goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

大師線で行く、川崎大師

2020-01-15 04:26:50 | * 東京とその周辺の散策
 *初詣の人気の寺社

 すでに、いつしか松の内も過ぎてしまったではないか。
 ぼうっとしていると、誰かに叱られそうだ。一応、正月を振り返っておこうと思う。

 1月1日の地元多摩市の白山神社に次いで、3日、初詣に川崎大師(平間寺)に行った。
 川崎大師(神奈川)は、明治神宮(東京)、成田山新勝寺(千葉)に次いで初詣参拝者数300万人超えの人気神社である。
 正月3が日の初詣参拝者数は主催者側の発表もあるが、正確性となると判断が困難なためか2009年以降、警視庁は発表をやめている。
 人数や順位は主催者発表以外にも調査機関や報道機関によって多少の差異があるが、上記のベスト3は、近年ほゞ不動だ。
 年によって多少順位の変動はあるが、全国初詣人出ランキングを概略的に見た4位以下の順位を参考までにあげてみよう。
 4位.浅草寺(東京)、5位.伏見稲荷大社(京都)、6位.鶴岡八幡宮(神奈川)、7位.住吉大社(大阪)、8位.熱田神宮(愛知)と、上位には有名な寺社が並ぶ。

 そもそも「初詣」という呼び名と習慣が生まれたのは、明治に入り鉄道の発達、東海道線の開通により、寺社に行くのが便利になったのが大きな要因で、それも川崎大師によって広く普及したといわれている。
 それにより、初詣に行くための鉄道の路線も生まれたのだ。

 *もう一つの大師線

 多摩から小田急線で登戸へ出て、JR南武線で午後2時過ぎに川崎駅へ。
 ここで湘南の士と落ちあって、京急川崎駅より川崎大師へ行くため「大師線」に乗り換えた。京急「大師線」は、京急川崎駅より小島新田までの4.5キロで、川崎大師駅は、その中ほどにある。

 若いとき、2年間東武伊勢崎線の西新井(東京都足立区)に住んだことがある。都心(日比谷線連結)から北へ向かった電車は、西新井の次が竹ノ塚でその先はもう埼玉県の草加市である。
 その西新井から盲腸のようにポツンと伸びた電車の路線があった。それが、同じ「大師線」であった。それは、西新井から西新井大師までたった1駅、約1キロの、東武「大師線」である。
 西新井大師(總持寺)は、初詣のときは混みあうが、普段は参拝者もめったに見うけない静かな寺だった。僕は休みのときなど、その地方の田舎にあるような西新井大師にふらりと散歩に出向いたりしたものだ。
 川崎大師と西新井大師、この2つの大師は、弘法大師(空海)に因んだ寺である。そして、ともに大師線で行く寺である。いや、大師線を作った寺といっていい。

 *想像をかきたてる「大師線」の駅

 初詣で有名な川崎大師であるけど、行くのは初めてである。
 京急川崎駅から、京急「大師線」に乗って川崎大師に向かう。やはり、初詣客で人がいっぱいだ。
 混雑した車内で立って、ドア上に掲げてある路線図を眺めていた。初めて乗る路線は、駅名すら新鮮だ。
 「京急川崎」の次は「港町」である。
 「港町」とは、歌に出てくるような名前である。かつてはこの辺りまで、海がきていたのだろう。僕などは、美空ひばりの「港町十三番地」や森進一の「港町ブルース」の歌を思い出してしまう。
 と思って、「日本鉄道旅行地図帳」(関東2)を見たら、港町になる前の駅名は「コロムビア前」である。レコード会社の日本コロムビアは、もともとは明治期に川崎で設立され、その後この地に工場があったのだ。
 次の駅は「鈴木町」である。
 人の名字のような駅だなあ、と言うと、士が、確かこの辺りに味の素の会社があったはずです、と言った。
 ん! 味の素と関係がある? となると、味の素の創業者が鈴木さんだったのだろうか。
 「日本鉄道旅行地図帳」を見ると、なんとこの名前になる前の駅名は「味の素前」である。そして、味の素創業者は鈴木三郎助で、かつて鈴木商店といった。確かに、この辺り一帯が味の素の街なのだ。
 次が「川崎大師」であるが、「東門」の次は「産業道路」である。
 産業道路という鉄道の駅名は珍しい。と、良いのか悪いのか分からないネーミングに、多分こうだったんじゃないだろうかと駅名決定の瞬間を想像していたら、この3月に「大師橋」駅に改名するそうだ。
 それにしても、京急はよく改名するものだ。
 短い路線だが、川崎大師と産業道路が結ぶ工業地帯ということを物語っている、川崎の象徴のような名前が並ぶ「大師線」である。

 *縁日のような「川崎大師」の初詣

 「川崎大師」駅を出ると、すぐに大師への表参道のアーチが目に入る。横浜中華街の「牌楼」を簡略化したような門である。
 参道の左右には、まるで縁日のように様々な店や屋台が並ぶ。まあ、初詣の3が日も縁日のようなものだ。
 焼きそば、お好み焼き、唐揚げ、イカ焼き、今川焼、串焼きなどの屋台定番から、菓子やスイート類、はたまた神戸牛や佐賀牛などのブランド牛の焼肉、ケバブなども目につく。
 つまり、ありとあらゆる店が並んでいる。
 そのなかで、「厄除 揚げまん」の旗をあげて売っていたマンジュウ屋が、気になった。厄除か、う~ん、大胆でストレートだ。といっても、気にしている人はいないようだったが。いや、声を出して言ってはいけないと思っていたのかもしれない。
 出店が並ぶ表参道を右折する。この日は交通規制で一方通行となっていて、仲見世通りを過ぎて、通りの先の道から境内に向かう。
 予想していた以上の大渋滞で、なかなか進まない。初詣全国3位の人出だけのことはあると、妙に感心した。
やっと大山門のところに来たが、ここでも待機させられる。
 大山門をくぐると、正面の煙がたちこめている献香所の先に本殿がでんと構えている。やっと、本殿までたどり着いたという感じだ。表参道に入ってから約1時間である。普段なら10分もかからなく着くだろう。
 本殿で何とか参拝したあと、境内の八角五重塔と弘法大師像を見て、再び大山門に戻る。そこから、帰りは仲見世通りを歩くことに。

 「仲見世」通りといえば浅草が有名だが、この通りも、いろいろな店が並んで楽しい。(写真)
 歩いていると、トントントンとリズミカルな音がする。近くまで行くと、調子をとるようにまな板を包丁で叩いているのだった。その前では、実際に長く延ばした飴を、トントンと包丁で細かく一定の大きさに切っている。
 のど飴だ。のど飴の店が何軒も軒を並べているのだから、ここの名物なのだろう。音を出しているエア飴切りは、客呼び込みのパフォーマンスによる効果音なのだ。

 *横浜・中華街の東北料理

 仲見世通りを出て、再び表参道を歩いて川崎大師駅に戻った。
 そこから川崎駅に行って、JRで横浜・石川町に行った。
 石川町の駅を出ると、すっかり暗い。歩いたおかげで腹もすいたので、この日のもう一つの大きな目的地である横浜・中華街へ。
 中華街といえば、士と行く恒例の東北料理店である。つまり、味わい深い満州料理なのだ。
 他店にはあまりない蛙や蜂の巣料理も前に食べたし、羊の肉や水餃子も美味い。味が濃いきらいはあるが、寒い冬には格好の料理が揃っている。
 中華料理は、つい食べ過ぎるようだ。次は今回食べそこねた鍋料理をと、胃袋は言っている。
 他人が食べているのを見ると、食べたくなるものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸城「外濠」を探る

2019-12-19 20:31:10 | * 東京とその周辺の散策
 市ヶ谷から飯田橋の間の「外濠」は、長年、僕にとって身近で馴染み深いものだった。いやそれ以上に、何気なく見続けてきた、いつもそこにある風景の一端であった。
 しかし、「江戸城・外濠」は?となると、おぼつかなくなるのだった。
 「外濠」の全貌は?

 *1.消えた「外濠」を求めて

 「外濠」(そとぼり)とは、今は皇居となっている江戸城の内堀の外側に巡らされた濠(堀)である。
 現在、通常「外濠」と呼ばれているのは、四谷と市ヶ谷の間から飯田橋に到る約2kmの、川のような濠(堀)である。それは、現存している、「江戸城外濠(堀)」の一部に過ぎない。
 かつて「外濠」は、自然の川を活用して螺旋(らせん)のように江戸城を取り囲み、内濠(堀)や東京湾(江戸湾)とも繋がっていた。

 地理上でいえば、現在の九段下から皇居(江戸城)の周りを「の」の字形に、神田川の派川である「日本橋川」を伝い、神田、日本橋、日比谷あたりから、ぐるりと円(まる)く虎ノ門、赤坂見附、四谷、市ヶ谷、飯田橋へと周り、小石川あたりで日本橋川の主流である「神田川」に続いて、両国橋のある「隅田川」に到る約16kmの遠大なものである。
 つまり、「外濠」は人工的な濠(堀)と自然の川を融合させた、江戸城の巨大の防衛水路であった。

 現在も皇居を囲む「内濠」はしっかり残っていて、その周りを囲む通りでジョギングを楽しむ人も多く、馴染みが深い。
 しかし「外濠」は、現在の地図を見て想像を膨らませてもわかりづらく、江戸古地図を見ないとその全貌を知ることは難しい。
 現在、川を除いて、外濠(堀)で水面を残しているのは、先にあげた「外濠」と呼ばれている市ヶ谷から飯田橋間の「市谷濠」、「新見附濠」、「牛込濠」と、赤坂見附付近の「弁慶濠」だけである。
 外濠の多くは戦後瓦礫とともに、あるいは首都高、新幹線設備などのために埋め立てられた。現在残っている濠も埋め立ての危機にあったが、何とか残ったのだ。残ったのは地域住民の埋め立て反対運動もあったが偶然の産物で、まるで歴史の気紛れな落とし物のように見える。

 僕が見続けてきた「外濠」は、かつて江戸城の周りを巡っていた外濠(堀)の一部である。例えていうならば、切り残されたトカゲの尻尾みたいなものだ。それで、ぼんやりとしていたそのトカゲの全貌に、あるいは全貌の痕跡に触れてみようと、外濠を辿ってみることにした。
 もうずいぶん日にちがたったが、去る10月10日、元同僚の3人で「外濠」を廻った。

 *2.「市ヶ谷見附」より、時計回りに出発

 まず、昼頃、市ヶ谷駅から出発する。
 市ヶ谷駅を出ると、すぐに「市ヶ谷見附」の橋があり、その下に横たわっているのが川のような「外濠」である。この外濠に沿うように、皇居側の内側(千代田区)寄りにはJR中央・総武線が、外側(新宿区)寄りには「外堀通り」が走っている。
 この外濠が千代田区と新宿区の区境なのだ。

 現在も名称が残っている「見附」という名称は、かつて見張りが置かれた番所で、濠に架かった橋に多く見受けられる。
 「市ヶ谷見附」の「市ヶ谷濠」では、石垣が残る橋のほとりで釣り堀をやっている。時折サラリーマン姿も見うけられて、都心にしては長閑な風景だ。これも外濠の恩恵だ。

 市ヶ谷駅から飯田橋方面に、外濠、JR線に沿って皇居側には遊歩道のような通りが続く。これが、「外濠公園」で、桜の並木道である。
 この「外濠公園」通りは、少し小高くなっているから、歩いていて斜め下にJR線が、その向こうに外濠がよく見える。
 春の桜の季節は、外濠の向こうの外堀通りに沿っても桜が咲くので、外濠公園通りと外濠を挟んだ両方に桜が咲く沿道となる。

 *
 つい先日、女優で吉行淳之介の妹である吉行和子の「そしていま、一人になった」(集英社)を読んでいたら、この市ヶ谷「外濠公園」が出てきた。
 吉行さんの一家は戦前から市ヶ谷駅近くに住んでいて、NHK連続テレビ小説「あぐり」で有名になった母のあぐりさんは、ここで美容院を営んでいた。
 吉行家の家族は、「土手」と称するこの「外濠公園」通りが好きだった。特に、母あぐりさんは、99歳で転んで骨折するまで、1日も欠かさずこの並木道を早朝散歩していたという。
 そして、彼女が住んでいた住所は戦後すぐまで、「麹町区土手三番町」だったという。現在は「千代田区五番町」となり、地名から「土手」が外されたと残念がる。
 つまり、戦後まで江戸城の外濠の土手を表わす名前が残っていたのだ。それはそうと、皇居を擁する千代田区がもっと古くからあったと思っていたら、戦後の1947(昭和22)年に麹町区と神田区が合併したことにより誕生したとは知らなかった。

