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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

遠くまで行くんだ…「60年代ポップ少年」

2017-03-16 01:33:50 | 人生は記憶
 1960年代は、多感な季節であった。
 唐牛健太郎委員長の全学連に象徴される「安保闘争」は、1960年に終焉を迎えた。
 「60年安保」の敗北のあと、学生運動は1960年代後半、セクト主義に分裂しながらも熱は冷めやらぬ政治の季節を迎えていた。
 それは、1968年のフランス・パリ5月革命やサルトルの実存主義の唱道、アメリカの反戦運動と呼応したようなカウンターカルチャーのヒッピー文化、各国に広がったベトナム戦争反対運動などに見られるように、体制に抵抗する世界的状況だった。

 亀和田武著の「60年代ポップ少年」は、小学館のPR誌「本の窓」で連載しているときから面白く読んでいたが、改めて単行本を読んだ。自分と重なる部分も多く、記憶の底に横たわっていたいくつものことを思い出させた。

 亀和田は中・高校時代、アメリカン・ポップスのファンで、当時日本中の若者がビートルズに熱中していたという説に異論を唱えている。当時の同級生が同窓会などで、ビートルズへの熱狂を語ったりすることに、「オマエ、嘘をいっちゃいけないよ。オマエが休み時間に毎日、楽しそうに歌っていたのは、三田明の「美しい十代」と、舟木一夫の「高校三年生」じゃないか」と、思い出の捏造を冷笑している。
 東京の高校に通っていた亀和田にしてそう思わせているのだから、僕の通っていた佐賀の田舎の高校では、ビートルズが出てきたときには、ほとんど大きな話題にはならなかった。僕も、「抱きしめたいI want to hold your hand」などは、うるさい音楽だなあと思ったくらいだ。
 彼らよりベンチャーズの方が人気があり、「ダイヤモンドヘッド」や「パイプライン」のテケテケのピッキング奏法を真似したものである。このことは全国的な風潮だったように思う。
 そして、やはり多くの者は舟木一夫や西郷輝彦の歌を口ずさんでいたものだ。
 やがて、すぐさまビートルズは日本の音楽業界の中で咀嚼されて、日本風にアレンジされたグループ・サウンズ(GS)のブームの出現となる。

 ビートルズが今のように伝説のグループになったのは、日本においては、日本のミュージシャンたちが、好きなミュージシャンもしくは影響を受けたミュージシャンは誰ですか? と訊かれたことに、ことごとく、ビートルズですと言い出したからだろうと思っている。
 やはりビートルズだよな、と誰もが言い出した。ビートルズと言っていれば間違いない、誰からも不満も揚げ足もとられないという、いわば模範解答になってしまった。
 かくして、実力もさることながら、いつの間にかビートルズは音楽上の不可侵領域になってしまった。
 まるで野球好きの少年が、ON(王、長島)です、と言うように。漫画家志望の人間が、手塚治虫です、と言うのもしかり。
 こういう画一的な答えや反応はあまり面白くない。好きなミュージシャンはビートルズですと言われると、ああ、あなたもそうですか、で終わってしまう。もっと個性が表われる返答はないものかと思うのだが。

 *

 亀和田武はポップ少年であると同時に、ジャズやSFファンでもあった。
 1960年代後半、新宿にはフーテンやヒッピーといった人たちがたむろしていた。亀和田少年は好奇心旺盛で活動的だ。渋谷や新宿の街を徘徊する。
 今はない、いくつかのジャズ喫茶の他に、新宿の「風月堂」や「青蛾」など、懐かしい喫茶店が本書に出てくる。特に個人的に忘れられないのは、歌舞伎町にあったヨーロッパの中世の城のような喫茶店「王城」である。

 僕は大学1年の冬、この「王城」と系列店であった新宿東口にできたばかりの喫茶店「西武」で、ボーイ(ウェイター)のアルバイトをした。
 当時の喫茶店「西武」のビルは、1階がパチンコ「メトロ」で、2~3階が喫茶「西武」、4階が同伴喫茶となっていて、その上がキャバレー「メトロ」だったと記憶している。
 4階の同伴喫茶は2、3階に比べて照明が暗く、2人が並んで座るようになっていて、前後のボックスとの間には衝立があり、お互いの客は見えないようになっていた。しかし通路側には衝立がないので、横の客の動作は見ようと思えば見えた。
 2階の喫茶に入ってきた若いカップル(当時はアベックと言っていた)には、僕らボーイはなるだけ上の階の同伴喫茶に行くように誘導した。同伴の階は、値段も割高だった。
 4階まで行って、その薄暗く妖しげな雰囲気に戸惑ってかすぐに3階に戻ってくる客もいたが、この同伴階に来て、何もしないでコーヒーだけ飲んで帰るカップルは少なかったと思う。間違って、あるいは知らないで誘導されるがままに入って、あとで心の中で店に感謝した気の小さい男もいたに違いない。
 今は、「王城」は喫茶店ではなくなってしまったが、東口にある「西武」はまだ健在だ。
 僕はそこでのアルバイトのお金で、その冬、初めての背広(スーツ)を買った。それまでは高校の時からの学生服で通していたのだ。

 *

 今まで亀和田武の著作を読んでいなかったので知らなかったのだが、「60年代ポップ少年」を読んで、彼が学生運動をやっていたということを知った。
 当時は大学に入学すれば、学生運動の洗礼を受けた者も少なくなかったが、彼は浪人の予備校時代からの活動という筋金入りというのも、失礼だが予想外だった。ヘルメットをかぶり、デモにも積極的に参加する、軽いポップ少年だけではなかったのだ。
 そして、デモで知りあった美少女の闘士と恋人となる。「ヘルメットをかぶった君に会いたい」の鴻上尚史に、どうだいといった顔をしているようだ。
 しかし、亀和田が付きあった白いヘルメットをかぶった少女はまだ高校生で、セクトは中核派であった。
 そんななか、彼は「青春の墓標」に強い衝撃を受ける。学生運動の最中、自殺した横浜市大の奥浩平の遺稿集である。当時、奥浩平も中核派に属し、恋人は対立するセクトに属していた。
 亀和田は書いている。「愛と革命に生き、そして死んだ学生活動家がいたことは、私を驚かせた」と。
 僕も、「青春の墓標」に衝撃を受けた一人だった。
 そのことは、このブログで、「恋と革命と死、「青春の墓標」」(2015.8.8)に書いている。

 そして、本書に「遠くまで行くんだ……」という小雑誌が紹介されたことも驚いた。普通の書店には置いてないマイナーな雑誌で、知る人ぞ知る本だったからだ。
 「遠くまで行くんだ…」。その感傷的な響きに、僕は吉本隆明の詩を読んでいなくとも、心震わせた。その薄い小雑誌を当時、僕も何冊か手にしたが、もう遠くのことだ。
 亀和田はその本を何冊かまだ保存しているというのも稀有だし、その本に連載していた新木正人の「更級日記の少女―日本浪漫派批評序説」を懐かしく想い起しているのに二重に驚いた。僕は新木正人がどういう内容を書いていたかはもうすっかり忘れているが、僕の大脳皮質の奥に長い間眠っていた名前だ。

 亀和田武の1960年代は、軽いだけではない。かといって重くもなっていない。生き生きとした当時の熱気ある息吹が伝わってきて爽やかだ。
 本書には、予備校時代に知りあう「香港 旅の雑学ノート」の山口文憲や、大学時代の学生運動の繋がりで笠井潔が出てくるのも、人物の一端を知るうえで興味深い。笠井のデビュー作となった「バイバイ、エンジェル」を読んだとき、その早熟した才能に嫉妬したぐらいだ。
 1960年代の本は、学生運動を含めて何人かが書いているが、亀和田武の本は時代を論評することなくあくまでも私的に、しかもディテールにこだわって書いているのがいい。彼の思考と行動の守備範囲の広さもあって、新鮮な気持ちになった。

 *

 遠くなった、ポップ音楽や青春歌謡、学生運動、恋と喪失……
 感傷ではない。どれもが青春のイニシエーション(通過儀礼)のように思える。
 遠くまで行くんだ……

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石坂敬一がいた時代② 目指したのは格好いい耽美派

2017-02-16 02:54:09 | 人生は記憶
 昨年(2016年)12月31日に亡くなった石坂敬一のお別れの会が2月8日、東京・青山葬儀所で行われた。
 親族・親近者だけで営まれた1月9日の通夜、10日の告別式に続いて、お別れの会にも僕は出席した。
 「石坂敬一さんお別れの会」の看板が立てられた外苑東通りに面した青山葬儀所の門を入ると、構内にはすでに多く参列者が並んでいた。
 元東芝EMI時代にビートルズの担当ディレクターで、ユニバーサルミュージックおよびワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長兼CEDなどを歴任し、日本レコード協会会長を務めた経歴を見れば、芸能人を上回る参列者であっても不思議ではない。
 受付けを終え過ぎたところで、カメラマンが連なって待ち構えていた。芸能人の葬儀がテレビなどで映し出される光景は、これなのかと思った。
 式場の正面の祭壇には、丸いレコード盤の中に納まった石坂の遺影が花に囲まれ飾られていた。アナログレコードを愛した彼に似合っていると思った。
 式場の横サイドには、献花者の名前を書いた札が数多く並べられている。音楽業界のトップを走っていたので、業界の会社や歌手・芸能人の名も数多い。
 音楽評論家の湯川れい子、富澤一誠に続いて、歌手の長淵剛が弔辞を読みあげるとともに、自身の楽曲「12色のクレパス」を歌唱した。
 式の最後に、各々お別れの白いカーネーションを1本ずつ献花して式場をあとにした。
 僕はこのようなお別れの会に参列したのは初めてだが、のちのメディアの発表を見たら2300人の参列とあった。

