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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

夏の日の小田原

2021-09-21 03:30:27 | * 東京とその周辺の散策
 久しく旅をしていない。
 長引くコロナ禍だからとばかりは言えない。なぜなら、近場の散策もあまり行っていないのだ。ここのところ、住んでいる街からほとんど出ていないのだ。
 このことは自粛という意識は少ないので、怠惰な性格に加えて老化による億劫感情の侵延なのだろう。いい傾向ではない。
 もうずいぶん日にちがたったが、今年では珍しいことなので、近場を散策したことは記しておこう。
 すでに2回目のコロナワクチンを打ち終えたことも安心材料とし、去る7月15日、湘南の士と近場の小田原を散策することにした。
 夏の暑い日々がやってくる直前の、雲の多い日だった。

 *小田原・早川の漁港と白い観音像

 小田原は城のある城下町だということと、蒲鉾が有名な漁港の街でもある。
 まずは港に出て、そこで魚の美味しいものでも食べようと思い地図を見ると、漁港に近いのはJR早川駅である。
 多摩より小田急線にて藤沢駅に出て、そこでJR東海道線普通熱海行きに乗り換え。小田原駅の一つ先のJR早川駅11時50分着。
 早川駅のホームから、住宅の屋根の向こうに白い観音像が見える。東海道線の電車で通るたびに、小田原駅を過ぎたすぐのところでちらと見える観音像が気になっていたのだ。

 降りたった早川駅は、どこか長閑な田舎の駅といった佇まいである。
 そこから歩いて、すぐの小田原漁港に行った。船が何隻か停泊している港は、海岸から四角に刳り抜いたような小ささだ。その先にせり出した防波堤の突端に、小田原提灯の形をした灯台がある。いわゆる「ちょうちん灯台」である。
 港の周りには、何件か食事を提供する店が点在している。漁師めし食堂というのがあったので、さっそく昼飯とあいなった。もちろん、目的は魚である。
 3種の刺身と3種の魚のテンプラの定食。それに、名物というアジのフライを付けた魚づくしである。普段の昼食と違って、昼間から大量(自分としては)の魚とご飯で、いつになく満腹となった。

 小田原駅先の、東海道線の電車や新幹線の車窓から見える白い観音像。この気になっていた観音像を見に行くことにした。あの観音像は、早川駅から歩いて10分ほどのところにある東善院にある「魚籃大観音」というようだ。
 案内板を見ながら、住宅街をくねくねと曲がって薬王山東善院のお寺にたどり着く。
 寺の屋根の先に聳える観音像は、前に手で籠を提げている。よく見ると、籠から魚の尻尾らしいものがのぞいている。持っている籠は、魚を入れる魚籠(びく)なのだ。だから、名前も魚籃観音という。
 像の高さは13mで、1982(昭和57)年に建立とある。それにしても、珍しい観音像だ。

 そこからほど近いところにあるもう一つの「早川観音」に行くことにする。早川観音とは瑠璃山真福寺のことである。
 寺に着いたがお寺の人は誰もいない。ここには外に観音像が建っているのではなく、堂内に安置してあるようだ。寺の境内は桜や謂れのある古い木があり、静かな田舎の寺の空気に充ちている。

 *白亜の小田原城へ

 早川駅から電車で隣の小田原駅へ向かった。
 まず、駅の西口にある北条早雲像を眺める。何といっても、小田原の元を築いた戦国武将である。躍るような馬に跨った早雲の足元には、角に松明を結んだ牛が跳ねている。
 そして、市の中心部が広がる駅東口に出る。
 駅の近くにある北条氏政・氏照の墓所に参る。氏政は小田原北条氏の4代目城主、弟の氏照は八王子城主で、二人は豊臣秀吉の小田原城攻略によって、切腹させられた兄弟である。墓所は駅近くの繁華街の一角にあることもあって、意外とこぢんまりとしていて見過ごしてしまいそうである。
 墓所を出たあとは、一気に小田原城を目指した。

 白亜の小田原城は、天守も石垣もきれいな城である。
 しかし、この均整のとれた城は北条氏が建てた城ではない。北条氏の時代の城は土の城で、現在の形の城が建てられたのは、北条氏滅亡後の江戸・徳川の時代である。災害などで何度か消失崩壊・修築復建を繰り返した小田原城は、明治維新後に解体された。
 しかし、1960(昭和35)年に天守閣が復建され、2016(平成28)年に大改修された。さらに、天守に続く常盤木門、堀周りの銅(あかがね)門、馬出(うまだし)門などが復建され、本格的な城の構えとなった。
 5層になっている天守の最上階の展望デッキからは、市街地や相模湾が一望できる。その途中の階には、戦国時代、江戸時代の小田原城の歴史や資料、小田原ゆかりの美術工芸品や甲冑・刀剣などが展示してある。

 *小田原北条氏の謎

 小田原城内の展示資料を見ていると、北条氏の歴史があった。歩きながら流し見していたのだが、一瞬目が止まり、そして驚いた。
 小田原城といえば、その祖ともいえるのが小田原駅前に銅像がある北条早雲である。名を北条というので、私はてっきり鎌倉幕府の北条政子で有名な執権北条氏の系譜の武士だと思っていた。
 それが、北条早雲は元々は伊勢家(備中伊勢氏)とあるではないか。
 北条早雲は、1501(文亀元)年頃までに小田原城に進出するのだが、その頃、彼は伊勢宗瑞(いせそうずい)を名乗っていて、北条に改名したのは彼以降の代からだという。つまり、北条早雲とは彼の死後に付けられた名前だったのだ。
 当時、関東における北条のブランドは得難いものだったのだろう。 
 私の知識・勉強不足だったのだが、関東の強大な武将だったので鎌倉の執権北条氏の系列だと思い込んでいたのだ。

 それでは、鎌倉幕府の北条氏はというと……。
 1333(元弘3/正慶2)年の元弘の乱により、北条氏が16代に及ぶ執権として実権を握っていた鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政(中興)、その後足利尊氏による室町幕府が始まる。
 鎌倉幕府滅亡の直後には北条氏一族は一部反旗を翻していたが打ち破れ、やがて武家政治の表舞台からは消えていく。

 *小田原の海と川崎長太郎

 小田原城を出たあと、お堀端通りを通って駅前の商店街に出た。
 夕食には少し早い時間ので、海を見に海岸へ行くことにした。早川の漁港ではない小田原の海を見に。
 お堀端通りの一つ外側の通りを通って、かまぼこ通りに向かったところに、雰囲気のある古風な木造の建物がある。「お休み処」の暖簾が出ているので入ってみると、誰でも気軽に立ち寄り休める「小田原宿なりわい交流館」だった。
 建物は旧網問屋を整備改装したもので、くつろげる空間となっている。
 この近辺に住んでいるという係りのおばさんが、親切にお茶を出してくれた。ついでに海に出る道を訊いてみると、丁寧に教えてくれて、何とその道の海への入口近くに「川崎長太郎小屋跡」があるという。
 川崎長太郎は、地元の赤線の女性との交流を描いた「抹香町」などで、知る人ぞ知る小田原在住の私小説作家である。掘立小屋に暮らす生活を淡々と描いた彼の本を、私は若いときに読んで好感を持った記憶が残っている。
 おばさんは、長太郎さんはよくこの道を歩いていましたよ、とこれまた淡々と話してくれた。晩年はファンだという女性と結婚して一緒に生活していましたよ。ええ、あの小屋で、と言った。
 おばさんの言われた道を行くと、海辺の手前に小屋はなくなっていたけど、こぢんまりと碑が建っていた。彼らしいと思えた。
 そこを抜けると、相模湾の海が広がっていた。
 長く続く海岸は、白く丸い小石がまるで整然と敷かれたように広がっている。「御幸の花海岸」というらしい。それらの小石の浜は、枯れ山水の庭石を思わせた。
 海岸線の先に、昼に行った早川の漁港が見え、その先に真鶴半島が見える。
 そろそろ日も暮れそうだ。

 *夕食は中国東北料理を

 夕食をとるために、再び駅近くの繁華街へ。
 目的地は中華料理店で、中国東北料理店があるという。
 近年、年末に士と横浜を散策した後、中華街の中国東北料理店で食事をするのを慣わしとしている。
 どの町にも中華・中国料理店はあるもので、台湾、上海、香港、四川などの地域の特色を謳った料理店もよく見かけるが、中国東北料理店は少ないので貴重だ。つまり、満州料理なのだ。

 店が並ぶ繁華街のなかで、「名師絶技、本場風味」の派手な看板が目に入る。店の名を「氷花餃子」と、これまた華々しい。
 豊富なメニューのなかから、餃子のほか、肉と野菜の料理を何種類か頼む。
 店の名前にもなっている「氷花餃子」は、出てきたのを見たときは放射状に餃子を落とし込んだピザのようだと思った。丸い形につながっている羽根つき餃子が、氷の中の花に似ていることからきた名だろう。口にすると、外はパリパリ、中はモチモチ感がある。
 東北料理特有の羊料理がなかったのと、たまたま頼んだ料理がどれも辛くない、つまり唐辛子の入っていない料理ばかりだったのが残念だったが、どれもボリュウームがあり、たちまち満腹となった。

 小田原で、蒲鉾を食べなかったのが、心残りだった。

 ※今回、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原合戦の本営である「石垣山一夜城」の跡は行かなかったが、後日の宿題としたい。

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四谷見附橋の謎③ 外濠と四谷見附橋

2021-06-17 03:53:18 | * 東京とその周辺の散策
 江戸城外濠が造られたとき、濠の外と内を結ぶための通路がいくつか造られ、そこに見附が置かれた。
 江戸古地図を見ると、南北に延びた外濠を区切るように、四谷見附、市谷見附、牛込見附と、各見附のところで東西に線を引いたように繋っている。つまり、濠を横切る何らかの通路、橋があったのだ。
 四谷見附橋を調べている間、今日の鉄橋ができる前は、その濠にかけられた通路、橋はどんなもので、どんな形をしていたのだろうか。当時の四谷見附の橋を描いた絵が見つからなかったので、曖昧な想像で疑問は残ったままだった。

 *四谷見附橋の変遷

 外濠・四谷見附に最初に橋が生まれたのは、江戸・寛永年間(1624~1644)である。
 橋は土橋とある。土で造られた橋だった?
 四谷見附には門が置かれていたので、そこの橋は当初は「四谷見附門橋」と呼ばれていたという資料もある。
 四谷見附は、新宿方面の甲州街道と麹町から城を結ぶ重要な交通の要衝でもあった。であるから、江戸城防御の目的のため、見附門から麹町・江戸城方面はクランク状に屈折した道となっている。

 明治となり、四谷見附門はなくなる。現在、その一部の石垣だけが残っている。(「四谷見附橋の謎②」に写真掲載)
 1994(明治27)年、外濠内側の土手に沿って甲武鉄道(のちのJR中央本線)が敷かれる。それに伴い四谷見附門地に四ツ谷駅も開設。
 そして、1903(明治36)年、東京市街鉄道株式会社が半蔵門~新宿(追分)間に路面電車(後の都電)を開業。つまり、古い四谷見附の橋の上を路面電車が走っていたのである

 このとき、四谷見附の土橋はどのような形だったのだろう。
 甲武鉄道の列車は、現在のような四谷見附橋の鉄橋ではない土橋の下を走ったことになる。その橋の上を路面電車が走っていたのだから、土橋とはいえ頑丈な橋だったことになる。

 1909(明治42)年、赤坂離宮(迎賓館)完成。
 1910(明治43)年には、江戸時代以来の屈折した道路を避け、新宿からの甲州街道と麹町を直線道路とするため、新しく「四谷見附橋」を架けることとなり、1913(大正2)年に竣工した。
 すぐ南にある赤坂離宮に呼応したデザインとして、西欧を意識したネオ・バロック式の装飾を備えたアーチ型の鉄鋼陸橋で、長さは37m、幅員は22mであった。

 それでは、それまでの江戸からある初代四谷見附橋ともいえる、古い土橋の「四谷見附門橋」はどうなったのだろうか。
 土橋はもちろん今はない。現在架かっている鉄橋の旧四谷見附門橋は、大正14年(1925)に架設となっている。長さ約38m、幅16mである。
 名前は、新しく南(新宿通り)側にモダンな四谷見附橋が造られたせいで、もともと四谷見附の橋の本家なのに、いつから決まったのか分からないが「新四谷見附橋」となってしまった。

 1974(昭和49)年、新宿通りの拡幅と、それに伴い四谷見附橋の架け替えが決定。
 その決定した後、橋の美しさや鉄製アーチ型の橋としては日本最古であるなど、その文化的価値から住民や有識者による橋の保存の声が起こり、委託を受けた土木学会が検討・調査。その結果、橋は多摩ニュータウンの長池地区(八王子市別所)に移築・復元、保存されることになった。
 橋が移築・復元され、なおかつその橋が展示としてではなく現役で使われているとは、両者の絶妙のタイミングの合致とはいえ、異例のことではなかろうか。
 1991(平成3)年に新しく完成した四谷見附橋は、旧四谷見附橋を強く意識したデザインとなっていて、幅員は旧四谷見附橋の22mから40mへと広がった。
 (写真)

 多摩ニュータウンの一角に移った旧四谷見附橋は、1993(平成5)年に竣工。多摩の美しい風景とうまく溶け込んでいる。なお、復元した際、幅員は22mから17.4mへと変更されている。
 そして、新しく「長池見附橋」として名前に見附を残している。その長池見附橋の装飾的な欄干の中央には、「四谷見附橋」の古いネームプレートも残したままである。(「四谷見附橋の謎①」に写真掲載)

