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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

哀愁の大牟田 

2013-06-07 02:05:20 | 人生は記憶
 佐賀の地方町で育った僕には、隣の福岡県の大牟田市は大都会だった。父親の両親と妹、つまり僕の祖父母と叔母が住んでいた。
 子供のころ、夏休みや冬休みには父や母に連れられてよく大牟田に遊びに行った。僕が少し大きくなったころには、弟と二人で行ったこともあった。
 祖父母の家は平屋の市営住宅だったが、建てられて間もないと思われるきれいな造りだった。桜色の屋根で、小さいながらも庭があり、佐賀のわが家に比べればとてもしゃれていると感じた。
 祖父は隠居していて、書画や木の彫り物を楽しんでいる風流人だった。

 かつて大牟田は、日本有数の石炭の町として栄えていた。文字通り、町の中心に栄町があった。そこには松屋デパートがあり、そこに連れて行ってもらうのが楽しみだった。
 松屋には屋上遊園地があり、その下の階の食堂で、旗のついたお子様ランチを食べるのが何よりの楽しみだった。
 僕が子どもではなくなったころ、石油に代わられた石炭産業は不況になり、1960年代後半からは大牟田も徐々に寂れていった。そして、1997(平成9)年には、町を支えていた三井三池鉱も閉山となった。
 僕も高校を卒業後、東京に出てきてからは、めったに祖父母の住む大牟田に行くこともなくなった。
 そして今は、祖父母も叔母もなくなり、大牟田には住んでいた家屋もない。

 *

 人口の推移を見れば、町の盛衰がよくわかる。
 1960(昭和35)年当時の福岡県の人口を見ると、以下の通りである(千人以下四捨五入)。
 ・福岡市 65万人
 ・八幡市 32万人
 ・小倉市 29万人
 ・大牟田市 21万人
 ・久留米市 16万人
 ・門司市 15万人
 八幡、小倉、門司、戸畑、若松の5市は、1963年に合併して北九州市として103万都市となり、政令指定都市となった。北九州市から遅れること9年後の1972年に政令市となった福岡市が、100万人を突破したのは1975年のことである。

 現在(2013年)の人口はどうなっているかといえば、その後、福岡市への一極集中が加速し、九州におけるミニ東京と化している。
 ・福岡市 150万人
 ・北九州市 97万人
 ・久留米市 30万人
 ・大牟田市 12万人
 福岡市と久留米市を含むその周辺都市が人口を増やすなかで、大牟田市の人口減は著しい。大牟田市と久留米市は逆転している。

 2011年、鹿児島まで延びた九州新幹線の鹿児島ルートが開通し、大牟田市にも停車するのだが、この恩恵を大牟田は得ていない。地図を見てもわかるように、新幹線の停車駅である新大牟田駅は中心街とはほど遠いところで、JRの在来線の駅とも離れたところにある。どうしてこんなところにあるのかと、誰もが疑問に思うところにあるのだ。
 それに比し久留米は、新幹線はJR在来線の久留米駅と直結していて利便性は高い。
 哀しいかな、これでは差がつく一方である。

 *

 5月の半ばのころ、関西に住む弟が少し暇がとれたと言って、珍しく佐賀に帰ってきた。それで、去る晴れた日、二人で大牟田へ行くことにした。いや、もうだいぶん日が過ぎたので、行ったと過去形だ。
 子供のころ行ったように、電車とバスを乗り継いで、歩いてあの家に行くことにした。おぼろげに脳裏に残っている風景をなぞるように、歩いてみたのだ。子供のころの足跡を確認するかのように。

 佐世保線の佐賀駅で降りて、バスで柳川に行った。
 子どものころは、佐賀駅から列車に乗っていた。今では廃線でなくなった佐賀駅から福岡県の瀬高まで通った国鉄の佐賀線で、柳川まで行き西鉄電車に乗り換えていたと思う。佐賀線が廃線になってからは、佐賀からバスを利用していた。
 佐賀線は、佐賀・諸富から福岡・大川に行く途中の、今では重要文化財となっている筑後川に架かる昇開橋を走った。

 柳川から大牟田行の西鉄電車に乗る。
 柳川から、徳増、塩塚、中島と田園地帯を電車は走る。中島では、有明海に広がる河口に何艘も船が停泊している。昔ながらの風景だ。
 さらに、江の浦、開、渡瀬と過ぎて、倉永で降りる。
 倉永の駅の近くに来ると、高いとんがり屋根の建物が見える。「緑の丘の赤い屋根」ではないけれど、歌の文句のようなしゃれた建物だと思っていた。
 倉永の次は銀水だ。銀水で降りたことはなかったが、「次はギンスイ」と、その名前を聞いただけで、銀水には何があるのだろう、どんなきらびやかな街だろうと想像したものだ。
 
 倉永の駅を降り改札口を出て、昼時なので、どこか食堂でもないかと見渡したが、店などは見当たらないそっけない駅前だ。駅前は、すぐ目の前に道路が左右に走っている。
 とりあえず、進もう。
 駅前の道路を渡ると、前に古い石垣の家が見える。子供のころからある家で、今ではますます古くなっている。家に掲げられている刀とか包丁といった、いわくありげな看板が、何か子ども心に恐ろしかった。
 この家は、何年か前に偶然テレビで紹介されているのを見たのだが、刀を研ぐ伝統を受け継いでいるらしかった。やはり、いわくある建物だったのだ。
 その家をなぞるように道を歩いていくと、踏切のある線路にぶつかる。JR線である。
 線路を渡り、左に学校を見ながら少し曲がった道を歩くとT字にぶつかり、それを右に行くと左に八幡神社がある。ここで、蝉を捕ったことがある。
 今は閑散とした印象だが、かつては木々が繁り、緑豊かな神社だった。
 神社を通り越すと、大きな通りにぶつかり、それを道なりに歩くと右手に病院がある。木々の間に立ち並ぶ白い木造の病院で、高く覆い繁った木々の枝葉で、その前の道は昼間でも影で充たされていた。今では、風景も建物もすっかり変わっている。
 病院が途切れた緩やかな曲がり道の右側に、小さな下り坂の路地があり、そこを降りていく。すると、畑にぶつかった。畑のなかの畦道を歩いていく先に、住宅が並んだ町並みがあった。
 そこが、「吉野」の祖父母と叔母が住む町だった。
 今は、路地の先に畑はなく、住宅地になっていた。その家の間の道の先の小さな丘の上に、やはり住宅街があった。

 かつての桜色の屋根の並んだ住宅はなくなり、鉄筋の住宅に変わっていた。
 住宅街を突っ切るメインの道路と、その住宅の先の商店街にある肉屋が、かつての面影をかろうじて残していた。
 吉野で昼食をと思ったが、ここでも適当な食堂が見あたらなかった。

 吉野の商店街から大牟田の中心街の栄町までバスで行った。
 バスを降りて、繁華街の方に向かって歩いていると、線路があり、その先にアーケードが見えた。入口のモダンなアーチには、「GINZA」とある。大牟田・銀座道りである。(写真)
 アーケードの商店街を歩いた。しゃれた定食屋に入って、遅い昼食をとった。そこで、松屋デパートがあったところを訊いたら、この道のすぐ先だと言う。
 そのあたりに行くと、2004年に閉店した松屋の建物はすでに取り壊されていて、駐車場になっていた。かつては、この辺りは多くの人で賑わっていた。
 人通りが少ない街中を歩いた。繁華街は寂れていたが、まだ飲み屋は多いように思えて、少しほっとした。昔は、元気で威勢のいい炭鉱マンが、この界隈で気炎を吐いていたであろうと想像した。

 僕は、かつて松屋デパートにはメリーゴーランドがあったと記憶していて、このブログにもそう書いたことがあるが、どうもそうではないようだ。
 観覧車だったようだ。観覧車に乗ったのを、いつしかメリーゴーランドに変質させたのだろうか。
 記憶はあいまいで不確かである。
 だから、記録していかなくてはいけない。

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戦後昭和を疾走した美空ひばりの、「ひばりの森の石松」

2012-12-10 03:55:58 | 人生は記憶
 ふと聴いた曲が、一瞬のうちに遠い過去に連れていくことがある。
 それは、偶然に図書館で手にしたCDであった。「NHK紅白歌合戦 トリを飾った昭和の名曲」というもので、こういう切り口もあるのかと聴いてみようと思った。
 「紅白歌合戦のトリを飾った名曲」といっても、全曲収録ではない。CDの発売元が日本コロムビアなので、コロムビアの歌手限定のものだった。それでも、かつての歌謡曲全盛時代ではトップ歌手を揃えていた老舗である。
 1951(昭和26)年の第1回の藤山一郎の「.長崎の鐘」から、1988(昭和63)年第39回の小林幸子の「雪椿」まで、35曲が2枚のCDに収められていた。
 そのうちの3分の1が、さすが歌謡界の女王と言われた美空ひばりで12曲ある。

 人は、子どものころ聴いた曲は覚えているものだ。家のラジオから流れる歌は耳に浸みこみ、脳の奥深いところで記憶されている。
 かつて、歌は大人の歌も子どもの歌もなく、家族全員が共有していた。大人向けの流行歌であれ、子どもは意味を理解しなくとも自然と耳にするので、憶えるのだった。「粋な黒塀、見越しの松に…」(春日八郎「お富さん」)とか、「お暇なら来てよね…」(五月みどり)などと子どもが口ずさんでも、厭な子供だなどとは誰も不審がったりはしなかった。
 そんなわけで、僕はとりわけ美空ひばりのファンでもなかったが、彼女の歌は常に流れていたので知っていた。美空ひばりを抜きにして、昭和の戦後の流行歌は語れないだろう。その意味でも、彼女の古い歌を中心にしたアルバムも手元に持ってもいた。

 美空ひばりの「白いランチで十四ノット」を聴いたとき、古い記憶のドアを叩かれたような気がした。 NHK紅白歌合戦の第9回(昭和33年) のトリの歌だった。
 美空ひばりの歌は、古い歌でも彼女は生前繰り返し歌っていたし、懐メロの番組などで歌われてきた。しかし、生前美空ひばりがこの歌を歌ったのをテレビなどで見た覚えがない。ベストアルバムにも入っていなかった。紅白で、トリで歌った歌なのにである。
 しかし、僕の脳は覚えていた。いつの頃か、聴いた歌だ。だが、聴いたのはいつの頃か思い出せない。最初に聴いた頃からの長いブランクだということは分かった。
 
 「白いランチで十四ノット」(作詞:石本美由起、作曲:万城目正)は、今聴いても新鮮な曲だ。
 マンボ調のリズミカルなイントロの伴奏に続いて、「若い笑顔に潮風うけて、港のカモメよ、こんにちは……」と軽快な歌詞が流れる。一瞬、あたりに潮風が吹きぬけたかのようだ。
 最後に、「……海に咲くのはしぶきの花よ、ちょいとイカスぜ、マドロス娘」と、「ちょいと」で高音の裏声に変調して、「マドロス娘」で結ぶ。
 ひばり20歳ごろの曲で、はじけるような笑顔が浮かんでくる。ここには、ひばりの屈託ない青春を垣間見ることができる。人生を絶え間なく疾走してきたひばりであるが、想像するに、おそらく夢見る青春もあったであろう。

 *

 一世を風靡するほど人気だった人やグループでも、死んだ後、日々忘れ去られるのがほとんどだ。しかし、死んだあと逆にその偉大さが増す人がいる。時の流れ、つまり歴史が、それを評価するのだ。
 美空ひばりが死んでから20年以上が過ぎた。それなのに、その存在は大きく、確固たるものになっているように感じられる。
 
 美空ひばりは1937(昭和12)年、横浜生まれで、子どもの頃から、天才少女として歌手デビューした。
 子どもの頃の初期の作品には、名曲が多い。
 「悲しき口笛」(1949年)、「東京キッド」(1950年)、「越後獅子の唄」(1950年)、「私は街の子」(1950年)、「ひばりの花売り娘」(1951年)、「リンゴ追分」(1952年)、「お祭りマンボ」(1952年)、「津軽のふるさと」(1952年)と、戦後の歌謡史に足跡を刻んだ名曲が並ぶ。
 映画「ジャンケン娘」(1955年、東宝)に共演したことを機に、江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」としても人気になる。
 ヒット曲を見てみると、1957年から58年にかけて、「三味線マドロス」(1957年)、「港町十三番地」(1957年)、となぜかマドロスものが続く。
 1957年のNHK紅白では、「長崎の蝶々さん」を歌って、初めてトリを務めた。まだ、10代だというのに、すでに誰もが認める人気と実力を持っていた。
 そして、翌年(1958年)の「白いランチで十四ノット」である。
 この曲の中で、ひばりの曲には珍しく恋への憧れを歌っている。
 「……海で暮らせば、男のような夢を持っている、楽しい夢を……」
 「……好きなあの人、ランチに乗せて、飛ばしたいな、14ノット……」

 ひばりは面食いだったと思う。彼女が兄のように慕った俳優の鶴田浩二、そして親しくしていたのは映画でも共演した、中村錦之助(後の萬屋錦之介)、高倉健、一時婚約したベーシストでバンドマスターの小野満と、当代のいい男たちだ。中村錦之助は有馬稲子と、高倉健は江利チエミと結婚した。
 そして、当時人気絶頂だった小林旭との結婚(1962年)、2年後の離婚後は、美空ひばりはいよいよ歌謡界の女王としての道を歩き始める。
 東京オリンピックの年に、「柔」(1964年)が大ヒットし、古賀メロディーの「悲しい酒」(1966年)で頂点を迎えたかのように見える。その後、ミニスカートの「真赤な太陽」(1967年)あたりまでは、ひばりは豊かな様々な表情を見せた。
 その後は、酒を主題にしたものや孤独な情緒を重んじた曲が多くなっていく。
 ひばりには、フォークの歌手が何人か歌を提供しているが、個人的には、あまり知られていない岡林信康作詞・作曲の「月の夜汽車」(1975年)が、ふとした彼女の心の奥を歌っているようで好きだ。

 歌手としての美空ひばりはあまりにも有名だが、映画にも多くの出演作がある。
 彼女が子どもの頃の、「のど自慢狂時代」(1949年、大映)から、「悲しき口笛」(1949年、松竹)、「憧れのハワイ航路」(1950年、新東宝)、「東京キッド」(1950年、松竹)、「鞍馬天狗・角兵衛獅子」(1951年、松竹)、「リンゴ園の少女」(1952年、松竹)など、数多く主演している。
 また、その後、吉永小百合、山口百恵などの清純派の登竜門となった、初代田中絹代以来2代目となる「伊豆の踊子」(1954年、松竹)の踊子役を演じている。

 *

 美空ひばりの主演映画は、かつて1本だけ見たことがある。
 高校2年のとき、町の映画館に、島崎藤村原作の「破戒」(監督:市川崑、主演:市川雷蔵)を見に行った。そのとき、同時上映されたのが、「べらんめえ芸者と大阪娘」(監督:渡辺邦男、1962年、東映)で、美空ひばりと高倉健のシリーズ共演映画だった。
 今思えばすごいコンビだが、当時の高校生としては、目的は文芸作品「破戒」であって、レコードのB面のような娯楽作品としてしか見なかった。

 最近、「ひばりの森の石松」(監督:沢島忠、1960年、東映)を見た。
 場面は、富士の麓の茶畑で始まる。きれいに並んだ茶摘みの娘たちに交じって、やはり茶摘み娘の美空ひばりが「歌はちゃっきり節、男は次郎長……」と歌う。目を見張るような、茶摘み娘たちのコーラスライン。そして、ひばりがみんなに森の石松の話をし始める。
 ここから、舞台は江戸末期に移り、清水の次郎長の子分、森の石松の物語が始まるという洒落た展開になっている。
 ひばりが、歌手とは思えない、それにもまして女であることの違和感を抱かせない、可愛い石松を演じている。俳優としても、とても器用な演技派だと再認識させられる。
 清水の次郎長役に若山富三郎が、若々しい男衆に里見浩太朗が出演している。また、ひばりの実弟の花房錦一が出演しているのも愛嬌である。

 *

 1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった。その年の6月、昭和という時代に寄り添うように、美空ひばりは逝去した。まだ、52歳だった。
 つい最近、彼女の身長が147センチというのを知って、意外に思った。テレビや舞台では、大きく見える人だった。
 先日、上野に行ったとき、上野公園の西郷さんの銅像の下の方に、「蛙の噴水」がある憩いの場所があるのを見つけて、降りてみた。そこに、王貞治、監督の黒澤明、渥美清、九重親方(横綱千代の富士)などの国民栄誉賞受賞者をはじめとする、著名人の手形が飾られていた。なかにはサザエさんもある。漫画家の長谷川町子さんだが、死後受賞して手形がなかったのだろう、サザエさんの絵が飾られてある。
 その中に美空ひばりのもあった。(写真)
 僕の手を当ててみたら、やはり大分小さく可愛かった。
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青春という名の、吉永小百合

2012-11-11 03:59:58 | 人生は記憶
 ある朝のことだ。いつものように布団の中で、朝刊をおもむろにめくっていると、僕を見つめる吉永小百合の顔がアップで飛び込んできた。それも、若いときの吉永小百合だ。
 と同時に、「はじめて恋したひとの名は、小百合といいます。」という言葉が目に入った。
 僕は思わず飛び起きた。まるで大事件が起こった記事を、新聞で初めて見たときのように。
 その日、11月1日の新聞(朝日新聞)の朝刊に、1頁大で吉永小百合の顔写真が載った。(写真)
 彼女の写真の横に書かれた「はじめて恋したひとの名は、小百合といいます」という言葉は、誰の言葉なのか。もしかして、僕のことを言っているのではないか、と思わず思った。
 すぐにそのことを打ち消した。確かに若いとき吉永小百合の映画は好んで見たし、多少の憧れは持っていたかもしれないが、僕の初恋は吉永小百合ではないし、彼女と会ったこともない。会ったこともない人を想像でというか妄想で恋するのも恋というのかどうかは別として、僕はちゃんとした初恋をしている、と思わず反芻した。
 そして、冷静に考えた。
 この台詞は、吉永小百合に憧れた、同時代もしくはその周辺の時代の人間の共有した思いだ、と考えるに至って現実に戻った。
 
 この紙上の写真は、吉永小百合のDVDマガジン(講談社)の宣伝広告だった。彼女が選んだ日活時代の映画ベスト20だとあった。
 第1回配本の「キューポラのある街」(1962(昭和37)年)をはじめ、「草を刈る娘」(昭和36年)、「泥だらけの純情」(昭和38年)、「青い山脈」(昭和38年)、「愛と死を見つめて」(昭和38年)など、彼女の青春映画が並んでいる。
 20本中17本が昭和30年代後半の、吉永小百合十代の頃の映画である。そして、「青春のお通り」が昭和40年作で、彼女が20歳のとき、「愛と死の記録」がその翌年作で、彼女の21歳のときのもので、これらを含めて19本が彼女の青春真っ只中の作品だといえる。
 残り「戦争と人間・完結篇」だけが、1973(昭和48)年作で、彼女の28歳のときの作品となっている。青春映画ラインアップの中で、あえて彼女がこの映画を選んだというのは、彼女の青春の残り火、もしくは青春と決別した映画だったのかもしれない。

 この数日あとの11月4日には、同新聞の見開き2ページにわたって、同じ吉永小百合の若いときの写真と文章が載った。同じ出版社の広告であったが、DVD付きとはいえ出版物では異例の大きさだ。
 宣伝記事には、キャスターでジャーナリストの鳥越俊太郎の文が載っている。
 そこでは、吉永小百合さんとは同じ誕生日なので、誕生会を開いて彼女を誘ったと書いていた。彼女は来なかったが、それ以来付き合いが始まったとある。
 よくある姑息な手を使うものだと(失礼)思わず嫉妬したが、誕生日(3月13日)が同じなら、彼がそうしたくなるのもむべなるかなと寛容に思った。
 サユリストを自認するタモリは、どう思っているだろうと思うだけで、面白い。
 かつて作家の野阪昭如も、サユリストを公言してはばからなかった。
 野球評論家で参議院議員もやった元南海、阪神のピッチャーの江本孟紀は、「僕は吉永小百合さんの結婚相手だったんですよ」と、いつかテレビでしゃべっていた。
 確かに彼は、映画「細雪」(監督:市川崑、1983年東宝)で、三女の吉永小百合の結婚相手役の色男として出演している。この映画は、岸恵子、 佐久間良子、 吉永小百合、 古手川祐子、 伊丹十三、石坂浩二と錚々たる出演メンバーで、その年のキネマ旬報日本映画2位の名作である。