 *

 1960年代の終わりから1970年代、音楽業界を象徴するレコード業界は活気に充ちていた。
 戦前から日本の歌謡曲をリードしてきた日本コロムビア、日本ビクター、ポリドール、さらにキング、テイチクなどのレコード会社がしのぎを削っていた。
 この時期、コロムビアは名実ともに業界の覇者といえた。戦前からの藤山一郎はじめ、美空ひばり、島倉千代子、小林旭(のちクラウンの創設時に移籍)、村田英雄、守屋浩、さらに青春歌謡の顔ともなった舟木一夫など 錚々たる歌手と専属作詞、作曲家をそろえていた。
 ビクターは作曲家吉田正に象徴されるようにフランク永井、和田弘とマヒナスターズなどのムード歌謡や、橋幸夫をはじめとする青春歌謡の歌手、ヒット曲を輩出させていた。
 そんななか、海外の大手レコード会社の一つイギリスのEMIグループと日本の東芝による東芝音楽工業が発足したのは1960年だった。さらに、1968年にはCBSソニーが参入した。
 当時、日本のレコード業界も邦楽に頼るだけでなく、洋楽も大きな市場となっていた。
 東芝音楽工業はレコード会社としては後発であったが、坂本九、植木等、加山雄三、黛ジュン、小川知子など邦楽でも好調なうえに、何といっても世界の音楽業界を席巻した洋楽のザ・ビートルズの存在が大きいと言っていい。ほかにピンク・フロイド、エルトン・ジョン、デビッド・ボウイなど大物ミュージシャンが揃っていて、勢いがあった。
 その頃、日本の歌謡曲は全盛期を迎えていたし、アメリカ、イギリスのポップスやロックも波のように押し寄せていた。

 *

 1973年、東京・溜池にあった東芝音楽工業は東芝EMIと社名を変え、CBSソニーが僕が勤めていた出版社の近くの東京・市ヶ谷に移ってきた。
 石坂敬一に会ったのは、その直後の頃だった。
 その時の様子は、このブログの「石坂敬一の「出世の流儀」」(2011.12.9)で書いているので、一部抜粋したい。

 石坂敬一に初めて会ったのは1974年の秋だった。
 2人ともまだ20代で、若かった。
 その頃、僕は初めてのパリへの旅から帰るとすぐに、その年の冬創刊されるメンズ・マガジンの編集者として、どのような雑誌にするか五里霧中のなかアンテナを張り、奔走していた。映画や音楽も僕の担当であった。
 日本の歌謡界では、ソロ歌手となった沢田研二が時代の旗手として羽ばたこうとしていたし、それを追うかのように新御三家(西城秀樹、野口五郎、郷ひろみ)がヒット曲を競い、花の中三トリオ(山口百恵、桜田淳子、森昌子)が高一トリオと進級・成長を見せ、歌謡番組、テレビ各局による歌謡祭は賑やかだった。
 映画「アメリカン・グラフィティ」が上映されていて、「カモメのジョナサン」がベストセラーとなっていた。ユリ・ゲラーが前年末もたらしたスプーン曲げのオカルト・ブームは続いており、宝塚による「ベルサイユのばら」の公演が始まったのもこの年だった。

 そんなとき石坂敬一から電話があり、市ヶ谷にあった会社に彼が現れた。
 会社のロビーで会った彼は、靴の先まで覆いかぶさるような裾の広いベルボトムのパンタロンに、高いヒールのロンドンブーツをはいていて、ロックシンガーのようであった。
 髪は、僕もその当時そうであったが、少しウェーブをかけた風になびくような長髪であった。
 「東芝EMIの石坂です」と、彼は静かに丁寧に名乗った。
 そのとき彼は東芝EMIの洋楽のディレクターで、ビートルズやピンク・フロイドなど有名なアーティストを担当していて、すでに業界では名が知れていた。
 僕がやろうとしている雑誌はまだ発刊されていなかったが、新しいアルバムをプロモーションとして持ってきたのだった。情報も早いし行動も早いと、僕は内心この男が石坂かと感じ入っていた。実際、まだ生まれてもいない雑誌の出版前にプロモーションに来るレコード会社の人間は少なかった。

 石坂敬一は、僕に1枚のレコード・アルバムを差し出した。それは、ロッカーが狂気のような目で宙を見上げている、まるで宗教画のようなジャケット表紙のコック二ー・レベルのアルバムだった。
 原題は「The Psychomodo」とあり、プレスリリースには「さかしま」とあった。
 彼はアルバムを見ながら、「いいタイトルでしょう」と、少し嬉しさを抑えるような人懐こい声で言った。
 僕は、内心小さな驚きを覚えた。
 というのは、僕はその新雑誌を担当する前は書籍の編集部にいた。そのとき、早稲田大でフランス語を教えていた田辺貞之助先生のところに原稿を受け取りに行った際、先生の訳したユイスマンスの本を頂き、それによって「さかしま」という本を知ったばかりだったからだ。
 彼はさりげなく「ユイスマンスだよね」と、ユイスマンスに由来したタイトルだよねといったニュアンスで言って、何だか愛おしそうにそのタイトルの入ったアルバムを見た。このロックシンガーとフランスの耽美派作家の結びつきに僕は驚いたのだ。
 僕は、レコード会社の人間でユイスマンスの話をする人間に会うとは思わなかった。
 彼と僕の話は、それで充分だった。
 それ以来、同学年ということもあってか、僕たちは旧知の間柄のような、仕事とプライベートのミックスした友人関係となった。六本木のパブ・カーディナルなどでしばしば会って、ビールを飲みながら語った。ときには、ノブこと吉成伸幸も一緒の時もあった。

 仕事の関係がなくなった後も、最近どうしている? と言って、時々酒を酌み交わした。
 石坂敬一はエネルギッシュだったし、いつも業界の同世代というより同時代のといってもいいが、先頭を走っていた。しかし、会うときは、そんなところはおくびにも出さず、いつも穏やかでにこやかだった。“息を切らしながら一生懸命”というのとは無縁でやってのけるというのが、彼の彼らしい流儀だった。
 つまり、汗をかいたのを見せることはなかったし、飲んでも酔いつぶれることもなかった。

 彼は仕事でもプライベートでも次々にスケジュールを決め、手帳の日程を埋めていったが、やりたいこと、やらねばならないことで、「忙しい」を理由にそれらを躊躇、断念することはなかった。
 「今度会おう」という誘いでも、彼はどこからか時間を捻出した。忙しい人間なのに、「忙しい」というセリフは吐かなかった。
 時間は自分で作り出すものなのだ、という理念を実践しているかのようであった。

 そして、人生を走り切ったかのように、石坂敬一は急にいなくなってしまった。
 格好悪いところは見せたくない、とでもいうように。


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石坂敬一がいた時代① 突然の別れ

2017-01-29 02:12:45 | 人生は記憶
 去年(2016年)の暮れの12月21日に石坂敬一氏より電話があり、翌22日の電話で久しぶりに会おうよということになった。それで、12月29日に、以前、彼と彼の奥さんとの3人で食事したことのある、麻布十番の和食屋で会うことにした。
 電話で、共通の友人のノブこと吉成伸幸氏も呼ぼうということになり、久しぶりに3人が顔をそろえることになった。(このあと、文中敬称略)

 *

 僕が出版社に勤めていたころ、男性雑誌の編集者時代にレコード会社東芝EMIの石坂敬一と知りあい、その縁で同じ音楽業界にいた吉成伸幸とも知りあった。
 その頃、石坂敬一はビートルズやピンク・フロイドなどの人気ロックバンドの担当ディレクターだった。
 僕らがノブと呼んでいた吉成伸幸は、サンフランシスコ留学後、当時音楽出版社に籍を置きながらビートルズなどの訳詞や音楽評論などもやっていた。
 初めて会った時からこの2人とは気が合い、僕らはしばしば会って、話したり飲んだりした。3人で会うときもあったし、別々に2人で会うときもあった。
 僕が雑誌から離れて仕事での接触がなくなったあとも、2人とは時々会って近況を語りあったり飲んだりして関係は続いた。
 ふり返れば、お互い知りあってから40年の月日が流れていた。

