かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本辺境論

2010-12-24 00:36:37 | 本/小説:日本
 内田樹著 新潮社

 日本は辺境にある。「辺境」とは、中央から遠く離れた地域をいう。
 では、中央とはどこかというと、日本では昔から中国である。江戸時代幕末期、急激に西洋文明が入ってきてから、日本は西洋、つまりヨーロッパやアメリカに目を向けざるをえなくなったが、そこでもやはり日本は辺境であった。
 日本の世界地図帳を見ると、日本はほぼ真ん中に位置し、西に中国があり、そのユーラシア大陸の西の端にヨーロッパがある。東は太平洋でその先の端にアメリカ大陸がある。
 ところが、ヨーロッパから見れば、つまりヨーロッパの地図帳では、西にアメリカ大陸があり、東に中国を含めたアジアがある。その大陸の先にポツンとある島が日本である。地図でいえば、最も東の端っこである。
 だから、「far east 極東」と呼んでいる。
 日本は、東の最も端なのである。
 しかし、地球は円いのであるから、中央も端っこもないはずである。それをあるようにしているのは、相対的な力学である。

 「日本辺境論」は、著者である内田樹がいうように、今まで多くの学者や評論家によって日本人論として論じられてきたことを、要約し組み立てなおした本である。辺境思想の根幹にあるのが中華思想で、ここで中華思想を改めて確認するのも、中国を知るうえで興味深くかつ面白かった。
 中国という国は、おそらく辺境を体験していない国である。地理的にもアジア大陸の中央に位置し、広大で肥沃な土地、それに大河に恵まれている。漢民族以外に多くの少数民族も抱きかかえていて、歴史的には、北の騎馬民族をはじめ、侵略の危機にはいつも悩まされてきたが、いつしか同化してみせる懐の深さがある。
 盛者必衰は世の常であるが、時期的に紆余曲折はあるにせよ、国が登場する有史以来ずっと大国の名を保持しているかのように見える。
 このような国は、ヨーロッパにもない。
 一時、ヨーロッパから北アフリカ、西アジアまで進出したローマ帝国も今はない。スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスと、ヨーロッパの覇者は目まぐるしく変わった。ヨーロッパは、ギリシャの都市国家から始まって、常に群雄割拠だった。
 現在世界で最も豊かなアメリカ合衆国は、歴史的に見ればわずか建国二百三十余年の新興国である。

 この本「日本辺境論」では日本の辺境思想の生い立ちから現在までを論じていて、「辺境」は「中華」の対概念で、華夷秩序のコスモロジーの中にあるという。
 「華」は文化が進んでいる意で、「中華」とは、世界の中央にあって、最も文化の進んだ国の意である。
 世界の中心に「中華皇帝」が存在する。そこから王化の光が四方に広がり、近いところはその王化の恩沢に属して、「王土」と呼ばれる。遠く離れて王化の光が十分に及ばない辺境には、中華皇帝に朝貢する蕃国がある。
 蕃国は貢物を持って献上する、つまり朝貢することによって、皇帝から册封(皇帝から官位を授かる)を受ける。
 この蕃国が、「東夷」(とうい)、「西戎」(せいじゅう)、「南蛮」(なんばん)、「北狄」(ほくてき)と呼ばれる。中心から遠ざかるにつれて、だんだん文明的には暗くなり、禽獣に近い表記で表わされる。
 華夷秩序によれば、中華王朝は、「周」「秦」「漢」「隋」「唐」「宋」など、漢字1文字である。それに対して周囲の蕃国は2文字で表わされる。
 歴史地図を見ると、中国周辺の国の名前には、「匈奴」「鮮卑」「東胡」「突厥」(とっけつ)「吐蕃」など、想像を超える魔境的な漢字が並ぶ。
 朝鮮半島は、「百済」「任那」「新羅」「高句麗」など、不思議な意味合いの文字ではない。
 日本も、「魏書東夷伝」によると、卑弥呼の邪馬台国の時代には、中国王朝から册封されていたことが知られる。その以前に、福岡の志賀の島から発見された金印に表された「漢の倭の奴の国王」から、「倭国」の中の「奴国」の王が册封されていることが分かる。

 中国は、文明としても早熟であった。その典型が文字の所有だ。
 文字のなかった日本は、中国の文字、つまり漢字を文字として借用した。やまと言葉である日本語に、漢字を無理やり当てはめた。
 しかし、漢字だけではどうしても無理がある。それで、漢字からかな(仮名)を作り出し、併用することにした。
 本書では、養老孟司氏の説を踏まえて次のように解説している。
 「日本語の特殊性は、表意文字と表音文字を併用する言語だということである。
 表意文字は図像で、表音文字は音声である。私たちは、この2つを平行しながら言語活動を行っている。日本人の脳は、文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。
 中国人にとっては、漢字は表意文字であると同時に表音文字でもある。日本語では、漢字は表意に特化されている。
 明治以後、外来語に「真名」の地位を譲り、土着語に「仮名」、つまり暫定語としたのである。
 古来、この国は外来の概念を「正嫡」として歓待し、土着の概念を「庶子」として冷遇するというふるまいを繰り返してきた。」
 「かな」は仮名。「な」は文字のことである。つまり、「かな」は仮の文字である。 そして「まな」は真名で、仮名に対しての本字をいう。つまり漢字が正当な文字と言い表しているのである。

 ジャレド・ダイアモンドは、「銃・病原菌・鉄」(草思社)で、東アジア文明の発祥に果たした中国の役割は非常に大きいとしながら、次のように述べている。
 「たとえば、中国文化の威光は、日本や朝鮮半島では依然として大きく、日本は、日本語の話し言葉を表すには問題がある中国発祥の文字の使用をいまだにやめようとしていない。」
 そして、朝鮮半島で中国伝来の文字にかわって使われたハングルを素晴らしいと評価しつつも、次のように付け加えている。
 「日本と朝鮮半島においていまだに使われている中国の文字は、約一万年前に植物の栽培化や動物の家畜化をはじめた中国が二十世紀に伝えた遺産といえる。」

 日本の文字がいくら中国からの借用といっても、日本語の文字から漢字を、いまさらなくすわけにはいかない。
 例えば、韓国のように漢字をなくして(韓国はハングル文字だけにしたが、今少しずつ漢字が復活している)、この文がかな文字だけで書かれていたとしたら、なんの意味か分からないところが続出だろう。
 かな文字だけにしたら、名前をはじめとする固有名詞がさっぱり意味をなさないと思う。
 文明開化の明治期、日本語をローマ字にしようという説が現れたが、すぐに立ち消えた。当然である。日本語は、先に書かれたように、表意文字と表音文字を、巧みに活用しながら使ってきたのだから。
 
 振りかえるに、日本語の複雑さは、その生い立ちにある。

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