 市ヶ谷の「外濠公園」通りを飯田橋の方に向かって歩いていくと、途中「新見附」の橋に出合う。その前に聳えるのが法政大の「ボアソナード・タワー」である。

 *3.法政大ボアソナード・タワー26階より、「外濠」を鳥瞰

 「外濠」を廻ることを思いたったのは、実は今年(2019年)初めに出版された雑誌「東京人」の「外濠を歩く」特集号を見たことからだ。
 その表紙が、市ヶ谷見附方面の外濠を俯瞰した、平地から眺めた外濠とは思えない美しい景色だった。飛行機かヘリコプターからの撮影かと思わせるその写真は、「新見附」にある法政大(千代田区富士見町)の高層ビルのボアソナード・タワーからの眺めだった。
 2000年に建てられた法政大のボアソナード・タワーは、外濠公園通りではひときわ目立つ地上27階建ての高層ビルで、飯田橋の牛込橋からも見え、外濠を見守っているランドタワーのようだ。

 予め大学に連絡を入れたところ、26階からの展望は誰でも自由に入れるとのことだった。自由な大学らしい。
 入口の守衛さんに挨拶して、エレベーターでボアソナード・タワーの26階へ。この階の展望所の大きな窓からの眺めは、まさに「外濠」を見るために用意されたような格好のロケーションだ。(写真)
 手前の「新見附橋」から彼方の「市ヶ谷見附」の橋に連なる、上から眺める「外濠」の景色はまるで1枚の絵のようだし、きめ細かく作られた箱庭のようだ。
 「市ヶ谷見附」の外濠の脇には、ビルに囲まれた「市谷亀岡八幡宮」の緑の木々が、そして注意深く見ると、外堀通りから入り込んだ「左内坂」の馴染み深いビル群が、ようやく窺うことができる。
 その市ヶ谷界隈の彼方に、四谷、新宿の街並が広がっている。外濠の手前に並ぶJRの線路には、模型のような電車が頻繁に行き交う。
 ここからの眺めを見やって写真を撮り終えたら、「外濠」廻りの目的の半分は終わったような気になった。実際の散策は、距離としてはまだ始まったばかりなのだが。
 ボアソナード・タワー地下1階の学生食堂で、学生に紛れて昼食をとった。教職カツカレーが人気のようだが、僕は季節限定のサンマ焼き、おしたし、みそ汁、ライスで。学食は安い。

 *4.「外濠」の出発点は、日本橋川「堀留橋」か?
 
 「新見附」の法政大ボアソナード・タワーを出て、外濠公園通りを歩いて「飯田橋」へ。
 飯田橋の「牛込見附」の「牛込橋」のたもとには、「牛込門」の櫓台石垣が残る。まるで城跡のようなしっかりした組み石だ。
 左方に「牛込濠」を見ながら牛込橋を渡ると、そこは神楽坂だ。
 「神楽坂」はかつて花街としても栄えたところで、古い老舗と新しい店が程よく混合する魅力的な僕の好きな街だ。石畳の通りにしっとりとした和風の料亭があると思えば、新しいフレンチやイタリアンのレストランも点在する。
 先日、1869(明治2)年創業という「志満金」で、鰻を食ってきたばかりだ。

 「外濠」は、現在、飯田橋で途切れている。
 だが、その先にも「飯田濠」があった。
 しかし1972年というから、そう昔の話ではないが、市街地再開発の話が起き、住民の反対運動があったものの、80年代に飯田濠は埋めたてられた(一部暗渠化)。今は、そこには大きな複合施設のビルが建っている。
 それでもその場所は、「神楽河岸」という住所として、名残をとどめている。

 飯田橋からJR線に沿って、東の「水道橋」方面へ進む。
 ここら辺りからは外濠は「神田川」と合流している。神田川は、飯田橋より東は江戸時代に洪水対策と外濠に適合させるため開削を続けた、いわば運河である。
 水道橋に行く手前で、「小石川橋」に出くわす。ここで、神田川よりTの字に、南に「日本橋川」が分かれることになる。
 「神田川」は、このまま、「水道橋」、「お茶の水」「秋葉原」を通って、「浅草橋」を過ぎて「両国橋」の隅田川に辿る。

 神田川から分かれた「日本橋川」は、首都高速道路・池袋線の下を流れる。というか、日本橋川の上に首都高を走らせたのだ。
 日本橋川は、「三崎橋」から南下して、首都高・西神田ランプのところにあるのが「堀留橋」。「堀」は「外濠」のことで、日本橋川は江戸時代には神田川まで繋がっていなくて、ここで止(留)まっていたので堀留橋の名となった。
 日本橋川も人口の掘割(運河)で、いわば堀留橋が江戸城外濠の「の」の字の拠点といえる。

 *5.九段下「俎橋」から、橋を廻って、「日本橋」「八重洲」へ

 「堀留橋」から日本橋川を南下すると、「九段下」の「靖国通り」に架かる「俎橋」に出る。「俎」という字は読みづらいが、「まないた」である。
 この俎橋から靖国通りを東へ進むと神田神保町で、古本屋が軒を連ねる。
 俎橋を過ぎて、次の橋を右手(西南側)に行けば、千代田区役所があり、その先は「内堀通り」で、「内濠」が意外やすぐそこにある。
 この辺りが、外濠と内濠が最も接近しているところである。
 この千代田区役所のビルの横に、「大隈重信邸跡」の記念碑がある。この地の大隈邸が攻撃目標にされた竹橋事件後、大隈は早稲田に本邸を移している。

 さらに、左に共立女子大を見ながら日本橋川を進んでいくと、「雉子橋」(きじばし)に出る。「雉子橋門」があったところだ。
 この辺りの日本橋川の川縁は、外濠の名残をとどめるきれいな石垣が続いている。ところが、空を遮る首都高の高架線が、何とも煩わしい。
 続く「一ツ橋」も、「一ツ橋門」があったところ。一ツ橋といえば、徳川最後の将軍慶喜を出した一ツ橋家で知名度は高い。
 次に出る「錦橋」の先に遊歩道があるが、工事中だ。
 
 さらに、「神田橋」の次は「鎌倉橋」。神田川沿いに走っていた「外堀通り」が、聖橋から南下して、この鎌倉橋のところで交差して、ここから日本橋川沿いが「外堀通り」となる。
 地図を見ると、この辺りの外堀通りはややこしい動きをしている。
 さらに日本橋川に沿って進むと、工事中の「常盤橋」に出くわす。常盤橋は1877(明治10)年に石造りになり、都内に残存する最古の石橋である。この橋に使われた石が、明治維新の江戸城開城で不要になった石だといわれている。ここはJR高架のガードを潜ったりして、少し戸惑ってしまった。
 さらに進むと「一石橋」(いちこくばし)に出る。この橋のたもとに、江戸時代末期に建てられた「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」の石標があった。この辺りは日本橋に近く、昔から人通りが多かったのだろう。

 一石橋より首都高の下を通る日本橋川に沿って進むと「日本橋」に出る。
 まずは、東海道の出発点でもある日本橋に行くことにした。大通りではない裏通りのようなビルの谷間には、いまだ古い建物が残っていて懐かしい東京の匂いがする。
 左手に日本橋三越の新館、右手に「日本橋」が架かる「中央通り」に出る。
 日本橋には、中央通りからしか来たことがなかったので、裏通りからさ迷いこんで来た感覚は、何だか新鮮だ。
 日本橋は麒麟や獅子の装飾があり、やはり風格がある。上に首都高がなければの話だが。
 日本橋川は、この先、「江戸橋」を過ぎ、「永代橋」のある隅田川まで続く。

 実は「外濠」は、この一石橋から隅田川に進む日本橋川を分けて、現在の東京駅の八重洲の方に南下していた。しかし南下した外濠は、現在は埋めたてられている。
 日本橋から一石橋に戻って、南下した外濠の名残の「外堀通り」を進むと「呉服橋」に出る。この辺りで、今まであまり感じなかったが、どぶ臭いにおいがした。近くの日本橋川の臭いだろうか。
 呉服橋からは、すぐに「東京駅・八重洲口」までたどり着いた。

 「外堀通り」は、正式名は「都道405号外濠環状線」という。都道405号線は、新橋が起・終点だが、外堀通りは、ここ八重洲2丁目が起・終点となっている。
 まずは、外堀通りの終点まで来たことにしよう。

 *6.「赤坂見附」から「四谷見附」へ、江戸城一周

 「外堀通り」は、一部を除いてほぼ「外濠」に沿って走っている。
 赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附、飯田橋から、それに日本橋川、神田川と水面が残り、濠の風情を残しているところもある。ところが、日本橋川の一石橋から南の八重洲方面に延びた外濠は埋めたてられて、外堀通りとなり、上には首都高が走り、今は濠の面影はない。
 それでも、八重洲から延びる、「数寄屋橋」、「新橋」、「虎ノ門」、「溜池」と、「赤坂見附」に到る通りの地域には、名前にかつての痕跡を見ることができる。
 有楽町と銀座の間にある「数寄屋橋」は、時代は下がるがNHKラジオドラマ、映画で一世を風靡した「君の名は」(菊田一夫原作)の舞台である。岸恵子、佐田啓二の主演で映画がつくられたのが1953(昭和28)年で、それを見ると(録画でだが)、二重のアーチ型の数寄屋橋が映し出されている。東京の「ポンヌフ」と呼んでもいいぐらいだ。
 数寄屋橋は、1958(昭和33)年に埋めたてられた。その場所には、今は公園がつくられ記念碑があるが、僕は銀座に来るたびに、「君の名は」を偲ぶように、あったはずの数寄屋橋を想像する。

 「外堀通り」の終点の八重洲まで来たところで、外も黄昏てきた。
 それで、外濠の水面が残る赤坂見附へ、八重洲の東京駅から、地下鉄でショートカットする。

 *
 「外堀通り」の「溜池」を北上すると「赤坂見附」にぶつかる。
 外堀通りと、国道246の「青山通り」と交差したところに水を湛えた濠(堀)があり、橋が架かっている。この濠が外濠の名残の「弁慶濠」で、橋は「弁慶橋」である。
 橋の向こうは、ホテル・ニューオータニのある千代田区の「紀尾井町」に繋がっている。つまり、かつて紀州家、尾張家、井伊家の屋敷があったところだ。

 弁慶橋から濠を右に見ながら、弁慶濠に沿って続く外堀通りを歩く。
 しばらく歩くと濠は途切れる。すると、左手は「迎賓館」で、右手には長い平地が出てくる。ここは元の 「真田濠」で、都有地だが現在は上智大のグランドとして使用されている。
 真田濠の先はもう四ツ谷駅で、駅の前には「四谷見附」の橋が「新宿通り」に架かっていて、下にJRの線路が通る。
 四谷見附を市ヶ谷方面に渡ると、もう1本の古い通りに出る。そこが江戸時代からの道で、そのふもとには「四谷門」の大きな石垣が残っている。
 その石垣の先から細い道を上にあがると、そこが外濠の土塁(土手)に造られたことがわかる。
 四ツ谷から市ヶ谷方面に進むと、「市ヶ谷濠」と「市ヶ谷見附」が見えてくる。今日の出発点の、いわゆる「外濠」である。
 もう、とっくに日は暮れて、街の明かりが眩しい。

 *
 こうして、一応の「外濠」の現風景を見てきた。
 思うに、外濠が残っていたら、東京の風景はまったく違ったものになっていただろうということだ。
 東京八重洲口前から、有楽町、新橋、虎ノ門、溜池と水が流れていたら、そこが堀を挟んだ桜の並木道、あるいは場所によって柳の並木道だったらと、想像するだに悔しくもあり愉しくもある。
 「もしお互い生きていたら、半年後の11月24日の夜8時に、またここで会いましょう」なんて台詞が似合うのは、橋の上から水を眺めながらだもんね。

 「あゝ、それで君の名は?」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三浦半島散策part3――観音埼、浦賀、久里浜、哀愁の港に霧が降る

2019-05-05 04:22:47 | * 東京とその周辺の散策
 新しい「令和」を迎えて、ふと「平成」とは何だったのだろうと考えた。
 いつのまにか過ぎ去った感じだが、30年の月日が流れたのだ。何事もなかったかのような平成だが、振りかえってみると社会的にも個人的にも様々なことがあったのだった。決して平穏だったとはいいがたい。
 それでも、時代として「平成」が大きな変化がなかったという印象は、先の「昭和」が事件や出来事や、喜怒哀楽や波があり過ぎたからかもしれない。
 また、漢字は表意文字だから、「平成」という字を見たら、心の奥深いところで「平和に成る」もしくは「平和を成す」と連想しているであろうし、「へいせい」という音は、「平静」という意味も重なってきて、「平穏」「平安」にもゆるやかに繋がっていく。
 どう見ても、「平成」からは「波乱万丈」は結びついてこない。
 それに、平成天皇の穏やかな表情である。
 4月30日の「退位礼正殿の儀」における最後の言葉に、平成天皇は「ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と結ばれた。
 普段はめったに耳にすることはないし目にかかれない言葉である「安寧」という言葉が、何の違和感もなくすっと自然に入って来た。「安寧」(あんねい)とは、広辞苑によれば、「世の中が平和で、穏やかなこと」とある。
 「平成」とは、様々な出来事があったけれど、「安寧」という柔らかなオブラートの空気に包まれた時代だったのかもしれない。

 * 「平成」の最後に、「三浦半島」へ

 平成の年の最後に、三浦半島を散策することにした。
 三浦半島は半島全体が変化に富んでいて、散策の宝庫である。
 平成最後の月にあたる2019年の4月末は天候が不安定で、最後の日の4月30日は、三浦半島は雨の予想だったので計画を前倒しにして、4月26日に行うことにした。
 湘南の士と三浦半島を散策するのは、2017年の横須賀港・軍艦三笠~猿島、2018年の三崎口~城ヶ島に続いて、3年目の3度目である。
 今回も、士の緻密な計画による、観音埼、浦賀、久里浜散策である。それに、久里浜港から対岸の千葉の金谷までの、船による遊覧というオプション付きである。

 その日の朝、多摩を出たときは雨だったが、昼前に横浜に着いたときは、空は曇ってはいたが雨は降っていなかった。
 横浜から京急線で横須賀市の「堀ノ内」で乗り換え、「馬堀海岸」駅で降りる。馬堀海岸よりバスで「走水神社前」下車。人通りもまばらな静かな通りの向こう側は、すぐ海だ。
 空は雨が降りそうで降らないといった模様で、どこまでも灰色だ。昨日の暖かさとは打って変わって、季節も後戻ったかのように肌寒い。

 「走水神社」は、通りから階段を登ったところに社殿があり、さらに小高い森に分け入る奥に小さな祠がある。いかにも神社らしい神社だ。
 参拝したあとバス通りへ戻り、昼食の飯屋を探す。
 通りには、「〇〇丸」という釣り客相手の看板が並ぶそのなかに、風景に埋もれるような「味見食堂」を発見。この名前を見たとき、僕はすぐに青森の五所川原の駅前にあった「平凡食堂」を思い出した。何とも言えない味のある名前だ。
 何の変哲もない普通の家の扉を開けて中に入ると、意外やスーツ姿の会社員とおぼしき客のグループがいる。
 魚料理がメインの食堂のようなので、アジフライ定食、それに単品でタコの刺身、イカのゲソのテンプラを注文。
 海辺で食べる、何気ない食堂での何気ない魚料理は、何とも美味しい。都心で食うアジフライとは違うのだ。

 * 何はともあれ、「観音埼灯台」を目指して

 「走水神社前」からバスで「観音埼」へ。
 観音埼は公園になっていて、メインの目的地は灯台なのだが、砲台がいくつもあり、海岸部にある「砲台」跡、そこより内陸部にある「堡塁」跡を順次周ることで、観音埼を巡ることになっているようだ。
 三浦半島は、東京湾の入口にあたるので、浦賀にペリー来航以来、明治になり警備のために、「猿島」をはじめ各所に「要塞」が設置されたのだ。

 やがて観音埼の先の「観音埼灯台」に到着。
 白いきれいな灯台である。今にも雨が降りそうな空に包まれて、淋しげに立っているではないか。(写真)
 この観音埼灯台は、日本最初の洋式灯台で、起工は1968(明治元)年、点灯は翌年の1月1日である。この観音埼灯台の起工日の新暦11月1日(旧暦9月17日)が、今日の灯台記念日となっている。
 現在の灯台は3代目で、中を登ることができ、ライトを近くで見ることが可能だ。近くで見る回転式レンズは大きな扇風機のようだ。
 日本で登れる灯台は現在16基あり、入場料は一律200円(子供無料)である。
 今日は曇っているので、海の彼方もかすんで見える。

 * ペリーもやってきた「浦賀」の港

 「観音埼」よりバスで「浦賀」の中心街へ向かい、「新町」で下車。
 「浦賀」は、ペリーが来航した港町だ。通りを歩くと古い町並みが残っている。街は、港が長く食い込んでいて、その両側を繋ぐ橋はなく、渡しの船が今も活動している。
 道沿いの「東叶神社」へ。ここは、勝海舟が威臨丸の太平洋横断の無事成功を願って断食したとされるところだ。
 東から西の湾の対岸へ渡るため、「渡し」へ行くと、船もなく人も誰もいない。向こう岸に船がいるので、呼び出しボタンを押すと、ほどなく船は動いてこちらに来てくれた。
 渡し賃大人一人200円で、乗ったらすぐに出発してくれて、気軽な船旅が楽しめる。
 対岸には「東叶神社」と向きあうかのように、「西叶神社」が待っている。

 ここから、久里浜港からの遊覧の船に乗るため、久里浜港へ向かうことに。
 バスの便が不明なので、タクシーを拾おうとしたがなかなか見つからない。そうこうするうちに久里浜行きのバスが目の前に来たので飛び乗って、久里浜駅の近くの「夫婦橋」で下車。そこから地図を見ながら、久里浜湾の「東京湾フェリー」発着所まで歩くことにする。
 地元の人に道を訊きながら、20分ないし30分ぐらい歩いただろうか、ようやくフェリー発着所に着いた。

 * 久里浜港から金谷港へ――哀愁の海に霧が降る

 久里浜港から金谷港への「東京湾フェリー」は、約1時間に1本出ている。
 フェリーで東京湾を横断し、対岸の金谷港で降りないで、その船で久里浜港まで戻ってくるという、往復の航路を楽しむ「遊覧乗車券」を購入。割引運賃で、大人一人1,030円である。
 17時25分、神奈川県横須賀市の久里浜港発の船は、18時5分、千葉縣富津市の金谷港着。
 船は思っていたより大型で、船内には軽食や喫茶もある。海を眺めながら、ゆったりとしたテーブルでコーヒーを飲むのは心地よい。
 金谷港は、落ち着いた静かな港だった。すぐ先に鋸山が見える。
 日が暮れ始め、金谷の街に灯がともりだす。晴れた日だったら、海に夕陽が見えたことだろう。
 
 18時25分、金谷港発。
 客室の外へ出てみると、霧雨のようだ。
 空は次第に暗くなり、遠くに黒く突き出した三浦半島が見える。
 黒く突き出た三浦半島の先に、灯りがともった。いや、灯りが見えたのだった。観音埼の灯台の灯だ。レンズが回転しているのだが、点滅しているかのように見える。
 誰か、佐田啓二のような灯台守がいるのだろうか。映画「喜びも悲しみも幾歳月」(監督:木下惠介、1957年)のファーストシーンに登場し、ロケ地になった灯台だ。
 昼間目の前で見たというより、中に入った灯台の灯を、その日に海から見るという、またとない体験ができた。
 観音埼の灯台の灯は、あたかも霧の中の哀愁に充たされていた(ように思えた)。
 「日暮れが青い灯(ひ)つけてゆく、宵の十字路
 涙色した霧が今日も降る……」
 最近、「哀愁の街に霧が降る」(唄:山田真二、作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)に凝っているのだ。

 *

 19時、久里浜港着。
 思ったより賑やかな、久里浜の街を散策。「黒船市場」という名のアーケード街は、何匹もの鯉のぼりが垂れている。5月、すぐに「平成」も終わるのだ。
 ようやく、街中の魚料理の食堂で夕食をとる。
 久里浜の街にも、今日は霧が降る……

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江島神社から鎌倉への桜行

2018-04-04 03:50:38 | * 東京とその周辺の散策
 あれはいつのことだっただろうか。
 夏も終わろうとしているのに、その年は一度も泳ぎに行っていなかったので、一度ぐらいは行こうと思いたち、手頃な海水浴場へでも行くことにした。それで、東京から近いし交通の便もいいので湘南の江の島に目ぼしを付け、夏の終わりの休日に江の島に行ったのだった。
 着いた江の島の海岸は芋を洗うような混雑で、気楽に泳ぎを楽しむような感じではなかったし、のんびり甲羅干しをするような場所もない有様だった。これでは新宿か渋谷に来たのと同じだと、早々に帰ったのだった。

 *江島神社

 この季節、毎年千鳥ヶ淵に花見に行くのだが、今年は江島神社へ行った。
 海ではなく、江の島にある江島神社が目的である。
 江島神社は弁財天を祀っているので有名で、海の三姉妹の女神を祀る「辺津宮」、「中津宮」、「奥津宮」の 三社からなる。これを知って、最近世界遺産に登録された福岡の沖ノ島を有する宗像大社を思い浮かべたら、やはり同じ神であった。

 3月28日午前11時30分、同好の士と小田急片瀬江ノ島線、片瀬江ノ島駅から出発。
すぐに江の島弁天橋があり、それを渡ると江の島だ。ウィークデーだというのに、駅から江の島に向かう人がやたら多い。
 まだ3月だというのに初夏のように暖かく、ティーシャツを着ている少年もいる。
 島に入ったところの入口に青銅の鳥居が構えていて、仲見世通りが続く。
 とりあえず、昼食をとることにした。ここの名物のシラス丼にする。
 昼食をとって、仲見世通りをまっすぐ進むと、江島神社・辺津宮に着く。ここに建ててある奉安殿には、弁財天が二つ並んで飾ってある。その一つは裸弁財天と呼ばれているように裸体であるのは珍しい。
 辺津宮から中津宮、江の島大師を巡り、奥津宮へ。

 途中、「山ふたつ」という地名があるので、小さい山を二つ超えるのかと思っていたら、島をあたかも二つに分けるかのような、海に隆起する岩を例えていたのだった。タモリだったら、この岩の隆起が江の島の誕生を証明する証拠ですね、とでも言うのではないだろうか。
 その岩と対比するように海に向かって建てられている建物が、廃墟のようで奇妙に「山ふたつ」とマッチしていたのが面白い。
 最後の奥津宮を参拝したあと、食事処でサザエの壺焼きを食す。海を眺めながらのちょっとひと時だ。
 奥津宮の先を海に向かったところからフェリーが出ていたので、それに乗って出発点の弁天橋のふもとに戻った。
 江の島神社の3宮を周るとほぼ島を周ることになり、その途中にも見どころ、食べどころがあり、船乗りも楽しめるとあって、江の島は観光地として申し分ない要素を備えていると思った。東京からは近いし、観光客が多いのも納得した。

 *鎌倉

 江の島駅から江ノ電に乗って、鎌倉に向かった。
 長谷駅で降りて、大仏を見ることにした。道を歩いていると、通りからあちこちにチラチラとピンクの桜が顔を出しているのは、この季節の日本の特徴的な風土である。
 どの桜も満開だ。満開の桜の先に大仏が座っていた。茶会の帰りであろうか、和服姿の女性が桜によく似合う。(写真)

 長谷駅から再び江ノ電で鎌倉駅へ。
 小町通りの店をチラチラ見た後、鶴岡八幡宮の参道である若宮大路へ。ここのセンターは桜の歩道である。小ぶりの桜が整頓されたようにきれいに並んでいる。道路から枝がはみ出さないように気をつけているといった、きちんと前を見ながら歩いている小学生の優等生のような桜並木だ。
 千鳥ヶ淵の、濠の方に奔放に枝をしならせている豪放磊落な桜とは性格が違うようだ。

 八幡宮の境内のなかの、左右にある池の周りの桜も咲き誇っている。
 桜の枝の先を見上げると、濃くなった青空に白い月が浮かんでいる。満月に近い丸い月だ。
 「月と桜」、すなわち「月と花」。
 ちょうど1週間前の3月21日の春分の日に「雪と桜」、すなわち「雪と花」を体験した。この日を併せて、 「雪月花」を体験したとしておこう。

 *

 日も暮れ、腹もすいてきたので夕食を求めて八幡宮を出る。
 士が探してくれた、若宮大路から1本道を離れた雪ノ下の通りに潜むタイ料理店へ。
 夫婦と思われる、人がよさそうなタイ人の営む普通の民家風の店である。
 トムヤンクンもバッタイ(台風焼きソバ)も肉と野菜の炒めも、タイ料理特有のナンプラーを適度に抑えた品のある味のタイ料理だ。
 ビールは、シンハービールとチャーンビールのタイ・ビールが料理によく似合うし、喉に合うようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵国一の宮――多摩の三社祭り

2017-09-21 03:27:37 | * 東京とその周辺の散策
 あれは何年前だっただろうか。昔読んだ小説のような気がする。
 夏の終わり、僕たちは電車に乗って海を見に行った。どこでもいいから、太平洋の海へと、海に向かう電車に乗った。
 海に向かった外房線の電車はやがて止まったので、僕たちは駅を降りた。そこは、上総一ノ宮だった。
 駅を出ると、遠く潮騒の音がしたように感じた。青い空は、つい最近までぎらぎらとした空気を孕んだ熱気はどこかに置き忘れたかのような、穏やかさを漂わせていた。
 僕たちはゆっくり海岸に向かった。海岸に着くと、過ぎ去ろうとする夏を惜しむ人たちが静かに砂浜にたたずんだり、小波に足を遊ばせながら歩いたりしていたが、僕たちと同じように一様に言葉少なだった。
 僕は、今朝その娘が言った「昨日のことはみんな夢よ」という言葉を反芻していた。
 泳ぐこともなく波と戯れることもなく、しばらく砂浜に座って海を見ていた。どのくらい、いただろうか。僕たちは海を離れ、乾いた街中を歩いた。
 そのときは、その町に上総の国(千葉県)の一の宮の神社があることも知らずに。

 *

 <武蔵国一の宮、小野神社>
 東京都多摩市にある小野神社の秋の祭りが9月9日と10日にあった。
 秋の祭りといえば、今まで九州のくんちなどは好んで見てきたが、東京の祭りはあまり意の中になかった。
 東京の祭りでは、有名な浅草の三社祭や新宿の花園神社の酉の市に何度か行った。そういえば、2年前にかつて住んでいた世田谷区の千歳船橋に飲みに行った際、偶然に稲荷神社の祭りに遭遇したぐらいで、東京の地元の祭りはちゃんと見ていない。
 東京でも、秋の祭りは行われていたのだ。

 「小野神社」は東京都多摩市一ノ宮にある神社で、住所表示に残っているように、武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の一の宮である。
 一の宮とは、平安時代の中頃から全国の国(律令国(令制国)による地方行政区分)ごとに決められた神社の社格で、順次、二の宮、三の宮…とある。
 愛知県一宮市や神奈川県二宮町など、地名として残っている地域も全国に見出すことができる。千葉県外房の上総一ノ宮も、一の宮神社(玉前神社)のある町だったのである。
 
 小野神社は、古くは「延喜式神名帳」に記載されていて、南北朝時代に成立した「神道集」の記載に「一宮は小野大明神」という記載が見られ、武蔵国では下記のように編成されているとされる。
 武蔵国総社・六所宮(現・大國魂神社:東京都府中市宮町)でも、以下の編成で祀られている。
 ・一之宮:小野神社(東京都多摩市一ノ宮)
 ・二之宮:小河神社(現・二宮神社:東京都あきる野市二宮)
 ・三之宮:氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)
 ・四之宮:秩父神社(埼玉県秩父市番場町)
 ・五之宮:金鑚(かなさな)神社(埼玉県児玉郡神川村二ノ宮)
 ・六之宮:杉山神社(神奈川県横浜市緑区西八朔)

 ところが、この社格は時代により地域の勢力図などで変わることがあったようで、さいたま市の氷川神社(上記にある三之宮)も一の宮を名のっている。
 僕の手元に、全国の一の宮を走破したという士から譲り受けた「諸国一の宮一覧図」があるが、そこには小野神社が載っていないので疑問に思っていた。これは、「全国一の宮会」加盟社のみの記載なので、加盟していない多摩市の小野神社や新潟県糸魚川市一の宮の天津神社などは含まれていないのだ。
 他に加盟していない一の宮も各地に見られるし、本来一国(地域)に一社の一の宮であるはずが複数の神社が加盟している(名のっている)地域もある。
 ちなみに、肥前国(佐賀・長崎県)の一の宮は、與止日女(よどひめ)神社(佐賀県佐賀市大和町)と千栗八幡宮(佐賀県三養基郡みやき町)の2社が記載されている。ここでも、時代による揺れとはっきりとした統一告示がなされなかったようだ。肥前国の二の宮は不明で、三の宮は天山社/天山神社(佐賀県小城市)である。天山神社は佐賀県唐津市厳木町にもある。

