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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

黒部・立山の旅④ 立山黒部アルペンルート

2010-11-08 00:42:11 | ゆきずりの*旅
 「立山黒部アルペンルート」の目玉は、いくつかの立山連峰越えにある。その山越えと山越えの間に黒部峡谷が走っていて、黒部ダムがある。
 「アルペン」とは、「アルプスの」という意味である。北アルプス(日本の)の山を越えるので、アルペンルートという名になったのだろう。
 立山駅からケーブルカーで美女平に、さらにバスで麓の標高2,450mの室堂まで出る。ここから3,000m級の連峰の山を越えることになる。
 10月27日、室堂から見る立山連峰は初冠雪で銀色に光っていた。
 ここで昼食をとった。大食堂である。次々と団体客がやってくる。みんな、ここで昼食をとるようだ。会話に韓国語が交じる。韓国からの団体客も多い。

 食事を終え、山越えの出発だ。
 室堂の平からバスは、正面の立山連峰の方に向かって走った。山を迂回して向こう側へ行くかと思ったら、正面突破だ。連峰の中央にトンネルを掘ったのだ。
 このアルペンルートは、室堂から立山連峰の雄山を越え、その先の黒部平からさらに山を越えて黒部湖へ、ここの黒部ダムから赤沢岳を越えるという、3つの山を越えるコースなのだ。山を越えると書いたが、それぞれ山を刳り抜いて、トンネルを造っている。

 目まぐるしく、様々な乗り物に乗り換えて進むということになるので、分かりやすく書くと以下のようになる。
 富山県・立山駅→(ケーブルカー)→美女平(977m)→(バス)→室堂(2450m)→(山越えトンネル・トロリーバス)→大観峰(2316m)→(谷越え・ロープウェイ)→黒部平(1828m)→(山越えトンネル・ケーブルカー)→黒部湖→(徒歩)→黒部ダム→(山越えトンネル・トロリーバス)→長野県・扇沢

 立山連峰の雄山(3003m)の直下をトンネルで抜けるバスは、現在日本で唯一ここを走っているトロリーバスである。トンネルの中を走るので、排気ガスを考慮して電力で走るトロリーバスにしたのである。
 室堂からトロリーバスで、約10分で山の向こう側の大観峰へ出る。ここからロープウェイで、谷越えで黒部平へ。
 黒部平からさらに山越えである。ここもトンネルを掘って、ケーブルカーで黒部湖へ出る。
 ここにアーチ型の黒部ダムがあり、そのダムの橋を通って黒部峡谷を渡ることになる。(写真)
 黒部ダムは、1956年着工し、64年に竣工した、当時大予算を費やし難工事の末完成したダムだ。
 石原裕次郎、三船敏郎主演の映画「黒部の太陽」(1968年)で話題になった。
 やはり、この山奥にダムを造るのに資材を運ぶのは大変だったと思う。だから、交通の便のためにトンネルを掘ったのだ。
 それが現在、観光の目玉となった。ダムは、綺麗で雄大だ。立山の山々が借景だ。山に雲が浮いている。このルートでないと来られないというのがミソだ。
 この黒部ダムから、さらに赤沢岳(2678m)を越えるために、トンネルが掘られてあり、トロリーバスで抜けて、やっと長野の扇沢に出る。
 「立山黒部アルペンルート」は、パノラマのようなコースだ。

 扇沢からバスで松本へ出た。
 松本の駅前で、そば屋を見つけてそばを食べる。僕はうどん派だから、信州に来たときぐらいしかそばを食べることはない。しかし、本場のそばは美味い。
 19時21分松本発特急「あずさ34号」で、東京へ。
 雨に打たれ、雪に遭い、喉風邪をひき疲れたが、変化に富んだ「黒部・立山の旅」だった。
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黒部・立山の旅③ 初冠雪の立山連峰

2010-11-04 01:00:01 | ゆきずりの*旅
 10月26日、宇奈月の雨のトロッコ列車から帰った夜、富山市で1泊。天気予報によると、翌日の天候もよくない。
 喉の渇きで、夜目が覚めた。からからに渇いた喉の痰を吐き出すと、血が混じっている。やはり、すっかり喉を痛めたのだ。うがい薬で喉を洗って寝た。

 次の日の、10月27日、朝目を覚ますと、喉の出血はなく、夜中より少しは喉の調子はいい。
 早朝、富山からバスで立山駅に向かう。小雨だが、遠く立山連峰の方を見れば、空は明るい。もしかしたら、立山は晴れているかもしれないという希望を抱かせる。
 バスの中の情報掲示に、立山山麓マイナス2度、われわれが行く立山の入口である室堂はマイナス6度と出ている。室堂は標高2,450mであるから、そうとう高くて、気温も低い。

 立山駅に着くと、空を雲が覆っていたが雨は降っていなかった。ここから、「立山黒部アルペンルート」が始まる。
 立山山麓にある富山県の立山駅から、飛騨山脈の2つの連峰を越えて、というより連峰を貫き、長野県の扇沢に到るコースである。この2つの山並みの間に、宇奈月から続いている黒部峡谷があり、その谷間に黒部ダムがある。
 立山駅自体が標高475mである。この立山駅から標高977mの美女平までケーブルカーで行く。美女平は雪景色だ。
 美女平からバスに乗り換えて、立山の入口の室堂へ向かう。
 さらに高い連峰の麓へ行くのであるから、バスはチェーンを巻いて走る。バスの外の景色はすっかり冬で、道の周りの木々は樹氷で飾られている。
 蛇行する道を高く登るにつれて、視界が霧のように煙ってきた。雲の中に入っているのだ。
 50分後に室堂に着いたときは、真っ青の空が広がっていた。ここは標高2,450mだが、その向こうにさらに高い頂の真っ白な山並みが見える。雲が山の中ほどに、小さく浮かんでいる。(写真)
 剣岳、大汝山などの連峰だ。この標高3,015mの大汝山が立山だと知った。

 このあたりの連峰を北アルプスと呼ぶが、僕はどうして日本の山並みに、ヨーロッパの山脈の名前を名乗らないといけないのか常々疑問を抱いていた。正式な名前の飛騨山脈があるではないか。ちなみに木曽山脈が中央アルプスで、赤石山脈が南アルプスである。
 まだ、蝦夷富士とか津軽富士と称するのは同じ日本の地名で、日本一の富士山に敬意を表しているからいい。地方の盛り場や商店街を○○銀座というのと同じで愛嬌がある。しかし、いくら有名とはいえヨーロッパのアルプスを名のるとは、東京タワーを東京エッフェル塔と呼ぶぐらい卑屈ではないかと思っていた。
 フランスのシャモニーに行ったとき、本場アルプス山脈の大きさに感動した。高さも標高4,808mのモンブランをはじめ4,000m級が並ぶ壮大な山並みだ。それに比べ、日本アルプスと名乗っていても、比べものにならないのではと思っていた。
 しかし、この立山の麓から雪を抱いた連峰を見てみると、本場のアルプスより少し低いが、ぎすぎすと尖った感じがよく似ているではないか。それに、雄大だ。
 明治期にこの山並みを見たイギリス人の鉱山技師が、ここを日本のアルプスと称したのも頷けると思った。
 今まで恥ずかしくて日本アルプスと呼んだことはなかったが、これからは言ってもいいと思った。
 それでも、町の名前まで南アルプス市と変えたのはどうしたものかと思うが。

 雪の立山連峰を見ながら室堂の平を歩いていると、地元NHKのテレビ局の人たちが撮影・報道していた。取材班の人は、立山は今年初冠雪だと言った。
 初冠雪の山々は、銀色に輝いていた。
 冬山に登る人の気が知れないと思っていたが、雪山の美しさを見ていると登りたくなるのも分かる気がする。

