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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

人生は記憶① 記憶のジャングルへ

2012-01-07 19:59:35 | 人生は記憶
 記憶とは、不思議なものだ。
 昨年3月11日の東日本大震災を期に、日本人になる決意をした日本文学研究者のドナルド・キーン氏(90歳)が、今年2012年1月1日の新聞(朝日新聞)に記憶について次のように述べている。
 「小さくなった人間が、人の体内に入り込む「ミクロの決死隊」という映画があったが、自分の頭の中に入り込み、生い茂る記憶のジャングルを歩けば、どんなに面白いだろう。些末な記憶なの堆積がひっくりかえったオモチャ箱のように散乱しているだろう」

 人がそれぞれ生きてきただけの時間の記憶が、過去として堆積しているとするならば、記憶の量は膨大なものになる。単純に時間に換算しても、20歳の人で約17万5千時間、60歳の人では約52万6千時間となる。人の最初の記憶が始まるとする3歳ないし5歳から起算したとしても相当な時間量となる。
 その記憶は、年表のように年代順に整理されていればいいのだが、そうではない。あるいは、ジャンル分けされているわけでもない。きわめてアトランダムなのだ。
 記憶から取り出した具象は、どれが先でどれが後だったかは、あとで、つまり思い出したそのとき、確認・検証しないといけない。その取り出した記憶の具象には、タグやシールが貼ってあるわけではないのだ。
 だから、整理学の本が売れるわけだ。

 記憶は、ビデオやDVDのように映像だけなのか。いや、音楽や、匂いや味覚で甦る記憶もある。とすれば、記憶は僕たちが現在体感するすべてを内包しているものなのか。
 また、記憶を巻き戻してと言うが、過去をどう振り返っても、ビデオやDVDのように、記憶は巻き戻るのではない。常に取り出した記憶は基点から現在の方向に進み、つまり時間の経過のように進み、現在に近い方から遠い方にと逆進行はしない。
 ということは、どうやっても時間を巻き戻すことができないということではなかろうか。ということは、タイムマシンは人間の想像以上のものではないと言えるのではなかろうか。たとえ、ニュートリノやそれ以外の物質が光より速いとしても。
 いや、このことを根拠に、物理学の専門家でもない私がそんなことを断定できはしないが。

 このどこに何があるかも分からず、整理不可能な記憶をジャングルにたとえるなら、それこそ生い茂る密林だろう。
 しかし、残念なことに、その生い茂るジャングルの中から引き出すことができる記憶は、わずかなものでしかない。大半は思い出そうと思っても、甦らせることはできない。
 そのジャングルそのものが次第に枯れ果てて、徐々に失われているかもしれないのだ。実際のジャングルの木々が失われれば、そこに何が残るか。砂漠である。
 記憶のジャングルが失われれば……

 さらに、キーン氏は続ける。
 「記憶とは不思議なものだ。歳をとるにしたがい、先ほどの出来事、昨日の出来事が次々と頭から消えていく。なのに思いがけないひと時に、過ぎた日の断面が突然、甦る。
 そんなことは誰にでもあるだろう。ある出来事を経験した時、それが数十年後に別の抒情詩となって戻ってくるとは、人々は日々の行いの中で予想できないからだ」

 ここに言われているように、記憶は実は少し違った姿で甦るようだ。
 そのときの思いで、記憶の具象は、美しく着飾ったり、悲しみに彩られたり。あるいは、別の物語に脚色されたりするのだろうか。

 「思い出は再構成であって、再現の過程ではない。
 過去に体験したある出来事を思い出すとき、われわれは脳に分散されている符号化された構成要素を再構成する。想起が、もともとの出来事の複製のようなものであることはほとんどない」(「子どもの頃の思い出は本物か」カール・サバー著)

 私たちは、自分の記憶を本当のことだと、つまりそれが真実だと、信じ、思い込んでいる。しかし、思い起こすたびにその思い出の記憶は再構成されて、少しずつ変形した姿となっているようなのだ。
 思い出の記憶は、ビデオやDVDのように、再現のそのままの姿ではない。言い換えれば、記憶はその都度、いわば「上書き保存」されているのである。
 思い出は、作り変えられているのだろうか。

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「東京タワー」と「東京」

2006-11-19 01:56:53 | 人生は記憶
 リリー・フランキー著の『東京タワー』がテレビドラマ化された。僕は、まだこの本がこんなに評判になる前、本屋で手に取ってすぐにいい本だと直感した。そして、立ち上げたばかりのこのブログに書き綴った。去年の夏だった。
 <05年8月30日「東京タワー」ブログ参照>。
 初版2万部のこの本は、じわじわと人気が広がり、予想を遥かに超える200万部突破というメガヒットとなった。そして、満を期してのドラマ化だ。通常、活字を超える映像はなかなかないものだ。文章の持つ想像力と行間に漂う吐息を映像で伝えるのは、難しいからだ。
 しかし、主人公の大泉洋、オカンの田中裕子、オトンの蟹江敬三はそれぞれいい味が出ていた。友人の佐藤隆太もいい。このドラマは、本にはない広末涼子を出現させるなど、『東京タワー』のエッセンスを抽出していた。
 この本をドラマ化しようとして、思い半ばで急逝した久世光彦が撮ったらどのような内容になっただろうかと思った。僕は、久世の湿った映像が好きだった。

 ここで書こうとしているのは、ドラマのことではない。このドラマの中で、沖縄出身のBIGINによって歌われていた「東京」という歌である。
 もともと、フォークブームの最中の1974年、秋田出身のマイペースという3人組が歌ったこの曲は、当時の東京をよく表わしていた。

 1970年に雑誌「an・an」(アンアン)が創刊され、翌71年「non・no」(ノンノ)が次いだ。この頃から、日本の若者の風俗は急変したと言っていい。その推進役をこの2誌が担ったのだった。
 最も変わったのはファッションだったが、それと付随して都市、つまり街が紹介された。それは旅という形で表現された。東京、大阪などの都会をはじめ、京都や地方の金沢、倉敷、津和野などが小京都としてリニューアルされ、一気に日本の都市が身近なものとなった。
 毎月(月2回刊)のように、都市、特に東京の街のファッション風俗から雑貨屋などのお店までの情報が掲載された。若者は、地方にいながらにして、都会の情報が知り得るようになった。そして、東京の街中を、アンアン、ノンノを片手に歩く若者を見るようになった。
 そんな時に流れたのが、「東京へは、もう何度も行きましたね…」と歌うマイペースの「東京」だった。地方から見た東京は、すでに旅行で行くところではなく、恋人の住む街へしばしば会いに行くという、身近な存在になっていた。

 といってもまだ憧れの残滓は残っていて、最後のリフレンで繰り返し歌われている、君の住む「美し都」であり「花の都」でもあった。
 当時、僕はこの東京に対する形容詞が、何とも大時代的だと思って、面はゆい感じがしたものだ。それは、戦前に流行った藤山一郎の「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)の「楽し都、恋の都、夢のパラダイスよ、花の東京」を想起させたからだ。
 この宝塚が歌うような、「花の都」や「恋の都」は、元来、巴里(パリ)に形容されたものであろう。それが、流れ流れて、極東の東京までやって来た。

 パリにしろ東京にしろ、都会は、いつの時代でも夢をはぐくんできた。しかし、それは蜃気楼のように実態のないものである。多くは、掴みそこねて、また故郷へ帰っていくか、都会で燻って埋没していくしかない。七色の虹は、シャボン玉のように儚く消えてしまうのだ。
 それでも、東京は何かある。そう思って、僕はずっと東京を離れられないでいる。泥まみれであれ、枯れ果てようとしていれ、何せ、腐っても「花の都」なのである。浅はかで、偽りに充ちた「恋の都」なのである。
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