 *

 <多摩三社祭り>
 武蔵国一の宮である多摩市の「小野神社」で例大祭があるというので、9月10日(日)見に行った。神輿に続き、大太鼓と山車が街に繰り出すという。
 小野神社は、多摩川沿いで京王線の聖蹟桜ヶ丘駅の近くにある。
 午後、多摩センターから聖蹟桜ヶ丘行きのバスに乗った。
 旧鎌倉街道にある関戸の熊野神社前を過ぎたところで、止まっている神輿に出合った。その先の方には荷車に乗せられた大太鼓があり、叩く音が響く。とはいえ、聖蹟桜ヶ丘にはまだ大分距離がある。
 こんなところまで小野神社の神輿の一行が来ているのか、このバスに乗ったおかげで偶然に出くわせてちょうどよかったと、次の停留所でバスを降りて、大太鼓と神輿のところに行った。山車ではヒョットコとオカメがユーモラスに踊っている。通りには、休憩所が設えて、冷たいお茶を配っている。
 法被を着た関係者とおぼしき人に訊いてみると、この神輿・太鼓は多摩市関戸にある「熊野神社」の一行であった。
 この日は、一の宮の「小野神社」のほか、関戸の「熊野神社」と乞田川を越えた隣町の連光寺の「春日神社」の3か所で同時に祭りをやっているとのことだった。
 それは知らなかった。まさに、秋の多摩三社祭りである。

 <熊野神社>
 多摩に住んでいながら3社とも行ったことがなかったし、幸運なことに、3社の祭りも同時に見られるのだからと、まずは熊野神社を参拝しに行った。
 このあたりには旧鎌倉街道の要所として、鎌倉時代に「霞ノ関」と呼ばれる関所が置かれていた。多摩市関戸という地名の由来である。
 鎌倉時代末期にこの一帯で、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦が「関戸の戦い」である。この旧鎌倉街道沿いにある地蔵堂の前には「関戸古戦場跡」の碑がある。
 「熊野神社」は、旧鎌倉街道から参道が連なり、その階段の奥に木々に囲まれひっそりと佇んでいた。あたり一面に落ち着いた空気が漂い、心が鎮まる。
 多摩の熊野神社は、懐かしい田舎の鎮守の森を思い起こさせる。
 熊野神社で参拝したあと、土地の人に場所を訊いて、すぐさま春日神社に向かった。

 <春日神社>
 「春日神社」は、関戸から乞田川の行幸橋を渡った先の、旧川崎街道沿いの連光寺の閑静な住宅街にひっそりとあった。
 しかし、こんなところに「行幸(みゆき)橋」とは、かつて天皇が通る橋だったのだろうか。
 そういえば、この地がまだ多摩丘陵だった頃、明治天皇はこの近辺でウサギ狩りを楽しまれており、これを記念して建てられた「多摩聖蹟記念館」が多摩市連光寺にある。聖蹟桜ヶ丘の「聖跡」も、その名残であろう。
 「春日神社」は平安時代に創建されたとされている古い神社である。素朴な造りの神社には関係者が何人か待機しているだけで、神輿は街中に巡行していて静かだった。祭りがなければもっと閑散としているのだろう。
 神輿が通る巡行マップが作られていたので、その地に向かうと笛と太鼓の祭り囃子の音が聴こえてきた。大太鼓に続いて神輿が通る。
 また、別の山車では獅子の舞とヒョットコの踊りが始まった。子どもたちは大喜びである。
 春日神社を後にして、再び旧鎌倉街道に出て聖蹟桜ヶ丘の駅のある川崎街道に向かった。

 <九頭竜神社>
 川崎街道を聖蹟桜ヶ丘駅に向かって歩いていると、地図に「九頭竜神社」というのを見つけた。あまり知られていないが、厳かな名前に魅かれて、その方に歩いてみると公園に出た。
 九頭竜神社は、公園の脇に意外にもこぢんまりとあった。
 鳥居と簡素な祠がひっそりとある。それにしても、いつごろ建てられたのであろうか。やはり、9つの頭と竜の尾を持つ九頭竜伝説にまつわる神社であろうか。竜の像でも建てれば、もう少し有名になるだろうにと思った。
 拝礼をして、聖蹟桜ヶ丘の駅に行った。

 *

 <小野神社>
 聖蹟桜ヶ丘の駅では、祭りにふさわしく数は少ないが出店が並び、大太鼓が打ち鳴らされていて、神輿が止まっていた。
 やっと、小野神社の一行にたどり着いたかと思ったら、それは旧鎌倉街道にて最初に出合った熊野神社の一行であった。小野神社の一行は、先ほど川崎街道に出て行ったという。
 小野神社の一行を追って、聖蹟桜ヶ丘駅前の広い川崎街道に出て一ノ宮の方に向かった。しばらく行くと、笛と太鼓の祭り囃子の音が聴こえた。

 川崎街道で、ついに小野神社の一行にたどり着いた。
 やはり太鼓も神輿も大きく、神輿を担ぐ人も見物する人も多い。山車の上では、オカメがおどけて舞っている。
 高くかざす小野神社の提灯には、誇らしく「武蔵一之宮」とあり、赤い菊の紋が鮮やかだ。法被の背中の「武蔵」の文字は、小野神社のものであろう。一行の着ている法被も幾種類かあるということは、多摩一ノ宮の町以外の近所の町から集まっているのだろう。
 太鼓を打つ人も神輿を担ぐ人も、途中で交代しながら通りを進んでいく。
 小野神社は、川崎街道から多摩川に向かった北の方に住宅街のなかを参道(社道)が入っていく。
 参道に入り神社に戻る前に、神輿を下ろし一息の休憩が行われた。休憩している神輿を担いでいた若い女性たちにどこの町か訊いてみると、府中と言った。大國魂神社の担ぎ手群で、毎年来ているという。さすがに、武蔵の国の総社と一の宮の関係である。

 一行が街道脇で休憩している間、僕は先に小野神社へ行った。
 「小野神社」は、住宅街の参道(社道)が切れたところに鳥居があり、その先に赤い本殿が構えていた。
 脇の社殿では、戻ってくる神輿の一行をねぎらう準備が氏子や関係者で行われていた。
 あたりが昏くなり始めた頃、囃子の音が聴こえてきて、その音が少しずつ大きくなって、神輿の一行が近づいてくるのがわかった。
 やがて太鼓を先頭に、一行が見物人とともに鳥居の門をくぐって神社の中に入ってきた。神輿も神社に帰ってきた。
 境内のなかでは山車の上で、囃子とともに2つの赤い獅子と銀狐の舞が始まり、祭りの最後の華を振る舞った。(写真)
 日は暮れ、ようやく祭りは最後の時を迎えた。

 ニュータウンの多摩の顔とは違った、多摩の秋の祭りは、田舎の祭りのように心を潤ませた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする