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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

近江・若狭の旅④ 若狭から舞鶴へ

2010-09-28 03:27:25 | ゆきずりの*旅
 9月11日、昨日の雲一つない抜けたような晴天と違って、この日は雲が多い。その分日差しが和らいで少しは凌ぎやすいだろう。
 朝みんなと別れて、米原の琵琶湖のほとりのホテルから、9時15分のシャトルバスに乗ってJR米原駅に行った。
 そこから、北の方へ列車で行こうと思いたった。若狭には行ったことがなかったので、若狭湾のどこかへその日は行こうと思った。
 さて、ここから自由気ままな、地図を片手の列車による一人旅だ。
 若狭といっても、地図を見ても町はいくつもある。そのなかでも、どの駅で降りようかと迷った。
 とりあえず米原駅で、若狭湾の中ほどにある小浜(福井県)までの切符を買って、9時38分米原発、敦賀(福井県)行きの電車に乗った。敦賀から西の若狭方面に乗り換えだ。
 列車は、米原から、長浜、姫虎を通って敦賀へ向かう。
 田舎の2両編成の各駅停車の、誰も知らない人たちに紛れて、通り過ぎる窓の外の景色を見ていると、旅をしているという浮いた思いが湧いてくる。やはり、列車の旅はいい。

 終点の敦賀駅で、若狭方面に行く10時44分発、東舞鶴(京都府)行きに乗り換えた。敦賀からの各駅停車の列車は、右手に若狭湾を見ながら進む。
 美浜を過ぎて三方へ。ここは三方五湖があり明光風靡なところらしいが、一人湖を散歩するのはやめておこう。「湖畔の宿」でもあるまいし。
 ついさっきまで、小浜で名物の鯖でも食べようと思っていた。ところが、列車の中で地図を見ていると、舞鶴の海岸近くに「引揚記念館」と小さく書いてあるのが目についた。それを見て急遽、小浜で降りずに、終点の東舞鶴まで行こうと思いを変えた。
 思えば、舞鶴は、あの「岩壁の母」(歌:菊池章子、二葉百合子)の地なのだ。

 終点の東舞鶴に12時50分に着くや、駅前に出てみると、そこへ周遊の市観光バスがやって来たので、それに乗り引揚記念館に向かった。この市内周遊観光バスは土日限定らしい。
 乗客は、僕のほかに、恋人とも思えない、村の青年団風の男と草を刈る娘風の女の若い2人組がいるだけだ。
 バスが発車するや、一番前に座った僕に、バスの運転手が、ここ舞鶴はもともと軍事港で、戦後は進駐軍が駐留していた地です、と説明を始めた。中年の運転手は、私が子どもの頃はまだ進駐軍がいまして、かすかに覚えています、と、彼はこの地を愛しているというのを伝えるかのように話を続けた。あの港に見えるのは自衛隊の船で…、あの建物が煉瓦館で…と、案内役風に観光ガイドをしてくれた。
 いつもこうやって、運転手が観光ガイドをしてくれるのか、今日は特別に前の席にいる僕だけに話しているのか分からなかったが、僕は熱心な聴者になったし、適切な質問者にもなった。あるいは、運転手は今日は誰かと話したかっただけかもしれない。
 引揚記念館に着いて、バスを降りるときに乗車賃を払おうと千円札を出すと、運転手は大きな黒いがま口を広げて、空っぽの中を手で探って、お釣りがないです、今日初めてのお客さんですから、と笑いながら言った。僕もポケットを探って、200円を探し摘んで、がま口に入れた。普通の市バスだと400円で、この観光周遊バスだと200円だった。
 後ろに乗っていた2人組も、何やら胸から紐で下げたものを見せただけで、バスを降りた。観光用の一日乗車券らしかった。
 一日乗車券以外の僕のような飛び乗りの料金(現金)を払う人間が、午後になっても1人とは少し寂しいなと思ったが、運転手が明るいのがいい。

 引揚記念館に入ると、バスの乗客は少なかったのに、意外と多くの見物客がいた。入場料金は300円。
 腹が減っていたので、まずは何か食べようと思って、館内の食堂を兼ねた喫茶店に入った。まるで学食のように、味も素っ気も洒落っ気もない喫茶兼食堂だ。いや、最近の学食は洒落ていてメニューも豊富だ。
 掲げてあるメニュー表を見ると、内容もうどん、丼もの、カレーライスと、昔のバス停留所内の食堂のようだ。
 一番上に書いてある「引揚うどん」(大580円、並480円)が目玉の売り物なのだろうと思い、並の引揚うどんを頼んだ。
 出てきたのは大きな油揚げが1枚のっているきつねうどんであった。洒落であろうか。

 第2次世界大戦が終わった1945年、海外には660万人の日本人がいたといわれている。戦後、佐世保、博多、呉、浦賀など10港で帰国、引揚げが行われた。そのなかでも舞鶴は、中国残留および旧ソ連のシベリアに抑留されていた日本人の帰国、引揚げを、もっとも遅くまで迎え入れた港である。それに、現地からの遺骨の引揚げも行った。
 記念館には、それらの記録や抑留時の服や生活品、現地(ソ連)からの抑留者からの手紙などが展示されている。
 記念館の近くの小高い丘の公園に桟橋が作られていて、舞鶴港が見渡せる。(写真)
 桟橋を出て、再び駅に戻ためにやって来た周遊バスに乗った。バスは2台が交替で周遊していて、帰りに乗ったのは、行きのバスとは違う運転手であった。
 また一番前に座ったが、今度の若い運転手はガイドをすることはなかったし、僕の質問にもそれ以上の答えは戻ってこなかった。やはり、観光ガイドは常備ではないのだ。

 東舞鶴駅に戻った。
 地図を見ると天橋立が近いと知ったので、舞鶴に泊まるのではなく、すぐに天橋立に向かうことにした。天橋立も初めだ。
 東舞鶴駅から西舞鶴駅へ出て、そこから16時08分発、豊岡行きの北近畿タンゴ鉄道に乗り換え、宮津を通り天橋立で降りた時は17時だった。
 すぐに、閉める間際の駅構内にある案内所に行き、温泉のある食事付きの安い旅館はないかと訊いた。そんな全部を揃えた都合のよい旅館はないようで、係の人はすぐにないという答えを用意していた。温泉のある食事付きの旅館はあっても僕の提案した予算よりずっと高く、それに土曜日なのですでに満室らしかった。
 それでは、温泉旅館に泊まるだけで、食事は外でするからと言ってみた。
 すると、係の人は意外なことを言った。ここ天橋立には、夜は食べるところはほとんどあいていません。昼(昼食)はあるのですが、と。食堂は夜はほとんど締まり、各旅館や民宿は泊まり客のみの食事であるという。
 外で食べたり飲んだりするのだったら、隣の駅、宮津に行かないといけないという。
 それで、係の人がいろいろ考えたあげく提案した、すぐ近くに共同の温泉がある、食事付きの民宿にすることにした。安いという条件を満たしているため、トイレも洗面も共同である。
 
 民宿に行ってみると、駅のすぐ近くで、共同温泉場までも歩いてすぐである。
 その民宿は、元気なおばさん(あとで聞いたところによると72歳だと言った)が一人で切り盛りしていた。おばさんは忙しそうだ。鍵もない部屋だが、温かみがある。
 荷物を降ろすと、すぐ近くの共同温泉場「智恵の湯」に行った。
 おばさんの手料理の夕食も悪くなかった。
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近江・若狭の旅③ 米原での「同窓会」

2010-09-23 17:24:02 | ゆきずりの*旅
 ちょっと前に「同窓会」(ラブ・アゲイン症候群)というドラマがあった。高橋克典、三上博史、黒木瞳、斎藤由貴主演によるものだ。
 うたい文句に、「恋で人生を捨てられますか」とある。何やら、危険な同窓会の成りゆきのようだ。
 僕はこのドラマを見ていないが、同窓会に端を発した複数の織り組んだ恋物語のようだ。おそらく同窓会で再会した中年になった男女が、若いときに成就しなかった恋を復活させるか、かつて心にしまっておいた恋心を発露させて、大人の恋が展開されるのだろう。
 このドラマの脚本家の井上由美子が、「同窓会と聞いて真っ先に思い浮かべるイメージは?」という問いに、こう答えている。
 「やっぱり、初恋のイメージですね。若くてすごく純粋だったころの自分の恋心、友情みたいなものを、同窓会のあいだだけでも思い出して、浄化される。だから、皆、いくつになっても同窓会に行くんじゃないでしょうか?」

 同窓会と初恋か?

 同窓会といえば、概ね中学か高校の時のである。
 この時代に、初恋を抱く人が多いのだろう。そして、初恋とは成就しないもの。ほろ苦い感情を残したまま、卒業する時期がやってくる。
 若者には、すぐに新しい世界が待ち受けている。新しい扉を開かないといけない。少年、少女は、いつしか、否が応でも大人にならなければいけないのだ。
 多くの人間は学校を卒業したら、学生時代の出来事も友情も淡い恋も心の片隅に置いておいて、新しい目の前の世界にのめり込んでいく。社会では、新しい出来事や問題が待っている。新しい恋も生まれるだろう。
 社会人になると、夢中で年月は過ぎていく。そして、多くの人は適当な歳になったら結婚し、家庭を持つだろう。
 そんな時代を過ぎて、ほっと一息ついたときに、同窓会は行われる。
 同窓会は、年はとってもみんな昔よく見た顔ぶれだ。最初は誰だか分からない顔も、昔の残像や写真と比べていくうちに、いつしかピントが合ってくる。
 会場は、おそるおそると、徐々にではあるが当時に戻っていく。あたかも、何十年か前の世界が何かの間違いで、そこにさ迷いこんできたかのように。
 いったん時間を巻き戻してしまうと、タイムスリップしたかのように、ガキ大将はガキ大将のまま、優等生は優等生のまま、美少女はだいぶん色褪せたとしても美少女のまま、お節介はお節介のまま、おしゃべりはおしゃべりのまま、のようだ。
 会場は、過ぎた時間を一瞬に取り除く魔法がかけられたように、みんなが当時の感情に染められる。そう思わせるのだ。
 そしてそこで、同級生と対峙しながら、人はかつての自分を見つめるのだ。いまはない、遠い昔の自分を。

 どんな青春であったとて、例えそれが灰色であったとて、青春はいとおしい。
 なぜなら、もっとも純粋で、自分の原形がそこにあるからだ。
 同窓会は、その青春の想いを各々心の中で逡巡させる。
 ましてや、初恋が同級生であったなら、そして、その人がそこに現れたなら、それは過去の思い出であっても、思いもかけず再び目の前に現れた現実でもある。
 過去と現在は、その間を捨て去って、結びあえるのか?
 点と点は、線を取り除いて結びつけられるか?

 初恋でなくとも、男にとっては、当時の憧れのマドンナ(こういう呼び方をしたものだ)が、どんな姿で現れるのかは気になるところであろう。
 もう4年も前であろうか。オダギリジョーと桜井幸子が同窓会で再会するストーリー性のCMがあった。二人きりで会う場面で、男(オダギリ)がかつての憧れのマドンナ(桜井)から3枚のカードを見せられて、どれを選ぶかと迫られる。そのカードには、「冒険」「友情」「封印」とある。
 さあ、どれを選ぶのだろうか?と気を持たせる、意味深なCMであった。
 そして見ている方も、自分ならどれを選ぶだろうと考えたものだ。
 印象に残っているのは、女の桜井が余裕たっぷりの笑顔で、さあ、君はどうする? 私は、どれでも受けて立つわよという表情だったことだ。それに比べて、男のオダギリは、どうしょうかと明らかにドギマギしているのだった。

 「冒険」を手にした途端、物語は初恋の淡い純白なものから、真っ赤な爛熟したものへ変わっていく。そして、物語が生まれる。

 *

 9月10日、米原の琵琶湖のほとりのホテルでの同窓会は、本会、ホテル内での隣接した会場での2次会と、つつがなく行われた。
 陰で物語が進行しているかどうかは知らない。
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近江・若狭の旅② 草津から安土城跡、彦根城へ

2010-09-21 17:08:04 | ゆきずりの*旅
 9月10日朝、大津から琵琶湖に沿って、米原に向かって北へ。
 この日も晴天で、外へ出れば朝から暑さが待ちかまえている。このところ、9月も半ばになるというのに猛暑日が続く。少しは天気が曇ってほしいし、雨でも降ればと思う。
 こんなに暑い日が長く続くのは珍しい。

 大津から、すぐに「草津市」に入った。ここは東海道と中山道が結びつく交通の要で、かつて草津宿があったところだ。
 かつて旅人が歩いた通りは、過ぎ去ったいにしえの面影をここかしこに見つけることができ、界隈には乾いた空気が漂っている。
 本陣跡は、当時の台所から風呂、厠まできちんと残されていて、大名や高貴な人の宿場としての形態、機能が知れる。和宮も立ち寄り休憩したと記録がある。

