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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「天山」という山

2010-05-31 01:56:14 | ゆきずりの*旅
 「天山(てんざん)に登った」と言うと、聞いた人は「おっ」と身構え、天山とはどこかで聞いたことがあり有名な山に違いないが、さて、どこの天山だろうと反応に迷いてこずるかもしれない。ましてや、僕は登山とは縁のない人間である。
 まず多くの人がすぐに思い浮かべるのは、中央アジアの中国、天山山脈であろう。
 あの敦煌からタクラマカン砂漠を経てパミール高原、トルキスタンに向かう天山北路、天山南路で有名なシルクロードにまたがる山並みである。
 最高峰のポベーダ山は、7,439メートルもある。当時の人からすれば、まさに天にも届く山並みだったに違いない。
 しかし、佐賀県の人なら、ああ、県内の中央部にある山とすぐに思いつくだろう。酒好きの人なら、同じ名前の日本酒の銘柄を思いつくに違いない。

 山登りが趣味の友人が、「おい、明日、天山に登ろう」と、突然電話をかけてきた。
 天山がそこそこ高い山と知っていたので(僕にとってはであるが)、僕が「いや、俺は行かない」と断ると、「今は9合目まで車で行けるので大したことはない。あとはハイキングのようなものだ。明日の朝、車で迎えに行く」と言って、一方的に電話を切ってしまった。
 佐賀県小城市と多久市の境にある天山は、標高1,046メートルである。
 江北町から小城方面の北へ向かうと、裾野の広い天山が見える。小城に入りさらに北へ向かうと、ゆったりとした天山がぐんぐん近づいてくる。
 天山の裾野を分け入り、相当登ったところの天山神社の麓に駐車場があった。この駐車場からも佐賀平野が見渡せる。後ろを振り向けば、なだらかでもっこりとした天山の山頂が身近だ。
 ここから歩くことになるが、道は階段が設えてある。見上げると、緑のなだらかな稜線が続き、その奥に丸い山頂がのぞく。青い空に、綿菓子のような雲が浮かんでいる。(写真)
 しばらく進むと、雨山との分岐点に出る。そこからは、ごろごろとした石の登りである。
 シャツが汗ばみ、休みたい頃に山頂に着いた。歩き始めて30~40分ぐらいである。
 山頂は、草原が広がっていて、しかも、南は佐賀平野が、北は唐津、富士町に広がる山並みが360度見渡せる。
 山頂の草原では、昼時ということもあって、おにぎりや弁当を食べているグループや家族がくつろいでいる。9合目まで車で来ると、確かにそうハードな山登りではないので、子供連れも多い。
 山頂には、「霊峰天山」と書いた岩の碑と、「阿蘇惟直」の石碑がある。
 阿蘇惟直とは、南北朝の戦いのとき、ここまで流れ着いた足利尊氏を迎え撃った南朝の忠臣であるが、この地まで背走して討ち死にした阿蘇の武将らしい。阿蘇が見えるところということで、ここに碑が建ったようだ。
 しかし、いくら天山という名とて、阿蘇までは見えない。
 長く広がる山頂を尾根伝いに歩くと、山笹に交じって、ミヤマキリシマのツツジが点在している。近くでホトトギスが、そして遠くにカッコウの鳴き声がこだまのように漂う。
 天山は、壮厳なその名に反して、とても穏やかで憩いの山である。

 *

 それにしても、1,046メートルで「天山」とは仰々しいネーミングである。
 しかも、天山がこの近辺で最も高い山というわけではない。天山の奥には佐賀県と福岡県との境に背振山があり、こちらの方がもう少し高い1,054メートルである。
 天山という壮大な名前は日本全国にまだあるのかと思ったが、ここだけのようである。さすがに、先祖も日本の低い山ではこの名をつけるには気がひけたのかもしれない。
 先にあげた中国の天山山脈は、高さや規模の大きさから本家本元だと思うが。
 とはいっても、過剰過大な名前とはいえ、天山は日本語である漢字(中国字)だからまだいい。
 南アルプスが日本にあるのだから、思えば驚きである(北アルプスもある)。
 アルプスといえば、モンブランやマッターホルンで有名なヨーロッパの山脈である。赤石山脈をどうして、誰がこう呼ぶようにしたのであろうか。日本アルプスと呼ばなくとも、飛騨山脈や木曽山脈でいいと思うのだが。
 しかも平成の大合併でこともあろうか、山梨県に南アルプスが市の名前としても誕生した。旧白根町を中心とした町だ。ローマ字記入では、Minami-Alps shi(city)と、日本語と英語交じりの表記になるのだろうか。まさか、Minami-Arupusu shiとは書くまい。どちらにしても変である。Southern Alps cityと書けば、日本ではない、まったく外国の、英語圏の市である。
 この南アルプス市に対抗しようとしてか、長野県の駒ヶ根市を中心とした合併では、中央アルプス市にする予定だった。
 これで驚くに値しない。何と愛知県の知多美浜町、南知多町の合併では南セントレア市が生まれようとした。日本の町の名としてである。さすがに住民の反対にあい、この意味不明、国籍不明の市は誕生しなかったが。

 さて、雄大な天の山の割には、ひっそりとある「天山」の話であった。
 川では、奈良県に熊野川の源流の「天ノ川」(てんのかわ)がある。芸能を祭る天河神社があるところだ。
 北海道の上ノ町には「天の川」(あまのがわ)がある。こちらは、宇宙に漂う天の川に遠慮してか、声高ではない。
 さすがに、「天の国」は地上にはないようだ。


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鷹島・モンゴルの夢の名残り

2009-08-13 00:41:44 | ゆきずりの*旅
 四国に橋が架かって、いつの間にか本州と道で結ばれてしまった。四国ももう島とは呼べないようだ。日本列島4つの大きな島は、道で繋がった。
 今、急速に日本の沿海の島が島でなくなってきている。島には橋が架かり、簡単に車で行き来できるようになってきた。
 例えば、佐賀県北の玄界灘沿岸の島も、いつの間にか橋が架かって道が繋がっている。呼子沖の加部島(佐用姫伝説の田島神社のある)もそうだった。伊万里湾の福島(元炭鉱があった)もそうだ。
 その伊万里湾の福島の先に、鷹島がある。
 鷹島は行政管轄では福島と同じく長崎県だが、距離的には佐賀県の肥前町(現在は唐津市に合併)に近い。この鷹島は、元寇で有名な島である。

 元のモンゴルが日本に攻めてきたのは、鎌倉時代の中期で、2度の襲来があった。
 最初の文永の役は、文永11(1274)年10月、朝鮮から出発したモンゴル・高麗軍は、朝鮮半島に近い対馬に上陸したあと、玄界灘を渡り博多湾に入り攻撃を繰り返したが、台風の襲来で大打撃を受け、引き揚げていった。
 2度目のときは、弘安4(1281)年7月、対馬、壱岐を侵略したあと、やはり玄海灘を通り、伊万里湾沖の鷹島で日本軍と戦うことになる。
 鷹島沖に集まった元は、総勢4千400隻の船と14万人の大軍だといわれている。この数字が概ね正しいとすると、鷹島沖は元の軍船ですっかり覆われたであろうし、まるでイナゴの大群の襲来のごときであったと思われる。
 このときも、偶然の台風によって大半の元の船は海に沈んだ。

 肥前町から、今年(2009年)3月に完成したばかりという大橋を通って、鷹島へ行った。(写真)
 鷹島は人口2千数百人ほどの小島だが、すっかりこの元寇によって、モンゴル観光島となっていた。さすが、観光立県の長崎だけのことはある。
 島の歴史民族資料館に行くと、沖の海底に眠っていた元の船の遺品が陳列されていて興味深い。
 船の木製碇などから、剣や壷、さらに鉄砲と呼ばれた火薬弾まである。さらに、僕が興味をひいたのは、この鷹島沿岸で発見された青銅の印鑑である。
 元の官用書体であるパスパ(八思巴)文字で、「官軍総把印」と刻まれている。元にパスパ(八思巴)文字というのがあったことを初めて知ったし、漁民が貝を採っているときに発見したというのも、なにやら志賀の島で農民が発見した「漢倭奴国王印」の金印を想起させるものだった。
 島の北端には、モンゴルのゲル(テント)が並ぶ、モンゴル村が設えてあった。このゲルで宿泊できるようになっている。中をのぞいてみると、テレビや電話まで引いてあった。

 地方は車社会である。車は不可欠といえるぐらい車依存社会となった。
 島は道で繋がり、車で行けて便利になった。代わりに多くの連絡船、乗合船が消えて、情緒を失った。
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有田の陶器市

2009-05-05 01:52:04 | ゆきずりの*旅
 黄金週間になると、有田の陶器市に出向くのが習慣となって久しい。もう買うべき物などないのだが、やはりこの週間になると一度は出向きたくてむずむずしてくるのだ。
 電車を乗り逃がした次の日、「見るだけ」と自分に言いきかせて、ぶらりと出かけてみる。
 有田から上有田の間の4キロ余の街中の道の両側に、ずらりと陶磁器の店が並ぶ。
 いつものように、上有田から有田の方に向かって歩く。相変わらず賑やかだ。みんな手提げ袋やリュックを持っている。

 辻修さんの展示店を覗いたら、久しぶりにそこにいた本人に会った。20年ほど前に彼のコーヒーカップを買って以来の顔見知りである。
 先日、四谷の中華料理店に行ったら、変わった箸置きが出てきて、すぐに辻さんの作品だと気づき、オーナーにこれは辻さんの作品でしょうと言ったら、そのオーナーは、分かる人がいたととても喜んで、僕を奥の方に飾ってあるやはり辻さんの作品である大花瓶のところまで案内した、という話を辻さんにした。
 辻さんは、細やかで個性的な作品とは不釣合いの、大らかな笑顔で、そうですか、世間は狭いですね、と嬉しそうに笑った。

 途中で、以前買った大皿の「宗右衛門」の、同系統の葡萄の葉柄の小皿があったので、5客買ってしまった。
 食器は、何となく、食卓には大皿や小皿は同じ柄で揃えたいと思うところがある。だから、つい増えるのだ。
 「深川」に行ったら、2階に食事としてカレーを食べさせる臨時のコーナーがあった。その横に、食事用に使っているのと同じカレー用の深皿が飾ってあった。売り物でもあるようだ。
 そういえば、持っている深皿は気に入らなくて棚の奥にしまってあり、カレーを食べるときはどれにしようか決まっていなかったと思い出し、カレー用の皿を買うことにした。
 西洋風の今時の絵柄を散りばめたものと、陶器市期間限定という同型の無地の皿があった。絵柄が気に入らなかったので、無地の方を3皿買うことにした。
 独り者だから1つでもいいものだが、食器はどうしても複数揃えることになる。滅多に来ない客のことも、つい考えてしまう。その数は、5客(皿)が正当なのだろうが、僕の場合はそのときの気分で変わる。
 「香蘭社」に行くと、梅酒用のコップが、これも気分によっていろいろ決まっていなかったなあと思い、それ用の野葡萄柄のコップを買うことにした。それと同じ柄の水差し風の小皿もそれぞれ4客買うことにした。
 帰りに、去年買って気に入った磁器の風鈴をまた買うことにした。

 「見るだけ」のつもりで行ったのが、結局あれこれ買う羽目になった。毎年のことだ。もうこの辺でやめないと、使わない食器が棚の奥に積まれていく。
 まさしく、「見るだけ」の食器が家に増えていく。
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笹沢佐保が愛した古湯

2009-01-18 13:44:25 | ゆきずりの*旅
 佐賀に古湯温泉があるというのは知ってはいたが、行ったことはなかった。そこは福岡県に接する佐賀の北の方の富士町にあり、山間の鄙びた温泉だということであった。
 この温泉が少し知られるようになったのは、作家の笹沢佐保が住み着いたことも大きい。彼が講演か何かの用だったと思うが佐賀に来た折に、この温泉の富士町に行き、そこを一目ぼれして、この地を終の棲家と思った。
 東京生まれの笹沢はずっと首都圏で生活していて、佐賀とは縁もゆかりもない。彼の半生は自伝的小説『詩人の家』に詳しい。
 彼の富士町に対する思いが本気だったのは、その思いを抱いてから程なくの1988年から、本当に住み着いたことである。佐賀の市街からも離れた山間の地である。
 そこで彼は小説を書き、九州さが大衆小説賞を創設したりした。選考委員は、彼のほかに、彼と親交の深かった森村誠一、福岡在住の夏樹静子などが担い、現在は唐津出身の北方謙三が務めている。
 笹沢は晩年まで富士町に住み着いた。
 彼がその地を好きになったのは、その鄙びた風景と温泉だったのだろうが、その近くに三日月町というのがある。現在は、町村合併により小城市になっているが、佐賀に来た際、三日月町に少し感慨を抱いたのではなかろうかと推測した。
 というのは、笹沢の大ヒット作の『木枯らし紋次郎』の出生地が三日月村であるからである。

