かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

戦場のピアニスト

2011-02-24 03:27:20 | 映画:フランス映画
 原作:ウワディスワフ・シュピルマン 制作・監督:ロマン・ポランスキー 出演:エイドリアン・ブロディ トーマス・クレッチマン 2002年ポーランド=仏

 人間の運命は分からない。
 いつ死んだかもしれないし、生きているのは偶然かもしれない。
ましてや、戦争のただ中に生きていたなら、生死は紙一重だろう。いや、第2次世界大戦中のポーランドにおけるユダヤ人だとしたら、死を余儀なくした運命にあっただろう。
 第2次世界大戦下、ポーランドはナチス・ドイツに占領された。その時、ホロコーストによって、当時ワルシャワ・ゲットーにいた38万のユダヤ人のうち30万人が殺害されたと言われている。

 一方、人間の運命は出会いともいえる。
 どのような人間と出会ったかが、大きな人生の岐路になり、運命を分かつことになる。例えひと時の、あるいは一瞬の出会いであれ、人の運命を左右する出会いがまれにある。
 人は、それを死ぬまで忘れられない。

 「戦場のピアニスト」(The pianist)は、死と向きあっていた戦争下の、一瞬の人間の交叉の物語である。
 気紛れな運命ともいえる、ユダヤ人のピアニストとドイツ人の将校の間に人知れず通(かよ)った、ひと時の心の交流と言ってもいい。

 ウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)は、ワルシャワでピアニストとして活動していた。しかし、ドイツ・ナチス軍のポーランド侵入によって、彼の生活は一変する。ユダヤ人であるという理由により、彼を含めて家族は全員、ユダヤ人を集めたゲットーへ移される。
 強制労働、ナチスのホロコーストによる、ユダヤ人の死を意味する収容所送り……。次々と、シュピルマンの周囲に現実の死が覆い始める。彼は、ワルシャワ・ゲットー蜂起、さらにワルシャワ蜂起を目の当たりにしながら、戦火の中をかろうじて逃げ続ける。
 ワルシャワにソ連軍の侵攻が近づいてきた頃、廃墟のビルの中に隠れていたシュピルマンは、たまたま偵察に見回っていたドイツの将校(トーマス・クレッチマン)に見つかる。
 ドイツ将校に職業は何かと問われて、ピアノを弾いていたと答えた彼は、ここで弾いてみろと言われる。
 髭は伸び放題でやせ衰えて乞食のような男が、ピアノを弾き出すと別人のように指が弾む。廃墟に響き渡る曲は、ショパンのバラード第1番ト短調作品23。
 シュピルマンの演奏を聴いたドイツ将校は、もう2、3週間ここで辛抱しろと、戦争の終わりを見据えた言葉を残して、彼を見逃す。それどころか、その後も時折食料を隠し持ってくるのであった。
 やがて、戦争は終わる。
 立場は逆になり、ドイツ将校は捕虜となる。
 シュピルマンは、終戦後、再びピアニストとして活動し、2000年、88歳まで生存する。
 ドイツ将校のヴィルム・ホーゼンフェルト陸軍大尉は、ソ連収容所で1952年死亡する。

 「戦場のピアニスト」は、ポーランド人のウワディスワフ・シュピルマンの実話を元にした映画である。終戦直後、ポーランドでノンフィクションの書籍として出版されたが、すぐに絶版処分となった。のちに、翻訳本がポーランド以外の国で出版された。
 制作・監督のロマン・ポランスキーもポーランド人である。ポランスキーは、幼少時にユダヤ人ゲットーに入れられたが父親の計らいで脱出、母親はアウシュビッツの捕虜収容所で虐殺されたという経験を持つ。
 長じてポランスキーは映画制作に乗り出し、デビュー作の「水の中のナイフ」(1962年)で、いきなりヴェネチア映画祭国際批評家連盟賞を受賞。「反撥」(1965年)でべルリン映画祭審査員賞を受賞して、若くして鬼才の名を欲しいままにした。
 その後アメリカに移って映画制作を続けたが、少女への淫行容疑の裁判沙汰を起こして出国し、ヨーロッパに居住。現在も、アメリカへは入国できない状況にある。
 