 草津をさらに北へ向かうとすぐに「近江八幡市」だ。
 近江八幡といえば、近江兄弟社の名が思い浮かぶ。近江兄弟社といえば懐かしい軟膏のメンソレータムだが、今はメンソレータムはロート製薬に移り、同社は似たようなメンタームを作っている。
 すぐに市の北にある日牟禮八幡宮に向かう。この辺りの八幡堀周辺は、独特の風情を残している。
 八幡宮の前の新町通りを歩けば、古い家並みが並ぶ。古く大きな家の表札は西川名が目につく。あの布団や家具の西川産業も、この地の出身だ。近江商人の中でも最右翼とも思われる西川家の旧宅は、豪商の邸宅らしく名所となっている。
 その近くに、扇子などの小物を売っている店に入ると、ここも西川名だと女主人らしき人が言った。でも、前の西川産業の西川さんとは関係ありませんとすぐに付け加えた。

 近江八幡を北東に行くとすぐに、「安土城跡」だ。
 安土城は、言わずとしれた織田信長の居城で、わが国初めての本格的な天守閣(天主閣)を持った城である。岐阜城もそうだが、織田信長の城は、現地案内書でも、天守を天主と書かせている。
 信長が威厳を込めて造った安土城は、本能寺の変のあと跡形もなく全焼した。原因は不明だ。設計図はもちろん、当時の絵図すら残っていないので、詳しい構造は想像を駆使するのみだ。
 だから、安土城の跡は、どのようなところだろうかと興味があった。何も残っていなくとも、夏草とともに、兵(つわもの)どもの夢のあとの空気は感じられるだろう。
 行くと、石垣があり、その奥に木が茂った小高い山がある。遠くから見ると、平凡な低い山だ。夏草も木々も生い茂っている。ゆるやかな山の頂上に天守閣があったのだろう。
 山の麓に行くと、頂上を目指しているであろう石段が見え、その入口近くに受付がある。天守閣跡には、この受付を通らなければならないようだ。(写真)
 時計は正午過ぎで、澄みきった青空に日差しは強く、いまだ真夏のように暑い。じっとしていても汗が滲む。もう二度と来ることはないかもしれないので上ろうと言うことで、仕方なく上ることに。低い山と行っても199mあるし、硬い不規則な石段だ。
 汗だくで、やっとのことで頂上に到着。
 天守(天主)跡には石が嵌め込まれていたが、面積は以外に小さい。ここから、琵琶湖が見渡せ、信長はその湖を見ながら、すぐ手の届くところまで来ていた天下統一を夢想したに違いない。
 「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり…」
 山頂からの下りは、城の横に建てられた見寺を回って出発点の受付まで戻る。
 炎天下での、往復1時間の山道はきつい。
 安土城はおそらく、それを見た秀吉の大阪城や伏見城の造城に影響を与えたに違いない。

 安土城から、さらに北の「彦根城」に。
 彦根城は、徳川譜代大名の伊井家の居城である。
 それに、現存している天守を持った数少ない城である。現存天守は、修復・復元などいろいろな解釈があるが、この彦根城のほかに姫路、犬山、松本城の4城は国宝で、ほかに高知、松江城など全部で12城といわれている。
 彦根城はまとまった城である。
 表門から入ると、すぐにアーチ城の廊下橋があり、その先が天秤のようだと形容される天秤櫓である。その先の太鼓門櫓をさらに進むと、本丸天守閣に着く。天守は3重3階、地下1階である。
 平城だから、上るのにきつくはない。
 やはり、天守の上からは琵琶湖が見える。
 城の麓には庭園があり、ここからは天守閣がよく見える。昔から、天守閣を眺めながら、お茶を点てたのであろう。

 彦根城を出て北へ行くとすぐに米原だ。
 そろそろ米原の会場に行く時間だ。夜は、米原の琵琶湖の麓の会場で同窓会だ。
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近江・若狭の旅① 大津から比叡山へ

2010-09-18 18:23:43 | ゆきずりの*旅
 旅に出る動機はどこにでもある。
 何かの触媒で、旅は実行に移される。言い換えれば、ふとしたきっかけがあればいい。

 5年に1度行われている九州・佐賀の中学時代の同窓会をなぜか滋賀県の米原でやるというので、この機会に滋賀を歩いてみようと思いたった。
 滋賀県・近江に降りたつのは初めてのことである。滋賀県域は、もう悠に百回以上も東京-九州間の往き来の時に列車で通っているのだが、一度も降りたったことはなかった。通り過ぎるだけであった。
 であるから、同窓生である友人と話しあって、前日東京を出ることにした。
 東京から京都まで新幹線で行き、これまたなぜか在来線で大津の先の膳所(ぜぜ)でレンタカーを借り(詳しく話せばここで借りる理由というのはあるのだが、省くとして)、佐賀から合流した男も含めて3人で滋賀散策となった。

 これで、日本の都道府県で降りたったことがないところは、富山と愛媛県だけとなった。この2県もいずれ行かないといけない。
 「いつか」などと言ってはいけない。いつかと幽霊は出たためしがない、と言うではないか。いつか会おう、いつか飲もう、と言って、そのいつかが雲散霧消してしまったことは数限りないだろう。

 この滋賀県は、真ん中に大きな琵琶湖がある。いや、琵琶湖の周りが滋賀県と言っていい。琵琶湖とは、きっと形が琵琶法師の持つ琵琶に似ているから付いた名だろう。果実の枇杷と書いても、間違いではないように思える。
 この日本一の淡水湖である琵琶湖抜きでは、滋賀県は語れないのである。
 だから、昔から言われていた「淡海」(あはうみ)が、つまり「おうみ」(近江)となった。
 それに滋賀は、名にしおう近江商人の町である。「近江泥棒伊勢乞食」と江戸っ子に妬まれたほどの商才の長けたところだ。

 大津の膳所から、まずは近くの石山寺に行こうとしたら、国道1号線に出た。つまり、東海道がここを通っているのだ。すぐ近くに琵琶湖がある。この辺りは琵琶湖といっても末端らしく、大きな川のようだ。
 琵琶湖と瀬田川の分岐点はどこなのだろう。
 この琵琶湖の末端、あるいはすでに川と呼ばれているところに架けられた、古い橋で有名な「瀬田唐橋」を通ってみた。彼方には、もう少し大きな近江大橋が見える。
 唐橋というから中国式かと思ったがそのような特徴はない。造りもコンクリートで新しく造り替えたようである。古いと思えるのは、等間隔で並んでいる擬宝珠(ぎぼし)ぐらいか。

 瀬田唐橋のすぐ近くに石山寺があった。
 「石山寺」は、聖武天皇の希願で造られたというから歴史は古い。それより、この寺を有名にしているのは、紫式部がこの寺で「源氏物語」の稿を練った、あるいはここで書いたとされていることである。
 堂内では、紫式部の座っている人形の像が置いてある。

 石山寺から琵琶湖の西側に沿って北上すると、「園城寺」、俗にいう「三井寺」(みいでら)へ出る。
 この寺の謂われは、この寺から湧き出た泉が、天智、天武、持統の3代の天皇の産湯に使われたので、「御井(みい)の寺」と呼ばれたことによるらしい。いわゆる井戸の寺である。
 しかし、ここの売りは、「三井の晩鐘」と呼ばれる鐘楼である。
 鐘楼は木の枠で囲われていた。重要文化財なので立ち入り禁止かと思ったら、そうでもない。鐘を突くための出入り口がある。それに、誰でも鐘は突かせてくれる。ただし、1回(1突き)300円。う~ん、やはり近江の寺だ。

 三井寺をあとにし、さらに北の方にある「比叡山延暦寺」に向かった。
 地図を見ると京都はすぐそこである。そういうことで、ここ比叡山延暦寺は滋賀県にあるが、「古都京都の文化財」の世界遺産に入っている。しかし、寺の案内書を見ると、比叡山延暦寺の頭に世界遺産と書いてはあるが、どこにも京都の京の字も書いてない。
 比叡山延暦寺は、名前のように山の上にあった。山を上るドライブウェイを蛇行しながら、車は寺に向かって走った。途中に料金所があり、そこを通らないと寺には着けないようなっていると、道を訊いた人が教えてくれた。う~ん、やはり近江だ。
 最澄が起こした延暦寺は、様々な名僧が修行したこと以外に、武装した僧兵により、寺が一大勢力を持ったことでも有名である。その結果、織田信長によって焼き討ちにもあっている。
 地形を見ても、平地にある寺と違って山城とも言える。寺は東塔、西塔、横川と3か所に別れていて、山間にあるので、戦になっても攻略するには苦労するだろうと思わせた。
 そのなかでも、東塔の境内のほぼ中央にある根本中堂がいい。(写真)
 堂内の一段下がった修行のための室内は、奥の中央に本尊が置かれており、薄暗い中、絶えず蝋の灯りがともされていて、幽玄の世界を醸し出している。

 比叡山を下りて、再び大津の琵琶湖の末端瀬田川近くに戻った。
 暑さは引かず、日はまだ暮れていなかった。
 この日は大津で泊。

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唐津の七ツ釜

2010-08-19 15:12:38 | ゆきずりの*旅
 盆も過ぎたので、どこかへ行こうと友人がやって来た。
 とりあえず、唐津へ行こうということになる。
 佐賀県の場合、どこかへ行こうとなると、唐津・呼子あたりになってしまう。いわゆる玄界灘の海辺の方だ。この辺りに行くと、海の景色も変化に富んでいて、見るものもあり、魚介類の食べ物も美味い。何度行っても、飽きることがない。
 北へ向かって、多久、厳木(きゅうらぎ)、相知を通って唐津に入る。
唐津市街からさらに北へ車を走らせていると、「七ツ釜」の標示が目に入り、急遽そこへ方向を変える。
 七ツ釜とは、玄界灘に面した断崖が海の浸食によってできた並んだ岩穴を言う。釜のような穴が七つ(それ以上あるという)あるのだろう。周りには、玄武岩が柱を並べたような柱状節理があり、いっそう奇観を呈している。
 小学生のとき、海浜学校で初めて唐津の海へ行ったときに見た七ツ釜は、おどろおどろしく横溝正史の獄門島のようであった。
 七ツ釜の上から眺めていると、呼子の町からやって来た遊覧船が七ツ釜の湾内に入ってきた。船の後ろの両サイドには、何やらにょきにょきとした何本かの丸太が波を掻いているようなデザインだ。船体に、「IKAMARU」とある。呼子名産のイカを形どった船なのだ。
 船は、別に「ジーラ」という名のものがある。こちらは、鯨を形どった船だ。かつて江戸時代には、この地では鯨漁も行われていた。
 「IKAMARU」は、しばらく湾内に泊まったあと、穴のあるほうへ動き出し、一つの穴へすっと頭を入れた。(写真)
 穴は奥行き100メートルもあるという。

 七ツ釜の展望台の近くの1軒の食堂の窓に、メニューが手書きで書いてある。イカの生き造り、と真っ先に大書きされている。やはり、この辺りに来たからにはイカの生き造りに限ると、店に入るや、さっそく注文した。
 すると、店の主は申し訳なさそうに、今日はイカがないんですと言う。盆で市場に入らなかったと言う。漁師も盆休みだったのか。やはり、呼子まで行かないとないのか。残念だが、壁に貼ってあるメニューを見ていると、イカの横に、アラカブの唐揚げ、アラカブの味噌汁定食とある。
 アラカブとは大根のことかと頭をひねったら、釣りの趣味もある友人がカサゴだと教えてくれた。カサゴは岩礁などに生息している見た目は悪いが、美味い魚だと言う。僕らはアラカブの唐揚げ定食を頼んだ。
 アラカブは頭からかぶりつくんだと友人は言う。アラカブは、骨も味わうものなのだ。頭から骨ごと齧ったが、それでも骨は残る。付いていたアラカブの味噌汁が美味い。

 七ツ釜を後にし、呼子の町を通って、呼子沖の加部(かべ)島へ渡った。この島へはもう大分前から橋が架かっていて、呼子と地続きの感覚だ。
 加部島には、美しい田島神社がある。2008年の正月、初詣を兼ねて初めてこの神社に来たとき、海に向かって鳥居が立っているのを見て、僕は感動したのだった。
 それに、境内には佐用姫(さよひめ)伝説の佐用姫を祀った神社もある。
 田島神社の海を眺める神社から海の方を見つめていると、対岸の岸壁で少年たちがたむろしている。みんなパンツ1枚だ。やがて、1人が海に飛び込んだ。そして、1人、また1人と宙返りをしながら飛び込んだ。少年たちは、きれいな曲線を描いて海に落ちていった。
 うだるような暑さの中、羨ましい。

 僕らは、はじけるような少年たちの水しぶきを見ていた。僕らも、海に入りたくなった。僕は一瞬自分の少年時代を思い浮かべながら、夏の風景を眺めていた。
 この日も、猛暑だ。
 シャツは汗で濡れている。
 海は青く、空も抜けるように青い。白い雲が今日もゆったりと漂っている。

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