掃除を教えて貰ったことがない。母は掃除好きだったが忙しく、もたもたする息子に教えるより、雑巾取り上げて自分でやる人だった。教室の掃除で先生から習った記憶も無い。「べちゃべちゃの雑巾で机を濡らすのを掃除だと思っている」と小学校で教えていたママヨさん、波風氏も最近まで「雑巾でも布巾でも絞りが足りない」とママヨさんから言われていた。
拭き掃除ひとつ出来ないというより、雑巾もまともに絞れない奴が偉そうなことを言うな、と思うようになった。自分に対して。古稀迎えてだから相当な馬鹿だ。今がちゃんと出来るかというと出来ない。絞りはできても、床を拭く膝つく姿勢がなってない。汚れ加減で雑巾を折ったり洗ったり、バケツの水を6割にし汚れを直ぐに見つけて入れ替えるなんてことも身についてない。本番遠くただただ永遠の稽古中。それでも終われば気持ち清々する。掃除は気分を変える。
暮らし方のすべてを父・幸田露伴に教わった幸田文の『幸田文 しつけ帖』、掃除の心と方法が詳しい。感心するが近づけない厳しさがある。先週、夜行列車で読んだ同著者の『老いの身じたく』で笑った。「この頃、ろくに掃除なんかしない。二日も三日もほっぽっておく。すると綿埃のような小さな玉が、ふわふわとものの隅にひそむ・・・・・なんと図々しい奴だと思うが憎めない・・・・なぜ無精(掃除をしないの意味)をするかと言えばらくだからだ」なんて言っている。家に帰り前著探して開いたら44歳、掃除しないのは楽だが63歳。文筆家として名を成す忙しさか、躾け親爺のいない独り身のせいか。(※次回に続くはず)
画像は30年近く前にいただいたパキラ。吹き抜けの高窓の光が好きなようだ。集まった観葉植物それぞれに物語があり老いた主人たちの同居人 幸田文の随筆読む心は、生きる厳しさ強さ繊細さと智恵を歯切れ良く味わえるから。自分は何も知らないことを知ることが謙虚さ、そう思ったのも幸田文を読んで。