 「戦場のピアニスト」は、カンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞した。また、アメリカのアカデミー賞の監督賞、脚本賞、主演男優賞の3部門で受賞。
 ウワディスワフ・シュピルマン役のエイドリアン・ブロディが、哀愁をおびた優しげなピアニストを絶妙に演じている。彼もまた、ユダヤ系ポーランド人である父親の家族が、ホロコーストにあったという過去を背負っている。

 これらのポーランド人の魂の秘めたる熱情が、この映画を作りあげたといえよう。
 戦争の爆撃によって廃墟となった哀しいワルシャワの街が、この映画を逆に美しくさせている。
 アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」「灰とダイヤモンド」などとひと味違ったポーランド映画となった。

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◇ 勝負(かた)をつけろ

2010-10-09 01:19:47 | 映画:フランス映画
 原作:ジョゼ・ジョヴァンニ 監督・脚本:ジャン・ベッケル 出演:ジャン=ポール・ベルモンド クリスティーネ・カウフマン ベアトリス・アルタリバ ピエール・ヴァネック 1961年仏

 邦画のタイトルは「勝負(かた)をつけろ」だが、フランスでの映画原題は「ラ・ロッカという男」(Un nommé La Rocca)であり、ジョゼ・ジョヴァンニの小説「ひとり狼(原題:L’Excommunié)」(1958年)を原作とした映画である。
 ジョゼ・ジョヴァンニが、収獄時代に知りあったという一匹狼の男を題材にしたものである。

 虚無的な犯罪映画「フィルム・ノワール」の系譜にあるものである。
 主人公は、「勝手にしやがれ」(1959年)で、一躍ヌーヴェル・ヴァーグのスターとなった、ジャン=ポール・ベルモンド。
 台詞は少なく、映像はモノクロである。苦悩することなく、簡単に殺人は行われる。
 今日の日本の映画では、北野武の映画に通じる。

 無実の罪で逮捕されている親友のアデ(ピエール・ヴァネック)を救うためにマルセイユにやってきた男、ラ・ロッカ(ジャン=ポール・ベルモンド)。
 そこで、アデを陥れた街のならず者ビラノバを探すために、彼の情婦モード(ベアトリス・アルタリバ)を自分の女にする。自分の女を寝取られ怒ったビラノバはラ・ロッカを殺そうとするが、逆に殺されてしまう。
 ビラノバを殺された部下はラ・ロッカに従い、ラ・ロッカはビラノバが営業している賭博の店も自分の支配下に置くことに成功する。
 いわゆる、街のチンピラ・ギャングの頭になったのである。
 そこへ、アメリカ人のチンピラ・グループが、「ミカジメ料」(ショバ代)を取りに、店にやってくる。それを断わったラ・ロッカは、そのチンピラを殺してしまい、自分も腹を撃たれ、逮捕される。
 収監されたラ・ロッカは、アデと同じ監獄に入れられる。そこで、2人は早く出獄できるというので、危険な地雷除去作業班に入る。しかし、アデは地雷除去の際片腕を失う。
 やがて出獄した2人は、アデの可憐な妹ジュヌヴィエーヴ(クリスティーネ・カウフマン)を含め、3人で暮らし始める。
 アデは、3人で暮らす生活として、郊外の農場を買うための資金を得ようと、かつて自分を売った男から金をせしめる。しかし、金を取り戻すために男の部下がやってきて、誤ってジュヌヴィエーヴが撃たれ、彼女は死んでしまう。
 ラ・ロッカはアデにこう言って、アドの元を去る。
 「おまえが、彼女を殺したのだ」

 主演のジャン=ポール・ベルモンドは、当時まだ20代で、一匹狼の殺し屋の凄みはないが、アラン・ドロンとフランスで人気を二分する、スターの片鱗を見せている。
 クリスティーネ・カウフマンは、清純なフランス人形のような雰囲気がある。少しマリナ・ブラディーのようであり、アンナ・カリーナのようでもある。
 「戦後西ドイツ最大の清純スター」と言われたが、役柄に恵まれなかったせいか、女優としては大成しなかった。
 原作者、ジョゼ・ジョヴァンニは、のちに自ら監督し、主演もジャン=ポール・ベルモンドで、『ラ・スクムーン』(1972年)として再映画化している。こちらの方は、クラウディア・カルディナーレが出演している。
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◇ 勝手にしやがれ

