花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

秋色の都心「日比谷公園」

2009年11月12日 | 東京の街
「屋根の上のバイオリン弾き」を観てからまだ2週間しか過ぎていないのに
すぐ次の11月分の「レ・ミゼラブル」観劇の日がやってきました。
この日の舞台は「帝国劇場」です。

前回は大雨の中を出かけましたが、今回は小春日和の気持ちのよいお天気に恵まれたので
「日比谷公園」を散策してお昼を食べてから観劇に向かいました。


11月10日(火)、日比谷公園の木々はすでに「秋色」に染まっていました。
今年開園107年目の「日比谷公園」の木々はみんな大木です。


大きなケヤキの木の下で、たくさんのビジネスマンがお弁当を食べていました。
こんな日は戸外で食べた方が気持ちが良いですものね
みんな揃って同じ仕出し弁当の一団が・・・
公園内の「日比谷公会堂」で全国統一集会でもあったのでしょうか?


こちらは日比谷公園のシンボル「大噴水」、28分間周期で24景が楽しめるそうです。

幕末までは松平肥前守などの屋敷地でしたが、明治時代に陸軍練兵場となり
その後「都市の公園」として計画、設計、造成された「日比谷公園」
日本初の「洋風近代式公園」として誕生し、平成15年に開園100年を迎えたようです。

 ・開園は明治36年6月
  ・面積は約16ヘクタール
・樹木数は 3.100本

ニューヨークの「セントラルパーク」には負けますが、都会のビジネス街の真ん中にあり
サラリーマンたちの憩いの場所になっています。

私も娘の頃はこのすぐ近くの職場に勤めていましたから、お昼休みなどよく通いました。
若き日の思い出の日比谷公園です。


開園当時のデザインの幾何学文様がそのまま残る、洋風の第一花壇も日比谷公園のシンボルです。
ここではバラが楽しめるのですが、すでに終りに近くなっていました。

私の父の実家が、日比谷公園近くの新橋で小さな商家を営んでいました。
この公園は小さかった父の遊び場でもあったようです。
「日比谷公園で蝉取りをした」とよく言っていました。

三男の父は17歳で家を離れ、大學で「化学」を専攻して化学会社に勤め、地方の工場勤務が長かったのですが
40代後半で東京本社に戻った時、横浜に家を建てました。

晩年、両親と私と3人で我家近くのデパートで買い物中、迷子になった父を探して交番に駆け込んだ時
父はお巡りさんに「住まいは新橋」と言ったらしい。
「こんな横浜の郊外で新橋から来たお年寄りが迷子になったというので困っていた所です」
とお巡りさんに言われました

人間歳をとり、状況の認知ができなくなっても、自分が子供の頃に育った「家」の事は忘れないようです。


観劇前のお食事は日比谷公園内の「松本楼」でランチです。
2年前の秋バラの綺麗な頃、中学時代の友人のtomokoさんとここのオープンデッキ
お食事をしました。

先日も暖かい日和でしたので、外での席を希望しましたが、残念ながら満席・・・


室内で前回と同じ様に昔懐かしい「洋食」を戴きました
この後飲んだコーヒーは、小学生の時に初めて口にした苦味の有るコーヒーと同じ味がしました

<>

紅葉を眺めながらお食事が出来るオープンデッキはやはりステキです。
マウスオンでご覧下さい

少し待てばここで食べられたのですが・・・
「腹減ったという主人の言葉に「待ちます」とは言えませんでした。
夫と二人ではさして話すことも無く、サササ~と食べて終わりですものね。


「石垣」が貴重な江戸時代の遺構として残っています。
日比谷公園のある場所は江戸時代は大名の屋敷地ですが、江戸城に登城するためには
見張り役人が警備する日比谷見附を通り抜けなければなりませんでした。

現在の日比谷交差点の辺りにあった日比谷見附は野面積み(のづらづみ)の石垣で
江戸時代初期の築造です。
石垣の周囲は濠になっていましたが、その一部を明治36年「心字池」として残しました。
唯一和風の風景が広がる場所ですが、この季節木々の剪定が行われ池に脚立が建てられていて
写真に撮る事は諦めました。


「心字池」の周囲の松の向こうに、これから行く「帝国劇場」のあるビルが見えていました。


コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする