かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン

2010-12-04 02:47:37 | 本/小説:外国
 マーク・ローランズ著 今泉みね子訳 白水社

 最初のページをめくると、あとは夢中になった。そして、時折たち止まって、文を反芻した。
 それと同時に、1章節読み終えるたびに、惹かれた著者の呟きにも似た文章をパソコンに書き写した。記憶にとどめておきたいためである。そして、当然薄れゆくであろうその記憶と意味を、またいつか再確認したいためである。そうさせる本は珍しい。

 「哲学者とオオカミ」は、オオカミと一緒に暮らした男の、オオカミとの生活の回想の書である。
 大学の教職者(哲学)であるイギリス人のマーク・ローランズは、アメリカのアラバマ大学の準教授だったとき、「オオカミの子ども売ります」の新聞広告を見て、車を飛ばしてその日のうちに、生後6か月のオオカミの子どもを500ドルで買って帰る。
 家に帰ると、2分もしないうちに、まだ縫いぐるみのようなオオカミに、リビングのカーテンは引き裂かれ、庭に飛び出したその子に地下室の空調設備のパイプをすべて噛みちぎられた。
 こうして、著者ローランズのブレニンと名づけられたオオカミとの共同生活が始まる。それは、ブレニンが死ぬまで11年間続いた。
 マーク・ローランズは、オオカミのブレニンから多くのものを学んだ。
 私は、オオカミから学んだローランズから、この本を通して多くのものを学んだ。

 オオカミはイヌの祖先である。であるが、野生の動物である。
 この本は、オオカミの生態についての本である。それとともに、人間とは何かについての本でもある。そして、人生の目的、幸せ、時間とは何かについて言及した哲学の本でもある。かといって、こむずかしい本では決してない。
 まるで、読んでいる者(読者である私だが)がオオカミのブレニンと一緒に生活しているような気になってくる。そして、オオカミのように生きたい、と思うから不思議だ。著者がそう思うように。

 著者のローランズは、オオカミのブレニンを飼うことについては、常にブレニンの目の届くところにいるように決める。すぐに、鎖(紐)も結ばずに外に連れて行くようになる。
 一緒に走る。そして、一緒に海に浸かる。そのうち、仕事場(大学)にも、連れて行く。

 ローランズは、イヌの訓練にも言及している。
 訓練は、自分のイヌを順応へと強制する意志の闘いの場だと。
 正反対の誤りは、イヌを従順にできると思いこんでいる人は、自分のイヌが基本的に「ご主人」の思うようにしたいのだ、と苦言を呈する。
 彼のオオカミの訓練はこうだ。
 「おまえ(オオカミ)は状況が要求していることをしなければならない。状況が他の選択を許さないのだから」

 ローランズは、アメリカのアラバマからもっと広い土地のアイルランドへ移る。そして、大学(職場)を変えたのでロンドンへ、さらに環境のいい南フランスへと、いつもブレニンのことを考えながら引っ越しを繰り返す。
 彼はオオカミ(ブレニン)との共生を通して、動物への理解、動物に対する徹底して道徳的姿勢として、大好きなステーキを断念してヴェジタリアン(菜食主義者)になる。一時、完全菜食主義者(ヴィーガン)ですらあった。また、ブレニンはペスクタリアン(魚、乳製品、卵を食べるヴェジタリアン)となった。

 *

 この本を読んでいて、田舎の子どものときを思い出した。
 近所でシェパードを飼っていた。もちろん家の外で、放し飼いのようになっていた。
 当時、田舎では犬を室内で飼うなんてことはなかった。紐や鎖で繋がれることはなく、犬は自由に動き回っていた。犬は人間ではないけれど、学校にも仕事にも行かない近所の人、といった感じだった。
 子どものときだから、その犬はとても大きく見えた。そして、決して吠えたり人を噛んだりはしなかった。
 「トネ」という名のその犬は、いつも私たちの遊ぶ領域をうろついていた。私たちは、その犬を友人のように扱っていた。ボールや小枝を投げて、取ってこらせてはしゃいでいた。
 トネの他に、野良犬もよくいた。飼い犬と野良犬はすぐに区別がついた。もちろん首輪があるなしで分かるのだが、それ以外にも野良犬は性格が卑屈だった(人がそうさせたのだが)。人が近づくと、上目づかいに顔を見て、低くウーと唸った。
 東南アジアでは、今でも野良犬がよく歩いている。
 
 猫は、ほとんどが野良だった。猫も家の周りをよくうろついていた。
 犬と違って猫は憎まれっ子で、床下や塀の上にいるのを見つけられては、子どもに石などを投げられていた。猫はすばしっこいので、子どもの投げた石が当たることはなかった。
 時々、犬と猫が道で鉢あわせすることがあった。あるとき、前から嫌いあっていたのか、その日癇にさわることがあったのか、両方が相撲の仕切のように睨み合った。犬がワンワンと吠えて、猫が背中を高く丸め尻尾を逆立て、低くニャーと唸った。
 この成りゆきを見ていた私たちは、犬は強いものと思っていたから、当然犬が勝つものと思っていた。そしたら、ワンワンと吠えていた犬が、相手の猫がギャーと鋭い泣き声をたてるや、「すみません」とばかり、すごすごと背中を見せて退散したのだった。それを見て、私は犬にがっかりした記憶がある。
 
 かつて犬や猫は、捕らわれ、もしくは囚われの身ではなかった。少なくとも、今日ほどには。
 こうした自由な犬や猫を見て育ったので、都会で、しかも集合住宅で動物を飼う気にはなれない。特に、都会の犬は可哀想である。その本質が代々そこなわされていると感じる。
 元々彼らは、はるか何世代も前は、野や山を駆け回っていたのだから。しかし、今日、その面影を見つけるのは難しい。

 ローランズはこう言う。
 「人がどういう人間かを判定するとき、私は常に、その人が自分よりも弱い人間をどう扱うかを目安にしている。
 人間は弱さをつくりだす動物だ。人間はオオカミを捕らえて、犬に変える。バッファローを捕らえて、牛に変える。種ウマを去勢ウマに変える。私たちは物を弱くして、使えるようにするのだ。」

 現在は、異常なほどのペット・ブームだ。
 2006年度の日本ペットフード工業界の調査では、犬の飼育頭数約1300万、猫約1200万、計約2500万匹で、14歳以下の人間の子どもの数約1800万人をはるかに上回る数だ。
 人間は少子化で減っているのに、ペットは増えている。
 犬用ベーカリーのアメリカ人経営者が、日本の光景を見て、「犬をベビーカーに入れることまでは想像できない」と言っていた。

 *

 ローランズは、ブレニンを通して、オオカミ(イヌ)と、サル(人間)の違いについて考える。
 「陰謀と騙しは、類人猿やその他のサルが持つ社会的知能の核をなしている。何らかの理由で、オオカミはこの道を進まなかった。
 類人猿の王様、ホモ・サピエンスにおいて、このような形の知能は最高点に達した。」

 そして、おそらく最も重要なことを、まだ私には明確には分かっていないのだが、彼はこう言った。
 「私たちの誰もが、オオカミ的というよりサル的であると思う。
 サルの知恵はあなたを裏切り、サルの幸運は尽き果てるはずだ。そうなってやっと、人生にとって一番大切なことをあなたは発見するだろう。そしてこれをもたらしたものは、策略や智恵や幸運ではない。
 人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。あなたはいろいろな存在であることができる。けれども、一番大切なあなたというのは、策略をめぐらせ、自分の狡猾さに喜ぶあなたではなく、策略がうまくいかず、狡猾さがあなたを見捨てた後に残るあなただ。
 最も大切なあなたというのは、自分の好運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ。」

 ローランズは語る。
 「私がブレニンから学んだレッスンというとき、こうしたレッスンは直感的なものであって、基本的には非認識的なものだった。これらのレッスンはブレニンを研究することから学んだものではなく、生活を共にすることから学んだ。
 そして、レッスンの多くを私がやっと理解したときには、もはやブレニンはいなかった。」

コメント
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