 *

 12月29日夜、会うことになっている麻布の料理屋に、予定の時間になっても石坂敬一の姿はなかった。
 どうしたことかと電話したところ、待ち合わせの時間を間違えていたとのことで、時間に遅れることのない石坂にしては珍しいことだった。それに、最近病気を抱えていたと聞いていたので、席で待っていた僕と吉成伸幸は心配したのだった。
 脚がおぼつかなくなっていた石坂は、杖を突きながらもしっかりと歩いてやってきた。
 僕らは久しぶりの3人での会合を祝い、いく種類かの肴と日本酒を熱燗で頼んだ。日本酒を飲むのは珍しかったが、和食にはこれでいい。
 僕らは、いつものように、とりとめもなくいろんなことを話した。ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランや様変わりした近年の音楽のことなども話した。
 僕が、音楽業界では充分やり尽したんじゃないの? と石坂に問うと、日本のロッカーを世界に送り出すことが心残りだ、そのための準備は周到にやっていたのにと、彼は答えた。
 自分の思い描いた領域まで行かなかったことへの口惜しさと、やるべきことはやったという矜持を言葉に滲ませた。
 音楽業界を牽引してきた彼のことだ、誰よりもやったと思う。
 
 事実、石坂敬一は自分流のやり方で音楽業界を突進していった。若いときから、誰にもできないやり方で、彼はやり通してきた。彼の後ろ姿を見て、彼に追いつこうと、あるいは追い抜こうと走る者もいたが、彼はいつも平然と先にいた。
 僕は、ある種の天才だと思って見ていた。
 
 ほどほど飲んだところで、最後に店の名物であるソバかうどんを食べて、切り上げることにした。石坂は、僕はいいやと言ってソバは頼まなかった。
 お互い、酒量は若いときほどはないが、旨い酒だった。
 僕らは、また会おうと言って別れた。

 *

 翌々日の12月31日の午後、吉成伸幸から電話が入った。
 それは、石坂敬一が亡くなったという思いもよらない知らせだった。30日の夜倒れて、31日の朝死亡したとのことだった。
 何ということだ。言葉が出なかった。
 家人によると、30日は外へは出かけていないというので、29日に飲んだ僕らが最後の宴席となったことになる。

 *

 2017年1月1日、朝日新聞には次のような死亡記事が載った。
 「石坂敬一さん(元社団法人日本レコード協会会長、オリコン社外取締役)31日死去、71歳。葬儀の日取りは未定。
 東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)時代にビートルズ担当ディレクターを務め、ユニバーサルミュージック代表取締役会長兼最高経営責任者(CED)、ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長兼CEDなどを歴任した。」

 *

 1月9日、港区高輪の高野山東京別院にて親族・近親者による、石坂敬一の通夜が行われた。
 その夜、寺院の上には大きな月が輝いていた。
 翌1月10日、同高野山東京別院にて告別式が行われた。
 僕も吉成伸幸も両方出席した。

 お別れの会は、後日2月8日、青山葬儀所にて行われる。

 *

 あれは、石坂敬一がユニバーサルミュージックの代表取締役を実質的に辞めるといった頃のことである。
 辞めた後どうするの? と訊くと、船で世界一周でもしようかな、と本気なのかどうかわからない顔で言ったことがあった。
 僕は、それは君らしくないね、君は倒れるまでビジネスに関わっているのが本分だと思うが、と言ったら、彼は黙って笑っていた。
 普通のサラリーマンのように仕事をリタイアした後、気休めに海外旅行で世界遺産を周る老後なんて彼らしくないと思ったのだ。
 案の定そのあとすぐに、ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長になったので、周りを驚かせた。

 そして、石坂敬一がワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長の職を辞し、実務から本格的に離れたときだから2年ぐらい前の頃である。
 彼は、ピアノをやろうと思っているんだ、と言った。それは、唐突のようにも思えたし、前から温めていたことのようにも思われた。
 生活のほとんどをビジネスに取り込んで生きてきた彼が、仕事から離れた後どうするのかと思っていた僕はその言葉を聞いて、何となく彼の人間的な側面を浮かびあがらせたようで、ほのぼのとした気持ちになった。
 そして彼は、ショパンの幻想即興曲を弾くんだと、今まで見せたことのないような無邪気な笑顔で付け加えた。
 それからすぐに、僕は新聞広告で「ショパンを弾く哲学者」というタイトルの本を見つけたので、彼にこのタイトルを何の説明も加えずにメールで書き送った。
 すると、僕のことではないよね、どうとりゃいいの、と返事のメールがきた。
 電話で、サルトルやニーチェ、ロラン・バルトもショパンを弾いていたらしいよ、と僕が言うと、彼はどうにも腑に落ちないという声で、(こんなメールをよこすなんて)君は変わっているねと言った。僕は僕なんだ、サルトルでもニーチェでもないと言いたかったのかもしれない。
 その後、ピアノはどう? と訊くと、うん、やっているよと、さりげなく答えるだけだった。
 しかし、あとで聞いたのだが、彼はものすごく熱心にピアノの練習に励んでいた。もう体力的に大変だからやめましょうと言うまで集中してやっていた、と彼にピアノを教えていた知人は教えてくれた。
 彼のことだ、人並み外れた熱中力でピアノに向かっていたのだと思う。そして、さらりとショパンを弾く姿を見せたかったのかもしれない。あくまでも格好よく。
 
