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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

長崎の魔術師

2008-08-08 15:37:41 | ゆきずりの*旅
 映画「コレクター」の原作で有名なジョン・ファウルズの小説に「魔術師」というのがある。ここで魔術師は、魅力的ではあるが策をめぐらした、いかがわしさを持った人物として描かれている。
 魔術師のめぐらした劇に入り込んだ主人公は、どこまでが現実でどこからが虚構か分からなくなっていく。
 「あれはどの程度まで真実ですか」
 「真実ってなあに」
 「あれは実際にあったことですか」
 「なかったとすると問題なの?」
 「ええ。ぼくにはね」
 「じゃ、そんな不親切なこと、私には言えないわ」

 *

 ミスター・マリックが、最初に登場したときは驚いた。
 いかがわしい印象はあるが、この超能力は本物だと思った。超能力だということを本人も否定しないし、明らかに従来のマジック、手品とは一線を画すものであった。また、かつて超能力者として一世を風靡したユリ・ゲラーのスプーン曲げのレベルとは違ったものであった。
 透視と言って、目隠しをして見ないカードを当てるとか、ハンドパワーと称して、かざした手で物に触れずにそれを動かすなどは、ほんの入り口だった。
 徐々にその能力はアップして、見物者にその場でサインさせたカードもしくはメモ用紙を、まったく別の位置においてあった別のもの(例えば、財布の中とかレモンの中とか)から取り出したり、手の中のコインを瓶の底を突き抜けて中に入れたりして、見るものを驚嘆させた。
 僕は当時、彼の出演した番組をヴィデオで録画して、興奮して家に集まった友人たち3人に見せた。
 僕の興奮をよそに、彼らは意外に冷静で「ハ、ハ、ハ、そんなの実際にはあるわけないでしょ。何かタネがあるんですよ。ほら見てごらん。マリックのこっちの手の動きおかしいでしょう、不自然でしょう。それより、早くマージャンやりましょうよ」と言って、はなから超能力を否定していたのだった。
 そう言われても、僕は納得いかないままであったし、第2次超能力ブーム(超能力ブームは、千里眼と言われた昔からあったが、現代のユリ・ゲラーから数えて)は続いた。ミスター・マリックのトリックを見抜くといった手品師の本も出版され、物議をかもした。
 その後、ミスター・マリックまがいの若手の超能力者もどきが次々に出現して、あまりにも何人もの人間が簡単に超能力的行為をやってのけるので、これらは超能力ではなくマジックなのだと分かってきた。
 ミスター・マリックも自分のやっていることを、次第に超魔術という表現をしだした。
 「魔術」を辞書で引いてみると、人の心を惑わす術のほかに、大きな道具を使ってする手品、とある。
 ミスター・マリックはじめこれら施術者が行う非物理的行為は、超能力ではなく、やはり仕掛けがある魔術、つまりマジック(手品)だったということに、世間の評価も落ち着いた。それでも、謎はそのまま継続されていった。

 現代のブームは、多くがテレビが主導して作られる。
 ありきたりのマジックでは見飽きた視聴者の欲求を察して、マジックの技術はとめどもなく進歩していった。鉄板の車体や、水槽のガラスに無造作に手をねじ込んで、その中の物を取り出したり、ポスターの画面からハンバーグを取り出し食べてみたりと、もはや物理的には起こり得ないことを平気で行うマジシャンも出てきた。
 テレビカメラは前後、横から撮影して、誤魔化しではありませんよとアピールするのだが、そうすればするほど、非現実的であればあるほど、見るものは謎解きを諦めて、逆に少しずつ白けるのだった。
 次々と繰り広げられる物理に反する現象行為は、例えばCMや映画で、かわいい美女が屋根から屋根を飛び跳ねたり、ロボットやアニメのようにくるくる回転したり、何でもコンピュータで自在に創作することができる、CGによる真実味を奪い取った画面操作を想起させた。

 また、近年登場し、新鮮な驚きを与えたのが、舞台の上ではなく、参加者の目の前で行われるテーブル・マジックである。
 至近距離で見ているにもかかわらず、理解不可能なことを平然とやってのけるテーブル・マジックの人気に貢献したのは、普通の格好で普通の容貌をした前田知洋だろう。彼の絶妙な指さばきに加え、これは超能力ではなくマジックですよと宣言しているのも潔い。

