goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

佐賀に吹く風

2007-05-18 11:32:19 | ゆきずりの*旅
 並木の若葉がそよぐ
 空は、絵の具を流したように青い
 横断歩道のメロディ、カッコウの鳴き声がこだまする
 白い道路に建物の影が伸びている
 帽子をかぶった少年が走っていった
 あれは、かつての私だ
 五月の佐賀は、清々しくも少し寂しい

 久しぶりに佐賀の街を歩いた。
 駅から中央通りを南の濠のほうへ向かって歩いていく。
 佐賀の街は道路も大きくなり、街は小奇麗になった、ようだ。しかし、歩いていても、行き交う人は以前より少なくなった。扉を閉めた店もある。
 一番の繁華街、唐人町、白山アーケイドも、人影はまばらだ。呉服元町を歩くと、もうかつての華やかさを思い出せないような、寂しさが漂う。
 街で一つだけのデパート玉屋は、昔より少し小さくなったように感じる。

 濠を渡り、城内に入ると少し風が緩やかに変わる。元々ゆったりとした佐賀に吹く風が、さらにやんだようになる。
 佐賀城鯱の門の前で立ち止まる。門は鉄砲の弾跡で傷ついている。維新後の若きもののふの無念の傷跡だ。萩、秋月、熊本春風連、佐賀の乱と散っていった歴史の一こまの残滓が佇む。

 日が作り出す影が、さらに濃くなったようだ。
 夜が忍び込もうとする黄昏どきに、すれ違った人はどこへ行こうとしているのか。

 街は変わっていく。
 人と同じように。
 最も美しいものは、美しいものがそうでなくなったときだといった言葉を思いおこす。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隠れキリシタンの島、平戸、生月

2007-05-15 11:41:32 | ゆきずりの*旅
 平戸島からさらに西の生月(いきつき)の島へ。
 ここへ行くにも生月大橋が架かっていて、一気に行くことができる。平戸のように細長い島で、10分の1ぐらいの大きさであろうか。蟹の爪のように、平戸の湾の一部を形作るかのように、存在している。

 生月は、中央が小高い茂みの丘になっていて、海岸部に民家がある、しっとりとした島だ。丘の上には風車が見える。この島は、江戸時代は捕鯨が盛んであった。
 生月を走っていると、時折「ガスパル様」とか「だんじく様」とか「幸四郎様」といった標示に出くわす。最初はなんだろうと思っていたら、キリスト教殉教者を祭ったところだった。隠れキリシタンの島でもあるのだ。
 1549年、カトリックの宣教師ザビエルが鹿児島に入港し、翌年平戸を訪れ、以来平戸や生月は日本で最も早い時期にキリスト教が普及した地域となる。
 しかし、その後豊臣秀吉の切支丹禁教令(1587年)に始まり、平戸藩主も禁教に走り、信者は弾圧の非難にあう。それでも、信者たちの多くは信仰を捨てずに、表面上は仏教を装って潜伏することになる。ご存知の通り、その人たちが隠れキリシタンなのである。

 生月の博物館「島の館」、および平戸の「切支丹資料館」には、隠れキリシタンに関する資料が展示してある。その中には、有名な踏み絵や着物姿のキリストや聖母の図などがある。
 しかし、今回、僕は隠れキリシタンについて誤解していたことを発見した。
 明治に入り、キリシタン禁止令は解除され、カトリックの再布教が始まり、自由にキリスト教の信仰も認められた。そして、カトリックの教会があちこちに建てられた。
 であるから、隠れキリシタンとは、その時代まで、つまり禁止令が解除されるまでの潜伏した人たちのことで、過去形と思っていた。かつて弾圧され、苦汁を舐めた人たちのことだと思っていた。
 違ったのだ。

 平戸、生月の隠れキリシタンは、解除後も、それまでの信仰形態を守りながら継続させていたのだった。つまり、カトリックの教会に帰依せずに、自分たちで培ってきたそれまで通りの信仰を頑なに守り通していたのである。
 それは、16~17世紀の祈りの言葉であるオラショを唱えることであったり、餅を供えたり、カトリックのキリスト教が土着の信仰、宗教と融合したものであった。
 最近のその様子がビデオで見ることができる。それを見ると、お祈りの言葉はお経のようであり、何を言っているのか聴いても分からない。それは、まるで秘密結社のようであった。
 それゆえ、「隠れキリシタン」は、それだけで一般名詞ではなく、この地方の特定の人たちを指す固有名詞であったのだ。そして、現代までずっとその慣習は引き継がれ、それらの意味することが何なのかも薄れたまま、いまだその慣習を守っている人たちがいるということだった。

