*「山手公園」を後に、「元町公園」へ
「山手公園」を去って、ビヤザケ通りの北方小学校前のビール井戸を後にして、「元町公園」にやってきた。
洒落た洋館のエリスマン邸が見えると、そこはもう元町公園だ。その館を抜けて緑のなかの小道を歩くと、まさに古代遺跡のような「山手80番館遺跡」がある。関東大震災前の外国人住居の廃墟である。
遠く木々の林の奥にプールが見える。こんなところで泳ぐのも乙(おつ)なものだと思わせる。
道を下りていくと、西洋風の庭園のような景色が広がっている。(写真)
その先は元町公園の入口の門である。そして、いくつかの遺構、石碑がある。
㉒「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」(元町公園)
1873(明治6)年、フランス人の実業家アルフレッド・ジェラールが居留地建設のために西洋瓦や煉瓦を製造するために工場を建てた。そして、山手谷戸からの湧水を利用して商売として実用化したため、その家屋が水屋敷と呼ばれた。
この西洋風庭園の頂に煉瓦造りの雰囲気のある建物が建っているが、これはジェラールの水屋敷の建物と関係なく、元町プールの管理棟である。
この庭園の脇に石碑が建っている。
㉓「我国塗装発祥の地」(元町公園)
日米和親条約締結後に、神奈川宿にペリーと幕府側役人が会見を行う交易談判所を設置した際、江戸の渋塗職人・町田辰五郎がその施設のペンキ塗装を手掛けたという言い伝えが、わが国の塗装の始まりとされる。この碑が元町公園にあるのは不明である。
また長崎市には、長崎出島のオランダ屋敷内では18世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行われていたとする「近代塗装伝来之碑」がある。
この庭園の端に元町公園の入口の門がある。ここは、ショッピング通りの「元町通り」にも繋がる通りである。
元町公園の入口を出た通りのすぐのところに、やはりジェラールの工場の関連遺構がある。
㉔「ジェラール水屋敷地下水槽」(元町公園前)
ジェラールが湧水を集めるために建設した貯水槽の跡地である。
ここから、元町公園を後にする。
*「港の見える丘公園」から中華街へ
元町公園を出て、元町通りに出る前に右折して「外人墓地」をなぞるように回って進む。
途中大きな通りにて左折すると、港の見える丘公園にぶつかることになる。その方向へ歩いていくと、右手に古風な門があり、その先にレンガ色の洒落た建物が姿を現す。
㉕「ゲーテ座跡」(港の見える丘公園前)
わが国初の本格的演劇場といわれるゲーテ座は、最初は居留外国人達の案をもとに、1870(明治3)年に横浜居留地に建てられた後、 1885(明治18)年に現在の場所である港の見える丘公園近くに新たなホールとして建設された。
その後1923(大正12)年の関東大震災によって建物が崩壊。1980(昭和55)年、岩崎学園によって復元され、 「岩崎ミュ-ジアム」(岩崎博物館)として、衣服やアクセサリーなどの服飾関係の展示品、ゲーテ座にまつわる資料が収められている。
「元町公園」を背に「岩崎ミュ-ジアム」(岩崎博物館)を横に見ながら進むと、「港の見える丘公園」に着く。
美しい花壇を抱えるイギリス館を右に見ながら、まっすぐに進むと港の見える展望台に行き着く。左手に山下ふ頭があり、細長く続く海、つまり港が見える。遠く横浜マリンタワーの姿も見える。
港が見えるといっても、山下公園や“みなとみらい”からの広がった海に比べれば、囲われた港の海だ。しかし、この日は、山下ふ頭に敷設された実寸大18mの「動くガンダム」を眺めることができた。
港の見える丘公園のなかの「フランス山」を通って元町入口のほうへ向かう。すると、緑の木々のなかからかわいい赤い風車が目に入る。明治時代にフランス領事館があったところでその遺構がある。そして、この風車はフランス山再整備の際に井戸の水くみ用に使用されていたのを再現したものだそうだ。
公園入口の谷戸坂の下ったところに碑が建っている。
㉖「クリーニング業発祥の地」(谷戸坂下)
江戸時代末のことであるが、当時のクリーニング業、つまり専門洗濯業であるが、それがどんな形態であったか想像するのがむつかしい。碑には、以下のように記してある。
「安政6年、神奈川宿の人青木屋忠七氏、現在の5丁目にて始めて、つづいて岡沢真次郎氏、横浜元町に青木屋を開業、慶応3年、脇沢金次郎氏、この地を継承し近代企業化の基礎を成した。この間、フランス人ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。」
そして、すぐ近くの元町入口に「山手迎賓館」の洒落た建物がある。その角に碑がある。
㉗「機械製氷発祥の地」(元町)
横浜開港から明治にかけて、横浜ではホテルのレストランやアイスクリームサロンで供するためボストンや函館から運ばれた天然氷を扱う会社がいくつも現れた。
碑には、1879(明治12)年に、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ-」がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営された、とある。
ようやく、日も暮れた。
「元町通り」から「横浜中華街」へ入った。
食事をする前に「媽祖廟」へ。お参りと占いは以前やったので、それが目的ではない。その裏の山下町公園に碑があるのだ。台石の上に楕円形のボール型の石がのっている。
㉘「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地」(横浜中華街内)
ラグビーもサッカーもフットボール(foot-ball)である。まだ国際的にもラグビーとサッカーが正確には未分化だった1866(慶応2)年、外国人居留地だった山下町あたりで、イギリス人を中心とした西洋人による日本初のフットボールチーム、横浜フットボールクラブ(YFBC)が結成された。
その後、1873(明治6)年に横浜公園で行われた試合の様子がイギリスの雑誌に掲載されていた。このイラストがサッカーではなくラグビー様式であるため、このフットボールチームはラグビーだったと考えられている。
山下町公園の記念碑には、英文とともにこのイラストも敷設されている。
*
ようやく夕食のために、中華街でもっぱら贔屓(ひいき)の中国料理店へ。
最近、横浜中華街の“ガチ中華”として注目を集めた東北料理店である。今回は、東北料理、つまり満州料理に固執せず中華の定番料理を注文したのだが、これがまた美味いのであった。酒は、いつもの紹興酒で。
*コース「逆打ち」周り
4月19日、たまたま再び横浜を訪れたのだった。
四国八十八ヶ所お遍路の最後から廻るのを「逆打ち」というらしい。それに倣ったのではないのだが、先に行ったコースの逆を行ってみた。
昼のランチを、みなとみらい線「元町・中華街」近くの「横浜中華街」ですまして、「山下公園」に出てから、「港の見える丘公園」に入り、「外国人墓地」を過ぎて、「元町公園」のなかを回り、「元町通り」を通って、そこから堀川(前田橋)を渡って「横浜中華街」へ戻るという、先に行った逆コースを試みてみた。
中華街に戻った時はもう日も暮れていて、夕食はこの日2度目の中国料理となった。
大通りの路地を入って、呼び声のやさしさに誘われて入った店は湖南料理の「湖南人家」。アヒルの香辛煮込み鍋と海鮮焼きソバ。それに、青島ビールで。
宵闇の街も、いまだネオンの灯でキラキラだ。
「山手公園」を去って、ビヤザケ通りの北方小学校前のビール井戸を後にして、「元町公園」にやってきた。
洒落た洋館のエリスマン邸が見えると、そこはもう元町公園だ。その館を抜けて緑のなかの小道を歩くと、まさに古代遺跡のような「山手80番館遺跡」がある。関東大震災前の外国人住居の廃墟である。
遠く木々の林の奥にプールが見える。こんなところで泳ぐのも乙(おつ)なものだと思わせる。
道を下りていくと、西洋風の庭園のような景色が広がっている。(写真)
その先は元町公園の入口の門である。そして、いくつかの遺構、石碑がある。
㉒「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」(元町公園)
1873(明治6)年、フランス人の実業家アルフレッド・ジェラールが居留地建設のために西洋瓦や煉瓦を製造するために工場を建てた。そして、山手谷戸からの湧水を利用して商売として実用化したため、その家屋が水屋敷と呼ばれた。
この西洋風庭園の頂に煉瓦造りの雰囲気のある建物が建っているが、これはジェラールの水屋敷の建物と関係なく、元町プールの管理棟である。
この庭園の脇に石碑が建っている。
㉓「我国塗装発祥の地」(元町公園)
日米和親条約締結後に、神奈川宿にペリーと幕府側役人が会見を行う交易談判所を設置した際、江戸の渋塗職人・町田辰五郎がその施設のペンキ塗装を手掛けたという言い伝えが、わが国の塗装の始まりとされる。この碑が元町公園にあるのは不明である。
また長崎市には、長崎出島のオランダ屋敷内では18世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行われていたとする「近代塗装伝来之碑」がある。
この庭園の端に元町公園の入口の門がある。ここは、ショッピング通りの「元町通り」にも繋がる通りである。
元町公園の入口を出た通りのすぐのところに、やはりジェラールの工場の関連遺構がある。
㉔「ジェラール水屋敷地下水槽」(元町公園前)
ジェラールが湧水を集めるために建設した貯水槽の跡地である。
ここから、元町公園を後にする。
*「港の見える丘公園」から中華街へ
元町公園を出て、元町通りに出る前に右折して「外人墓地」をなぞるように回って進む。
途中大きな通りにて左折すると、港の見える丘公園にぶつかることになる。その方向へ歩いていくと、右手に古風な門があり、その先にレンガ色の洒落た建物が姿を現す。
㉕「ゲーテ座跡」(港の見える丘公園前)
わが国初の本格的演劇場といわれるゲーテ座は、最初は居留外国人達の案をもとに、1870(明治3)年に横浜居留地に建てられた後、 1885(明治18)年に現在の場所である港の見える丘公園近くに新たなホールとして建設された。
その後1923(大正12)年の関東大震災によって建物が崩壊。1980(昭和55)年、岩崎学園によって復元され、 「岩崎ミュ-ジアム」(岩崎博物館)として、衣服やアクセサリーなどの服飾関係の展示品、ゲーテ座にまつわる資料が収められている。
「元町公園」を背に「岩崎ミュ-ジアム」(岩崎博物館)を横に見ながら進むと、「港の見える丘公園」に着く。
美しい花壇を抱えるイギリス館を右に見ながら、まっすぐに進むと港の見える展望台に行き着く。左手に山下ふ頭があり、細長く続く海、つまり港が見える。遠く横浜マリンタワーの姿も見える。
港が見えるといっても、山下公園や“みなとみらい”からの広がった海に比べれば、囲われた港の海だ。しかし、この日は、山下ふ頭に敷設された実寸大18mの「動くガンダム」を眺めることができた。
港の見える丘公園のなかの「フランス山」を通って元町入口のほうへ向かう。すると、緑の木々のなかからかわいい赤い風車が目に入る。明治時代にフランス領事館があったところでその遺構がある。そして、この風車はフランス山再整備の際に井戸の水くみ用に使用されていたのを再現したものだそうだ。
公園入口の谷戸坂の下ったところに碑が建っている。
㉖「クリーニング業発祥の地」(谷戸坂下)
江戸時代末のことであるが、当時のクリーニング業、つまり専門洗濯業であるが、それがどんな形態であったか想像するのがむつかしい。碑には、以下のように記してある。
「安政6年、神奈川宿の人青木屋忠七氏、現在の5丁目にて始めて、つづいて岡沢真次郎氏、横浜元町に青木屋を開業、慶応3年、脇沢金次郎氏、この地を継承し近代企業化の基礎を成した。この間、フランス人ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。」
そして、すぐ近くの元町入口に「山手迎賓館」の洒落た建物がある。その角に碑がある。
㉗「機械製氷発祥の地」(元町)
横浜開港から明治にかけて、横浜ではホテルのレストランやアイスクリームサロンで供するためボストンや函館から運ばれた天然氷を扱う会社がいくつも現れた。
碑には、1879(明治12)年に、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ-」がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営された、とある。
ようやく、日も暮れた。
「元町通り」から「横浜中華街」へ入った。
食事をする前に「媽祖廟」へ。お参りと占いは以前やったので、それが目的ではない。その裏の山下町公園に碑があるのだ。台石の上に楕円形のボール型の石がのっている。
㉘「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地」(横浜中華街内)
ラグビーもサッカーもフットボール(foot-ball)である。まだ国際的にもラグビーとサッカーが正確には未分化だった1866(慶応2)年、外国人居留地だった山下町あたりで、イギリス人を中心とした西洋人による日本初のフットボールチーム、横浜フットボールクラブ(YFBC)が結成された。
その後、1873(明治6)年に横浜公園で行われた試合の様子がイギリスの雑誌に掲載されていた。このイラストがサッカーではなくラグビー様式であるため、このフットボールチームはラグビーだったと考えられている。
山下町公園の記念碑には、英文とともにこのイラストも敷設されている。
*
ようやく夕食のために、中華街でもっぱら贔屓(ひいき)の中国料理店へ。
最近、横浜中華街の“ガチ中華”として注目を集めた東北料理店である。今回は、東北料理、つまり満州料理に固執せず中華の定番料理を注文したのだが、これがまた美味いのであった。酒は、いつもの紹興酒で。
*コース「逆打ち」周り
4月19日、たまたま再び横浜を訪れたのだった。
四国八十八ヶ所お遍路の最後から廻るのを「逆打ち」というらしい。それに倣ったのではないのだが、先に行ったコースの逆を行ってみた。
昼のランチを、みなとみらい線「元町・中華街」近くの「横浜中華街」ですまして、「山下公園」に出てから、「港の見える丘公園」に入り、「外国人墓地」を過ぎて、「元町公園」のなかを回り、「元町通り」を通って、そこから堀川(前田橋)を渡って「横浜中華街」へ戻るという、先に行った逆コースを試みてみた。
中華街に戻った時はもう日も暮れていて、夕食はこの日2度目の中国料理となった。
大通りの路地を入って、呼び声のやさしさに誘われて入った店は湖南料理の「湖南人家」。アヒルの香辛煮込み鍋と海鮮焼きソバ。それに、青島ビールで。
宵闇の街も、いまだネオンの灯でキラキラだ。
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