記憶は死に対する部分的な勝利、という言葉の意味を考えて歩いた。図書館からの帰り道、いわゆる『波風的哲学の道』を地球を確実に歩く気分で。この言葉は、注目していた作家と生物学者のテレビの対談のテーマだった。コロナが問題になってすぐの頃だ。小説『日の名残り』や『わたしを離さないで』と『動的平衡』はそこに共通項があるのか。
細胞は短期間に入れ替わっているのになぜ個として存続できるのかとか、DNAは永遠に生き続けるなどの生物学の話題に興味湧いたが、それ以上に『記憶』と『人生』の関係に惹かれた。死ぬ間際に思い出すことは何かを描いた小説『燃え上がる緑の樹』(大江健三郎著)の余韻がずうっと心に残っていたからだ。亡くなった人の記憶がある限りその人は他者の中で生き続ける、という話は、近い年齢の知人が最近亡くなり始めたことで繰り返し思い出していたし、それは本当のことだと思った。
外に出る時に形見の腕時計するようになった。生きていた時よりその人を身近に感じ、時が経つほどそれは確かになっている。家に帰ってきて外す時に、ある種の満足感がある。
今考えたことの一部が記憶となり、大部分が忘れ去られる。老いていく今、散歩、読書、話する中で記憶が再生されたり、ずうっと昔の忘れていた人や出来事を一瞬だが突然思い出すことが多くなった。そのことは老いの暮らしの特徴的な一部のように思えて来た。ブログ記事を書いたり、イラストを描くことも無意識に記憶を固定化する営みで、自分自身に対する「記憶は死に対する部分的な勝利」を得るためのもがきかもしれない。
「無駄食いしない減量作戦」が効果をあげてきた。もっかの課題は『正しい姿勢』で、歩く、立つ、座る、寝る姿勢を良くすること。加えて、話する、食べる、見る、聞くのレベルもだ良い絵の条件は、大らかさ、伸びやかさ、独創性、力強さ、リズム、繊細さ、優しさ(風間完『エンピツ画のすすめ』)。つまり、持っている人間性以上の絵は描けないということ。テクニックは覚えても
イラストは形見の腕時計。閉店取り消しの時計屋さんが十分使えるよと電池交換してくれて。2B鉛筆と色鉛筆で。 ※『散歩の踏切』の修正箇所は、右側手前の電信柱で前は斜めの支え棒の角度で電信柱本体を描いていた。