 地元の友人が、温泉にでも行こうと誘いに来た。
 武雄温泉か最近できた大町温泉にでも行くかという話になったが、いや、どうせ行くなら行ったことのない古湯温泉に行こうということにした。
 多久から小城を通って、里山の富士町に入ったところに、熊の川温泉が出てきた。何軒かの旅館が並んでいる。そこから川沿いの山間部に登ったところの谷あいに古湯温泉はあった。
 名前の通り、古い温泉町の典型のような風景であった。
 川沿いに今は動いていない水車があり、その近くに斎藤茂吉の歌碑がある。
 「ほとほとに ぬるき温泉(いでゆ)を 浴(あ)むるまも
  君が情(なさけ)を 忘れておもえや」
 さらに奥まったところには、戦前日本に留学し、反日運動、戦後の中国革命、文化大革命を通して、波乱万丈の生涯を送った中国の文人で要人の郭沫若の碑もある。一時期、ここに隠れ住んだという。
 この温泉のルーツは、案内看板によると、2200年前の「徐福」によって見つけられたとあるが、徐福伝説は日本国中あちこちにあるので、眉唾入りであろう。

 温泉街の真ん中にある「古湯温泉センター」に行ってみた。大衆的な温泉センターである。
 湯は、透明で温泉独特の匂いもなくぬるい。湯船の中で、飲める温泉湯も流してある。飲んでみたが、まあ白湯のようなものである。
 風呂はあまり熱くないので、ゆっくり長く入った。このようなさらりとした湯は、銭湯気分で毎日来ても飽きないだろう。
 風呂場の隣りには、うたた寝ができる大広間があり、そこで食事をして、古湯をあとにした。

 古湯温泉の富士町から北西の方向の七山村に向かい、観音の滝で車をとめて渓谷を歩いた。滝としてはさほど大きくないが、渓谷に挟まれていて、橋からの眺めは絶景である。日本の滝100選とある。
 ここから唐津の浜玉町に出て、帰ることにした。
 田舎は車社会なので、道路が隅々まで整備されている。人があまりいない山間の中まできれいな道が続く。道ができるのはいいことなのだが、複雑な心境だ。
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遠くから見ていた姫路城

2008-10-09 01:55:57 | ゆきずりの*旅
 佐賀に帰る途中、姫路で降りた。
 もちろん、目的は姫路城である。
 新幹線で通るとき、いつもその姿は見ているのだが、まだそこに行ったことはなかった。富士山と一緒で、遠くから見ていただけだった。遠くからもその均整のとれた姿は美しく、いかにも絵に描いたような城に見えた。
 江戸時代以前の城で天守を持っている城は、12しか現存しない。姫路城はそのうちの1つで、松本城、彦根城、犬山城とともに国宝に指定されている。いや、国宝というより、世界遺産に指定されている日本の唯一の城である。
 
 日本は、城のある町は観光地でもある。日本の各地域の拠点の町が、城下町として栄えた歴史もある。城の周りにはおおむね桜が植えてあり、春には花見の名所にもなる。日本の町の中心は、城であったと言ってもいいし、今でもそうあり続けているところも多い。
 姫路の町も、地図を広げると城が中心だと分かる。

 これが、ヨーロッパではまったく違ってくる。ヨーロッパの街を旅していて気づくのは、教会の異様な大きさと構造である。華麗だけでなく豪壮でもあり、人を畏れさせる威厳を誇る。ヨーロッパの教会の威容は、城をもしのぐ。
 日本人に人気の高い世界遺産でもあるフランスのモン・サン・ミッシェルなどは、修道院というより海に囲まれた要塞のようだ。実際、英国との百年戦争のときはその役目を果たした。
 ロマネスク、ゴシック、バロックとヨーロッパの建築様式は、教会とともに発達したといっていい。
 
 姫路城に間近に接してみると、その多様な日本の美の様式を見出すことができる。
 城の周りに張り巡らされた濠、門の中に入ると迷路のように作られた通行路、漆喰の白壁に刻まれた銃口穴、随所に配置された櫓(やぐら)、7層(地上6階、地下1階)にも上る天守閣。それらは戦いのために造られた建築物でありながら、華麗な装飾に満ちている。
 屋根の瓦には紋が刻まれ、窓は装飾に充ち、柱や垂木も製作者の美意識が滲んでいる。外から見ると、石造建築物のように見えるが、中に入ると木造建築物だと分かる。
 それなのに、高さは46m(建物31m、石垣15m)あり、天守閣からは姫路の町が見渡せる。

 夕刻、城から出ようとしたとき、入るときには気づかなかったが、城門の屋根の上に、鳥の彫刻があるではないか。鯱ではないし白鷺のようなので、これから白鷺城の異名があるのかと思った。
 しかし、その首が動いたので、それが生きている白鷺だと分かった。鳥はしばらく留まっていたが、やがて飛び立った。
 姫路城は、白鷺がまさに飛びたたんとする美しさに例えて、別名白鷺城と言うらしい。運良く、白鷺城で白鷺が飛び立つのを見ることとなった。

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