 *もともとの四谷見附の橋の姿は

 こう四谷見附の橋の歴史を見てきて、やっと最初に疑問に戻るのだが。
 新しく架かった、新四谷見附橋、四谷見附橋、長池見附橋の橋は、現在見ることができる。
 それらができる前、外濠にかけられた通路、橋はどんなもの、どんな形をしていたのだろうか。そして、どうしてその下を列車が走ったのだろうか、という疑問である。

 江戸の古地図で外濠に架かった橋を見ると、現在の四谷見附橋や、よくある川の全面に架かった橋のように大きな橋ではない。
 いろいろ本や資料を探していたら、当時の外濠に架かる橋の写真が、やっと見つかった。
 「外濠」-江戸東京の水回廊-(法政大学エコ地域デザイン研究所編、鹿島出版会発行)に、貴重な写真が掲載されていた。写真というものが日本に持ち込まれた、江戸の面影が残る明治初年のころの、外濠を写した写真である。
 市谷見附では、濠は両サイドから石垣等で築堤され、水が通う濠を繋げる部分は小さく開かれていて、そこに通路として橋が架かっている。木の橋であると思われ、中ほどに橋桁も建っている。
 四谷見附は、こちらも濠の両サイドから築堤が延びていて、市谷見附より道幅は大きく、橋もちゃんとしている。
 見附の橋は堤防のように石と土で両側から通路を延ばして、中ほどの開けた水通りの口に架けられていた。

 *今も残る甲武鉄道の遺跡

 明治中期の、外濠の土手に沿って甲武鉄道の列車が走る写真はよく見ることができる。そのなかで、土手から続く築堤の下を刳り抜いたトンネルの中を走る列車もよく紹介されている。
 四谷見附橋も、当初は築堤を刳り抜いて列車を通したのであろう。

 現在でも、四ツ谷駅から信濃町方面に、古めかしい煉瓦坑門のトンネルを見つけることができる。これは1894(明治27)年に、甲武鉄道が新宿~牛込(現飯田橋)間を開業した際に造られた、「御所隧道(トンネル)」である。赤坂御所の敷地の下を通ることによる名前の由来で、中央線最古のトンネルである。
 さらに、1929(昭和4)年の飯田町~新宿間の複々線化に際して、新たに3線分に彫り上げられた隣接する新御所トンネルができている。現在は主に快速線が通っている。

 その後、四ツ谷駅周辺の外濠は埋めたてられたが、甲武鉄道の足跡が今でもトンネルとして残っていて、当時に想像を走らせることができる。
 いやいや、四谷見附、市谷見附、牛込見附そのものが、”江戸から明治の近代化”の生き続けている面影なのだろう。



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四谷見附橋の謎② 二つある四谷の四谷見附橋

2021-05-20 02:06:45 | * 東京とその周辺の散策
 四谷見附にある「四谷見附橋」は、新宿通り(国道20号)の四ツ谷駅上に架かる陸橋である。
 四ツ谷駅を出ると、この四谷見附橋の端に出る。西側は新宿通りの四谷から新宿方面へ行き、東の皇居側の駅前に出ると、右手(南)には上智大、まっすぐ進むと麹町で、皇居・半蔵門にぶつかる。
 そして、である。
 四谷界隈をよくご存じの人は、当然知っておられるだろうが、四谷見附のJR四ツ谷の駅と線路を跨ぐ橋は2つあるということを。
 四ツ谷駅の麹町(千代田区側)の駅前から左手(北)の市ケ谷方面に進むと、すぐに四谷見附橋と並行してやや小ぶりの橋があるのに気づく。ずっと前からこの橋はあるので、気づくのは当然だが、印象に残りにくい橋なのだ。
 それに、その橋のふもとには古い石垣がむき出しにあり、その上奥にはこんもりとした木々がある。これも前からあるので、何気ない風景として見過ごすぐらいだ。(写真)
 その橋は、大きな新宿通りの四谷見附橋と並行していて、西の新宿方面側に渡ると、これまた新宿通りと並行して走る、四谷1丁目の三栄町道に繋がる。
 それにしても、四谷見附橋と並行してある、この見落としがちなもう1つの橋は何という橋なのだろう。

 日頃愛用している東京の地図帳、「街の達人〔東京 便利情報地図〕」(昭文社2016年2版1刷)を開いて見た。
 通常の5万分の1の「皇居」箇所では、四ツ谷駅上に架かる新宿通りの大きな橋には何も名は書かれていなくて、その北にある小さな橋に、何と「四谷見附橋」とある。新宿通りの大きな橋でなく、北側の小さな橋が四谷見附橋だと?
 改めて、別枠としてある6千分の1の拡大図の「四谷・麹町」箇所を見ると、新宿通りの大きな橋はちゃんと「四谷見附橋」とあり、北側の小さな橋は「新四谷見附橋」となっている。
 「四谷見附橋」の北側に並行して架かる橋の名前は、「新四谷見附橋」なのだ。

 *江戸時代から四谷見附に橋はあったのか?

 では、2つの四谷見附橋はいつ頃、どちらが先に造られたのだろう?という疑問が残った。
 元を遡れば、江戸城の外濠にあたる。江戸城防御を目的とした外濠が造られた寛永13(1636)年後、併せて濠の各所に警備番所である見附が設置され、その要所には石垣を設けた枡形の門が造られた。
 いわゆる江戸城三十六見附であるが、その1つが、「四谷見附門」である。

 現在の外濠は、飯田橋(牛込見附)から市ケ谷(市谷見附)の少し先までである。市ケ谷から四谷(四谷見附)に向かう途中から埋めたてられて濠は切れている。四谷の先の赤坂(赤坂見附)あたりで外濠である「弁慶濠」が現れる。
 四谷見附から赤坂見附の間に、外濠である「真田濠」があったのだが埋めたてられて、いまは上智大のグランドとなっている。
 江戸古地図を見ると、江戸城を周る外濠は現在とは違いほゞ繋がっているのだが、見附の門のあるところで濠は区切られている。つまり、外濠の外と内を結ぶ線として、土で埋めて道を造っているか橋を架けているのである。
 四谷見附を古地図で見ると、四谷見附門を境に市ケ谷寄りの市谷濠と赤坂寄りの真田濠とに分断されて、新宿方面に繋がっている。四谷見附門から、道もしくは橋があるのだ。
 資料によると、寛永年間(1624~1644)に、新宿方面に繋がる土橋、つまり土塁が造られたようである。かつては、それは「四谷見附門橋」と言っていたらしい。
 四谷見附門から江戸城(現皇居)方面に続く道は、防衛上のためにクランク状に折れ曲がって造られている。今も、そのようになっている。

 *明治の「四ツ谷」駅誕生

 江戸時代が終わった後、1872(明治5)年、四谷見附門は解体された。
 冒頭の部分で書いた、現在もある四谷北側の新四谷見附橋のたもとの石垣は、その四谷見附門の名残なのだ。

 1889(明治22)年、甲武鉄道(のちのJR中央本線) 新宿駅~立川駅間が開業。
 1994(明治27)年、甲武鉄道の牛込駅~新宿駅間が延伸開業。牛込駅・四ツ谷駅・信濃町駅の各駅が開業。
 1895(明治28)年、市ケ谷駅が開業。飯田町駅~牛込駅間が延伸開業。飯田町駅が開業。

 「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)の廃線鉄道地図をみると、現在の飯田橋駅の少し市ケ谷駅寄りに「牛込駅」があり、飯田橋駅の少し水道橋寄りに「飯田町駅」がある。その後、1928(昭和3)年に「飯田橋駅」が置かれ、同年牛込駅は廃止となっている。飯田町駅は1933(昭和8)年に貨物駅になったあと、1999(平成11)年廃止となっている。

 新宿から飯田町まで延ばした甲武鉄道は、その中間にある四谷から飯田町まで外濠の皇居側の土手に沿って線路を敷き、「四ツ谷駅」続いて「市ケ谷駅」が誕生した。

 *「四谷」と「四ツ谷」、そして「市谷」と「市ケ谷」

 「よつや」の名の謂れは諸説あるが、定説はない。
 地名として「四谷」が見られるのは、徳川家康が甲州街道と青梅街道を敷いた際、その途中に設けられた「四谷大木戸」が最初である。
 「四谷」と「四ツ谷」の表記であるが、現在でも決定的な区別の根拠はない。
 江戸から明治の中頃まで、「四ツ谷」の表記が多いが、「四谷」と混在している。1878(明治11)年に「四谷区」が誕生した以降、「四谷」表記が強くなったようである。
 それが要因かどうかは不明だが、地名表記は「四谷」だが、JRの駅名表記は「四ツ谷」である。東京メトロも駅名は「四ツ谷」であるが、「四谷三丁目」はなぜか「ツ」がない。

 四谷の隣の「市谷」(いちがや)も、地名は市谷田町、市谷佐内坂町など「市谷」表記だが、JRの駅名は「市ケ谷」である。
 地下鉄の東京メトロの駅も「市ケ谷」だが、都営地下鉄の駅は「市ヶ谷」と表記する。
 市谷冠称地名は、外濠の外側の新宿区にあるのだが、JRの市ケ谷駅が外濠の内側の千代田区にあるため、千代田区富士見町の「法政大学市ケ谷キャンパス」や千代田区九段北にある「アルカディア市ヶ谷(私学会館)」など、千代田区内でも市ケ谷、市ヶ谷もしくは市谷を表するものも少なくない。
 「いちがや」は、「市谷」とすると「四谷」(よつや)と違って、「いちや」と称するので、地名以外は、「市ケ谷」もしくは「市ヶ谷」と表記した方がわかりやすいように思う。さすがに「市ガ谷」、「市が谷」は見うけないが。
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四谷見附橋の謎① 多摩にあった「四谷見附橋」

2021-04-10 02:07:19 | * 東京とその周辺の散策
 *外濠沿いの見附橋

 「見附」(みつけ)というのは、江戸期、交通の要所におかれた見張り番所のことで、かつて江戸城では江戸城三十六見附と言われたように数多くの見附が置かれた。
 今でも、外濠沿いの赤坂見附、四谷見附、市谷見附、新見附などの名が残っている。

 市ケ谷(市谷見附)と飯田橋(牛込見附)の間の、法政大の横(市ケ谷寄り)に位置するのが新見附で、そこの外濠に架かる橋は新見附橋と呼ばれる。
 市谷見附の外濠に架かる橋は市ヶ谷橋だが、四谷見附に架かる橋は四谷見附橋である。
 四谷見附橋は新宿通り(国道20号)上にあり、JR中央線が走る四ツ谷駅の線路を跨ぐ陸橋である。現在は四谷見附近辺の外濠は埋められていて、四谷見附橋は濠の上に架かっているのではない。
 なお、この外濠の環上(四谷見附、市谷見附、牛込見附)の、西が新宿区、東が千代田区と分かれている。

 江戸城の見附のある外濠沿いは、私は上京した時から馴染み深い地域で、思い出も多いところだ。
 2019年10月には、外濠一周の散策を試みたこともある。
 ※「江戸城「外濠」を探る」blog→2019-12-19
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201912

 *多摩の見附橋とは?

 八王子市の南大沢図書館に行くことがある。
 ある日、その日は天気がよかったので、隣町の南大沢図書館へ電車でなく歩いていこうと思いたった。地図を見ると、たいした距離ではない。1時間もかからないだろう。
 多摩市の唐木田から、八王子市の別所に入り、南大沢に行きつく。途中、長池公園を抜ける。このあたりも、新しく都市計画で作られた多摩ニュータウンの一角である。
 唐木田を抜け、別所のなだらかな坂道の洒落た建築群を横目に過ぎたところで、長池公園の入口に入る。すると景色が変わった。先にやや長い橋があり、その先にもヨーロッパの田舎町のような洒落た建築が目に入る。
 直線と円を基調にしたヨーロッパ風にデザインされた中池、その上に架かるアーチ状の橋は、美しい景観を醸しだしている。古いゴシック風の装飾街灯を持った橋の名は、「長池見附橋」とある。
 橋の中ほどに名前を書いた装飾プレートが施されていて、見ると「四谷見附橋」とあるではないか。「長池見附橋」が「四谷見附橋」とは、どういうことか。
 橋を渡ったところに、この橋の謂れの説明文が掲げられていた。
 長池見附橋は、多摩ニュータウンの街づくりの一端として、長池公園の中に1993(平成5)年に完成した。その際、道路拡張に伴い架け替えとなった四谷見附橋を移築し、復元した橋だとある。
 ということは、現在の四谷見附にある橋は2代目で、先代の四谷見附橋はここ、長池公園に架かっている橋ということなのだ。
 もともとの四谷見附橋は、多摩で生き残って長池見附橋となっていた。

 *桜の下、南大沢から四谷見附橋、唐木田、多摩センターへ

 3月31日、久しぶりに南大沢図書館に歩いて出向き、途中長池公園の四谷見附橋と再会した。折しも、桜が満開だった。
 (写真)
 続いて4月3日の午後、今度は逆コースで、京王相模原線・南大沢駅から出発することにした。
 今まで長池見附橋を通り、長池公園の脇を通り過ぎていたのだが、今回は公園の中を散策することにした。
 長池公園は、花と木と小鳥の、想像を超える水と緑の公園であった。中央に谷川の名残を見つけることができ、元の多摩の山あいを活かした段差と緩急の変化を味わえる。
 お目当ての長池見附橋(四谷見附橋)を通って長池公園を抜けると、多摩尾根幹線道路の歩道を通り、大妻女子大のところで曲がって唐木田駅へ出た。そこから多摩の山あいを感じさせるアップダウンのある、花木と果樹が茂る鶴牧西公園を通り、多摩センター駅へ到着。
 頃合いもよく、日が暮れた。
 多摩センター駅から、まだかろうじて桜が咲いている乞田川の沿道並木道を、疲れた脚にハッパをかけ歩く。町内会の提灯が連なる通りを、夜桜を味わいながら、先週行ったレストラン、リバゴーシュへようやくたどり着いた。
 歩き疲れた体を慰めるように、フレンチにワインを味わった。

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裏高尾の「八王子城跡」を歩く

2020-12-02 02:43:01 | * 東京とその周辺の散策
 いくら独り暮らしに慣れているとはいえ自粛生活も長期化してくると、これではいかんという気持ちが芽生えてくるものだ。先に掲げた「コロナ時代の哲学」で指摘されたように、人は誰かと接触したい、移動したいという本質を持っている。
 最近はことさら月日が過ぎるのが速いのだが、去る10月28日のこと、秋も深まってきたので、街の散策友人たちと密を避けるように、都心ではなく奥八王子の高尾方面に行くことにした。
 
 行く先は、「八王子城跡」である。
 高尾山のある高尾は、都心からさほど遠くない距離であることと程よい山歩きとあって、近年人気が高いちょっとした観光地である。八王子城はその高尾の近くにあり、まださほど注目されていないが、東京では珍しい石垣の残る山城跡である。
 私は、この一帯を「奥八王子」あるいは「裏高尾」と勝手に呼んでいる。

 *秀吉によって落城された、北条氏の最大支城「八王子城」

 八王子城は、小田原に本拠を置いた北条氏の3代目北条氏康の3男氏照によって築かれた。氏照は当初、同じ現在の八王子市北東部に滝山城を築いていたが、北条氏の支配拡張と甲斐氏ら西方の脅威を防ぐために、滝山を離れ、その南西部に築いた山城が八王子城である。
 1582(天正10)年頃に築城が開始され、1587(天正15)年頃には滝山城から拠点を移したとされているので、時期としては豊臣秀吉の全国統一が始まった頃である。
 八王子城は北条氏最大の支城であったが、豊臣秀吉の小田原城攻めの際、1590(天正18)年、前田利家・上杉景勝軍に攻められ1日にして落城し、北条氏滅亡のきっかけとなった。
 八王子城下は、その後徳川家康によって現在の市中心部に移され、八王子城はその後深い森に覆い隠され、長く忘れられていたのである。

 それにしても、八王子とは興味深い名前だ。八人の王子か?
 JR京浜東北線に「王子」という駅が、東京都北区にある。各地に王子信仰に因んだ王子という地名があるようだ。しかし、窪んだ地である「凹地」(あふち、おうち)に由来する名もあるという。
 「王子」は何となくわかっても、「八王子」の由来は何だろうと思っていた。

 *きれいな石垣が整う、八王子城の跡

 朝11時、JR高尾駅着。駅そばのパン屋で昼食用のパンを買って出発。
 北口から出発のバスに乗り、「霊園前・八王子城跡入口」で降りる。ここから城跡まで歩きである。本丸跡のある城山(深沢山)は標高460mとあるから、高尾山の599mよりやや低い。
 まずは、途中にある「八王子城跡ガイダンス施設」に行こう。
 「霊園前」バス停から、進行方向のすぐにある信号で交差する道を左に入る。その道が八王子城跡に続く道で、そこはもう東京都内とは思えない風景の田舎の道である。
 ポツンポツンと人家があり、時折柿の木が目に入る。枝にはオレンジ色の実がなっていて、つい手を伸ばしたくなる。行き交う人とも、めったに出会わない。
 バス停から15分ほど歩いた田舎道の先に、ガイダンス施設がある。
 ここは、八王子城に登る拠点ともいうべきところで、八王子城に関する資料、展示の他に、ゆったりと寛げるスペースがある。ここで昼食用として、駅で買ってきたパンの軽食をとる。

 施設で入手したパンフレットを片手に今来た道をさらに進むと、大手門跡があり、さらに古道の先に、道に沿って流れる城山川に架かる大きな橋が見える。
 新しく木で作られたその曳橋(ひきはし)を渡ると、石垣と石畳の階段が続いている。その先に鳥居を思わせる冠木門(かぶきもん)という大きな木の門が待ち構えており、門をくぐり中に入ると、氏照の館などがあった「御主殿跡」が広がる。
 この辺りは石垣もきれいに組まれているし、曳橋は新しく造られ、門や遺構も復元整備されていて、さらに発掘調査進行中ということもあって、見た目も美しい。(写真)

 *城山(本丸跡)への道は、ハイキングというより登山感覚だ

 御主殿跡を見た後、本道に戻り、これから登る八王子城の城山(山頂)を見上げる。以前登った安土城の城山に、雰囲気が少し似ていると感じた。
 城山への入口に鳥居があり、その先の道はハイキング気分から登山の様相を帯びてくる。道はいかにも狭い山道で、見上げると一面木の茂みだ。
 その登山入り口とおぼしき道の脇に、木の棒が何本も転がっている。一瞬、台風か何かで折れた枝木を積んであるのかと思った。しかし、どれも同じ位の大きさ・長さなので、それらがこれから登る山道のための杖で、自由に持って行ってもよく、帰りにまた置いていくのだと理解した。もちろん、1本拝借した。
 道はすぐに「新道」と「旧道」に分かれている。いずれも柵門跡(8合目)で合流するので、当時の山道である旧道を進んだ。帰りに新道にするとよいだろう
 歩き進むと、道は整備されていないところも多く、石がゴロゴロしたところもあり、やはり杖が助かった。予め自分の登山用の杖を持参してくる人もいるようだ。高尾山より距離は短いが、登るのはきつく靴は登山靴でもいい(私は持っていないが)。
 9合目辺りで、八王子の市街とさらに遠く都心まで、視界が広がるところがある。しばし、遠く広がる東京の街の風景を眺めた。

 *頂上の「本丸」手前にある「八王子神社」

 さらにせっせと登っていくと、見落としそうだが「頂上」と書かれた小さな石碑が目につく。その先の階段を上がると、古ぼけた神社がある。それが、北条氏家が築城にあたり建てた「八王子神社」である。八王子にあるから八王子神社というわけではない。
 パンフレットの解説によると、牛頭天王(ごずてんのう)の眷属神(主神につき従う神々)である八人の王子神「八王子権現」を城の守護神として祀ったのが神社の名の由来だとある。ここから、城の名や八王子の地名が生まれたということだ。
 それにしても私が浅学ゆえか、そもそもの「牛頭天王」とは耳慣れない言葉だ。何なのだろう?
 調べてみると、牛頭天王とは日本における神仏習合の神で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされている。そして、京都の感神院祇園社(八坂神社)の祭神である。
 日本にこのような神があるとは知らなかった。

 八王子神社、ここまで来たら、ほゞ頂上だ。
 神社の裏手の坂道をさらに登ると、ほどなく「本丸跡」に到着する。
 やっと、本丸到着。そこには小さな祠と石碑が建っているだけで、天守閣があったわけではないので小さなスペースだ。
 時計を見ると、午後3時。御主殿跡を出て大手門より、ハイキングというより軽い登山感覚でもって、山道を約1時間ぐらいだ。
 到着した八王子神社や本丸跡には、そのときには他の登頂者はいない。ウィークデーということもあってか、途中、行き交った人やグループは4、5組という少なさだった。何でこんなところをと、ゼイゼイ息を吐きながら迷惑そうに凸凹の山道を登っている大型犬を連れた、派手な中年のカップルが目についたくらいだ。

 下山へ。途中の二股では今度は新道で下りる。
 麓に着くのは午後4時ぐらいだろう。この日の日没時間は午後4時50分ぐらいだから、ちょうどいい頃合いだ。この時間ではさすがに誰とも行き交わないなあと思っていたら、下りている途中、中年の男性と行き交った。これからだと頂上まで行けるだろうか、行ったとしても帰りは暗闇だぞと、他人事ながら困ったやつだと思いやった。
 登山口で、十分に利用させてもらった木の杖(枝)を置いて、ようやく山を出た。

 再び、元来た道をバス停に向かって歩いた。
 途中、人家のある道端で無人の露天販売所が目についた。決して売りものにならないビニール袋に入ったガサツな柿を買った。どう見ても野柿だが、それもいい。
 「霊園前」より、バスで高尾駅へ出た。ちょうど日が暮れだした。次の、夕食の目的地に向かおう。

 *夕食は、裏高尾の隠れ料亭へ

 高尾駅から京王線で一つ目の「高尾山口」へ行く。
 夕食は、高尾の山里に佇む和食屋「うかい鳥山」を予約してある。高尾山口の駅前から送迎バスで人里を離れ、陽が落ち暗くなったなか高尾の裏へ入っていく。
 着いた先は、林のなかに建物が散在していて、敷地内に水も流れている。ここは、数寄屋造りの離れ屋のゆったりとした和室は貸し切りなので、「密」にはならない。
 料理のコースは、突き出しに、メインは地鶏炭火焼きにヤマメの塩焼き、それに牛串を。そして麦とろご飯にけんちん椀。
 秘かに漂う裏高尾の静けさ…

 ずっと昔、若いとき、女性とここに一度来たことがある。あの時、どうして、どのような状況で、ここへ来たのだろう。甘美な記憶は霧のように曖昧だ。

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