 つまり、隠れキリシタンとは、歴史上の過去形ではなく、以来綿々と生き続けた現在進行形であったのだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平戸、生月へ…

2007-05-13 13:55:47 | ゆきずりの*旅
 *

 長崎の平戸、生月(いきつき)の島へ行くことにした。
かつて戦国時代から江戸時代初期にかけて、オランダをはじめヨーロッパ諸国との貿易港として栄えたところで、隠れキリシタンの里でもある。
 平戸も生月も長崎県の北西に有する島だが、今では橋が架かって本土とつながっている。

 佐賀・有田の友人が案内してくれることになった。有田から佐世保を通り過ぎて海岸線を北上した。
 小佐々町に入ったところで、ここは元炭鉱のあったところだと友人が説明した。そう言った矢先に、道路の脇に竪抗の魯の跡が出現した。それは野晒しになっていたが、取り壊されてはいなかった。この炭鉱遺跡(産業遺跡)の竪抗の魯は大牟田・三池鉱などいくつか残存しているが、ここにも残っているとは意外だったので、僕は驚きの声をあげた。
 福岡の筑豊、三池、佐賀中部の杵島炭鉱などに比べて目立たないが、長崎も炭鉱の多いところである。長崎市の沖には、高島、端島(軍艦島)で、つい近年まで西彼杵半島の沖の松島では操業していた。

 小佐々町は、日本の本土最西端の町だ。本土とは島部を除いたという意味で、海岸に記念のモニュメントが立っていた。東経129度33分で、「夕日に一番近い町」とあった。なるほど、うまいキャッチ・コピーだ。この手で言えば、最東端は、「朝日に一番近い町」あるいは、「朝日が一番早く昇る町」であろうか。
 他の北、南、東の町も記載されていて、この4町は連盟を結んだとある。
 ちなみに、最北端は北海道の稚内、最東端は根室の納沙布岬、最南端は鹿児島佐多町である。
 小佐々町の断崖にある公園からは、九十九島が転々と広がっているのが見えた。晴れた日には五島列島が見えるのだが、あいにくの春霞で空は少しかすんでいる。

 * *

 小佐々町から鹿町町、江迎町を通って、田平町に着いた。ここから平戸へ行く橋がある。
 ここにあるカトリック田平教会は赤レンガづくりの立派な教会だ。1918(大正7)年建設で、鉄川与助の代表作といわれている。ステンドグラスには、キリストやマリアが描かれていて本格的なものだ。
 僕が驚いたのは、この教会の麓に、マリア像にひざまずき祈りをささげる少女の像があり、それが「ルルド」と書かれていたことだ。
 「ルルド」とは、フランス南部の小さな町で、その地の少女の前にマリアが出現し、そこの洞窟の岩から出る湧き水は、様々な奇跡を起こしたとされる聖地のことである。
 僕は、2001年フランスを旅している途中、たまたまその町に好奇心で寄ったのだが、毎日どこからかやって来る膨大な数の信者たちによって壮大な祭典が繰り広げられていた。
 田平教会前の「ルルド」も、マリア像の後ろに岩場が設えてある。
 本場ルルドのミニチュア版とでも言おうか、しかし、日本にこのような「ルルド」が作られていたのは驚きだった。

 * * *

 田平から平戸大橋を渡って平戸に入る。朱塗りの吊り橋で、この橋ができる前までは船で渡っていた。僕は、若いとき一度船で渡っている。それ以来だ。
 平戸の市街地を抜け、島の最北端を経て田の浦に出た。ここは、遣唐使の船が出港したところだ。弘法大使空海が、風待ちをしたところである。

 島の中腹の西海岸の、切支丹資料館の先の根獅子に入ったときだ。道路の脇の岩場の前にマリア像が小さなドームに包まれて立っていた。
 何と、「ルルド」のマリア像とあった。田平のカトリック教会に続いて、この島にも、「ルルド」があった。

 さらに進むと、島の中央部のくびれたところの町、紐差(ひもさし)に教会があった。ここは、白亜の堂々とした教会だ。
 教会のふもとにある案内標示板を見たら、最初の大きな文字がハングルであった。その下に小さく日本語とローマ字がある。韓国人の観光客が多いのだなと想像していたら、団体客がぞろぞろとやってきて、その会話を聴いていたら、やはり韓国語だった。
 教会の庭を見て、また驚いた。
 マリア像があり、その下で跪いて祈る3人の少女像があり、周りには羊(像)もいる。横に、「ファチマの聖母」とある。
 「ファチマ」とは、ポルトガルの小さな村で、そこの3人の羊飼いの少女の前にマリアが現れたという奇跡伝説の聖地である。マリアが少女に告げた言葉(予言)は、当時のローマ法王に伝えられる。その内容は2つまで明かされたが、3つ目は明かされず「ファチマ第3の封印」として騒がれ、ファチマは一躍世界中の注目の的になった。
 僕は、10年前にポルトガルを旅したときに、この地をやはりぶらりと訪れたことがある。ファチマは、フランスのルルドと違って聖地といえども牧歌的な村だった。

 紐差の先には、1898(明治31)年建立というレンガ造りの宝亀教会がある。ここは、田平カトリック教会と共に、世界遺産暫定リスト登録となっている。

 さらに、平戸市街地に入った。そこには、お寺の先にそびえる聖フランシスコザビエル記念教会がある。ここの内部の建築は素晴らしい。

 平戸、生月は、日本独自のキリスト教の遺産、足跡が数多く残っていた。それより、この島に、「ルルド」、「ファチマ」の聖地を造っているというのが印象に残った。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有田の陶器市

2007-05-03 19:52:58 | ゆきずりの*旅
 ゴールデンウイークに毎年開かれる、有田陶器市に行った。佐世保線・有田駅から上有田駅までの2.8キロの道路の両側に、ところ狭しとずらりと焼き物の店が並ぶ。
 この時期、佐賀に帰っているときは行くのが慣習になっている。有田の各窯元や小売の様々な商品が、一堂に見られるのが特徴だ。そして、掘り出し物を見つける楽しみもある。

 今年は、見るだけにすると決めた。今年も、と言い換えなければならない。
そして、今年は思いもよらないことに、有田駅から北西にある卸団地よりさらに先の、黒牟田地区(黒牟田応法窯元)の方に脚をのばすことにした。
 有田焼は、豊臣秀吉が文禄・慶長の朝鮮出兵のときに連れてこられた、陶工・李参平により始められたわが国最初の磁器の焼き物である。黒牟田地区は、李参平より早く無名の韓人陶工によって窯が開かれたといわれている。

 着いた先が「利休窯」。
 裏門をくぐると、庭いっぱいに石楠花が咲き誇っている。ここいらでは、石楠花の庭として有名らしい。石楠花に見覚えがあった。
 何と、そこは、僕の親しかった高校の同級生の実家の窯元だった。何度か伺ったことがあるのに、ここに来るまで気がつかなかったとは何という不逞のやからか。しかし、同級生は「江頭製陶所」としか言わなかったし、玄関に利休の字も書いてないので、「利休窯」と結びつかなかったのだ。
 利休窯の製品は、主に料亭専用に卸しているので、一般の人はこんな機会にしか手に入れることは難しいかもしれない。しかし、先日テレビで紹介されたとかで、陶器市の参道より遠く離れているのに、客は多かった。
僕も、気に入った大皿を一枚買ってきた。浅目の平たい皿なので、オードブルや果物用にいい。

 そして、江頭さんの親類でもある、知り合いの陶芸家、林幸四郎さんの窯元「Ric房」に脚をのばした。
 林さんは、有田焼らしからぬ土の感触を残した独特の作品を作っておられる人だ。作品は唐津や備前風と言っていい。毎年、日本橋の三越で展示会を開いておられた。
 ここで、水差しを一瓶購入。花を飾ることもできる。

 このあと、有田駅から上有田駅まで店先をのぞきながら歩いた。途中、「深川」で、ちょっと大きいコーヒーカップ(マグカップ)5客を買ってしまった。
 去年の秋、「香蘭社」でコーヒーカップを買ったばかりだというのに、また買ってしまった。
 出発前の、「見るだけ」という決意は、どこへいったのだろう。

 東南アジアなどを旅すると、いかがわしい人間が近づいて来て、日本人だと分かると、しきりに「見るだけ、見るだけ」と言って、誘う。
 「見るだけ」の効用はあるものだ、と陶器市に行くたびに妙に納得させられるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

温泉津温泉から、ひたすら山陰線

2007-05-01 00:02:37 | ゆきずりの*旅
 「温泉津」と書いて「ゆのつ」と読む。山陰本線太田市から列車で約30分の距離にある温泉街だ。だから、ここの温泉である温泉津温泉とは、ゆのつ温泉である。

 4月26日の夕刻、石見銀山への発着地大田市から温泉津に向かった。
石見銀山街道の山間を越え海辺に行き着いたところにあるこの温泉街は、鄙びたとは言いがたいが、いかにも温泉街の風情が漂っていた。かつて銀山の街への物資の供給地として港は栄え、そして温泉による癒しの地としても賑わった。
 温泉津駅から歩いて10分もすると、港に行き着く。船が1艘走っていたが、今はひっそりとした静かな港である。
 港を過ぎるとすぐに、両側に民家や旅館が並んだ街並みに入る。いずれも、ほとんどが平屋から3階建ての木造建築が肩を並べて建っている。「重要伝統的建造群保存地区」に、温泉街としては初めて選定されたばかりだという。そして、石見銀山街道の世界遺産候補の地区でもある。
 街並みは、日本の昔からの温泉街を例に挙げ、図に描けと問われれば、この街をスケッチすればいいと言えるほど、典型的な温泉街だ。

 この温泉のもう一つの売り物は、全国でもわずか11箇所しかないという、日本温泉協会公認の「オール5」という最高評価の温泉があるということである。その源泉温度約46度の源泉かけ流し湯「薬師湯」に行ってみた。

 外観は、昔の洋館である。中は意外と小さい石造りの湯船だった。湯は癖がなく、さらりとして馴染みやすい。湯をすくってみると潮の香りがする。
 「薬師湯」のすぐ前には、発見されて千三百年の歴史があるという老舗「元湯」がある。「薬師湯」と異なった源泉とある。

 *

 4月27日朝、温泉津を発った。
 日本海の海岸に沿って走る山陰本線の列車で、ひたすら九州へ向かうつもりだ。 時刻表を見ると、九州に一気に行く列車はなく、それどころか各駅停車で細切れに乗り継ぐ以外にない。それはそれでいい。いかにも列車の旅というものだ。

 *温泉津11時07分発、益田12時30分着。
 山陰海岸の島根の家々は、瓦屋根で統一されているかのようだ。色は、黒と桜・茶色の2種類で、落ち着きがある。時々日本の各地で見かける、トンデモ建築やけばけばしい色彩は県内のどこででもほとんど目についたことはない。
 40分待ち時間があるので、益田駅で下りて、駅前を歩いて中華料理店で食事をとった。五目そば(ラーメン)には、海辺の町のせいか、イカ、タコ、エビが多く入っていた。
 *益田13時13分発、長門14時59分着。
 これは、1両編成のワンマン列車であった(1両なのに編成というのは変であるが)。途中の萩では、やはり夏みかんが目につく。萩の家並みも好きだ。萩焼きを求めて歩いたのはもう何年前だろうか。
 *長門15時02分発、小串16時11分着。
 進行方向右は海で左は山である海岸線で、この間はことさらトンネルが多い。運転手によると、トンネルの多さとともに高低さもかなりあるという。
 *小串発16時23発、下関17時02分着。
 小さいがきれいな港町が続く。
 *下関17時09分発、新田原(日豊本線)行き、小倉17時23分着。
やっと関門トンネルをくぐり、九州に入った。ここまで各駅停車で来たのだから、この先も徹してみようという気になる。
 *小倉17時36分発、荒尾(鹿児島本線)行き、鳥栖19時20分着。
 九州に入って、博多を通り過ぎて佐賀に入るというのは痛快だ。新幹線だと博多止まりで、そこから佐賀、長崎方面の列車に乗り換えるのが普通なのだ。関東でいえば、静岡あたりから乗った列車が、東京駅を通って、茨城、福島方面に行くといった感覚なのだ。
 *鳥栖19時30分発、肥前山口(佐世保線)20時09分着。
 *肥前山口20時30分発、早岐(佐世保線)行き、大町20時35分着。

 この間読んだものは、益田駅で買った朝刊1紙、文庫本数ページ(ぱらぱらとめくっただけ)。やはり見ていたのは、ほとんどが窓の外であった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする