲んで遊ぶ享楽的な人間でもある」と述べている。
植島は、学者としてはあまりにも率直に本音を語る、察するに快楽主義者である。
「僕は30代後半からはひたすら学問から離れる一方だった。何一つまとまった仕事をする気になれなかった。目を瞠(みは)るような快楽にとりまかれていながら、なぜそれを見ないようにしなければいけないのか。ずっとそう思っていた。アルコール、にぎやかな会話、他愛ない遊び、笑い、美しい女たち、挨拶がわりの接吻、媚薬、一瞬のうちに大金を得る快楽、それらこそ人生のすべてではないか。」
恋愛小説家(こういう言い方があるとすれば)にはこれぐらい言う人はいるが、学者ではなかなかここまで言う人は珍しい。まあ、彼も戯れに小説も書いていたが。
植島は自分の思っていることを、東西の作家や碩学者の言葉や映画のストーリーから導き出すのがうまいが、バルザックの言葉である、「放蕩もひとつの芸術である」を引き合いに出している。
放蕩のあとには悲惨が待っている場合が多いが、「誰の人生でも浮き沈みはあるもので、そんなとき、どのような態度をとるべきか」が問題だと言う。
この考え方は、先に紹介した「哲学者とオオカミ」のマーク・ローランズの言った「最も大切なあなたというのは、自分の好運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ」と共通する。
植島は続けて言う。「人生では何より偶然が面白い」と。
「いったいこれから先、自分に何が起こるのかと考えたとき、あなたの胸はときめくだろうか、それとも、不安で落ち着かない気分になるだろうか。
この世の中には、前もって知るとよくないことがいっぱいある。
例えば旅がそうだ。映画がそうだ。それは、人の出会いについてもいえるだろう。」
彼の専門は宗教人類学で、世界中を旅している。特にネパールやバリ島などには頻繁に行っている。カメラマンとの取材旅行が多いようだが、一人での旅も多いようである。
私は、海外はほとんど一人旅で、私が思っている「旅」への感覚と同じことを、彼はこう言っている。
「「旅」とは、日常では経験できないことを実行する絶好の機会だ。それが「観光」と大きく違うところで、出発時間から集合場所、宿泊地、交通手段、レストランなどすべて決められているのが「観光」で、そういう制約から自由で、この先どうなるか分からないというのが「旅」の特徴だ。いうなれば「非日常」とでもいうのだろうか。
だから、旅には不安がつきもので、列車に乗れるのか、宿泊は大丈夫か、そもそも言葉は通じるのだろうか、そんな不安をいっぱい抱えながら過ごすのだから、よほど強靱な精神の持ち主じゃないとつとまらないように思われるだろう。
ところが、いざやってみればいたって簡単なことに気がつく。どれも必要に迫られるから、何とかなってしまうのだ。もちろんうまくいかないこともあるだろう。しかし、そのかわり喜びも大きい。
自分にふりかかることのすべてをおもしろがられるかどうかが、旅を楽しめるかどうかの分岐点になる。」
つまり、人生も旅と同じである、という考えである。
決まりきった人生よりも、何が起こるか分らない人生が楽しい。
「すべてわれわれは、「計画された偶然」を生きているわけである。できるだけ必然と思われることを最小限にとどめなければならない。それが楽しく生きるための最大の秘訣であって、人は偶然に身を任せることによって初めて自由になれるのである。」
植島は、「偶然のチカラ」(集英社)で、自分にふりかかったあらゆる出来事、偶然と思われることをも、すべて必然と考えたらずいぶん楽になると言っている。
人生においては、偶然も必然もコインの裏表と思える。
長く生きてきたとて、いっこうに分からない。周りを見渡しても、分かっているとは思えない。
それ(生きる目的)を見出すために生きているという言い方をする人がいるが、それならば、それを見つけたと言い残して死んでいった人が相当数いてもいいものだが、そんな人は、なかにはいるのだろうが、私は知らない。
例えば、自分探しのためといっても、自分が何たるかが分かったところで、それが何というのだ。あるいは、人のため、世のためという大義名分はもっと怪しい。
生きる目的など考えてもみない、考えたところでしょうがないという人がほとんどだろう
となるとやはり、自分にとって楽しいこと、面白いこと、胸のときめくことなどに出合うために生きている、というのがもっとも素直な考え方のような気がする。
「生きるチカラ」(集英社)の著者植島啓司は、「僕はこれまで大学教授にしてギャンブラーとよく書かれたけれど、多くの場合は旅行者であり、また、毎晩のように女の子たちと飲んで遊ぶ享楽的な人間でもある」と述べている。
植島は、学者としてはあまりにも率直に本音を語る、察するに快楽主義者である。
「僕は30代後半からはひたすら学問から離れる一方だった。何一つまとまった仕事をする気になれなかった。目を瞠(みは)るような快楽にとりまかれていながら、なぜそれを見ないようにしなければいけないのか。ずっとそう思っていた。アルコール、にぎやかな会話、他愛ない遊び、笑い、美しい女たち、挨拶がわりの接吻、媚薬、一瞬のうちに大金を得る快楽、それらこそ人生のすべてではないか。」
恋愛小説家(こういう言い方があるとすれば)にはこれぐらい言う人はいるが、学者ではなかなかここまで言う人は珍しい。まあ、彼も戯れに小説も書いていたが。
植島は自分の思っていることを、東西の作家や碩学者の言葉や映画のストーリーから導き出すのがうまいが、バルザックの言葉である、「放蕩もひとつの芸術である」を引き合いに出している。
放蕩のあとには悲惨が待っている場合が多いが、「誰の人生でも浮き沈みはあるもので、そんなとき、どのような態度をとるべきか」が問題だと言う。
この考え方は、先に紹介した「哲学者とオオカミ」のマーク・ローランズの言った「最も大切なあなたというのは、自分の好運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ」と共通する。
植島は続けて言う。「人生では何より偶然が面白い」と。
「いったいこれから先、自分に何が起こるのかと考えたとき、あなたの胸はときめくだろうか、それとも、不安で落ち着かない気分になるだろうか。
この世の中には、前もって知るとよくないことがいっぱいある。
例えば旅がそうだ。映画がそうだ。それは、人の出会いについてもいえるだろう。」
彼の専門は宗教人類学で、世界中を旅している。特にネパールやバリ島などには頻繁に行っている。カメラマンとの取材旅行が多いようだが、一人での旅も多いようである。
私は、海外はほとんど一人旅で、私が思っている「旅」への感覚と同じことを、彼はこう言っている。
「「旅」とは、日常では経験できないことを実行する絶好の機会だ。それが「観光」と大きく違うところで、出発時間から集合場所、宿泊地、交通手段、レストランなどすべて決められているのが「観光」で、そういう制約から自由で、この先どうなるか分からないというのが「旅」の特徴だ。いうなれば「非日常」とでもいうのだろうか。
だから、旅には不安がつきもので、列車に乗れるのか、宿泊は大丈夫か、そもそも言葉は通じるのだろうか、そんな不安をいっぱい抱えながら過ごすのだから、よほど強靱な精神の持ち主じゃないとつとまらないように思われるだろう。
ところが、いざやってみればいたって簡単なことに気がつく。どれも必要に迫られるから、何とかなってしまうのだ。もちろんうまくいかないこともあるだろう。しかし、そのかわり喜びも大きい。
自分にふりかかることのすべてをおもしろがられるかどうかが、旅を楽しめるかどうかの分岐点になる。」
つまり、人生も旅と同じである、という考えである。
決まりきった人生よりも、何が起こるか分らない人生が楽しい。
「すべてわれわれは、「計画された偶然」を生きているわけである。できるだけ必然と思われることを最小限にとどめなければならない。それが楽しく生きるための最大の秘訣であって、人は偶然に身を任せることによって初めて自由になれるのである。」
植島は、「偶然のチカラ」(集英社)で、自分にふりかかったあらゆる出来事、偶然と思われることをも、すべて必然と考えたらずいぶん楽になると言っている。
人生においては、偶然も必然もコインの裏表と思える。