 サユリストに少し遅れて、コマキストなる言葉も出てきた。
 そのくらい、栗原小巻(くりはら こまき)が人気だったときもあった。吉永小百合と誕生日が1日違いの栗原小巻(1945年3月14日生)は、「戦争と人間」(1部1970年、2部71年)、「忍ぶ川」(1972年)などの質の良い映画に出演して、若いながらも渋い人気を博していた。

 吉永小百合と同じ時期に早稲田大に通っていて、学食で彼女を見たことがあるという友人に、あなたもサユリストだったかと訊いてみた。彼は、「俺は隠れサユリストだった」と答えた。
 当時は、たとえ吉永小百合とて、正面切って芸能人のファンだと言うのはためらわれた。何を隠そう、僕が当時のプロマイドを持っているのは彼女だけだ。そういう意味では、僕も隠れサユリストだったと言えよう。
 初恋の人の名が小百合でなくとも、どきりとしたのはそうだったからなのだ。今では、サユリストだったと公言するのに、何のためらいがあろうか。

 *

 九州の片田舎の町では、中学生までは学校の許可した映画以外は自由には見られなかった。
 というわけで、中学を卒業して待ちに待ったように、僕はすぐに佐賀市まで映画を見に行った。自分の自由意志で見た初めての映画は、イタリア映画の「わらの男」だった。
 ピエトロ・ジェルミ監督の先の見えない男と女の物語だったが、今となってはストーリーも霧の中で暗い印象しか残っていない。中学を卒業したばかりの、女も恋も知らない少年にわかる内容ではなかった。なぜこの映画を見に行ったのかも覚えていない。芸術的映画だというので、背伸びして行ったのだろう。
 これに懲りたわけではないが、すぐに近くの田舎町の映画館に日本映画を見に行った。日活の「コルトが背中を狙っている」(葉山良二、芦川いずみ主演)と松竹の「番頭はんと丁稚どん」(大村崑主演)の2本立てだ。
 田舎町の映画館では、封切より少し遅れて上映されるのが常だったし、日活と松竹とか東映と大映といったように、違う映画会社の2本立ても珍しくなかった。
 やはり、日活映画は若者には人気があった。高校に入学した後の4月には、赤木圭一郎の「俺の血が騒ぐ」(共演:笹森礼子)を見た。もう1本は、洋画の「ターザンの決闘」だった。邦画と洋画の2本立てという組み合わせもあったのだ。

 吉永小百合の映画を初めて見たのは、高校1年の冬だった。
 「黒い傷あとのブルース」(監督:野村孝)という小林旭のヒット曲の映画で、旭との共演だった。小林旭主演の人気の「渡り鳥シリーズ」はまだ1本も見ていなかったが、僕は感動していた。

 仲間の裏切りで服役していた男(小林旭)が、出所後復讐するために横浜に向かう列車の中で、ふと少女ともいえる女(吉永小百合)と知り合う。コロコロと床にこぼれ落ちた果物を、男(旭)が拾って少女(小百合)に手渡すシーンだ。
 二人はそれから時々会うようになり、少しずつ恋心が芽生え始めるのだった。しかし、旭が突きとめた復讐しようとする男(大坂志郎)は、何と小百合の父親だった。
 最後のシーンは、旭が来るものとレストランでじっと待つ小百合。その姿を窓の外から旭は見ながら、黙って去っていく。
 何も知らない明るく清純な少女が、恋を知り始める女へ移りゆく姿を、まだブレイクする前の吉永小百合が演じる。少女の心を知りながらそっと去っていく、抑えた演技の小林旭に哀愁が漂う。それに、吉永小百合の父親役の、人がよさそうな大坂志郎が悪役をやるのも好演だった。

 すると朝日新聞の映画欄に、この映画が日活アクション映画としては半歩前進した内容だといった褒めた内容の記事が載った。
 次の日、僕は、体育の授業でラグビーをやったあとの泥で真っ黒になった足と運動靴を、並んだ水道の蛇口から出る冷たい水で洗いながら、隣にいる級友の男に話しかけた。
 「昨日の新聞見たか?小林旭と吉永小百合の映画「黒い傷あとのブルース」が、日活映画としては半歩前進した内容だと評価してあったな」と。
 彼は、「そうだ、あれはいい映画だ」と納得した返事をした。いや、僕が得意げに、一方的にいい映画だと話をしたのかもしれない。
 この映画は、小林旭と吉永小百合のコンビの最初で最後、唯一の日活作品となった。
そして、僕が最初に見た吉永小百合の映画であり、最初の小林旭の映画でもあった。

 「黒い傷あとのブルース」は、冒頭に書いた吉永小百合の選んだ「私のベスト20」には入っていないが、僕のなかの日活映画では、「キューポラのある街」と並んで、ベスト1である。

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藤本義一のいた「11PM」とその時代

2012-11-03 04:16:55 | 人生は記憶
 藤本義一が10月30日、亡くなった。79歳だった。
 藤本義一は、作家というよりテレビ番組「11PM」の司会者として知っている人が多いかもしれない。

 「11PM」(イレブン・ピーエム)は、1965(昭和40)年から始まり1990(平成2)年まで25年間続いた、夜11時(23時)からの放映のテレビ番組だった。夜型人間が増え、若者が深夜族になる時代だった。
 コンビニエンス・ストアの「セブン-イレブン」が日本で開店したのが1974(昭和49)年で、翌年から24時間オープンの店が出てきた。僕は、24時間店が開いていても、そんな夜中に買いものに行く人間がいるのかなと疑問に思った記憶がある。
 当時、夜開いている店といえば飲み屋かラーメン屋ぐらいであった。普通の人は、夜、買い物に行ったり、意味もなく街を歩いたりなんてことはしなかった。だいたい夜は家で静かにし、日が変わる頃には寝ていたのである。盛り場以外、街は静かだった。
 しかし、コンビニが24時間営業は当たり前となるにつれ、夜遅くまで営業する店も増え、深夜に活動する人間は増えていったのである。
 その象徴的な現象ともいえるのが、「11PM」の登場ではなかったろうか。

 「11PM」は、日本テレビと読売テレビの交互製作による、月・水・金曜日の東京局が大橋巨泉、愛川欣也で(途中から)、火・木曜日の大阪局が藤本義一の司会によるワイドショーで、深夜の番組にちょっとしたお色気を入れて人気があった。
 藤本義一の横に座る女性アシスタントの初代が元京都芸妓の安藤孝子であったのも、新しい試みだったといえる。藤本のよどみない話に相槌を打つ安藤はしっとりと艶っぽく、番組全体に関西の風味が漂い、藤本とはいいコンビであった。
 一方東京の大橋巨泉の相手は曜日によって変わり、当初は應蘭芳(オウ・ランファン)、ジューン・アダムス、朝丘雪路で、こちらも個性が違った色っぽい女性が座った。
 應蘭芳は女性週刊誌による発言から「失神女優」などと呼ばれて話題になったが、「11PM」出演期間は短く、そのあとを受けたのは松岡きっこだった。
 ジューン・アダムスは、ハーフのモデルで、カメラマンの篠山紀信とお互い最初の結婚をした。
 朝丘雪路は父が日本画家の伊東深水というお嬢さん女優で、今でいう巨乳であった。朝丘は現在も健在で活躍中なので、過去形ではなく巨乳であると進行形で言わないといけない。巨泉はこのことを揶揄って「ボイン」と言ったことから、この言葉は流行語にもなった。
 「11PM」のカバーガールを見てみると、ジューン・アダムス以下、沢知美、池島ルリ子、樹れい子、秋川リサなど、いわゆる当時のグラビア・ガールが見てとれる。現在も活動している、かたせ梨乃、飯島直子、岡本夏生なども出演していた。
 大阪では、安藤孝子のあとアシスタントに、真理アンヌ、東てる美、横山エミー、松居一代などが見てとれる。

 藤本義一は、このテレビの司会を続けながら小説を書き続け、1969(昭和44)年以来何度も直木賞候補となり、1974(昭和49)年に上方落語家の半生を描いた「鬼の詩」で第71回直木賞を受賞した。
 当時の文壇は、タレント性の強い作家が小説だけでなくその行動や発言でマスコミを賑わしていた。
 ルックスがよく「顔文一致」などと言われた五木寛之は、1967(昭和42)年に「蒼ざめた馬を見よ」で、翌年にはサングラス姿で何かと発言がマスコミを賑わしていた野坂昭如は、「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞を受賞し、小説家としてもその実力を示していた。
 野坂は、歌手としてもデビューし、「黒の舟歌」や「マリリンモンローノーリターン」などのヒット曲も飛ばした。僕も「野坂昭如 不条理の唄」と「野坂昭如ライヴ総集篇Vol.1」のレコード・アルバムを持っている。
 なかでも、「不条理の唄」に収められている「「野坂昭如新古今集より」は、いい歌だ。このアルバムのライナーノーツには、「野阪昭如誌上猥褻リサイタル」として、巻頭に雑誌「面白半分」に掲載した「四畳半襖の下張」の猥褻文書裁判の起訴状が載っているという個性的なものだ。
 1971(昭和46)年創刊の「面白半分」は、代々作家が半年ずつ編集長を務めるという雑誌だった。初代が吉行淳之介で、2代目が野阪昭如であった。そのあと、開高健、五木寛之と続いて、5代目に藤本義一がなっている。
 また、当時、佐々木久子が編集する「酒」という雑誌があった。この雑誌には、毎年「文壇酒徒番附」なるものが掲載されていて、それで作家の酒豪、酒好きがわかった。
 毎年少しは顔ぶれ、順列が変わったが、1972(昭和47)年は、東西横綱に立原正秋、梶原季之、野坂昭如、黒岩重吾、大関に池波正太郎、三浦哲郎、吉行淳之介、瀬戸内晴美などが顔を並べたとある。
 ある年は、東の横綱が吉村昭で、西が藤本義一のときがあったというほど、藤本も酒が好きだった。しかし、乱れることのない紳士的な飲み方だった。

 *

 藤本義一には多くの出版物がある。
 その作家、藤本義一と会ったことがある。という言い方は少し違うが、僕が出版社の編集者のときに彼の単行本を1冊作った。西宮市の家に足を運んだこともあった。
 編集したのは「巷の奇人たち」という本で、1978(昭和53)年発行だから、「11PM」司会の真っ只中の頃である。
 とても丁寧な対応で、いつも紳士的な人であった。おそらく、誰にでも変わらない対応であっただろう。大阪を愛した人だが、大阪人というより東京の粋人のような印象を与える人だった。
 本は、「事実は小説よりも奇なり!一つのことに憑かれた人間たち」と帯に書いたように、常識から逸脱した人間を描いたノンフィクション風小説である。
 この本で取り上げたように彼は、市井の有名ではないが個性豊かな人物たちを丁寧に掘り起こした。
 藤本義一は、人を愛し、酒を愛し、大阪を愛した。彼の旺盛な好奇心が、数多くの小説を生んだ。
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由紀さおりが歌う、1969年という時代

2012-03-05 02:29:26 | 人生は記憶
 由紀さおりが、アメリカのジャズオーケストラ、ピンク・マルティーニとジョイントして歌っている「1969」が全米をはじめ世界的にヒットしている、そういうニュースを昨年(20011年)の晩秋に聞いたとき、やっと世界が日本の歌謡曲をわかってくれたか、と思わず嬉しくなった。
 「1969」は、もともと童謡歌手だった彼女が「夜明けのスキャット」で歌謡曲デビューし大ヒットした年が1969(昭和44)年で、その前後の歌謡曲を中心に歌ったものだ。
 ピンク・マルティーニのリーダーであるトーマス・ローダーデールが、アメリカ・ポートランドのレコード店で、由紀さおりのデビューアルバム「夜明けのスキャット」を気まぐれに手にしたのが、扉を開いた第一歩だった。どんな歌が収められているかも知らず、5ドルで買ったこの中古レコードを、トーマスはその年の夏、ずっと繰り返し聴いていたという。
 出会いとはそういうものだ。
 そして、いくつかの曲折を経て、「1969」が世に出た。
 そこには、日本の歌謡曲、その全盛期のエスプリが収められた。
 僕も、今、1969年前後のレコード(CD)を繰り返し聴いている。

 1969年とは、どんな時代だったのか?
 燎原の火のように全国の大学に広がった全共闘運動が燃えあがる1968年の政治の季節が、東大安田講堂陥落に象徴されるように、燃え尽きたかのように一気に衰退へと向かった年でもあった。
 もちろん世相は、そのような政治の季節ばかりではなかった。いや、若者は政治の季節の終焉を自覚しつつも、どう世界と、簡単に言えばどう社会と、向き合っていいかわからずにいた年といっていい。あらゆるジャンルで、流れが大きく変わろうとしていた。
 華やぐ街、特に新宿には、反体制と退廃的な雰囲気を併せ持ったヒッピーやフーテンがたむろしていたし、アングラ(アンダーグラウンド)と称される芝居や映画が街の片隅や地下室で上演されていた。
 色彩はサイケデリックと呼ばれるPOPアートが氾濫し、男も派手な色彩に身を飾り始め、ピーコック革命などと呼ばれた。髪も肩に届くほどに長く伸び、指には彫金されたデザイン指輪が光った。
 それは、新しい時代の幕開けのようでもあり、終わりのようでもあった。

 *

 大学を卒業し出版社に身を置き、ファッション服飾誌の雑誌編集者として社会人をスタートさせた僕は、入社したての情熱は冷めて、中途半端な状況の自分とどう対処していいかわからずにいた。
 仕事が終わったあとは映画を見たり、新宿の雑踏を徘徊したりした。時に、同期入社のカメラマンと会社帰りに憂さを晴らしていた。
 仕事に、自分を見いだせないでいたのだ。今考えれば、青すぎると言おうか、独りよがりな考えだったと言わざるをえない。そもそも社会に出て、仕事に意義を見出そうとしたり、すぐに自分の好きなことができると期待するのが無理というものだ。

 それでも若さは僕だけでなく、時代そのものであったと言えよう。時代も若々しかったし、ファッションも新しい時代を迎えようとしていた。手作りのオーダーメイド、オートクチュールから既製服のプレタポルテに移ろうとしていたのだ。原宿や青山に、洋装店ならぬブティックが生まれていた。
 振り返れば、ファッション服飾雑誌は時代を映す仕事でもあった。仕事は最初は誰でもそうだが、先輩編集者のアシスタントである。毎月が、来たるべきファッション(流行)である洋服のデザイン依頼、撮影に日々明け暮れた。僕は、自分が何をやっているかわからずにいた。

 そんななか、最初に任された担当ページは忘れられない。わずかカラー3ページの繊維会社のタイアップで、前衛的なプリントの服を紹介するものだった。
 先輩編集者のサジェスチョンのなか、撮影場所は赤坂のディスコ「MUGEN ムゲン」、カメラマンは立木義浩。モデルは、真理アンヌ、山中真弓、我妻マリで、ページは完成した。
 「MUGEN」は、1968年赤坂にできた本格的ディスコのはしりであった。壁には、藤本晴美によって、アメリカ仕込みの最前衛のサイケデリックな照明が映し出されて、幻惑的な空間を作り出していた。
 
 また、服・ファッションの紹介という服飾雑誌の主流から外れた企画で、楽しみに出くわすこともあった。
 女性のファッションはスカート一辺倒から、1960年代後半にはパリ・オートクチュールのクレージュ、サンローランなどによって革新的なパンツ・ルックが市民権を得、日本でも裾の広いパンツであるパンタロンが流行の兆しを見せていた。
 それで、当時先端ともいえるパンタロン(パンツ)を愛用していて、それが似合うお洒落な芸能人に登場してもらい、その写真を撮ってインタビューするという、この本では異色の芸能企画だった。ミーハーでもある僕には、記憶に残る楽しい仕事となった。
 ちなみに、ミーハーとは、ミーちゃん、ハーちゃんを語源とする説があるが、当時は芸能雑誌の双璧である「明星」「平凡」からきた言葉だとも巷間言われた。

 この「わたしはパンタロン党」という企画で取材し登場してもらったのは、いずれも当時歌手としても活躍している、おしゃれな若い芸能人6人に絞った。
 15歳の時に「こまっちゃうナ」でデビューし、モデルとしても活躍していた山本リンダ。
 「虹色の湖」を大ヒットさせた中村晃子。
 「ゆうべの秘密」を大ヒットさせた小川知子。
 当時人気のマルチタレントであったシリア・ポール(のちにモコ・ビーバー・オリーブ3人組で「忘れたいのに」「海の底でうたう唄」などのヒット曲を出した)。
 「恋の呪文」などの歌謡曲も出した、エキゾチックなシャンソン歌手堀内美紀。
 西野バレエ団4人娘として歌って踊って活躍していた、「恋泥棒」の奈美悦子、である。
 みんなパンタロンがよく似合った。しかし、象徴的なピンキーとキラーズの今陽子が抜けていた。

 *

 時代は、「歌謡曲の季節」と言えた。
 時代も若く、歌の世界も若く、レコード会社にとらわれない才能あるフリーの作曲家や作詞家が数多く輩出した。
 作曲家では、いずみたく、すぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、村井邦彦、三木たかしなど。作詞家では、安井かずみ、岩谷時子、なかにし礼、山上路夫、橋本淳、阿久悠など。

 1968年のピンキーとキラーズの「恋の季節」(作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく)は、「政治の季節」の終焉を象徴するかのように、また、男のグループが席巻したGS(グループ・サウンズ)の殻を打ち破るかのようだった。まだあどけなさの残るヴォーカルの今陽子は、黒の山高帽にパンタロンで、髭をたくわえた男のメンバー・キラーズを従えて登場した
 そして、黛ジュンの革新的なポップ歌謡となった「恋のハレルヤ」(作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦)に続く和風アレンジの「夕月」、若くして実力派歌手であった伊東ゆかりの「恋のしずく」、女優よりも歌手としてブレイクした小川知子の「ゆうべの秘密」、歌謡ポップスの名曲、石田あゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(作詞:橋本淳、作曲:筒美京平)、と花のごとく出てきた女性ポップス歌手の路線は、1969年に流れ出ていた。

 翌年の1969年そうそう、由紀さおりの「夜明けのスキャット」(作詞:山上路夫、作曲:いずみたく)は、ワンコーラス目が歌詞のないハミングだけの画期的な歌だった。その短い歌詞の由紀の歌には透明感があった。
 小川知子は、「初恋のひと」(作詞:有馬三恵子、作曲:鈴木淳)を歌い、マスコミは劇的な死を遂げたレーサー福沢幸雄の死に歌のイメージをだぶらせた。
 1968年の政治の季節を残す歌としては、新谷のり子の「フランシーヌの場合は」があり、退廃的時代の雰囲気を持つ寺山修司作詞の「時には母のない子のように」をカルメン・マキが歌った。
 フォークソングのような千賀かほるの「真夜中のギター」、アン真理子の「悲しみは駆け足でやってくる」、森山良子の「禁じられた恋」、兼田みえ子の「私もあなたと泣いていい?」と多彩に、歌謡曲は広がっていった。
 そして、トーマス・ローダーデールがアルバム「1969」に入れることに執着したという、その年のレコード大賞のグランプリ、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」(作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく)は、曲にやるせない哀愁を浸みこませている。
 
 1968年から1969年へ。
 時代は、「政治の季節」の終焉、いわゆる青春の蹉跌によるほろ苦い退廃と、それでもやるせない希望「恋の季節」を内包していた。

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