 *

 長崎に、有名人も心酔する超能力というか超魔術のようなことをやる人がいると知ったのは、福岡に帰っている知人からであった。
 その話を長崎の波佐見町に住んでいる友人にしたら、彼も見たことはないが知っていて、地元でも有名らしい。彼の話によると、いつもその店の前は人が並んでいて、入るのを待っているとのことだった。
 それで、その友人を誘って見に行くことにした。もちろん、予約を入れてである。
 そこは、佐世保市の南にある川棚駅のすぐ近くの、レストラン喫茶で行われていた。店の入り口の垂れ屋根には、四次元パーラーと書かれている。
 僕たちの予約した夕方4時からの客は、子どもも含めて全部で20人近くであった。地元の人もいたし、福岡から来た人もいた。
 店の中は普通のレストラン喫茶で、カウンターとテーブルの座席数がちょうど定員のようだ。
 超能力というかマジックは、カウンターで行われ、客はそれを囲んで見ることになる。僕たちは、運良くカウンター席のかぶりつきで、施術者の目の前であった。

 最初は、カードや透視に使われる絵カードの、よくテレビでも披露するマジックである(といっても、タネは分からないが)。
 次第に複雑なものになっていった。
 圧巻だったのは、次のコインと瓶の変形である。
 札紙幣(1万円、千円札)とコイン(500円、50円、10円玉)を客から出してもらった。彼が予め用意したものではないという意味で。
 ○500円玉を歯に当て噛んだ。コインは3分の1ほど欠けて、ギザギザに噛まれたコインが手に、欠けた方は口の中に入った。そのコインを触ると、確かにガリガリと欠けている。そして、欠けた2つのコインを合わせて、見る見る口の先でコインを復元した。
 ○平らに伸ばした紙幣に50円玉コインを垂直に当て、コインを押しやると、紙幣の中へ入り込んでいく。びりびりと破けるのではなく、コインが紙幣をカッターのように切り進む。しばらくして、コインを紙幣から抜き取ると、元の切り跡はすっと消えて、元の紙幣に戻っている。
 ○10円玉の平らなところを、指で押した。すると粘土のように押されて少し平たくなった。普通の10円玉と重ねてみると、やはり少し大きくなっている。
 触ってみると、確かに硬く平たい。絵柄も裏表とも、先ほどの10円玉だ。このままではよくないと彼は言って、伸びた10円玉を押さえて、普通の大きさに戻した。

 ○オロナミンCの空き瓶を二つカウンターに並べた。
1つの瓶の首を引っ張ると、首が伸びた。まるでゴムのようだ。並べてあるから、普通の瓶より2センチほど伸びているのが分かる。伸びた瓶に触ってみると、ガラスの瓶で硬い。もう、伸びも縮みもしない。

 これらは、僕の目の前30センチのところで行われた。それに、コインで切った紙幣、伸びたコイン、伸びた瓶に自分で触っても見た。
 カウンターの上には、「スーパー・マジックをお楽しみください」と書かれているので、超能力ではなくマジックなのであろう。
 しかし、まったくその仕掛けは分からない。
 最後は、超能力の定番で原点であるスプーン曲げであった。
 夕方4時に店に入り、食事をし、ショーが始まったのが6時半で終わったのは8時半であった。しかし、ショーが始まったら、あっという間であった。

 何の知識も情報もないときにこれを見たら、超能力と誰もが思うだろう。千年前だったら、これをやる人は神と崇められたかもしれない。
 帰り、友人と二人であれこれ謎解きの推理を働かしたが、その糸口も見つかっていない。
 自分の目で見ないと信じない、自分の目で見たら信じる、という言い方を人はよくする。しかし、現代のマジックは自分の目で見たからといって分かる領域を超えている。
 見たままが真実である、と信じる時代は過ぎ去ったようだ。

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「鞆の浦」の行方

2008-04-30 02:24:34 | ゆきずりの*旅
 今、鞆の浦で一つの問題が起きあがっているというニュースを聞いた。
 鞆の浦とは、広島県福山市の瀬戸内海に面した港町である。風情のある鄙びた漁港だと知ってはいた。
 問題の発端は、その港を一部埋め立て、海に橋を架けて、交通の便をよくするという案が持ちあがったことだ。それに対して、地元港の人や環境保護を訴える人が反対して、交通対策としては街の裏(北側)にある山にトンネルを掘る案を出し、意見が二分されているというのである。

 福山は、山陽線の岡山と広島の間にあり、列車で通ると、駅のすぐ北に天守閣を持つ福山城が見えるので印象に残る町なのだが、降りたことはなかった。
 吉野の桜を見たあと、翌4月26日、関西をあとにして山陽新幹線の福山駅で降りた。
 去年の今頃は、山陰の石見銀山を旅し、山陰線の各駅停車の列車に乗っていたことを思い出した。
 福山駅を降りると瀬戸内海寄りの南側にバスターミナルが広がっていて、よく見かける駅前の光景であった。ちょうど正午頃であったが、どんよりとした日差しが幸いして暑くはない。

