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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

盆には亡くなった両親に出会うことができる、「異人たちとの夏」

2012-08-18 02:55:01 | 映画:日本映画
 今年(2012年)の暑い盆が過ぎた。
 それでも、まだ暑い。外では蝉が生き急ぐように、夜になっても鳴き続けている。
 最近、庭に雀が顔を出すようになったので、葉の形をした底の丸い皿を2つ置いて、米粒と水を時々差し入れている。
 また、先日、盆の日(8月15日)には、庭の草むらからタイルに、トカゲ(蜥蜴)が姿を現した。先月姿を見せたカナヘビに続き、トカゲも生きていたとは。(写真)
 盆には、亡くなった人が帰ってくるという。今年の盆は、僕は佐賀の実家には帰らなかったので、空き家の家に父と母は帰ってきただろうか。それとも、トカゲに姿を変えて現れたのだろうか。

 そんな思いを抱かせる映画が「異人たちの夏」(監督:大林宣彦1988年松竹)である。
 テレビの脚本を書いている中年の男(風間杜夫)は、現在妻と別居し離婚調停中で、今は都心のマンションに一人で住んでいる。
 暑い夏の日の午後だった。男は仕事の後ふと思いついて、子どもの頃まで暮らした浅草に行ってみる。浅草をぶらぶら散策したあと寄ってみた浅草演芸劇場で、客席に一人の男(片岡鶴太郎)を見つける。その男も自分を見つけ、親しげな目線を向ける。
 何とその見知った男とは、彼の父親だった。劇場を出たあと父親は、ちょっと寄っていくかと言って、自分の家へ連れていく。そこは、路地を入ったアパートの2階で、久しぶりじゃない、もっと早く来ると思っていたのに、と言いながら母親(秋吉久美子)が顔を出した。
 部屋の卓袱台で、3人でビールを飲み、とめどもない話をしながら楽しい時間を過ごす。
 父も母も若い。男が子どもの頃3人で写っている写真のままの顔姿だ。
 それもそのはずだ。男の両親は彼が12歳の時、交通事故で死んでいるのだ。
 男はすっかりくつろいで遅くなり、「また来いよ」、「本当にいらっしゃいよ」と、父と母に言われ、アパートをあとにした。男は、またとない幸福感に満たされていた。
 それはそうだ。死んだはずの父と母と、思いもがけずに楽しいひとときを過ごしたのだから。
 帰りのタクシーの中で、ビルの明かりを見ながら男の心は躍り、そして思う。
 「嬉しかった。街の明かりがきらめき、信号の色まで美しかった。こんな夜なら、誰にだって優しくできる」

 マンションに着くと、同じマンションの違う階に住んでいる女(名取裕子)が立っていた。
 先日の夜、寂しいのでよろしければお酒でも一緒にと、シャンペンを抱えて、突然男の部屋にやって来た女だ。そのときは、執拗な女の誘いにも男はつれなく断ったが、この夜は違う。
 男は、別の日に、女を部屋に招き入れる。
 よく見れば女は魅惑的だ。二人で酒を飲みながら、女は独り言のようにつぶやく。
 「過ぎ去ったことは取り返しがつかないと言うけれど、そんなことはない。自分の過去なんだから、好きなように取り返せばいいじゃない」
 妻とも別れ自由なシングル・ライフを送っている男は、この女と恋仲になり、性に耽溺する。

 その後、男はしばしば浅草の父と母のところに行くようになる。
 父とキャッチボールをやる。母の作ったアイスクリームを食べる。一緒にビールを飲む。花札遊びをする。
 母の手を握り、「お母さんの手だね。幻なんかじゃないんだね」と、男はつぶやく。
 男は、人知れぬ楽しい時間と場所を持った。それに、恋人ともいえる彼女も現れた。しかし、男は周りの人間から、どうしたの、最近やつれて、と言われ始める。自分では気づかないのだが、男の容貌は急激に衰退しているのだった。
 その異常さに気付いた、別れた妻を想う仕事仲間の男(永島敏行)に、もう死んだはずの父母には会わない方がいいと忠告を受ける。恋人ともいえる彼女も、今の自分の顔をちゃんと見て、と言う。男が、ようやく自分の映った顔を見ると、妖怪のような顔があった。

 男は父母と会うのはこれで最後と決めて、子どもの頃に誕生日に食べていたすき焼きを食べに父母を誘う。
 昔懐かしい浅草を3人で歩き、すき焼きの店「今半」に入る。座敷の部屋に上がる途中の窓辺に雀が舞いおりてきて、母はあらっと言って、立ち止まる。
 父と母との最後の食事になるすき焼きだ。夏だけどすき焼きだ。
 まだ食事の途中で、父と母は、「おまえに会えてよかったよ」と、もう時間がないことを言った。男は、それが永遠の別れと気がついた。男は涙をためて「行かないで」と言ったが、それが虚しい言葉だとわかっていた。
 「体を大事にね」「もう会えねぇだろうが」と、母と父は言った。
 男は、「ありがとうございます」と言うのが精いっぱいだった。父と母は静かにほほ笑みかけたまま姿を消し、異界へ帰っていった。
 男は涙をこらえて、父と母がすき焼きを口にした箸を、ハンカチに包むのだった。形見の品のように。

 夏に帰ってきた父と母との、至福の日々が終わった。
 やはり、幻の時間だったのだ。
 男は、路地を入った父母が住んでいたアパートに行ってみる。そこは、取り壊される予定の廃屋だった。まるで、「雨月物語」のように。
 しかし、異界の人は、父と母だけではなかった。寂しさに耐えられなくて男のもとにやって来た同じマンションの女も、実は異界の人だった。

 *

 今はない、父と母との団らんがいい。父とやったキャッチボール、母の愛のこもった何気ない小言、家族での花札、どれもみんな僕の中にも残る心の奥の一頁だ。
 そして、父と母との最後の晩餐となったすき焼き。僕も、最後の晩餐は何にする?と問われれば、迷うことなく、すき焼きと答えている。

 映画「異人たちとの夏」は、原作が山田太一で、 脚本が市川森一という絶妙の組み合わせだ。山田はもともと映画界出身で脚本家だが、「異人たちとの夏」は小説として発表し、自分で脚本してもいいものを市川森一に任せた。自分が書いた物語を同業者の市川がどう料理するか、自分にないものを見たかったのだろう。
 この物語と同じく、山田太一は少年時代を浅草で過ごしている。
 僕は、昨年(2011年)12月に死去した長崎出身の市川森一の抒情性溢れる、単発ドラマの脚本が好きだった。
 監督もまた幻想性、抒情性過剰とも思える「転校生」「時をかける少女」の大林宣彦である。セピア色調の映画をとらせたら右に出る者がいない。

 「蒲田行進曲」が出色の風間杜夫は、都会のナイーブな男をやらせるといい味がある。
 父親役の片岡鶴太郎の、板前職人は適役だ。現在(2012年)放映中の朝ドラ「梅ちゃん先生」(主演:堀北真希)の下町の職人親父に通じるものがある。
 母親役の秋吉久美子は、「旅の重さ」でデビューし、若くして「赤ちょうちん」「妹」「あにいもうと」などで好演し、その感性から名女優になるだろうと予感された。この映画製作当時33歳だが、まだ美しさと名優の片鱗を色濃く残している。
 名取裕子は、変わらず色っぽい。最近はドラマで活躍しているが、この人は年をとらない。秋吉久美子より若いが、昔から大人っぽかったのだ。

 *
 <追記>映画の中の映画
 男(風間杜夫)が同じマンションの女(名取裕子)を自分の部屋に招いて、ブランデーを飲みながら2人で妖しい会話をしているとき、部屋ではテレビが流れている。といって、2人はテレビを見ていたわけではない。薄暗い部屋で、2人の会話の合間に音声のないテレビの映像が映し出される。
 夜の暗い部屋でのテレビの四角い画面には、絵の具で描いたような青空が写る。その大自然の青空の下ではしゃぎまわる2人の女。
 そのテレビで映されたのは、高峰秀子と小林トシ子が演じる映画「カルメン故郷に帰る」(監督:木下恵介、1951年松竹)だった。画面の高峰はさっそうと上着を脱ぎすてブラジャー姿になるのだが、どこまでも健康的だ。テレビの前の男と女も、服を脱ぎ絡み合うのだが、決して健康的でなく、それはナメクジを連想させるように、病的な世界を予感させる。
 映画の中の映画。劇中劇。
 過去の恩師の記念碑的作品と現在進行形の自分(山田)の作品、大自然の田舎の青空の下と都会の夜の薄闇の下を対比したかったのだろうか。
 原作者の山田太一は大学卒業後、一時松竹に入社し、監督木下恵介に師事している。「カルメン故郷に帰る」は、木下の監督による日本初のカラー映画である。

 *

 盆は過ぎていった。
 しかし、暑さはまだ続く。
 そして、誰もが年をとる。父や母のように。
 死んだ人は、死んだ時のままだが。

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恋する文学者たち、「華の乱」

2012-04-30 04:05:53 | 映画:日本映画
 「詩人が恋の味を知るは、虎の子が血の味を知ったにひとしい」(有島武郎)

 詩人や小説家たちは、恋をエネルギーに変えて生きてきた。
 特に、明治以降新しい時代に目覚めた女性たちは、それまでの自己主張を抑制された立場と損なわれた時間を取り戻すかのように、恋に目覚めていく。それは、「元始、女性は太陽であった」と謳った平塚らいてうの詩に象徴的だ。
 この時代、自由な恋を自らの手で得ることができると知った女性は、生きいきと男たちと対峙し、そして自己表現していく。

 「華の乱」(原作:永畑道子、監督:深作欣二、1988年東映)は、歌人、与謝野晶子の鉄幹と有島武郎との恋をたどりながら、明治から大正、そして昭和に至る時代を描いたものである。
 
 「春みじかし 何の不滅のいのちぞと ちからある乳を 手にたぐらせぬ」
 与謝野晶子は、山川登美子という歌仲間をだしぬき鉄幹と恋におぼれ、官能的な歌を謳いあげる。
 そして、晶子は作家有島武郎との束の間の恋を味わい、その有島と恋仲にあった雑誌「婦人公論」編集者の波多野秋子は、有島と心中する。
 芝居「復活」(トルストイ原作)とともに「カチューシャの唄」が大ヒットし、人気女優となった松井須磨子は、不倫関係にあった作家島村抱月の死を追って自殺する。
 アナキストの大杉栄と絡み合った恋愛関係になった婦人解放運動家の伊藤野枝は、大杉とともに甘粕事件(大杉事件)によって殺害される。

 このような与謝野晶子の生きた時代の、恋する女性たちを描いた映画「華の乱」は、「輪舞」のように色とりどりで、大正時代のロマンチシズムがあたかも印象派の絵画のように美しい。あるいは、明治以降の日本が西洋に憧憬を抱いたように、かつてのフランス映画を意識した映像があちこちに見てとれる。
 与謝野晶子にまつわる恋の物語は、恋物語でありつつも深作作品に見られるスケールの大きさを繰り拡げてくれる。しかし、どれもこれもコラージュのように、あるいはパッチワークのように繫ぎあわされていて、それゆえに深みに乏しく、映画としては虚しい華々しさが残る。

 それでも、時代を走り抜けた女性を演じる女優陣が、それぞれに印象に残る。この映画は、ただただ恋する女優たちを見つめるのがいい。
 主人公の与謝野晶子を吉永小百合が、鉄幹を奪い合った歌仲間の山川登美子を中田喜子が、有島武郎と心中する雑誌編集者の波多野秋子を池上季実子が、大杉栄と活動を共にする伊藤野枝を石田えりが演じている。そして、当時の人気女優の松井須磨子を松坂慶子が演じる。
 与謝野鉄幹を緒形拳が、有島武郎を松田優作が演じている。

 吉永小百合が最も輝いていたのは日活時代の「キューポラのある街」を含めた青春映画だと思っている僕は、その後の吉永の映画を積極的には見ないようにしていた。しかし、この映画では吉永はとっくに青春時代の輝きを失っている年齢なのに、驚くことにその残像は強く残っていた。

 「二十歳。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい」(ポール・ニザン)

 映画公開が1988年であるから、晶子役の吉永小百合は当時43歳であるのに、年齢を感じさせない目の輝きや表情の若々しさが感じとれた。そのことが、かえって残念なことに、子どもを11人産んで不倫に走る与謝野晶子のしたたかさを与えないでいた。
 吉永小百合にとって、ひたむきさとしたたかさは同居しない。吉永は、いつしか遠くを見つめている。吉永が放つのは、ひたむきさと儚さだ。

 与謝野晶子と鉄幹をめぐって争う山川登美子役の中田喜子は、一時テレビドラマの人気女優だった。この病弱の歌人、登美子に中田喜子はよく似合った。この人は、竹久夢二の絵にも似合うかもしれない。

 波多野秋子役の池上季実子は、ひたむきといっても少し狂気をおびた性格には格好だ。彼女と恋をするには、命がけである。その情念が、有島武郎に「惜みなく愛は奪ふ」を書かせたのか。

 人気女優の松井須磨子を松坂慶子が演じる。松坂が最も美しかったのは、「事件」(監督:野村芳太郎、1978年松竹)、「蒲田行進曲」(監督:深作欣二、1982年松竹=角川)の頃であろうか。当時、悪女をやらしたら敵う者はいない色気があった。監督の深作欣二が女優としても女としても開花させたといえよう。

 与謝野晶子(吉永)が有島武郎(松田)のいる北海道の屋敷を訪れ、そこで愛を交わすシーンに流れる曲、シューベルトの歌曲「水の上で歌う」(歌:エリー・アーメリング)が印象的だ。晶子にこの歌の意味を訊かれて、有島はドイツ語なので意訳だがといって答える。
 「夕映えにきらめく波の上を、今日も時が流れて……このかけがえのない時の流れに、明日もまた止まってはくれないだろう。私自身がこの世に別れを告げる時まで」
 「さびしい歌ですね。旋律は美しいのに」という晶子に、有島はこう言う。
 「美しいものは、すべてさびしいものです」

 晶子をとりまく恋する者たちは、志半ばでいつしか死んでゆく。しかし、晶子はしたたかに生きてゆく。

 「その子二十(はたち) 櫛にながるる黒髪の おごりの春の うつくしきかな」(与謝野晶子)
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輝きだす「日活」の片鱗を見る、「幕末太陽伝」

2012-04-27 03:34:47 | 映画:日本映画
 昭和30年代前半に起きた若者の「太陽族」ブームは、当時の一般的な大人には眉にしわを寄せさせた。つまり、このときの若者の風潮・風俗は決して健全とは思われず、不良がかったものと見られていた。
 いつの時代でも、健全な若者はつまらないのだが。

 映画「幕末太陽伝」(監督:川島雄三、日活)は、1956(昭和31)年、「太陽の季節」(監督:古川卓巳、日活)で石原裕次郎がスターに躍り出た、翌1957年の作品である。題名からして、世相を映し出していた太陽族を意識したものと思われる。
 映画の冒頭に「日活製作再開三周年記念」という文字が出てくる。つまり、日活が1953年、東京・調布に撮影所を建設し、映画製作を再開してまだ3年目ということである。
 当時映画界は、大手である松竹、東宝、大映、東映、新東宝で5社協定を結んでいて、監督、俳優の引き抜き防衛を図っていた。それでも、鈴木清順、斉藤武市、中平康、今村昌平、蔵原惟繕、神代辰巳など若い監督、助監督はじめスタッフが日活に移ってきて、活路を見出そうとした。
 つまり、新しく日活に入ってきた映画人は、それまでの会社では採用されないものを描こうとしたし、新しい映画を模索していったのである。
 こうして生まれた日活は、必然的に体制に反抗する映画を作るようになる。そうした日活の土壌のなかで、不良がかった主人公の石原裕次郎が出てきたのである。
 不良少年はさらに枠を逸脱し、無国籍的なアウトローとなってスクリーンを駆け巡り、日本の若者の心をつかんでいく。石原裕次郎に続いて、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治といった不良がかったヒーローが誕生し、アクション・ダイヤモンドラインが生まれる。

 不良少年(青年)の誕生は、不良だけでは終わらない。その対極に清純があり、不良と清純は拮抗を重ねながら、その質を高めていく。
 こうして、清純・純愛を追求した青春映画が、アクション映画から派生し誕生する。それを支えたのが、アクション映画のヒーローである男優たちの添え物的だったヒロインを演じながら成長していった、吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子などの女優陣であった。
 青春映画では、彼女たちは今度は逆に、浜田光夫、高橋英樹、山内賢、そして渡哲也などを引き立て役にするほど輝いていくのである。また、歌謡曲の世界から、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦などを映画の中に青春歌謡映画として引き込んでくる。

 *

 日活の黎明期に作られた「幕末太陽伝」は、日活にしては珍しい時代劇である。
 しかし、幕開きのキャストの字幕の背景には、撮影当時の昭和30年頃の東京・品川の街が映し出される。
 それと同時に、「ここ品川、かつての品川宿には、北の吉原と比べ称されるほどの規模の遊郭があって、100件以上の遊女屋に1000人にも上る遊女がいた。350年の歴史があり、今でも特飲街、つまり赤線があるが、その赤線も売春禁止法によって消える運命にある」といったナレーションが流れる。
 これから消えるであろう現代(撮影当時の昭和30年頃)の品川の街のさがみホテルが、すでに消え去った幕末の遊郭(置屋)の相模屋に変わる。
 物語の舞台は、江戸時代末の文久2年(1862年)、あと6年で明治になる年のことである。

 お大尽ぶった主人公の佐平次(フランキー堺)が遊郭の相模屋に仲間を連れてやってきて、飲みや歌えの大判ふるまいをやる。その相模屋では、長州の武士たちが集まって、イギリス公使館の焼き討ちを謀っていた。
 翌日、友人を帰し一人になった佐平次は、店に勘定をと催促されるが、一文も無いとあっけらかんと答える。実際、一文無しなのである。
 こうして、佐平次は相模屋に残って働くことになり、下働きから、その調子の良さで娼婦の相談役やいざこざの解決など大活躍をする。
 このあたりは、のちの植木等(クレージーキャッツ)の無責任野郎の先駆けである。

 ラストは、佐平次が、結核を患っているらしく咳をしながらも、娼婦に入れ込んだ男を騙したまま、「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ」と言い放って、品川の海沿いの道を逃げていくのである。

 この映画で特筆すべきは、石原裕次郎、小林旭、二谷英明という、その後の日活を背負うスターが脇役(長州藩士)として出演していることである。主役はあくまでもフランキー堺である。裕次郎は、すでに「太陽の季節」でスターになっていたにもかかわらず、である。
 当時のポスターを見ると、小林旭、二谷英明は名前すらない。
 女優では、競り合う売れっ子遊女に南田洋子、左幸子。遊郭の奉公女に芦川いづみが出演している。
 日活を支えた金子信雄、西村晃、小沢昭一が、脇を渋く固めている。相模屋の若衆役の岡田真澄が細く痩せていて、若いときの美輪明宏みたいで初々しい。
 今村昌平が脚本スタッフとして、のちに「キューポラのある街」(主演:吉永小百合、1962年日活)を撮る浦山桐郎が監督助手として、名を連ねている。

 日活が爆発的な輝きを放つ直前の、その片鱗を見出させる不思議な魅力を持った映画である。

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産業記憶遺産ともいえる、映画「にあんちゃん」

2012-02-24 02:13:16 | 映画:日本映画
 昭和28、29年の佐賀県の小さな炭坑町が舞台の映画「にあんちゃん」(監督:今村昌平、1959年日活)。原作は、出版当時話題となった、10歳の小学生、安本末子の日記(1958年刊)である。

 映画は、海辺のボタ山を中心にした小さな炭坑町を上空から映し出す。カメラは、「スト決行中」と書いた貼り紙の下で座って、物憂げに遠くを見つめているヤマ(炭鉱)の炭鉱労働者を映す。続いて、石炭を掘るために入っていく坑口。石炭を積みだすトロッコ車。
 日本の各地にあったが、今はどこにもない、消えてしまった炭鉱の町がリアルに映し出される。
 スト中の労働者の顔は、これからヤマ(炭鉱)はよくはならないだろうという諦念と、それでも何とかなるさという当時の前向きの潔さもうかがわせる。
 選炭したあとの不良石炭を積み上げたボタ山は、まるで近代のピラミッドのようにそびえていて、街とそこで生きる人々を見つめているようだ。
 それまで日本のエネルギーを担っていた石炭産業は、エネルギー革命によって石油に代わられ、次々と閉山の波が押しよせていた。日本の経済成長の到来とは裏腹に、活気に満ちていた炭鉱の街には、急激な陰りがおおっていた。
 そして、そこで生きている人たちには、人生の転換期でもあった。

 「にあんちゃん」の舞台は、玄界灘に臨む佐賀県東松浦郡入野村、のち肥前町の大鶴炭鉱(杵島炭鉱大鶴鉱業所)である。現在は、唐津市に合併されていて、その地に原作者の縁の人々によって建てられた「にあんちゃんの里」という記念碑がある。
 しかし、そこがかつて貧しかったとはいえ、エネルギーに満ちていた炭鉱の町であったという面影は見つけられない。どこにでもあるひっそりとした田舎の町がたたずんでいるだけである。
 時代は、町を変える。
 隣町の玄海町には、玄海原子力発電所がある。

 *

 安本家は、母もなく大黒柱だった父が死んだ後、残されたのは20歳の長兄のあんちゃん(長門裕之)と16歳の長姉(松尾嘉代)、12歳のにあんちゃん(次兄という意味、沖村武)と、10歳の末子(前田暁子)の4人である。
 長兄のあんちゃんも、ここ鶴ノ鼻炭鉱(大鶴炭鉱)で働いているが、在日朝鮮人ということで臨時鉱夫としてしか雇われず、このあんちゃんの安い給料で何とか兄弟を養い、日々をしのいできた。
 末子の教科書を買う金がない、それどころか、明日食べる米がない。しかし、炭鉱の長屋には、同じように貧しいのだが、手を差しのべてくれる人情があった。
 しかし、ついにあんちゃんに解雇の通知がやって来た。

 「とうとう、兄さんは、あしたから仕事に行かれないことになりました。首を切られたのです。会社は、りんじ(臨時)から、まっさきに首を切ったのです。
 これからさき、どうして生きていくかと思うと、私は、むねが早がねをうって、どうしていいかわかりません。ごはんものどにつかえて、生きていくたのしみもありません。
 だいいちばんに、ねるところがなくなります。会社の家だから、首を切られたら、出て行かなければなりません。
 学校にも行けないようになるでしょう。いくら人間がおおいといっても、首を切ってしまうとは、あんまりではないでしょうか。
 人間は、一どは、だれでも死にます。
 私は、ためいきで、一日をおくりました。」
                          ――安本末子「にあんちゃん」より

 鶴ノ鼻炭鉱は、やがて閉山となる。長姉は唐津に奉公に、長兄のあんちゃんは仕事を探して土地を出て、小学生の兄妹2人は他所に預けられることになり、一家はバラバラになる。
 預けられた先も居心地が悪くて、2人は逃げ出す。
 そして、にあんちゃんは決意する。ここにいても、どうすることもできない。東京へ行く、と。たかだか小学生が、1人で東京へ行く。しかも、あてもなく、金もないのにである。
 東京で、自転車屋にアルバイトで雇ってくれないかとやって来た小学生を見て、主人が警察に連絡し、にあんちゃんは保護され、戻される。
 東京から鶴ノ鼻に戻ったにあんちゃんは、さらにたくましくなっていた。
 先生から、東京のことを訊かれて、「ごみごみしていて人間が混んで、こっちの方がよっぽどよかですよ」と答える。
 先生は笑いながら言う。
 「おまえは学校の成績も一番じゃ。やるんなら、どがんこともできるけん、どがんしても飛び出したかったら、もう少し大きくなって飛び出せ。焦ることはなか」
 誰もが夢を見られる時代で、誰とも夢を語られる時代だった。
 そして、末子とボタ山に登りながら、にあんちゃんは強く生きることを決意する。
 あのころ、夢はボタ山の向こうの空の彼方に、確かにあったのだ。

 父の死のあと、弟、妹を養わなければならない実直な長兄の長門裕之、健気な長姉の松尾嘉代、正義感の強いにあんちゃんの沖村武、まだおぼつかない末子の前田暁子、これら主人公の、安本一家の誰もがいい。
 明日も見えない貧乏生活だが、みんな生きる情熱がある。それは、戦後の日本の情熱だったのだろう。
 炭鉱の長屋にまつわる人物には、殿村泰司、北林谷栄、小沢昭一、西村晃、芦田伸介、穂積隆信、大滝秀治などの名優が脇を固めている。
 村を駆けまわる保健婦役に若き吉行和子が出ていて、あまりにも活発で元気なので、出演者の字幕を見ても本人とはわからなかった。この吉行の許婚者に、のちにアクション・スターに転身する二谷英明が出ている。
 助監督に、名作「キューポラのある街」(主演:吉永小百合、1962年)を監督した浦山桐郎とあった。浦山はのちに、筑豊(福岡県)の炭鉱地帯を舞台にした「青春の門」(原作:五木寛之、主演:田中健、吉永小百合、1975年)を撮るが、この「にあんちゃん」のボタ山の風景が強く心に残っていたに違いない。

 近刊「あんぽん 孫正義伝」(佐野眞一著、小学館刊)のなかで、佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で生まれた孫正義ソフトバンク社長の幼少時の日本名が安本だとあったのを見て、すぐに「にあんちゃん」と同じだと思った。この本の題名の「あんぽん」は、安本を音読みにしたものである。

 この映画撮影当時、舞台となった大鶴炭鉱は閉山になっており坑口は塞がれていたので、撮影は対岸の伊万里湾にある福島(長崎県)の鯛之鼻炭鉱で行われた。大鶴炭鉱と鯛之鼻炭鉱にかけたと思われるが、映画では鶴ノ鼻炭鉱となっている。
 にあんちゃん(次兄)が東京から戻ってきて、迎えに来た先生と末子が海辺ではしゃいで、はずみで末子が海に落ちる。そこが船の発着所で、「鶴ノ鼻発着所」と書かれていた。
 
 筑豊炭鉱での仕事や生活の様子を山本作兵衛が書き残した記録画が、ユネスコの記憶遺産に日本では初めて選ばれた。
 この映画「にあんちゃん」も、当時の炭鉱の町や生活を生きいきと映し出している。映画としての価値とともに、貴重な映像による産業記憶遺産でもあると思う。

 *本「にあんちゃん」に関しては、(ブログ2009年2月20日)参照。
 http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/4177db915cfcc911cdc75cf02cbca3f3

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島崎藤村と小林旭の邂逅、「惜別の歌」

2012-02-16 03:59:12 | 映画:日本映画
 思春期もしくは青春期に、初めて詩に触れるのは、島崎藤村あたりではないだろうか。
 それは、「藤村詩抄」の、次に掲げる「序のうた」にあるように、その七五調の日本語が、なぜか切なく心酔わせるのだった。

  心無き歌のしらべは
  一房の葡萄のごとし
  なさけある手にも摘(つ)まれて
  あたたかき酒となるらむ

 藤村の詩のなかでは、まずは「若菜集」の「初恋」(まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき)や、「落梅集」の「千曲川旅情の歌」(小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ)を口ずさむだろう。
 感傷という甘酸っぱい調べ――それはその時代、その季節の思わぬ発見、予期せぬ遭遇である。
 その季節、感傷と無縁だった少年時代とは違う自分を見つけ、同時期にやってくる初恋の戸惑いも相まって、初めて感傷という甘酸っぱい調べの哀楽を味わうのだった。
 そんな思春期のなかで、藤村の「高楼」の歌に出合った。

  遠き別れに耐えかねて
  この高殿にのぼるかな
  悲しむなかれわが友よ
  旅の衣をととのへよ

 甲高い声で歌う小林旭の「惜別の唄」だった。
 この島崎藤村の「高楼」に曲をつけたのは、第二次世界大戦末期で中央大予科の学生藤江英輔。
 藤村の原詩では、「悲しむなかれわがあねよ」となっているのは知られたとおりだ。
 孤高の藤村の詩と山間にこだまするような小林旭の声質は、よく調和している。旭は、先にあげた藤村の詩「初恋」(作曲:若松甲)もレコーディングしている。
 ちなみに当時のレコードは、「惜別の歌」はB面で、「北帰行」(作詞・作曲:宇田博)がA面である。しかし、タイトルは並列に記されているように、両方同時にヒットした。(写真)

 調布市のホールで、珍しいことに、映画「惜別の歌」(監督:野村博志、1962年、日活)上映とあったので見に行った。
 小林旭の歌で大ヒットした「惜別の唄」の映画化作品である。歌はレコード・ジャケットを見ると「惜別の唄」だが、映画では「惜別の歌」となっている。
 当時、小林旭は、映画「渡り鳥シリーズ」および「流れ者シリーズ」、それに「銀座旋風児シリーズ」が大ヒットし、月に1本の割で主演作が作られるほどで、同じ日活の石原裕次郎を凌ぐ人気だった。
 映画とともに、その主題歌もヒットし、代表的な歌う映画スターだった。
 この「惜別の歌」は、「黒い傷あとのブルース」(監督:野村孝、共演:吉永小百合、1961年日活)の系統の、歌のヒットを追って映画化されたもの。

 *

 東京の高校で体育の教師をしていた三崎(小林旭)は、チンピラと喧嘩したことが原因で教師を辞職し、故郷の仙台に帰ってくる。
 仙台では、三崎を育ててくれた神部組の組長が死んだ後、未亡人(高野由美)とわずかな子分(殿山泰司ほか)が残っているだけだった。一方、神部組の子分だった兵頭(金子信雄)が独立して、神部組のシマ(縄張り)であるマーケットを乗っ取ろうとしていた。
 三崎は、高校教師への復帰の思いを捨てきれずにいたが、兵頭の卑劣なやり方に堪忍袋の緒が切れ、神部組長の3回忌の後、2代目を継ぐことを決意し、兵頭のところに一人乗り込む。
 そうなるのを最も心配していたのは、兵頭の娘で三崎に恋心を抱いていた美那子(笹森礼子)だった。

 大まかな粗筋は、「渡り鳥シリーズ」と変わらない。懐かしさだけで十分だ。
 映画は、歌のように、高殿である石垣の連なる城跡に帰ってきた小林旭の遠姿で始まる。そして、高殿を去る旭で終わる。舞台が仙台であるので、この城跡は青葉城と思われる。去っていく旭を見送るのは、浅丘ルリ子ではなく笹森礼子だ。
 松島の観光船で歌を歌うガイド嬢に、歌手の田代みどりが出ているのも愛嬌だ。
 夜のクラブ・プランタンで歌う美人歌手は誰かと思ったら、高美アリサという歌手だった。
 ヒロインが、小林旭には最高の似合いの相手だった浅丘ルリ子から笹森礼子に代わった。この時期より、小林・浅丘のコンビは別れ、小林の相手役は笹森礼子、松原千恵子になる。

 映画は、城跡を後にしながら去っていく小林旭を映しながら、「惜別の歌」の3番(「高楼」の5節目)が流れて終わる。この歌声が、浅丘ルリ子に向けたもののように響いた。

  君がさやけき目の色も
  君紅(くれない)の唇も
  君がみどりの黒髪も
  またいつか見むこの別れ

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