2010-08-05 03:27:58 | 映画:フランス映画
 フランソワ・トリュフォー原案 クロード・シャブロル監修 ラウル・クタール撮影 ジャン・リュック・ゴダール脚本・監督 ジャン・ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ、ダニエル・ブーランジェ 1959年仏


 人は、自分の人生を小説や映画に照らし合わせる。若いときは、なおさらだ。
 僕は、いつも小説や映画を自分に映しだそうとしていた。つまり、それらに無用心に影響を受け続けてきたということだ。きっとそれらは、各々細切れとなって、僕の体内の血管に入り込んでいるだろう。

 ジャン・リュック・ゴダールは、映画「気狂いピエロ」(1965年)で、フェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)とマリアンヌ(アンナ・カリーナ)に、車の中でこう言わせている。
 「人生と小説は、しょせん別物さ。同じであってほしいとは思うよ……が、そうじゃないんだ」
 「いいえ、人生と小説は同じだわ。みんなが思っているよりずっと」
 ゴダールは、このように、いつも僕らを取り巻く拮抗や対立を、映像の中に機関銃のように乱射してきた。僕たちが悩みながらも見送ってきた「男と女」、「恋と戯れ」、「行動と思考」、「現在と過去」、「夢と破滅」エトセトラ、エトセトラ。
 彼は、自分の人生を自分の映画のように生きようとしてきたに違いない。

 「勝手にしやがれ」は、それまで、「いとこ同士」(1959年)のクロード・シャブロルや、「大人は判ってくれない」(1959年)のフランソワ・トリュフォーなどの「カイエ・デュ・シネマ」系の批評家から出てきた揺籃期のヌーヴェルバーグに、決定打を放った記念すべき映画である。
 このときから、新たな波(NOUVELLE VAGUE)は、全世界を席巻した。
 この映画は、ヌーヴェルバーグの旗手としてのゴダールの初めての長編映画であるだけでなく、それまで目立った俳優ではなかった主演のベルモンドを、アラン・ドロンと比肩させるほどのスターに押し出した映画でもある。

 映画や小説は、観たり読んだりしたそのときの年齢で、受ける印象が違うものだ。この「勝手にしやがれ」も、今度観たときは、若いときとは違ったところに目がいく。何気ない台詞にも気が向く。

 マルセイユに現れた一人の男ミッシェルは、車を盗んで、付きあい始めたばかりの若い女パトリシアのいるパリに車を走らせる。
 途中、白バイに追いかけられ、はずみでその警官を殺してしまい、警察に追われる身となる。
 太陽の下の港が映しだされると、南仏のマルセイユと分かるし、車が川の向こうの大きな寺院を映しだすと、エッフェル塔を映しださなくとも、セーヌ・シテ島のノートルダム寺院なので、パリに着いたのだと分かる。
 シャンゼリゼ通りで新聞を売っていたのは、ミッシェルがぞっこんのパトリシアだ。新聞は、ニューヨーク・ヘラルド・トレビューン。パトリシアはアメリカ人で、パリに留学しているジャーナリスト(あるいは作家)志望の女の子なのだ。
 2人は南仏で知りあって、既に何回かベッドを共にいている。しかし、まだ恋人と言える間柄ではなく、曖昧な関係なのだ。

 ミッシェルは、パトリシアのアパートに忍び込み、ベッドに潜り込む。
 ミッシェルはパトリシアに手を延ばし愛を語り、パトリシアはまだ自分の心は分からないとかわすのだった。
 「君なしではいられない」
 「いられるわ」
 「いたくない」
 ベルモンドの贅肉のない引き締まった体とストレートな感情表現が、彼を憎めないと同時に悪い予感を感じさせる。
 パトリシアであるジーン・セバーグの、少年のような短い髪がとても彼女に似合っている。うなじの少し内にカールした細く光る髪が、ボーイッシュなのにセクシーだ。セシルカットと言ったっけ。
 この時、ジーン・セバーグも、「悲しみよこんにちは」(1957年)でデビューしたての若手スターだった。
 「私が何かに恐れていると言ったわね」
 「それは本当よ」
 「あなたに愛してほしい」
 「それと同時に、もう愛してほしくないの」
 「縛られたくなくて」

 このベッドの会話で、最初若いとき観たときから印象に残っていた場面がある。
 ミッシェルがパトリシアに「ニューヨークでは、何人の男と寝た?」と訊く。
 パトリシアは、少し考えて、片方の指を広げ、もう片方の指を2本立てる。つまり、7人ということだ。
 「あなたは?」と問われたミッシェルは、寝そべったまま、握った片方の手を広げて、また閉じて広げてを繰り返したのだった。そして、「多くはないな」と呟く。(場面写真/「フランス映画の歴史3」)

 ミッシェルはことあるごとにパトリシアに言う。
 「もうすぐ金が入る。そしたら一緒にイタリアへ行こう。ミラノ、ジェノバ、ローマ…」
 パトリシアは、「ウイ」と返事をしない。まだ曖昧だ。
 いや、いつまでも曖昧だ。
 「あなたと寝たのは、本当に愛しているか確かめたかったの」

 そして、パトリシアは、自分がミッシェルを愛していないということを確かめるために、ミッシェルの居場所を警察に密告してしまう。
 ミッシェルに密告したことを告げて、「早くここから逃げて。10分もすると警官が来るわ」と言うパトリシア。
 ミッシェルは怒りながらも、それでも慌てて逃げようとしない。
 「もう終りだ。刑務所も悪くない」
 金を持ってきたミッシェルの仲間も、警官を見つけて、早く逃げろと忠告する。
 「しゃくだが、あの娘が頭から離れない」と言い残して、ミッシェルは金の詰まった鞄を持って走り出す。その背中に、警官がピストルを向ける。

 *

 「勝手にしやがれ」は、この映画のあと、セックスピストルズや沢田研二の歌(作詞:阿久悠)のタイトルに使われてきた。
 セックスピストルズの原題は「Never mind the bollocks」。bollocksは、睾丸のほかに、くだらない、バカなという卑俗語だから、あながち勝手な意訳とも言えないだろう。
 しかし、この映画の原題は「A BOUT DE SOUFFLE」で、意味は息の限界、つまり息切れ、である。
 「勝手にしやがれ」は、映画の全体の印象から付けた題名であろうが、日本独自のものである。若いときは、原題を調べて、日本映画界も勝手な題をつけるなあと思った。
 映画の最後で、ミッシェルは追ってきた警官にピストルで撃たれ、パリの街をよろめきながら逃げ歩き、やがて倒れる。最後は、あらゆる意味で息切れるので、原題は合っている。
 
 しかし、ずっと以前から、「勝手にしやがれ」という言葉が気になっていた。
 実際、この映画で使われているのだろうか、そして、最後の息切れる前のミッシェルの台詞「最低」が、「勝手にしやがれ」の意味あいを持っているのだろうかと。

 冒頭のシーン。
 マルセイユで車を盗んで、愛する女の子がいるパリへ向かうミッシェルは、田舎道を車を走らせながら、「田舎はいいね」と言いながら、ご機嫌だ。
 「Si vous n'aimez pas la mer..., si vous n'aimez pas la montagne..., si vous n'aimez pas la ville..., allez vous faire foutre!」
 日本語字幕では、「海が嫌いなら 山が嫌いなら 都会が嫌いなら 勝手にしやがれ!」
 「allez vous faire foutre!」が、「勝手にしやがれ」として出てくるのだ。
 「foutre」を辞書で引くと、卑俗語で「ひでぇ、こんちくしょう」など、驚き、感嘆、怒り、強調を表現する言葉とある。意味からして、勝手にしやがれである。
 しかし、この「allez vous faire foutre!」がタイトルではない。映画担当者(題名決定権を持つ者)が、この和訳を見て、「勝手にしやがれ」という言い回しが気に入ったのかもしれない。

 最後のシーン。
 ピストルで撃たれ、倒れたミシェルがパトリシアと警官に向かって、呟く
 「…vraiment degueulasse!」(まったく最低だ)
 パトリシアは警官に「何て言ったの?」と訊く。
 警官は言う。
 「彼は、あなたが本当にune degueulasse(最低)だと言った」
 パトリシアは言う。
 「Qu'est-ce que c'est degueulasse?」(degueulasse(最低)って何のこと)
 この言葉で、映画は終わる。
 「degueulasse」は、辞書によると、汚いやつ、下司の意味だ。
 つまり、「最低」。
 