 駅前からバスに乗って30分ほどで鞆の浦に着いた。
 駅の案内書でもらった地図を片手に町を歩いた。バス通りから街中の路地に入ると、古い風景が広がった。少し前の時代の街並みだ。
 山陰の石見銀山の町、大田市の街並みに似通うものがあった。どちらも、意識的に古い街並みを残そうとする、住んでいる人たちの細かな息づかいである。
 路地から路地へと歩くと、港へ出た。この港のシンボルともいえる、安政6(1959)年に建てられたという常夜燈が見えた。灯台である。遠くに波止(防波堤)が海に突き出ている。
 海岸に行くと、石段が海に続いている。ここで、架橋反対の署名活動をしている元漁師だという初老のおじさんが、この石段は雁木だと教えてくれた。
 おじさんの話だと、常夜燈、雁木、波止、それに船番所、船を洗うところのたで場を、鞆の浦の五点セットと言うらしい。日本に、これらがすべて残っている港は、今は他にないと聞いたことがある。

 路地を歩いていても人通りは少ない。静かな田舎町だ。
 そんな静かな路地で、地元の人がなにやら頻繁に出入りしている店に出くわした。のぞいて見ると、若いお兄さんが魚を小麦粉にまぶして油で揚げている。魚の天ぷら屋さんだ。並べてあるのは、鯵の開きとエビだけだ。
 そういえば、路地を歩いていて、鯵の開きをまるで簾のように軒先に吊るしてあるのを、時折見かけた。きっと鯵が獲りごろなのだ。
 注文に応じて、お兄さんが手際よく次々と揚げている。僕も、さっそく鯵とエビの天ぷらを数尾ずつ買った。もう夕方なのに、昼食をとっていないので腹は減っている。
 バス停で、バスが来るのを待ちながらアツアツの天ぷらを頬ばった。やはり、港町の魚は美味い。残りは、明日のおかずにしよう。

 古い街並は歩いていて、落ち着いた気持ちにさせる。
 ヨーロッパには、中世の街並みをそのまま残した街が数多くあるが、日本は残念ながらそうではない。ヨーロッパの古い都市と最も異なるのは、街の色彩の統一感である。
 鞆の浦は古い街並みのままでいてほしいと思うのは、旅行者の身勝手なのかもしれない。
 鞆の浦の海に架かるかもしれない橋を考えながら、福山駅に向かった。

 福山から博多へ。博多に着いたときは、もう夜だった。
 そして、佐賀へ。
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遅き桜をたずねて、吉野へ

2008-04-28 20:20:21 | ゆきずりの*旅
  吉野山 こずえの花を見し日より
    心は身にも そはずなりにき

 奈良の吉野を有名にしたのは西行にほかならない。
 西行に魅かれて吉野を歩いたのは、20年前である。桜の季節を外れた秋であった。そのときは奥千本の西行庵まで歩いた。途中の柿の葉ずしや葛餅などの店を眺めながらゆっくりと歩いた。当然桜の華やかさはなく、行き交う人も少なく、周囲は緑に囲まれた山道だった。そして、その足で高野山に行った。
 それから、桜の季節にいつか行こうと思っていながら叶わなかった。

 そんなとき、今年の4月、朝日新聞の「be特集」アンケートによる「お花見名所の日本一」に、千鳥ヶ淵を押さえて吉野山が1位と掲載された。
 それを見て、やはり吉野の桜を見たいという欲望がわき上がってきた。
 吉野山の桜は、下千本、中千本、上千本、奥千本と下から順に咲いていくので、長い間桜が見られる。
 調べてみると、今年は、4月初旬に下千本で開花した桜は、順次山上に昇っていき、4月21日に上千本にて開花とあった。
今年も時期を逸したが、九州・佐賀の実家へ帰る途中、吉野へ寄ろうと思った。

 4月25日、奥千本あたりにはまだ桜は残っているかもしれないという淡い期待を持って、吉野へ行った。
 やはり、下千本、中千本あたりはたまに八重桜がところどころで見うけられるものの、あの霞のような山桜はなく、緑一面である。
 上千本の金峰神社に着くと、境内にやっと山桜が何本か咲いていた。しかし、あたりはどこを見渡しても桜の群れは見あたらない。奥の山道は針葉樹に囲まれている。山を薄桃色に染める景色は、どこにあるのだろうと思った。
 金峰神社から針葉樹の山道を登って、横道にそれたところの西行庵の近くに行き着くと、白に近い薄桃色の桜が出てきた。その奥は奥千本で、薄もやの中、山の中ほどを刈り上げたように薄桃色に染まっていた。

 吉野山 花のさかりは限りなし
   青葉の奥も なおさかりなり

 しかし、すでに盛りは過ぎていた。今度は、本当に花の盛りに行こうと思った。
 山道の途中の店で、20年前食べなかった柿の葉ずしと葛餅を買って食べた。柿の葉ずしは、軽く握った酢めしに薄く切った塩鯖をのせ、柿の葉でくるんだ押し鮨である。要するにバッテラで、なかなか美味い。

 帰りに、橿原神宮、石舞台、高松塚に寄った。
 橿原神宮の裏山が畝傍(うねび)山と聞いたときに、一瞬歴史の授業を思い起こした。記憶の奥に眠っていた名前だった。そして、思わず、天香久(あまのかぐ)山と耳成(みみなし)山はどこだろうと見渡したのだった。
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長崎の海辺の町、外海町の遺産

2008-01-15 20:19:56 | ゆきずりの*旅
 佐賀・有田の友人の案内で、長崎に行った。
 近代産業遺産を見るためである。
 北九州を中心とした炭鉱、製鉄、造船などの一連の近代産業遺産を世界遺産に申請する動きがあるという。
 有田から佐世保を経て、西彼杵半島の西海町に渡った。西海橋がかかっているところで、昭和30年代に橋ができたときは、大きさと、その下の急流にできる渦巻きもあってたちまち観光地となった。

 西海町から南に下り、大瀬戸町を経て外海(そとめ)町に行った。
 ここは、平戸・生月と並んで隠れキリシタンが多い街である。かつては陸の孤島といわれたほど交通の不便なところで、このようなところだからこそ、厳しいキリシタン禁止令のあとも深く潜伏できたのであろう。
 キリシタンの苦難の過去の物語を小説に結晶させたのが、この外海町を舞台にした遠藤周作の「沈黙」である。
 ここの海を見下ろす景観の地に、遠藤周作文学館がある。
 ここでは、「沈黙」に関するものだけでなく、遠藤周作を知るうえでの多くの資料が揃っている。ここで分かったのは、遠藤は「沈黙」の取材でこの外海を頻繁に訪れたが、その後もこの地を気に入って、しばしば三浦朱門などと訪れているということである。
 遠藤は、この「沈黙」のあと、晩年の70歳のときに、インドへ行き聖地ガンガーのヴァラナシを舞台に、やはり宗教をテーマにした「深い河」を書き上げた(ちなみに享年73)。
 僕はクリスチャンでもないので、この一連の遠藤の宗教をテーマにした小説には感動を覚えることもなかったが、彼のエッセイであるサービス精神溢れる「狐狸庵閑話」シリーズは好きだった。

 この外海の海を見下ろすように建っているのが、出津(しつ)教会である。この白く美しい教会は、明治15年、フランス人の宣教師、マルコ・マリ・ド・ロ神父によって建てられたものである(写真は、その後明治42年増築された教会)。
 このド・ロ神父が建てた教会をはじめ、この地に彼が残した数々の建造物・足跡がある。それらが、この時代の貴重な歴史資産として、最近再評価されている。
 というのは、ド・ロ神父は単に布教のためだけに尽力した人物ではないからである。
 ド・ロ神父は、1968年(慶応4)長崎に赴任し、長崎大浦天主堂および横須賀で、石版印刷所を設けている。その後、この外海の村に来た神父は村の窮状を見て、村を救うために生涯をかけることになる。
 どうしたかというと、私財を投じてこの地の土地を購入し、地場産業を植えつけることを行ったのである。
 救助院や保育所などの福祉施設ばかりでなく、マカロニ工場や鰯網工場を造って、産業を興すことにより、住民の生活の困窮を救おうとしたのである。さらに、防波堤や道路改修工事なども行っている。
 このマカロニ工場は、日本で初めてのパスタ製造となった。しかし、このあと日本人に馴染んだソーメンを造るようになっている。
 行政がやらねばならないことを、彼は独自の当時の先進技術を投入して行った。彼の業績は、宣教師というより実業家のごとくである。
 それは、西洋技術の日本への投入・融合であり、産業技術開発であった。
 今でも、ド・ロ神父が建てた当時の授産場や工場が残っている。ここは、先日、NHK・TVの「知る楽選/近代化遺産」で取りあげられたばかりである。

 ここをあとに、西海町の西にある大島、崎戸に向かった。ここは、かつて炭鉱があった島である。
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玄界灘に浮かぶ加部島の、佐用姫伝説

2008-01-08 15:55:13 | ゆきずりの*旅
 宮島・厳島神社の海から屹立している朱色の鳥居を見たとき、煌びやかではあるけれど厳かさは感じられなかった。平清盛の栄華を見せつけられたようであった。
しかし、海に聳える鳥居の発想には感心させられた。それでも、何だかいかにも観賞用に飾り置かれたように感じられた。

 加部島にある田島神社の海に向かった鳥居を写真で見たとき、宮島の原型がここにあると思った。田島神社の鳥居は、今にも海に飛び込まんとしているようだったからだ。この神社を見たら、いつか鳥居を海に飛び込ませようと思っても不思議ではない。

 唐津の玄界灘に沿って北へ行くと漁港の呼子に着く。その先に加部(かべ)島がある。
 玄界灘に浮かぶ加部島にある田島神社は、平安期に著された「延喜式」に記されている古い神社である。
 この田島神社は、当時大宰府館内の主要な神社の一つとされ、中国大陸や朝鮮半島への海路の要地に当たるため、航海の守護神として信仰を集めていた。

 田島神社は、不思議な構造をしていた。
 呼子から橋を渡り、海に面した道路を歩いていくと、田島神社の入り口となる鳥居がある。写真で見たのとは違い、海に向かった階段もなくそっけないものである。
 そこから坂道を登って、島の頂きからさらに下ったところに来た頃、また海が見えた。裏の海である。地形の構造上、台形の森林を挟んで海があるのだ。
 新しい海が見えたところで、道の直角に鳥居が現れた。鳥居の先には細い参道が続いている。その参道は二股に分かれていて、一つはすぐに横に逸れてなだらかな上り坂となり、神社の境内にたどり着く。その奥は鬱蒼とした森(林)となる。
 もう一つの参道は直線に延びていて、境内から海に向かって下りた階段のところに着く。その交差したところに鳥居があり、鳥居の向かった先は海である。

 この田島神社は、別名佐用姫神社といい、石が展示されている。
 佐用姫とは、日本三大悲恋話とされる「松浦佐用姫伝説」の主人公のことである(あとの2つの悲恋話は知らないが)。
 この話が「肥前国風土記」に出ている。
 因みに、現伝する風土記は、ほぼ完全な形の出雲のほか、常陸、播磨、豊後、肥前の4か国にすぎない。他の国のものは、「釈日本紀」(鎌倉時代末)などに引用されているのを見るのみである。

 佐用姫伝説とは次のような話である。
 5世紀中頃から6世紀初め、朝鮮半島の任那は、百済の南下と新羅の侵攻で衰退の一途をたどっていた。任那に勢力を持っていた大和朝廷は、失地回復のため任那に出兵する。
 その命を受けてやってきたのが大伴狭手彦(さでひこ)で、地元の長者の娘佐用姫と恋に落ちる。やがて出兵の時となり、狭手彦は自分の身代わりに佐用姫に鏡を渡して出兵する。佐用姫は船を追って見送っていたが、泣き明かして悲しみのあまり石になったという話である。

 この物語は、「万葉集」にも松浦佐用姫伝説として一連の歌が詠われている。
 この歌の作者は諸説あるが、大伴旅人とその随行者と推察されている。当時、旅人は太宰帥として、この地に来ていたのだ。
 また、この頃筑前守であった山上憶良も、佐用姫伝説を詠っている。
 近年では、ミステリー作家の内田康夫が「佐用姫伝説殺人事件」で題材にし、テレビドラマ化された(僕は本もドラマも見ていないが)。

 この伝説に基づき、唐津市には鏡山があり、ここ加部島の田島神社には石がある。
 佐賀方面から唐津に向かう途中に厳木(きゅうらぎ)という町がある。
 呼子に向かう途中、厳木に道の駅ができていて、そこに大きな白い観音像のようなものが立っていた。最近流行の「突然、こんなところに巨大大仏・観音像」の類かと素通りしたが、あとで聞くと佐用姫像であった。ここは、佐用姫生誕の地と謳っている。

 ここまで書いて、ふと思った。
 田島神社の海に向かった鳥居は、確か朝鮮半島の方に向いている。
 大伴狭手彦が出兵した朝鮮半島の方に。
 だとすると、鳥居は佐用姫の心の象徴か? 追って見送った佐用姫が石になったというのは、石の鳥居になったということか?

 ステリー作家でもないのに、ついこんなことを考えてしまった。
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