 より高く、より遠くへ、あるいは人が誰も踏み込んだことのないところへ行きたくなるのは、人の持つ好奇心だ。
 冒険は、そして物語は、そこから始まる。

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黒部・立山の旅② 旅の隘路

2010-11-02 18:23:06 | ゆきずりの*旅
 旅に、予定外のアクシデントはつきものである。
 10月26日、紅葉でも楽しめるかなと黒部・立山の旅に行った。ところが気候の急変により、日本海側の北陸は冬型天気に襲われた。
 ゆったりと景色を楽しむはずの宇奈月のトロッコ電車が、雨に打たれながらの忍耐の突進電車となった。しかも、こちらは喉を痛めているのである。悪化するのは間違いない状況であった。
 それなら乗らなければいいのにと言われそうだが、現地に行けばそうはいかないのである。ここまで来て、電車の入口の前の椅子に座って、黙って電車を見送るというわけにはいかない。
 雨に濡れながら進むトロッコ電車の中で、僕はあの「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」を思い出した。インド奥地の地下の謎の地で、インディーと一緒にやってきた中国少年が、勇敢にも謎の軍団と闘いながら、トロッコで逃げおうせる場面だ。
 あのトロッコに比べれば、命の心配があるわけではなし、楽なものだと思ったのだった。崖が崩れてくるわけではないし、どこからか弓矢が飛んでくるわけではない。雨と冷たさを我慢すれば、外は美しい景観が続くのである。
 まあ、インディーの冒険も危険ということを除けば、彼が飛び込んだ世界は森や滝や古い王宮があるなど、景観は胸をときめかせるところばかりである。

 美しいものには棘があり、誤って棘に刺されたら、その痛みはずっと残る。

 旅に、予想外の問題(プログレム)はつきものである。
 予定が組まれていて、それが滞りなく消化され、無事旅が終わる。それはそれで、いい旅だった、でいいだろう。
 しかし、旅は途中で何が起こるか分らない、いや、予想外のことが起こる場合がある。そして、それはよくない出来事(この場合がはるかに多い)だったとしよう。
 そのときは、辛く、どうしてと後悔する。
 しかし、あとになって、記憶の中の思い出として強く残っているのは、その辛く後悔したはずの出来事なのだ。予想を大きく逸脱したときほど、強く心に残っているのだ。

 僕の最初のインドへの旅がそうだった。
 ニューデリーを出て、そこからアーグラー、ヴァラナシを経て、カルカッタ(コルカタ)まで、列車でたどり着く予定の旅だった。それが、なかなか前に進まない。切符1枚買うのに苦労した。
 僕はニューデリーに着いた初日から、インドへ来たのを後悔し、早く日本へ帰りたいと思った。ようやく日本へ戻ってからも、もうインドはこりごりだと思った。それでいて、インドが頭から離れなかった。僕は1年後、再びインドへ旅だったのだった。

 予想外の逸脱した旅ほど、記憶に強く刻まれ、心に残ることになる。

 あらかじめ保証された無菌状態の安楽な旅より、多少のリスクを伴った予定不調和な旅が、スパイスが効いて心に深く刻み込まれる。
 恋愛も、人生も、実はそうなんではないかと思っている。
 もちろん、大きな障害もなく、大した問題もなく、家庭を築き、人生を過ごしたという人は(羨ましいことだが)、それはそれでいいことに違いないが。

 *

 微熱が続く体温計持参の旅だったが、曲がりなりにも旅は終わった。
日本を発ってデリーに着いた次の日から、この旅が早く終わればと思った。しかし、旅は続けねばならなかった。暑くても、つらくても、次の目的地に向かわなければならなかった。
 インドでは、毎日その日の旅をするのに精いっぱいだった。旅の途中は、微熱を案じる余裕すらなかった。インドは、そんな些末な体調や心情など問題にもしない国だった。
 インドはエネルギーに満ちていた。タクシー、リクシャ、物売り、物買い、物乞い、両替屋、観光案内などなど、こちらが何か行動を起こすと、すぐに彼らはやって来る。いやいや、インドでは黙っていても、向こうから様々なものが押し寄せて来る。
 そして、何かが起こる。プロブレム(問題)がある。何も起こらないことはない。街に出るとそこでは、あらゆる言葉が投げかけられる。
 「かりそめの旅」(岡戸一夫著)――第7章、目眩のするインド――より
 *この本に関しての問い合わせは、ocadeau01@nifty.com へ。

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黒部・立山の旅① 宇奈月の、雨のトロッコ列車

2010-10-31 00:28:29 | ゆきずりの*旅
 あてもなく思いつきで旅を続けて、振りかえれば、行っていない県は、富山と愛媛になっていた。別に、全県に行ってみようとか、宮脇俊三のように、鉄道全線走破などは意識したこともなかった。
 そもそもそういう旅ではなかった。それに、あの列車に乗ってみたいとか、あの路線を走ってみたいというのも意識したことがなかった。
 ただ、思いつきで旅したに過ぎない。
 会社(出版社)勤めだったので、旅に出たのは、多くはゴールデンウィークをはじめ、連休や有給休暇を利用したものだった。
 九州・佐賀で育ったせいか、「北帰行」と称して北へ向かうのが、旅心をくすぐった。
 それに、年に何回か東京から佐賀に帰省する際には、飛行機は使わず殆ど列車を利用した。東京から博多まで東海道新幹線利用が最も多いが、時折途中コースを換えて寄り道をした。
 京都から山陰線に乗り換えて、鳥取、島根、山口を通って九州へ入ったこともあった。
 あるときは、東京湾を夜発つフェリーに乗って、翌昼に徳島を経て、瀬戸内海を抜けて翌々日の早朝に門司港へ着く、船中2泊の船旅も経験した。
 列車で九州へ着いてからも、まっすぐ佐賀に行かずに、小倉から大分に出て、久大線で久留米を経て佐賀へたどり着くコースもあった。
 あるいは、やはり小倉から大分に出て、豊肥線で熊本へ、さらに三角へ行き、天草島に渡り、天草から長崎に渡り、佐賀にたどり着いたこともあった。

 *

 意識していなかったが、足を踏み入れていない県があと2県となると、やはり富山と愛媛も行ってみないと、と思う。
 そんなとき、友人から「立山・黒部アルペンルートとトロッコ列車」の旅の誘いがきた。立山、黒部も富山県で、泊まりは富山市だ。山登りや、自然の渓谷を見に行く趣向もなかったが、こんな機会でないと行かないと思い、喉が少し痛かったが、旅立った。

 10月26日、東京駅朝8時24分発、上越新幹線「Maxとき」で、10時12分長岡着。「Maxとき」は、2階建ての列車だ。
 長岡からバスに乗って宇奈月に向かう。この日の目的、トロッコ電車に乗るためだ。ところが、窓の外は雨だ。天気予報によると、日本海寄りに冬型の寒波がきているという。
 昼過ぎに宇奈月着。ここは、宇奈月温泉で有名なところだ。やっと、富山県の土を踏んだ。
 宇奈月に着いたら、そこも案の定雨で、それに予想していたといえ寒い。それも真冬の寒さである。
 旅は、しばしば予想外の事態が起こるものである。
 
 宇奈月駅から黒部峡谷を走るトロッコ電車「黒部峡谷鉄道」は、元々ダム建設の資材や作業員を運んだ電車だが、今では観光客に、人気があるという。
 冬支度のジャンバーを着ていたが、トロッコ電車は屋根はあるものの、車体の両側は骨組みの柱だけで、窓ガラスはなく吹きさらしだ。こんな雨の日は、例外的に窓を付けるなんてことはない。
 駅の構内にある売店で、ビニールのレインコートが売っているので、買うことにした。トロッコ電車に乗る人はみんな買っていて、乗客は全員ビニールコート姿となった。
 車台の上に、背のない木造の長椅子が並んでいる。ぎちぎちに詰めれば4人は座れるだろうが、雨が吹き付けるので真ん中に2人乗りで座る。
 川に沿って渓谷を走る電車は、いくつものトンネルを抜け、いくつもの橋を渡り、いくつもの山肌を伝わる細く長い滝が車窓に映える、美しい景観が続く。(写真)
 しかし、それも雨に打たれると、冷たくて感動してばかりはいられない。山の頂は白い。雪が降ったのだ。
 トロッコ電車は、宇奈月から終点の欅平まで約20キロの距離を1時間20分で走るのだが、途中の鐘釣(かねつり)まで55分で、そこでコーヒーを飲んでUターンし、宇奈月へ戻る。

 宇奈月からバスで富山のホテルへ。
 すっかり喉を痛めてしまった。
 翌日は、立山から黒部ダムのコースだ。立山は雪が降ったと情報が入る。今日よりもっと寒いという。明日が思いやられる。
 9月に猛暑で、10月に雪に出合う。つい最近まで夏のように暑かったのに、一気に、ここに冬が来たようだ。
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近江・若狭の旅⑤ 天橋立から各駅停車で

2010-09-30 01:25:21 | ゆきずりの*旅
 天橋立の民宿の2階の窓から、朝の日が差してきた。
 旅の宿での目覚めだ。「浴衣の君」がいないのは寂しいが、そんな旅は慣れっこだ。
 9月12日のこの日も、窓の外の空を見ればカンカン照りの暑い日だ。まだ夏は居座っているようだ。

 1階の小さなテーブルが3つある食堂で食事をする。僕が最後のようで、1人きりだ。おばさんは、「腰を痛めてからきつくてねえ」と言いながら、せっせと動き回っている。
 「1人でやっているのですか? 毎日の食事作りも大変ですね」と僕が言うと、「ここだけでなくて、畑仕事もあるからねえ。畑も1人でやってるから」と言いながらも、決してつらそうでない。
 「昨日は何人泊まったんですか?」と訊いたら、「5人」と言った。そして、「この人数が限界だね」と付け加えたので、僕は、「最後の僕が1人余計だったかな」と言って笑った。
 「ご主人は手伝わないの?」と訊いたら、「もう、お父さんは全くノータッチだ」と、あてにしていないといった感じだ。
 昨晩、外風呂温泉から帰って、1階で食事しようと下りて、食堂の部屋の戸を開けたときのことだ。部屋を間違えたらしく、暗く大きな座敷に1人の中年というか初老の男が、座り机の前に座っていた。その男性は、白い紙を前に置いて、朱肉に何やら印を押していた。僕は「部屋を間違えたようで」と言ってすぐに戸を閉めたが、その男はちらと僕の方を振り向いただけで黙ったままだった。頑丈な体つきでまだ働けそうだったが、その男がおそらくおばさんの旦那である、お父さんなのだろう。
 そして、「この辺の畑もイノシシが出てね、被害があるんだよ。うちの畑もやられてしまった。お父さんは猟友会の理事で、朝から会議に出て行ったよ」と、おばさんは言った。お父さんは隠居といっても、何かはやっているんだ。
 昨晩間違えた部屋で見たあれは、朱肉も印も大きかったので、印章を彫る篆刻(てんこく)だったのかもしれない。篆刻が隠居後の趣味なのかもしれない。
 それにしても、九州もイノシシの被害で大変らしいが、このあたりもイノシシが出るということを知った。

 *

 食事をしたあと民宿を出て、駅の裏手の小高い丘の上の展望台があるビューランドへ行くことにした。そこからの天橋立の眺めは絶景らしい。多くの絵や写真がそこからのものだ。
 観覧車のような小さなモノレールで頂上に上る。
 見晴らしの開けた頂上から、海を見ると、空には少し雲が出ているが、それに繋がる海の中を松林がうねって進んでいる。
 これが、天橋立だ。絵に描いたようだ。いや、写真で見るのと全く同じだ。この景色は、他に類を見ないという意味で、「日本三景」と言ってもいいだろう。

 「日本三景」は、日本の美しい三大景色を指すのだろうが、あとの2つは「宮島」と「松島」である。
 世界遺産にも登録されている広島の「宮島」は、海に浮かんだ朱色の鳥居に見られる厳島神社のことと言っていい。鳥居や厳島神社の社殿は、景色ではなく建造物である。「三景」の景色は自然の美しさを適合させるべきで、建造物を中心とした「宮島」は三景に当てはまるとは思えないのだが。
 いっそ、この「宮島」(厳島神社)に、「室生寺」(あるいは「法隆寺」)、「日光東照宮」を加えて、「日本3建」とでもしたらどうだろう。
 また、「松島」は仙台の東沖の海に点在する島の景色で、確かに美しいのだが、日本にはこれに相当する海の景色はもっとあると思うのだが。
 この「日本三景」は、江戸時代に言われ始めたことだから、まだ日本全国隅々の名勝が知られていなかった時代のものだ。だからか、のちの大正時代に、実業之日本社が新しく全国応募により「新日本三景」を公表している。
 それによると、北海道の駒ヶ岳を借景とした「大沼」(ポロトー)。静岡県の富士山を借景とした「三保の松原」。大分県の「耶馬渓」である。しかし、この「新日本三景」は、広く流布しないでいる。

 丘の上のビューランドの展望台には、その天橋立に向かって「股のぞき」の台がある。そこから後ろ向きになって、自分の開いた股の間から天橋立を見ると、まるで龍が天に昇っていくように見えるというものだ。若い女の子も、平気でスカートの間から頭をのぞかしている。僕もやってみて、逆さまに映った写真を撮ってみた。(写真)
 ローマのトレビの泉で、誰もが後ろ向きにコインを投げるようなものだ。謂われのあるものは何でもやった方が面白い。
 下りは、一人乗りのリフトで下りる。

 あの海に続く橋立の松林を歩こうと思い、その出発地に向かった。
 すると、その場所に人が何人も立ち止まっていた。カメラを撮っている人もいる。その先は橋のようだ。
 そうか、うねっている松林は、すべて繋がっているのではなくて、ここで途切れていて、橋が架かっているのだ。それにしても、どうしてみんな動かないのだろうと、思った。
 近くに行くと、赤い橋の胴体がすぅーと動いているのだった。そして、瞬いている間に、普通の橋になった。
 案内マップを見ると、この橋は「廻旋橋」と書いてある。そうだ、この橋はその名の通り、船が来たら中心を軸に90度回るのだった。僕がそこへ来たときは、最後の50センチぐらい回って、ちょうど元の位置に納まろうとしている寸前だったのだ。
 橋を回している係の人に訊いたら、今は1時間に1回、定期的に回していると言った。時計を見たら11時を回ったところだ。この松林を歩くと1時間ぐらいかかりそうだから、次は見ることはできないようだ。

 海の間に続く細長い松林を歩いた。
 日が真上に上がっている。すでにシャツに汗が滲む。この日も気温は30数度あるのだろう。この夏は、記録的かもしれないが、記憶にも残る暑い夏になるだろう。
 松林には、途中、様々な名前の松がある。
 最初「廻旋橋」を通ったところに、「日本三景の松」というのがあった。おい、おい、この景色全体が日本三景ではないのかい?
 人名である、「式部の松」や「(与謝野)晶子の松」。「夫婦松」や「見返りの松」。さらに「羽衣の松」というものまである。
 おい、おい、「羽衣の松」は、三保の松原にあるのではないのかい?

 やっと1時間ぐらいかけて松林を渡ったが、疲れたので帰りは船で戻ることにした。
 船から長い松林を眺める。龍が海に横たわっている図だ。
 船は、出発点の「廻旋橋」の横の船着き場に着いた。すぐ近くに智恩寺がある。
 これで、「日本三景」は全部行ったことになる。

 *

 天橋立駅に行った。13時近い時刻だ。
 ここから北近畿タンゴ鉄道で南に下りて福知山に行き、そこからJRの山陰線で京都に出ることにした。そして、京都から新幹線で東京に帰ることにした。
 窓口で福知山、京都経由、東京までの切符を頼んだ。ここ天橋立駅は北近畿タンゴ鉄道だが、JRも続きで切符が買えるのだ。
 出された切符を見ると、天橋立から京都までは、JR乗り入れの特急だった。ここから京都や大阪行きの特急列車があるのは時刻表で知っていたが、地方の旅は各駅停車に限る。僕は、窓口の駅員に京都までは各駅停車で行くからと言って、すぐに特急券抜きの乗車券に換えてもらった。
 誰もが速くて便利な直通の特急に乗るとは限らないので、切符を発券するときは、駅員はその旨確認しなければいけないはずだ。心の中で怒りながら乗車券を受けとり、構内のキオスクで昼食用の駅弁を買った。

 13時03分、北近畿タンゴ鉄道の天橋立駅を出発して、次の宮津駅で乗り換えて、13時27分発の福知山行きに乗った。
 山間をゆく車窓を楽しみながら、駅で買った「笹寿し」(鮭と鰯のにぎり寿しを笹の葉で包んだもの)の駅弁を堪能。旨い。
 福知山に14時25分に着いた。そこでJRに乗り換える。
 福知山14時50分発の園部行き各駅停車に乗り、園部駅に16時12分着。
 園部16時15分発に乗り京都駅へ。のどかな山間を走っていたのが、京都市街地の嵯峨嵐山に入ったあたりから車窓の風景が変わった。急に家並みが乱立してくる。しかも家と家の間が狭いのだ。それでいて等間隔に計ったようだ。いわゆる京都の町屋を思わせる家並みだ。 その家並みからビル並みを通り過ぎて、列車は京都駅に入った。
 京都駅に16時51分着。
 京都駅17時09分発、新幹線東京行きの「のぞみ」に乗り、東京駅19時30分着。
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