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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

横浜・盛り場ブルース③ ディープな野毛から福富町界隈

2024-04-01 02:58:52 | * 東京とその周辺の散策

 国籍不明の路地裏で 戸惑いがてらに 灯りがともる
  ここは横浜 長者 福富 野毛通り 

 関外の大岡川沿いの黄金町を出発して、若葉町から長者橋を渡って日ノ出町、宮川町までやってきた。
 鮨屋の庭に建ててある美空ひばり像を出て、北へ進むともう野毛町である。

 *懐かしき盛り場の匂い、野毛の通り

 「野毛町」は、終戦直後は闇市が並び、その後も盛り場として横浜で最も賑わったところだった。
 現在、横浜の新しい顔は、関内である北の横浜港方面の、みなとみらい・山下町界隈に移っているが、野毛町は、街中に交わる通りや小路にかつての盛り場・歓楽街の一端をあちこちに残している、栄華の街だ。

 日ノ出町、宮川町から北の桜木町駅方面に続く通りは、野毛大通りである。この野毛大通りを北へ進むと、野毛本通りに交差する。
 ずっと歩き続けたので、ここらあたりでちょっと休憩をしようと野毛本通りを見ると、次の野毛仲通りと交わるところに「カフェ・カルディー」なる店が目に入った。カフェとあるが街中によくあるカフェ・チェーン店とは違い、昔ながらの町の喫茶店である。
 ドアを開けて中に入ると、ママさんが一人でやっていて、地元の人が憩いでやってくるアットホームな雰囲気の店だ。どこか田舎の街にやってきたような気分になる、妙に落ち着く店である。コーヒーを飲んで一息つく。
 店を出たら、野毛本通りを東側へ進み、野毛小路の先を左折(北)した通りに「福音喫茶メリー」という喫茶店があった。キリスト教の伝道を行っているのだろうか。造りも雰囲気も厳かなので、ドアを開ける気にはなれなかった。

 その通りを過ぎると、ちょっと空気が変わった通りに出た。通りの入口に提灯を並べた商店街アーチがあり、両サイドには飲食店が並ぶ野毛柳通りだ。
 地方都市によく見かけた、懐かしさを漂わせる繁華街・飲食街・小路だ。こんな通りで飲むのもいい。なんとなく、銀座にある迷路、三原小路を想起した。

 *都橋から宮川橋へ流れる都橋商店街

 柳通りを離れて都橋から大岡川に沿って歩いたら、宮川橋に向かってなだらかなカーブの川の流れに添って店が連なっていた。この2階建ての長屋のような繋がった建物群が都橋商店街で、またの名をハーモニカ横丁というそうである。
 よく見れば、1階の店舗は道路上に正面は向いていて、2階は正面が河川に向いているという個性的な集合店舗である。
 もともとは東京オリンピック開催にあたり、戦後野毛本通りなどの路上で営業していた露店を撤去し、その店を収容するために1964(昭和39)年に川沿いの道路上に建設されたものという。
 そうか、私が上京した年に建てられたのか。店並みに疲れは隠せないが、明かりがともり、まだ営業している店も多い。年月を経て、通り自体に味が滲み出ている。

 *横浜のコリアン・タウン

 宮川橋を渡ると、「福富町」に出た。順に、福富町西通り、福富町仲通り、福富町東通りとなっている。
 街は明らかに歓楽街である。バーなどの飲食店もあるが、ソープランドの店が目立つ。交差点に建つ実直そうなビルには、伝統を思わせる英国屋のネオンが通りを睥睨している。老舗スーツ仕立店と見間違えてしまった。
 さらに歩き進むと、韓国料理店が多く目につく。すると、通りにネオンに彩った「KOREA TOWN」のアーチが輝いている。その横には、「福富町国際通り」と添えられている。(写真)
 東京の新大久保にも堂々と街に「コリア・タウン」を謳ってはいないので、画期的な宣言街だろう。
 すぐ近くの若葉町には、タイ・タウンのごときタイ料理店とマッサージ店が多く目についた。
 この界隈は、横浜における多国籍・無国籍的な盛り場の街である。東京・新宿の歌舞伎町に比肩すると言っていい。

 もうとうに日は暮れて、街には明かりがともっている。ここまで来たら、青江三奈の歌う「伊勢佐木町ブルース」で名高い伊勢佐木町に足を踏み込まずに、ここを後にするわけにはいかない。
 すぐ隣の「伊勢佐木町」の盛り場であった通りを確認し、JR関内の駅に向かった。
 関内の駅の近くに「吉田橋」がある。
 もともとここには川(派大岡川)が流れていて、伊勢佐木町と馬車道を繋ぐ吉田橋が造られ、ここにいわゆる「関内」の基点ともなる関門番所が置かれていた。
 現在の橋は、幕末期の1862年に造られた木造橋より5代目にあたる。派大岡川は1971(昭和46)年に廃川となり、現在その跡には半地下構造の首都高速横羽線が、両岸の地上部は新横浜通りが通る。
 ここから野毛町方面に向かって、「吉田町」なる町名も残っている。

 *

 JR関内駅から石川町に出て、中華街に向かった。
 馴染みの東北・満州料理である。
 酒(ビール、紹興酒)の肴に、羊肉串、よだれ鶏(口水鶏)、海鮮(エビ・ホタテ・イカ)XO魚醤炒め。寒いこともあって、今回の本命料理である羊肉牡蠣酸菜土鍋。それに海鮮炒飯。
 つい、食べすぎて、飲みすぎてしまった。

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横浜・盛り場ブルース② 若葉町から、「美空ひばり像」を探して

2024-03-09 02:44:11 | * 東京とその周辺の散策
 川の流れに 惑わされ いつしか揺らぐ 街の灯よ
  ここは横浜 若葉 宮川 日ノ出町

 地図を見るとよくわかるが、横浜の主要地といえる関内およびその関外は、横浜港のみなとみらい地域から出ている大岡川と、山下公園の東端から出ている中村川の間の地域だということである。
 この二つの川の間に横浜が凝縮されている。

 *若葉町から、大岡川に添いながら関外、吉田新田を歩く

 さて、横浜の関外を歩いている。
 大岡川のほとりの「黄金町」から出発して、大岡川の対岸の「末吉町」、「若葉町」にやってきた。
 横浜のこの一帯は、通りを1本またげただけで違った町名になる。
 若葉町の東隣の通りは「伊勢佐木町」で、その先は「曙町」、その先は「弥生町」となり「大通り公園」にぶつかる。
 ちなみに、ここまでが中区で、大通り公園から先は、南から「高根町」、「真金町」、「永楽町」と南区である。その北の方が再び中区で、「山吹町」、「万代町」と連なる。
 東京都の一部では、歴史的な住居表示を平坦な町名に変えてしまったところが多々ある。しかし、ここ横浜で細かく分かれて複雑となっていれども、町名が統合されずに残っているのは喜ばしい限りである。

 関内の方向に向かった「若葉町」のこのあたりにくると、タイのマッサージ店やレストランをはじめ飲食店があちこちに出没し、盛り場の雰囲気が出てくる。「Hotel Bali Bali」なる、南国リゾートと見紛うホテルもあり、無国籍な街の雰囲気が出てきたようだ。
 若葉町の通りを進んで「福富町」の手前を、再び大岡川の方に向かって、東の方に左折する。

 大岡川・長者橋の手前付近に、突如「清正公堂」なるお堂が出現する。
 清正といえば熊本藩の加藤清正であろう。どうしてここに清正公がと思うが、解説によると熊本の本妙寺の上人が長者町にあった常清寺境内に開堂したことが起因のようだ。戦災により常清寺は移転したが、清正公堂は、長者町の初代吉田勘兵衛住宅跡に別院として建立したという。

 そのすぐ先に「吉田家大井戸跡」がある。
 長者橋たもとの屋敷跡地にある、初代の吉田勘兵衛が掘ったと言われる井戸の跡である。
 清正公堂の建立に関して出てきたあの吉田家である。この一帯は吉田というのが頻繁に出てくる。
 では、吉田とは何者なのか?
 吉田勘兵衛は江戸時代前期の材木商であったが、17世紀中期にかつて入海であったこの一帯を開墾した人物である。その後、この一帯は吉田新田と呼ばれた。
 関内のふもとにある吉田橋をはじめ吉田町という町名にもその名が残っている。

 吉田家大井戸跡から大岡川に沿って進むと、すぐに「長者橋」に出る。長者橋というからには、ここは長者町なのか?
 そう「長者町」なのである。

 *長者町の不思議

 「長者町」は不思議な町だ。
 このあたりの町は、東西(地図上では左右)、南北(地図上では上下)の通りが碁盤の目のように走っていて、伊勢佐木町にしても曙町にしても、だいたいが南北の通りが町の区切りである。
 しかし長者町は異なる。
 長者橋のたもとに来たとき、もっと西の方でこの町名を見た記憶があったので、おや、ここにも同じ名の長者町か?と不思議に思ったのだ。それで、詳しい地図を見た。
 長者町は、この一帯の町の区切りである南北(上下)に逆らい、通りを切り裂くように東西(左右)に走っているのだった。
 「横浜駅根岸道路」が、JR根岸線の南をだいたい平行に、つまり関外の吉田新田を横断するように東西(地図上では左右)に走っている。その通りの東の中村川の「石川町」を挟む車橋から(1丁目)、西の大岡川の長者橋まで(9丁目)の、通りに沿った約1㎞の細長い地域が長者町なのだ。
 それゆえ、南北に長い伊勢佐木町は2丁目と3丁目の間で分断されていて、長者町の4丁目と5丁目の境に「大通り公園」が南北に貫いている。ここに、横浜市営地下鉄ブルーラインの「伊勢佐木長者町」なる駅がある。駅名に伊勢佐木の名が付いているが、伊勢佐木町と隣接しているわけではなく、名前を拝借したに過ぎない。
 というわけで、長者町の接する町は、大岡川・長者橋の対岸の「日ノ出町」から、中村川の対岸の「石川町」に連なる間の20余町にものぼる。
 これは多い。これほど多く他の町と接している町をほかに知らない。長者町の通りを歩き進むたびに、左右(東西)の町の名が変わる。

 *日ノ出町から宮川町へ

 大岡川に架かる長者橋を渡ると「日ノ出町」である。
 すぐの川べりに碑がある。
 「長谷川伸生誕の碑」である。
 長谷川伸と言っても、今では知らない人が多くなったであろう。かつて「沓掛の時次郎」、「瞼の母」、「一本刀土俵入り」など新国劇で人気を誇った劇作家で、歴史小説家である。1963(昭和38)年、79歳で永眠。

 京急「日ノ出町駅」脇の細長い路地を進むと、長い階段が現れ、その坂下のふもとに「天神坂碑」なる石碑がある。
 先にあげた「吉田家大井戸跡」にも登場した、この一帯の吉田新田を開墾した吉田勘兵衛の碑である。勘兵衛が新田を開発するにあたり、埋立てに必要な土砂を採集したことを示す記念碑で、昭和9年に建てられたという。
 この階段を上るのは、これからの歩く工程を考慮してやめることにして、日ノ出町駅前の通りに戻った。

 日ノ出町駅前の通りを北へ進むと大きな通りに出くわす。
 そこで飛び込んできたのは「横浜ロック座」。普通のビルの1階にあり、派手な看板が目につく。立て看板には、「今週の舞姫」と5人のかわいい女の子の顔写真がアップされていて、その横に「入場料金5000円」とある。
 アイドルのショーと見間違うが、ストリップ劇場なのだ。末吉町にあった黄金劇場とはストリップの本質が異なる、今どきの劇場なのである。

 その通りを北へ行くと「宮川町」になり、映画館「光音座」がある。映画館はカウンター、券売機を挟み1と2に分かれていて、「光音座1」がゲイポルノ映画、「光音座2」がピンク映画の専門館である。
 このような映画館も、今では珍しいかもしれない。
 この先の「野毛町」の繁華街には、ゲイ向けの飲食店が多くあるという。その領域なのだ。
 この近くには、場外馬券売り場の「ウインズ横浜」がある。ここは、美空ひばりが本格デビューを果たしたとされる「横浜国際劇場」があったところである。

 *丘のホテルの 赤い灯も……美空ひばり像

 その元横浜国際劇場の向かい側にある鮨屋の前庭に、見過ごしそうだったが「美空ひばり像」が建っている。あの戦後昭和の歌謡曲史上に大きな足跡を残した、美空ひばりである。
 この像を見るのが、今回の散策の一つの目的だった。
 もともと美空ひばり(1937〈昭和12〉年-1989〈平成元〉年)は横浜市磯子区出身だが、彼女が芸能活動をはじめた頃から通っていたという、ここ松葉寿しの主人の発案で、この像は1993(平成4)年に建てられたという。
 像は、シルクハットと燕尾服、そして手にはステッキという、子ども時代のひばりのこましゃくれたスタイルである。これは、横浜が舞台になった初の主演映画「悲しき口笛」(監督:家城巳代治、松竹、1949年)のポスターがモチーフとなっている。(写真)

 丘のホテルの 赤い灯も 胸のあかりも 消えるころ
  みなと小雨が 降るように……
 彼女が歌う「悲しき口笛」(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正、1949年)も大ヒットした。

 美空ひばりの像は、おそらくここだけであろう。
 ※調べてみると、福岡市南区油山にある油山観音正覚寺の敷地の中に「ひばり観音」があるが、ここは美空ひばりとの縁を考えても、像の持つニュアンスも異なるようだ。

 それでは、「美空ひばりの歌碑」はというと、正確なところははっきりしないが、日本全国に8カ所あるようだ(2023年現在、湘南の士・資料協力)。
 ≪歌碑一覧≫(日本列島、北から順に)
 ・「美幌峠」 北海道網走郡美幌町
 ・「リンゴ追分」 青森県弘前市/リンゴ公園
 ・「越後獅子の唄」 新潟市南区月潟
 ・「みだれ髪」 福島県いわき市塩屋崎
 ・「歌の里」 長野県上伊那郡箕輪町
 ・「港町十三番地」 神奈川県川崎市 京急線「港町」改札・出所
 ・「川の流れのように」 高知県長岡郡大豊町/大杉の苑
 ・「花風の港」 沖縄県那覇市/がじゃんぴら公園

 *
 私が美空ひばりの歌で最も好きなのは、「白いランチで十四ノット」(作詞:石本美由起、作曲:万城目正、1958年)である。
 ベストアルバムにも入っていなく聴く機会も少ないが、「若い笑顔に 潮風うけて 港のカモメよ〝今日は”……」という歌詞の、ひばりの歌では珍しい爽やかでリズミカルな歌である。
 美空ひばりに関しては、この歌に関連して、このブルグで書いている。
 ブログ→「戦後昭和を疾走した美空ひばりの、「ひばりの森の石松」」(2012-12-10)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/07eed99e5e8a2cd956f514ca0d527918

 私が後悔しているのは、美空ひばりのライブを一度も観なかったということである。
 新宿で毎晩のように飲んでいた若いころ、すぐ近くの新宿コマ劇場でしばしばライブ公演をやっていた。その頃は、気にも留めずに「ああ、また美空ひばりが公演をやっているなぁ」くらいに思って、通り過ぎていた。
 あの日も、あの季節も、いつの間にかままならないところに行ってしまう。