 最低とは、誰のことか?
 本当に、パトリシアのことを言ったのか?
 あるいは、ミッシェルは自分のことを言ったのではなかろうか?
 こんな結末に終わったことに対して。
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◇ 花咲ける騎士道

2010-06-19 00:57:02 | 映画:フランス映画
 ジェラール・クルヴジック監督 ヴァンサン・ベレーズ ペネロペ・クルス エレーヌ・ド・フジュロル 2003年 仏

 「花咲ける騎士道」といえば、ジェラール・フィリップである(1952年、仏)。
 アラン・ドロンの前の、初代フランス、ヨーロッパ随一の色男である。いや、戦後から1950年代を通して、世界随一といってもいいだろう。これは、僕の個人的な評価だが、世間もそうであったであろうと思う。
 この「花咲ける騎士道」の主人公がファンファンという名で、映画の原題も「ファンファン・ラ・チューリップFANFAN LA TULIPE」である。
 ラ・チューリップ(ラは冠詞)とは、ファンファンが盗賊から国王の娘を助けたときに、チューリップの装飾品(宝石)と一緒にもらった名字である。
 このチューリップを持って、ファンファンは王女に求愛に行く。
 このチューリップは、アレクサンドル・デュマの「黒いチューリップ」が伏線にあるのかもしれない。
 中世、オランダが栽培に力を入れ、チューリップはヨーロッパで宝石のような高値で取引された。オランダでは、3人の騎士から求愛された美しい少女がチューリップに姿を変えたという伝説がある。
 ちなみに、映画「黒いチューリップ」(1963年、仏)は、2代目色男のアラン・ドロンが主役を演じた。

 「花咲ける騎士道」におけるファンファンという砂糖菓子のような甘い名前は、その後ジェラール・フィリップの愛称となった。
 ジェラール・フィリップは、その後「夜ごとの美女」、「赤と黒」、「モンパルナスの灯」などに主演したあと、「危険な関係」(ロジェ・ヴァディム監督、1959年)を最後に、36歳の若さで他界する。
 日本でも、岡田真澄がファンファンと称していた。フランスの血を引き、ハンサムだから許されただろうが、中年以後太ってからはファンファンというよりはロシアのスターリンに似てきた。

 *

 18世紀の革命前夜のフランス。ヨーロッパでは、まだ戦争が絶えなかった時代である。
プレイボーイのファンファン(ヴァンサン・ベレーズ)は、村娘たちと色恋に戯れる日々だった。
 ところが、軍人の副官から求愛されていて逃げている女アドリーヌ(ペネロペ・クルス)に占いで、あなたは最高の愛を掴む、それは王女の愛だ、と言われる。自由な愛を求め、結婚なんてしないと思っていたファンファンは、最高の女とならばと、その気になり、王女に近づくために、そのとき募集していた軍隊へ入る。
 しかし、アドリーヌの言葉は、ただ軍隊に勧誘するだけの嘘だった。
 そこへ、高貴な馬車が盗賊に襲われた。出くわせたファンファンは、一人で盗賊を追い払う。ファンファンは遊び人だけでなく、剣も強かったのだ。
 それに、何とその馬車は王女が乗っていて、実権を握っていたポンパドゥール夫人(エレーヌ・ド・フジュロル)も乗っていた。ポンパドゥール夫人からチューリップの宝石と名前をもらったファンファンは、すっかりその気になるのだった。
 俺は、王女を娶(めと)るのだと。

 ジェラール・フィリップの「花咲ける騎士道」のリメイク版である。
 2代目ファンファンであるヴァンサン・ベレーズは、ジェラール・フィリップ、アラン・ドロンの系譜である二枚目とは言いがたい。確かに軽く現代的であるが、水も滴る色男と言うには憚られる。
 どちらかといえば、かつてアラン・ドロンと対比されたが、正統的二枚目ではないアクションを得意としたジャンポール・ベルモンドの系譜であろう。いや、一目見て、「アマデウス」のF・マーリー・エイブラハムを想起させた。
 アドレーヌ役のペネロペ・クルスは、野性的な美女であるクラウディア・カルディナーレの系譜である。スペイン人の彼女は、まるでジプシーの血を引いているかのような妖しさが漂う。

 それにしても、ヨーロッパの騎士道は、日本の武士道とはこうも違うかと思わせる。
 騎士道で最も特徴的なのは、宮廷的愛である。
 騎士は、自分より身分の高い王族、貴族への崇拝と献身を旨とし、肉体的愛ではなく精神的愛が唱えられ、尊重されもした。貴婦人を、愛し、慕うことは、許容されたのである。だから、しばしば貴婦人と騎士の色恋沙汰の物語が生まれた。
 日本の武士道を主題にした映画、物語で、例えば足軽や下級武士が主君の姫君と結婚しようとするテーマは考えられない。あったとしても、それは決して表面に出てくるものではなかった。武士道はもっと重いものがある。
 騎士道は、武士道と同じく忠君であることには変わりないが、ロマンが隠されているように感じる。ヨーロッパ人と日本人の、恋愛に関する精神構造の違いであろうか。

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◇ ココ・シャネル

2010-06-09 04:15:46 | 映画:フランス映画
 クリスチャン・デュゲイ監督 シャーリー・マクレーン バルボラ・ボブローヴァ ヴァレンチナ・ロドヴィーニ サガモア・スチヴナン オリヴィエ・シュトリュック マルコム・マクダウェル 仏伊米 2009年

 最近東京では、若い女の子、特に女子高生でクラウン(山部)が平たく、水平の丸いブリム(つば)のある麦わら帽子を被っているのをよく目にする。少し小さ目のを、ちょこんと頭にのせて留めている子もいる。
 いわゆる麦わらカンカン帽で、カノチエである。
 ヴェネツィアのゴンドラの舟漕ぎが被っているのを思い浮かべればいい。

 このカノチエである。
 若きガブリエル・シャネルは貧しいお針子(洋服の縫子)のとき、金持ちの将校のエチエンヌ・バルサンと知りあい、やがて同棲することになる。かといって、結婚するという二人の約束があったのではない。将校のエチエンヌは、彼女が好きであったが身分が違うと思っていたのだ。
 彼女、シャネルは、エチエンヌと田舎に行く。そこで、二人は乗馬を楽しむ。それに、エチエンヌは競走馬を持っていた。競馬場から競馬場へと行くのが、シャネルにとってエチエンヌと暮らすことでもあった。
 南仏の競馬場は、金持ちの上流階級の暇つぶしに格好の楽しみなのだ。かといって、観覧席では上流階級の夫人たちが来ているので、彼女のような囲いの女は、草野で見ていたのである。
 当時の上流階級の女性の服装は、フリルやボウで飾ったブラウスにジャケット、コルセットで締め上げたたっぷりとドレープのあるスカートを着、羽飾りの着いたつばの広い帽子を斜めに被っていた。
 シャネルの服装はといえば、目立たないように、エチエンヌの白いシャツにタイをして、男物の外套を覆っているというシンプルな格好である。そして頭には、自分で作ったカノチエ帽子を被った。(写真「シャネルの生涯とその時代」(鎌倉書房刊))
 それは、質素な格好であったが、着飾った女より、おそらくセンスよく映った。というのも、より自然だったからである。
 これこそ、のちにファッション界に旋風を巻き起こす、シャネルの第一歩だったのだ。
 シャネルが作った帽子を、かつてエチエンヌの愛人であったエミリエンヌ・ダランソンが目をつけ、私にも作ってと言う。
 エミリエンヌという妖しい女は、女優にして詩人で、当時最も人気のある高級娼婦であった。その彼女の口コミによってシャネルの帽子は評判を呼ぶ。
 彼女に、作る喜びと同時に自立への思いが頭をもたげてきて、のちにパリに自分の帽子店を開く糸口となる。
 やがて、エチエンヌの援助でパリのアパートに移り住むが、ほどなく、近くに住んでいたエチエンヌの友人アーサー・カペルと付きあうようになる。
 カペルはイギリス人で、実業家でもあった。エチエンヌと違って、彼女の自立心に賛同するカペルの援助で、彼女は自分の店を開くことになる。
 1910年、秋。パリ、カンボン通り21。シャネルの帽子店がオープンする。
 門には「Chanel modesシャネル・モード」と、掲げられた。
 シャネル・ブランドの第一歩である。

 その後、シャネルはブティックを開き、帽子だけでなく衣服も作るようになり、クチュリエール・シャネルと言われるようになる。
 シャネルの作る服は、今までの女性の着飾った重い服からの解放とも言えた。
 例えば、胴の長い、スカート丈の短い男っぽい服のギャルソンヌ・ルック。
 身も軽くなる着やすいスポーツ・ウエア。
 それまで女性服に使われることのなかったジャージー素材のウエア。
 それに、マリリン・モンローが「何を着て寝ているか?」との質問に「シャネルの5番」と言って有名になった、香水の販売でも評判になる。

 *

 「ココ・シャネル」の映画は、第2次世界大戦中におけるドイツ協力者としての非難により、戦後亡命していたシャネルがスイスからパリに帰国し、15年ぶりにコレクションを開くところから始まる。
 1954年、そのときシャネル、既に70才。
 このコレクションは、散々な評判(不評)で終わる。もはや、シャネルの時代は終わったのだと、誰もが思った。
 しかし、シャネルは呟く。私は、何度も失敗してきて、何度も立ち上がってきたと。
 映画は、彼女の貧しい孤児院の時代の回想へと戻る。そして、今日のシャネルができあがるまでの恋と仕事の物語が、彼女の回想として繰り広げられる。

 復帰コレクションの失敗により、引退を勧める周囲を押し切って、翌年、復帰2度目のコレクションを彼女は強行実施する。そして、今度は成功し、特にアメリカで彼女の服は大人気となり、シャネルは本格的に復活する。
 そして、有名なシャネル・スーツを生み出す。
 ジョン・F・ケネディー、アメリカ大統領がダラスにて銃で撃たれたとき、横にいたジャクリーヌが着ていた(少し血に染まった)服がそうである。
 ファッション界に完全復帰したシャネルは、パリのリッツ・ホテルで、87才で死ぬまで、現役で通した。

 日本の服飾界でも、シャネルは特別な存在だった。
 戦後は、ディオールが次々と新しいラインを発表して時代をリードしていたし、女性のクチュリエでは戦前からランヴァン、スキャパレリなどがファッション界の中心にいたが、シャネルは、愛称のココ・シャネルと呼ばれるように、15年の空白をものともせずに、半世紀以上にわたり、シャネルとして存在した。
 そして、今でもシャネルは存在し続けている(カール・ラガーフェルドによって)。いや、ココ・シャネルがいなくても、ブランドとしてシャネルは存在し続けるだろう。

 ココ・シャネルを特別にしているのは、デザイナーである以上に、そのドラマチックな人生に見る人間くささである。
 シャネルは言っている。
 「女は女たちのために着飾る。競争心のためだ。その通り。しかし、男が存在しないのなら、女は着飾らない」
 「モードは二つの目的を持っている。心地よさと愛である。この二つが達成されたとき、美が生まれる」
 「モードは毛虫であり、蝶である。昼は毛虫に、夜は蝶になること。毛虫でいることほど心地のいいものはないし、蝶ほど愛にぴったりしたものはない。這いまわる服と浮かれ飛ぶ服が必要なのだ。蝶は市場に行かないし、毛虫は舞踏会へは行かない」

 映画は、シャネルの恋と成功の物語である。
 貧困から出発し、数々の恋をし(映画では2人の男性だが)、その世界で頂点をなした女性と言えば、シャンソン界の大御所の生涯を描いた映画「エディット・ピアフ愛の讃歌」を想起させる。
 シャネルの映画は、同年製作の「ココ・アヴァン・シャネル」ほか、いくつか作られている。
 この映画で晩年のシャネルを演じるシャーリー・マクレーンは、もう少し人間くささを出してよかった。
 若き日のシャネル役のバルボラ・ボブローヴァ、そして生涯彼女の片腕となるアドリエンヌ役のヴァレンチナ・ロドヴィーニ、詩人で高級娼婦のエミリエンヌ・ダランソン役(誰だか名前は知らない)など、美人で個性的な女優が並んだ。
 しかし、この映画はフランスが共同製作になっているのに、フランス語でなく英語であったのは解せない。アメリカ市場が大きいとしてもである。
 やはり、ココ・シャネルはフランス語で喋らないといけない。
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