 2016年の最末日、石坂敬一は脱兎のごとく人生を走り切った。もう、誰も追い着くことはできない。

 彼のショパンを聴くことも、決して叶わなくなった。

 *

 うつし世は はかなきことと 知りせども
       楽しきことも 哀しく染むとは
                    沖宿

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遠くから見ていた、「日本国憲法」

2015-09-16 01:49:23 | 人生は記憶

 *Ⅰ

 昭和30年代、日本は「もはや戦後ではない」という時代の波に乗って、高度経済成長の途上にあった。
 今では過疎にさらされている僕の住んでいた九州・佐賀の片田舎の町も、炭鉱の町として活気に満ちていた。街中の商店街はいつも多くの人で賑わっていたし、何より僕たち少年は元気いっぱいだった。
 昭和30年代も半ばになると、石炭から石油へのエネルギー転換政策のため、石炭業界は不況による合理化が進められ、わが町にもその波は押し寄せていた。町で行われている鉢巻をまいた大人たちのデモの行進を、僕らは祭りでも見るかのように眺めていた。
 その頃、祖父や祖母の住んでいる大牟田では、当時最大規模の三井三池炭鉱の争議が起こり、そこでのデモは大々的に新聞やテレビで報じられていた。
 1960(昭和35)年の日米安保条約改定反対闘争の反対デモも、九州の片田舎に住む少年にとっては新聞やテレビの中の出来事だった。

 テレビやラジオの歌番組からは、「デモはデモでもあの子のデモは、とても歯がゆいじれったい…」と歌う守屋浩の「有難や節」(詞・曲、浜口庫之助)が流れていた。
 今考えれば、当時デモは連日ニュースを賑わしていて、歌にも歌われるように一般的だったのだろう。
 その歌詞は、「早く一緒になろうと言えば、でもでもでもと言うばかり」と続くのだった。その「早く一緒になろう」という箇所で、僕はいつも立ち止まり意味の中身を考えてしまうのだった。
 守屋はその前年、「僕の恋人、東京へ行っちっち、僕の気持ちを知りながら…」と、恋人が去って行ってしまった男の嘆きを、「僕は泣いちっち」(詞・曲、浜口庫之助)で歌っていた。
 男は女に、再三「早く一緒になろう」と言っていたにもかかわらず、女は「でも、でも、でも」と曖昧な返事ではっきりとOKを出さないまま、気がつけば田舎の町から東京へ行ってしまったのだ。この2曲に歌われた男と女の成りゆきが逆なのは、後の曲が去って行った女を男が回顧した歌だからだ、と考えた。
 それにしても、何度聴いても、男が言う「一緒になろう」が気になっていた。当時の一般的な意味では「結婚しよう」だろうが、まだ時代的には早すぎる「同棲しよう」の意味も含まれるだろう。さらに狭めれば、もっと即物的な解釈すらできる。
 この「一緒になろう」のニュアンスは素っ気ない表現なのに、内容は率直で、微妙で、曖昧で、複雑で、エロチックだ。

 *Ⅱ

 中学も3学期になると、社会科の歴史は現代に入る。
 1945(昭和20)年の第二次世界大戦におけるわが国の敗戦と、その後の民主主義の時代へと教科書は進む。
 荒廃したなかから社会は少しずつ復興し、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発を契機に警察予備隊が創設され、その後自衛隊発足へと繋がった。佐世保に近い僕らの町にも国道に自衛隊の軍用車が走っているのをたびたび目にするのだった。
 中学の社会科の授業で、初めて日本国憲法を知ることになった。そこで、日本は平和憲法で軍隊を持たないと書いてあると教師は言った。
 教師がそう言って教室に少し静かな間が空いたあと、一人の生徒が質問した。
 「先生、自衛隊は軍隊じゃなかとですか」
 今でいえば荒っぽい暴力教師といわれるかもしれないが、人情味があって人気もあるがっしりした体躯の教師は、「いい質問だ」あるいは「その質問を待っていた」と言わんばかりに、少しにやりと笑ったように見えた。
 「僕は軍隊と思うんですけど」と、質問した生徒は付け加えた。
 教師は少し上の方を見ながら、誰に言うでもなく独り言のように、「今の自衛隊が軍隊か軍隊じゃないか、オレは言わん。みんな、一人ひとりが考えろ」こう言った。
 僕は、先生が何というか期待していたのだが、少し肩すかしを食ったような気分になった。憲法の話はそれ以上深い話にはならなかった。誰も他に質問するものもいなかった。僕らの知識がまだそれを満たすほどには至っていなかったのだ。
 質問した生徒は、その年中学を卒業すると、当時通称少年自衛隊と呼んでいた自衛隊に入った。彼は、「自衛隊に入りながら高校も行けるんだ」と胸を張って話した。
 その年、都会に集団就職で田舎を発つクラスメートを何人か見送った。

 憲法は、大きくてまだ見ぬ富士山のようだと感じた。

 *Ⅲ

 成人式を、僕は田舎から上京していて、当時住んでいた東京新宿区の高田馬場で迎えた。
 大学は政治の季節で、キャンパスには熱い空気が流れていた。まだ自分が何を求めてどう生きていけばいいかもわからないでいた僕は、人生が始まったばかりのように感じていて、移ろいゆく夢の中にいた。デモにも行った。
 たった一人で過ぎていった成人式の日は、何事も起こらなかったので、僕はいくつか歌(短歌)をつくって、ノートに記した。
 成人式の日、新宿区から1通の封書が届いた。中には、成人式を迎えたお祝いの言葉と、綴じた四角い小さな書が入っていた。表紙に「日本国憲法」とあった。ぱらぱらとめくってみて、意外と憲法は短いのだなと思った。
 憲法は、改めてあれこれ考えるものではなく、漠然とであるが当然「ある」(存在する)ものであった。

 *Ⅳ

 2015年暑い夏、その季節も過ぎようとしている頃、このところ政府が提案する安全保障関連法案を巡って国会および社会が熱い。憲法に関する争議になっている。
 この際、細微はすっかり忘却の彼方に行っている、いや読んだことさえおぼろげな憲法をちゃんと読んでみることにした。
 図書館で、「日本国憲法」のほか、戦前の「大日本帝国憲法」も収載している「現代語訳 日本国憲法」(伊藤真訳、ちくま新書)を手に取る。
 いろいろな解釈は先入観になるので、まず原文だけを読んだ。
 文章は堅く回りくどいところもあるが、それが言わんとするところは簡素で明白ある。

 「日本国憲法」

 前文に続き、11章、103条からなる。
 「前文」で、日本が国際社会における平和国家としてあるべき姿の理想が謳われている。「日本国憲法」の出だしは以下の通りである。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 

 第1章は「天皇」(1-8条)で、第1条は、有名な〔天皇の地位と主権在民〕である。
 <第1条> 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 第2章に「戦争の放棄」(9条)が続く。平和憲法の争点となっている〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕の第9条は以下の通りである。
 <第9条> 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 第3章「国民の権利及び義務」(10-40条)、第4章「国会」(41-64条)、第5章「内閣」(65-75条)、第6章「司法」(76-82条)、第7章「財政」(83-91条)、第8章「地方自治」(92-95条)と続く。

 憲法を改正するための手続きは、第9章「改正」(96条)で、第96条に〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕として書かれている。
 <第96条> この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
 2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 最終章の前の、第10章に「最高法規」(97-99条)として、第97条〔基本的人権の由来特質〕、第98条〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕、第99条〔憲法尊重擁護の義務〕が謳われている。
 <第97条> この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 <第98条> この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
 2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
 <第99条> 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 最後の第11章は、「補則」(100-103条)である。
 ※各条の内容見出し文〔 〕は、「現行法規総覧」(衆議院法制局・参議院法制局共編、第一法規出版)に従っている。

 憲法は理想に燃えている。新しく生まれ変わった戦後の日本の進むべき道を、太陽のように照らしてきたのだ。

 *Ⅴ

 安全保障関連法案が参議院で審議可決されんとする最中の9月14日の夕、国会へ出向いた。グループや団体行動は苦手なので、旅と同じように一人で行く。
 国会近くの地下鉄からは混雑するであろうから、JR四谷駅から歩いて永田町の議事堂を目指した。麹町を通って、平河町を迂回して最高裁判所の脇へ出た。もう警官の人が立っていた。国会議事堂を探して歩いていくと、抗議集会の音が聴こえてきたので方向が分かった。
 すでに日も暮れかかっていた。紺色の空に白い雲が浮かんでいる。そこはすでに人でいっぱいで、その前では大勢の警官が並んで規制をしている。
 その先の大きな車道の向こうに、木々に隠れるように白く輝く国会議事堂が垣間見える。議事堂の周りは警察の車両が囲むように停車している。それは、あたかも議事堂を守っているかのようだ。
 議事堂の周りを人の波の中を歩いた。国会議事堂は、自分の偉大さを自覚してそれを誇示しているように見えた。
 抗議集会では、何人かの演説者に交じってノーベル賞作家の大江健三郎が演説した。

 憲法はかつて思い描いた富士山のように今も変わらずどっしりと「ある」が、満身創痍のように思えた。
 
 夜8時過ぎに集会はいったん解散となったので、議事堂をあとにして再び歩いて四谷に向かった。
 腹が減ったので、途中どこかで食事しようと辺りを見回しながら歩いていると、麹町で「まつら」という看板が目についた。九州の玄界灘近辺の松浦地方に由来する名前に違いないと近くに寄ってみると、やはり佐賀の九州料理店であった。
 店に入り、おかみさんの勧めで魚のすり身で作った唐津名物ギョロッケと玄海すり身揚げでビールを飲む。あと、皿うどんを食べて店を出た。
 もう街はすっかり夜になっていた。そこには、いつものような東京の夜があった。

 
 *追記

 安全保障関連法が2015年9月19日未明、参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決され、成立した。
 憲法は、血を滴らせているようだ。

 民主主義とは国によって様々な形態をとっていて、欠点だらけのように見える。理想の民主主義はどのようなものであろうか。
 イギリスの元首相のウィンストン・チャーチルは、こう言っている。
 「民主政治は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」
 参照――「曖昧な民主主義を考える「来るべき民主主義」」(ブログ、2014.2.18)







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記憶はどこへ行くのか?「記憶をコントロールする」

2013-10-01 16:18:04 | 人生は記憶
 記憶とは、すべてのものが一瞬とも立ち止まらず変貌流転していくなかで、自分を自分と規定する唯一のものではないだろうか。
 記憶に留まっているもの、記憶を積み重ねているものが、この不確かな自分自身を自己と実感し、証明しているように思える。そこから消え去ったものは、何と証明しようか。記憶にないものは、風にまみれた塵のように、どこにもないに等しい。

 本書「記憶をコントロールする」(井ノ口馨著、岩波書店)は、脳と、記憶のメカニズムを探った、分かりやすく書かれた解説書である。
 記憶の中枢は、脳の海馬という部位である。海馬に蓄えられた記憶は、大脳皮質に移されると考えられている。
 そして、記憶は最近の記憶(リーセントメモリー)と、古い記憶である遠隔記憶(リモートメモリー)に分けられる。
 最近の記憶は忘れやすいが、いったん覚えた古い記憶は長く消えることがない。
 一度できた記憶は安定していると考えがちだが、実際は不安定で、書き換えられるというのである。記憶は、最新の情報に書き換えられていく、つまり記憶のアップデートが行われるのである。記憶をアップデートするために、昔の記憶を不安定にしているのだ。
 獲得された記憶は保持されている状態で記憶を思い出すと、不安定化のサイクルに入り、再固定化されるプロセスをたどるという。かといって、思い出した記憶がすべて不安定になるとは限らない。
 記憶が再固定化されることによって、記憶の強化につながっていく。
そして、記憶をアップデートさせる。このアップデートの作業は、知識を形成したり概念を作ったりする源となる。

 著者が現在考えていることは、「意識は記憶そのものか?」という疑問である。
過去の瞬間瞬間に体験したことを、その瞬間瞬間に意識したことが記憶になっている。つまり、過去の瞬間に意識したことが記憶になって、現在の記憶を構築していることになる。
 瞬間の意識を脳に留める、それが記憶の獲得ということになる。一方、過去の記憶の積み重ねが現在の意識を構築しているという逆の側面もある。自我とか人格というのは、過去の記憶によって形成されると言える。
 記憶を獲得する、記憶を思い出す、記憶を保持する、記憶同士を連合させる、そして知識を作る。これらすべてのことが実は意識そのものではないかと思われる、と著者は言うのだ。

 私たちが体験したことは、記憶となって自分の中に留まるものもあれば、消え去っていくものもある。そうやって、すべてが過ぎていく。そして、いつしかすべてが消えていく運命にある。

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