 *
 宮川町の美空ひばり像をあとに、すぐ先(北)の「野毛町」へ入っていくことにした。

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横浜・盛り場ブルース① 裏横浜をあるく

2024-02-29 02:30:06 | * 東京とその周辺の散策
 潮の匂いに誘われて 川のほとりでカモメが群れる
  ここは横浜 黄金 末吉 若葉町……

 これまで、横浜の街を何度か散策した。
 それは、ある程度目的地およびテーマを決めて、湘南の同好の士による緻密な計画・行程のもとに歩きまわり、そしてたどり着く最終地である中華街で、もう一つの目的である東北・満州料理を堪能するという巡行であった。
 それは、このブログにて、「ブルーライト・ヨコハマ」①~④、「日本発症の地を求めて、横浜」①~⑦、に書いてきた。
 ちなみに付加しておくと、そのなかの「ブルーライト・ヨコハマ②——馬車道から汽車道」の記事が、予想外のことだったが「Yahoo! Japan」にいきなり登場(2022.2.1)したこともあった。
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/ad67ab2f1c700a6936fd69f739aa2bad

 これら横浜のたどった散策地といえば、山下公園、みなとみらい、日本大通り、馬車道、元町、山手、根岸、中華街etc.であった。
 つまり、主に横浜港に面した地域で、横浜の観光ガイド地図を見れば、まずこの地域が表れる横浜の顔ともいうべき一帯である。
 地図を見れば、JR根岸線が横浜駅から横浜港を抱くように南東へ向かって、高島町、桜木町、関内、石川町と下っている。その海辺の港側一帯が横浜の表、いわば「関内」である。
 「横浜三塔」と呼ばれるビルである、神奈川県庁本庁舎、横浜税関、横浜市開港記念会館もこの地にある。
 「関内」とは、横浜港が開港した江戸幕末期、大岡川の分流「派大岡川」に吉田橋を架け、武士と外国人との接触を避けるため、そこに関門(関所)を設けた。関内とは、その関門の内(横浜)側ということである。
 関内が横浜の表となると、裏を忘れてはいけない。
 となると、「関外」にも足を踏み入れなければならない。裏横浜、そこから花を咲かせた盛り場の街を目指そう。

 *噂に聞いた街、黄金町から歩く

 横浜の「黄金町」といえば、名前は聞いてはいたが行ったことはなかった。
 横浜の裏町といえば、ここから出発するのが最も相応しいと思った。かつて映画やテレビドラマの舞台として登場したこともある、戦後、麻薬密売の温床地として魔窟と称され、青線地帯、そして、いわゆる「ちょんの間」の街でもあったところである。

 2024(令和6)年1月11日午後、京急黄金町駅を出発点として駅を降りたった。
 黄金町駅は、大岡川に沿ってあり京急線は高架を走っている。
 駅から歩いてすぐのところに、電車線の高架に寄り添うように2階建ての建物が連なっていた。そこが、あの街だとわかった。
 通りの表は区切られた戸口(扉)が並んでいて、戸口には貼り紙らしきものが貼ってあったり、1階と2階の間の軒下には店の印の看板らしきものが書かれていたりして、一見して飲み屋街、もしくは飲み屋街だったとわかる。もしくはと過去形にしたのは、その通りには人影がなく、そこが活動しているようには見えなかったからである。
 高架の線路と建物群の間は、車1台が通れるほどの道である。
 その一角、そこを”街”と言っておこう。その街は、くたびれ切って生気を失っているように見えた。
 そこが、例の黄金町の一角だった。(写真)
 驚きや感動も、失望や落胆もなかった。
 そこは、かつて栄えた過疎が進む炭鉱町などに見られる、失われつつある繁華街、商店街を思わせたからである。
 ゆっくり一軒一軒見ながら、通りを歩いた。もう店をやっていないところが多かったが、まだ営業していると思われるとこともあった。飲食店以外の、おやこんなところにと思わせる美術関連の店舗もある。
 というのは、いわゆる「ちょんの間」(置屋)と称されて行われていた売春関連の店が2005(平成17)年、一斉摘発・閉店に追い込まれ、その後この一帯の店がアート関連業へイメージチェンジした時の名残なのだ。

 黄金町の連なる建物群は途中で途切れるが、さらに高架と大岡川の間の通りを歩いた。黄金町駅前の大岡川に架かる前田橋から続く末吉橋、黄金橋の先に架かる旭橋のところまで歩き、そこから大岡川に沿ってまた黄金町駅の方へ戻った。
 川に沿った通りは広くきれいに舗装されて、整然と桜の木が植えられている。一時は濁った川だったらしいが、水もきれいだ。この川沿いの通りを歩いていると、誰もこのあたりがかつて魔窟と称されていたとは思えないだろう。
 途中、黄金町交番があり、その建物の屋根の上では大きな鷲か鷹が川の方を睨んでいた。もちろん、造り物だが。

 *大岡川に沿って末吉町、若葉町へ

 黄金町駅前の太田橋を渡って、大岡川沿いに北、横浜屈指の繁華街のある方へ歩いた。
 大岡川の黄金町の対岸沿いは「末吉町」といい、この地に黄金劇場というストリップ劇場が2012(平成24)年まであったという。
 昭和の時代に全国の繁華街や温泉街にあったストリップ劇場も、絶滅危惧種なのだろうか、次第に姿を消している。

 大岡川に沿って歩いていると、川べりのガードパイプの上に白い鳥がとまっている。
 鳩かなと思っていると、士が「カモメですよ。足に水かきが付いているでしょ」と言う。川と言っても、ここは横浜。海に近いのだ。よく見ると、白いカモメはあちこちに目につく。 
 すると、中年のおじさんがふらふらとやってきた。カモメが動きだした。おじさんは持っている紙袋の中から何やら摘まんで手を上に掲げた。すると、飛んできた1羽のカモメがその手先のものを摘まんだ。パン屑かポップコーンかわからないが、えさを与えているのだ。
 それを合図のように、ガードパイプにとまっていたカモメや川の中にいたカモメが飛びたって、おじさんの周りに群がってきた。おじさんは、せっせと摘まんで餌をやっている。
 川のほとりで、カモメが群れている。

 末吉橋のところで右(西)折すると、すぐに「若葉町」となる。
 そこは、横浜名画座、横浜日劇という映画館があったところだ。横浜日劇は閉館となったが、横浜名画座はシネマ「ジャック & ベティ」として今も営業している。
 街の古い名画座も消滅をたどっている。

 若葉町を北西へ、つまり関内方向へまっすぐ進む。
 すると、タイ式マッサージの店が目についた。こんなところにポツンと紛れ込んだのかなと思いながら歩いていくと、そこ1件ではなく通りの左右にパラパラと店の看板が目に入るのだ。マッサージ店に交ざってタイ料理店も点在している。これほどタイの店が集まっているところも珍しい。
 この街は、タイ・ストリート、タイ街のようだ。
 この若葉町の先(西)の通りは「伊勢佐木町」である。
 伊勢佐木町の方には向かわず、若葉町から再び大岡川方向の「日ノ出町」に向かうことにした。
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日本発祥の地を求めて、横浜⑦ 根岸の旧競馬場の廃墟

2023-09-18 03:42:07 | * 東京とその周辺の散策
 横浜の「初めての地」を巡る散策も長く続いているものだ。
 「山下公園」周辺から始まり、「ブルーライト横浜」の流れにのって横浜港の「みなとみらい」から「馬車道」へと歩き廻った。
 そして前回の「日本発祥の地を求めて、横浜」⑥は、「元町公園」、「山手公園」から「港の見える丘公園」を巡った。
 今回は、まずメインの目的の地があった。それは、発祥の地というよりは「廃墟の地」と呼ぶものであった。
 同行の湘南の士からその根岸の地を提案されたときは、どんなものか知らなかったので気軽に賛同した。資料を見たら、それはあまり知られていないが、意外な穴場で掘り出しものに違いないと思った。写真で見ると、その地は朽ちて見えようも威厳に充ちていた。
 もったいぶった前書きになったが、その地とは、「旧根岸競馬場の一等馬見所」である。横浜・根岸にある廃墟の建築物である。なんと、横浜に競馬場があったのだ。
 ということで、旧競馬場があった横浜・根岸を中心に散策することにした。

 *根岸駅から根岸森林公園へ

 今年の夏は気温30度は当たり前で、35度以上の猛暑日もたまにあるというのではなく連日続くという、日本も熱帯になったかという気候状態である。その恒常ともいえない気候が、9月になっても続いているではないか。
 異常な暑さが差し迫ってきた6月27日、JR根岸線の山手駅の一つ先(南)にある根岸駅を午後の2時に出発予定だったが、電車の事故で3時ごろに出発した。
 根岸駅に降り立ったのは初めてで、駅前は広い敷地があり正面にはなだらかな緑の丘(台地)が見える。駅前の人通りもさほど多くはなく、落ち着いた地方の平均的な都市に来た感じだ。
 まず、駅前に石碑がある。

 ・「根岸湾埋立記念碑」(磯子区東町・根岸駅前)
 かつて根岸湾は現在の国道16号線(中通り)辺りまで遠浅の海で漁場だった。根岸線の誘致とともに海の埋め立ての案が出たとき、漁業関係者は反対であった。その後、市と漁業組合との協議の結果、1959年埋め立ての合意調印が行われ、埋め立て事業が開始された。
 今日の根岸の記憶をとどめる記念碑である。

 ・「白滝不動尊」(中区根岸町3)
 駅前の中通りから少し入ったところに不動尊がある。「白滝不動明王」と刻まれた石銘のところから、急坂が昇っている。直線の男坂と曲がった蛇行の女坂があり、登った上に不動堂がある。
 石段脇に滝があり、それがこの不動尊の名の由来だろう。
  
 ・「根岸八幡神社」(磯子区西町1)
 白滝不動尊からすぐのところに「根岸八幡神社」がある。通りに沿って鳥居が立っていて、名称のある額束には「八幡神社」とだけ刻まれている。
 鳥居の先に階段があり、上ると社殿があり、「茅の輪くぐり」が設けられている。「夏越の祓」ということで、一応輪をくぐった。
 社殿の横に、幼稚園があり何人かの園児と彼らを見守る母親が見られる。境内の奥には、こぢんまりとした稲荷神社、金刀比羅神社、厳島神社の3つの神社が並んでいるのも面白い。
 
 八幡神社から本命の廃墟がある根岸森林公園を目指す。
 八幡神社の坂を上がって左(西)に行ったすぐのところで、左(西南)に折れる石段の道を下りた。坂下公園に出たがどうも方向が違うので、再び今下りてきた階段道を上り元の道に戻った。
 そこから、西の方へ進んだのだが、途中でなにやら平坦な下り坂になり工事を行っている。この道も森林公園に続いていそうにない。そこで公園へ行く道を訊くと、今通ってきた道を戻ることになった。
 どうしたことか紆余曲折の歩きのあと(汗)、やっと根岸森林公園へ通じる「根岸旭台」へ出た。こんなに道に迷ったのは初めてだ。
 通りにそって東へ進むと、左手に消防署がある。

 ・「米海軍第5消防署」(中区根岸旭台)
 何台も並んだ消防車と普通車の車庫の上部の看板には、赤い字で「FIRE STATION No.5」と書かれている。ここは、米海軍旧根岸住宅施設の消防署だった。
 この近くに米軍根岸住宅地区があるので米軍管轄による消防署があるのだが、住民はすでに退去しているとのことだ。それでも、消防車はまだ現役で活動しているのだろうか。
 施設の端に英字新聞が置いてある。「STARS&STRIPES Community Publication JAPAN」というタイトルで、横に「FREE」と書いてあるから自由に取っていいようだ。タブロイド判16ページで、内容はエンターテイメント一色で、東京の新旧のシンボルタワーの東京タワーと東京スカイツリーからの景観を比較したり、花火や盆踊りといった日本の夏の催しや宮崎県の観光を紹介したりと、盛りだくさんだ。
 少しアメリカの匂いがする。
 消防署を過ぎたその先から左手に根岸森林公園がある。

 ㉙日本初の近代競馬場跡「根岸森林公園」(中区根岸台)
 公園は、なだらかに芝生が広がり、木々が周りを囲んでいて落ち着いた雰囲気だ。それに、全貌が見渡せないほど広い。ここは、元競馬場だったところなのだ。

 幕末、横浜港は1859(安政6)年に開港され、外国人居留地が設けられた。西洋では競馬は娯楽の大きな要素だった。早くも開港から1年後には元町で、簡単なコースによる洋式競馬が開催された。その後1866(慶応2)年、外国人の要望により、この地に競馬場が設立された。それが、日本初の本格的な近代競馬場である旧横浜競馬場(根岸競馬場)である。
 賭博禁止により日本人の一般庶民には馬券は発売されておらず、日本人で出入りできるのは貴族や政府の重鎮たちであった。明治に入り、競馬場は鹿鳴館にも比肩する貴族の社交場だった。全盛期には天皇賞の基となる「帝室御賞典」など本格的レースも行われ、洋式レースのモデルともなった。
 太平洋戦争が勃発するなか一時的に一般庶民にも馬券が発売されるが、戦争が激化する1942(昭和17)年、競馬は中止となり競馬場は海軍省に接収された。
 戦後は、米軍に接収され住宅地やゴルフ場として使用された。1969(昭和44)年、一部を除き接収が解除となり、1977(昭和52)年、国有地となった地を市が根岸森林公園として開園した。

 根岸森林公園は広々とした公園である。公園を囲む遊歩道をゆっくり回って、北側の通りを隔てた先に繋がる公園に入ると、例の大きな建物が見えるではないか。

 ・「一等馬見所」(根岸森林公園)
 のどかな広々とした公園のなかで目に飛び込んでくる、聳え立つ3塔が連なる古めかしいコンクリートの建物は、なんとも異様な風景である。
 建物は、公園を見渡しているようでもあり、周りを睥睨しているようでもある。近づいてみると、人を寄せ付けないような威厳があり、建物の周りには蔦が絡まり風格すら感じさせる。
 競馬場を見渡すように建てられた「一等馬見所」である。ここが競馬場だった頃には下見所、二等馬見所もあったらしいが、今では一等馬見所だけが残されたという。
 この建物は、関東大震災後の1929(昭和4)年に建てられたJ.H.モーガンの設計によるものだ。モーガンは米国ニューヨーク州生まれの建築家で、横浜山手に残るベーリックホールや山手111番館なども設計している。
 戦後の1945(昭和20)年に競馬場は米軍に接収され、この「一等馬見所」は印刷工場となり、民主化政策の情報発信地となった。1969(昭和44)年、米軍より返還されたが、その後も手つかずのまま今ある廃墟と化している。
 この建物は、横や後ろ側からは近くから見ることができるが、すぐ正面はすぐ隣が米軍の敷地であり、見ることができない。
 しかし、どこかにありそうでないようなアニメに出てくる古城のようで、遠くから眺めるのもよい。横浜にある得難い廃墟である。(写真)

 根岸森林公園を後にした。
 少し北に行った住宅地のなかの、私の古い地図にある「南京墓地」を訪ねた。

 ・「中華義荘」(中区大芝台7)
 中華義荘とは、華人・華僑系の共同墓地のことである。南京墓地とも呼んだそうである。
 中華義荘は、住宅地の奥にひっそりとあった。山手外国人墓地に埋葬されていた華人、華僑が1873(明治6)年、この地に移された。開設当初は仮埋葬所であり、棺の仮安置場所としての性格が強かったが、次第に永眠する華人が増えていったそうである。
 墓地には「地蔵王廟」、3階建の安骨堂(納骨堂)がある。

 ここからは、さらに北の方の、最終地の横浜中華街の方へ行くことにする。
 中華義荘を後にして大きな通りを石川町方面に向かって歩いていると、すぐ目の前で路線バスが停まった。「山元町1丁目」で、疲れていたのでバスに跳び乗った。横浜根岸道路の打越橋を通り過ぎ、中村川の手前の「石川町5丁目」で降りた。
 横浜の街中でバスに乗ったのは初めてだ。たった1駅間だったが、疲れていたので背に腹は代えられない思いだった。

 横浜根岸道路の打越橋を通り過ぎ、中村川に沿って石川町駅、中華街方向へ向かう。
 中華街の一角に入る手前の「亀の端」の袂の木の下に、なにやら遺跡らしきものがある。よく見ると地蔵尊で、こんなところに地蔵さんが立っているとは知らなかった。

 ・「地蔵尊」(濡れ地蔵)(中区石川町2)
 海に身投げした娘さんを救うため、お地蔵さんが海に入り濡れたので「濡れ地蔵」呼ばれるようになったらしい。

 ここを過ぎると、ようやく中華街である。日も暮れたようだ。

 *日が暮れた後は、「横浜中華街」

 中華街では、もう馴染みと言っていいだろう。満州料理、つまり中国・東北料理の「東北人家」へ。
 店へ入るとすぐにトイレで、汗で濡れたシャツを、こうなることを予想して持参したシャツと着替えた。こんなことは初めてだ。
 暑い中での歩きで、汗と疲れた身体のために、とりあえずはビールを一杯。肴は、まずはいつもの羊の串焼きに焼き餃子。
 酒は紹興酒に変え、料理は今まで食べていない、東北板春雨、手羽先の青唐辛子炒め、芝エビの田舎炒め。
 東北板春雨は、日本の春雨とは麺の太さがまるで違う。平たい“きしめん”、イタリアンのフィットチーネの感じで、しこしこしたコシがあって、もっちもちの食感。食べ応え抜群だった。

 いろいろと初めてのことが起こった今回の横浜散策だったが、それも旅(散策も含めて)につきもののことなのだ。
 過ぎ去れば、失敗やそういったことが記憶に残るものだ。
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日本発祥の地を求めて、横浜⑥ 「元町公園」から「港の見える丘公園」へ

2023-05-14 03:14:57 | * 東京とその周辺の散策
 *「山手公園」を後に、「元町公園」へ

 「山手公園」を去って、ビヤザケ通りの北方小学校前のビール井戸を後にして、「元町公園」にやってきた。
 洒落た洋館のエリスマン邸が見えると、そこはもう元町公園だ。その館を抜けて緑のなかの小道を歩くと、まさに古代遺跡のような「山手80番館遺跡」がある。関東大震災前の外国人住居の廃墟である。
 遠く木々の林の奥にプールが見える。こんなところで泳ぐのも乙(おつ)なものだと思わせる。
 道を下りていくと、西洋風の庭園のような景色が広がっている。(写真)
 その先は元町公園の入口の門である。そして、いくつかの遺構、石碑がある。

 ㉒「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」(元町公園)
 1873(明治6)年、フランス人の実業家アルフレッド・ジェラールが居留地建設のために西洋瓦や煉瓦を製造するために工場を建てた。そして、山手谷戸からの湧水を利用して商売として実用化したため、その家屋が水屋敷と呼ばれた。
 この西洋風庭園の頂に煉瓦造りの雰囲気のある建物が建っているが、これはジェラールの水屋敷の建物と関係なく、元町プールの管理棟である。
 この庭園の脇に石碑が建っている。

 ㉓「我国塗装発祥の地」(元町公園)
 日米和親条約締結後に、神奈川宿にペリーと幕府側役人が会見を行う交易談判所を設置した際、江戸の渋塗職人・町田辰五郎がその施設のペンキ塗装を手掛けたという言い伝えが、わが国の塗装の始まりとされる。この碑が元町公園にあるのは不明である。
 また長崎市には、長崎出島のオランダ屋敷内では18世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行われていたとする「近代塗装伝来之碑」がある。

 この庭園の端に元町公園の入口の門がある。ここは、ショッピング通りの「元町通り」にも繋がる通りである。
 元町公園の入口を出た通りのすぐのところに、やはりジェラールの工場の関連遺構がある。
 
 ㉔「ジェラール水屋敷地下水槽」(元町公園前)
 ジェラールが湧水を集めるために建設した貯水槽の跡地である。
 ここから、元町公園を後にする。

 *「港の見える丘公園」から中華街へ

 元町公園を出て、元町通りに出る前に右折して「外人墓地」をなぞるように回って進む。
 途中大きな通りにて左折すると、港の見える丘公園にぶつかることになる。その方向へ歩いていくと、右手に古風な門があり、その先にレンガ色の洒落た建物が姿を現す。

 ㉕「ゲーテ座跡」(港の見える丘公園前)
 わが国初の本格的演劇場といわれるゲーテ座は、最初は居留外国人達の案をもとに、1870(明治3)年に横浜居留地に建てられた後、 1885(明治18)年に現在の場所である港の見える丘公園近くに新たなホールとして建設された。
 その後1923(大正12)年の関東大震災によって建物が崩壊。1980(昭和55)年、岩崎学園によって復元され、 「岩崎ミュ-ジアム」(岩崎博物館)として、衣服やアクセサリーなどの服飾関係の展示品、ゲーテ座にまつわる資料が収められている。

 「元町公園」を背に「岩崎ミュ-ジアム」(岩崎博物館)を横に見ながら進むと、「港の見える丘公園」に着く。
 美しい花壇を抱えるイギリス館を右に見ながら、まっすぐに進むと港の見える展望台に行き着く。左手に山下ふ頭があり、細長く続く海、つまり港が見える。遠く横浜マリンタワーの姿も見える。
 港が見えるといっても、山下公園や“みなとみらい”からの広がった海に比べれば、囲われた港の海だ。しかし、この日は、山下ふ頭に敷設された実寸大18mの「動くガンダム」を眺めることができた。
 港の見える丘公園のなかの「フランス山」を通って元町入口のほうへ向かう。すると、緑の木々のなかからかわいい赤い風車が目に入る。明治時代にフランス領事館があったところでその遺構がある。そして、この風車はフランス山再整備の際に井戸の水くみ用に使用されていたのを再現したものだそうだ。
 公園入口の谷戸坂の下ったところに碑が建っている。

 ㉖「クリーニング業発祥の地」(谷戸坂下)
 江戸時代末のことであるが、当時のクリーニング業、つまり専門洗濯業であるが、それがどんな形態であったか想像するのがむつかしい。碑には、以下のように記してある。
 「安政6年、神奈川宿の人青木屋忠七氏、現在の5丁目にて始めて、つづいて岡沢真次郎氏、横浜元町に青木屋を開業、慶応3年、脇沢金次郎氏、この地を継承し近代企業化の基礎を成した。この間、フランス人ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。」
 そして、すぐ近くの元町入口に「山手迎賓館」の洒落た建物がある。その角に碑がある。

 ㉗「機械製氷発祥の地」(元町)
 横浜開港から明治にかけて、横浜ではホテルのレストランやアイスクリームサロンで供するためボストンや函館から運ばれた天然氷を扱う会社がいくつも現れた。
 碑には、1879(明治12)年に、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ-」がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営された、とある。

 ようやく、日も暮れた。
 「元町通り」から「横浜中華街」へ入った。
 食事をする前に「媽祖廟」へ。お参りと占いは以前やったので、それが目的ではない。その裏の山下町公園に碑があるのだ。台石の上に楕円形のボール型の石がのっている。

 ㉘「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地」(横浜中華街内)
 ラグビーもサッカーもフットボール(foot-ball)である。まだ国際的にもラグビーとサッカーが正確には未分化だった1866(慶応2)年、外国人居留地だった山下町あたりで、イギリス人を中心とした西洋人による日本初のフットボールチーム、横浜フットボールクラブ(YFBC)が結成された。
 その後、1873(明治6)年に横浜公園で行われた試合の様子がイギリスの雑誌に掲載されていた。このイラストがサッカーではなくラグビー様式であるため、このフットボールチームはラグビーだったと考えられている。
 山下町公園の記念碑には、英文とともにこのイラストも敷設されている。

 *
 ようやく夕食のために、中華街でもっぱら贔屓(ひいき)の中国料理店へ。
 最近、横浜中華街の“ガチ中華”として注目を集めた東北料理店である。今回は、東北料理、つまり満州料理に固執せず中華の定番料理を注文したのだが、これがまた美味いのであった。酒は、いつもの紹興酒で。

 *コース「逆打ち」周り

 4月19日、たまたま再び横浜を訪れたのだった。
 四国八十八ヶ所お遍路の最後から廻るのを「逆打ち」というらしい。それに倣ったのではないのだが、先に行ったコースの逆を行ってみた。
 昼のランチを、みなとみらい線「元町・中華街」近くの「横浜中華街」ですまして、「山下公園」に出てから、「港の見える丘公園」に入り、「外国人墓地」を過ぎて、「元町公園」のなかを回り、「元町通り」を通って、そこから堀川(前田橋)を渡って「横浜中華街」へ戻るという、先に行った逆コースを試みてみた。
 
 中華街に戻った時はもう日も暮れていて、夕食はこの日2度目の中国料理となった。
 大通りの路地を入って、呼び声のやさしさに誘われて入った店は湖南料理の「湖南人家」。アヒルの香辛煮込み鍋と海鮮焼きソバ。それに、青島ビールで。
 宵闇の街も、いまだネオンの灯でキラキラだ。

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