ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雲の中の風景

2019-07-08 21:38:13 | Weblog




 7月8日

 数日前に、九州に戻ってきた。
 飛行機では、何とか窓側の席に座ることはできたのだが、北海道から九州に至る長い時間の間、私の好きな山々の姿を見ることはできなかった。
 東京羽田まではでは、びっしりと敷きつめられた雲の上で、そこから九州までは何も見えない雲の中で、山々の眺めはもとよりのこと、地上の景観をもほとんど見ることはできなかった。

 若い人の言葉で言えば、”めっちゃ最悪ー”ということなのだろうが、考えてみれば、もっと悪いことなどいくらでもあるのだから、このぐらいのことで文句を言っている場合ではないのだ。
 昔は(年寄りの良く言うセリフだが)3日がかりで、鉄道に乗って往復していたころもあったのだから。
 もっとも、飛行機に乗っても、窓から離れた中央列の席では外を見ることができない上に、両側が私のような汗くさい大きな男たちにでも挟まれたひにゃ、もうただただ修行僧のごとく目を閉じて眠るしかなく、えてしてそういう時には目はさえて、通路を行き来する客室乗務員のおねえさんたちに注目するしかなく、その時には無念無想とはいかず、ただ”夢は荒れ野を駆けめぐる”だけで・・・。

 まあそういうような、修行のひと時を送ったわけではなく、少なくとも窓の外には、成層圏の青空が広がり、地上を覆いつくす乱層雲の広大な風景を見ていたのだ。
 白い雲の嶺は、高く低く果てしなく続いていた。(写真上)
 それは遠い昔、若かりし頃のヨーロッパ旅行への途上で、南回りの航空機は台湾山脈の上を通り、東南アジアの緑の熱帯雨林の上を通り、インド大陸に差しかかるころ、その右手遥かに雪に覆われた8000m級の山々が立ち並ぶ、ヒマラヤ山脈が見えていて、その時のことを思い出していたのだ。
 地球の円周は4万キロにも及ぶと言われているが、今回は、その中の日本国内だけのわずか2千キロほどの航空路の旅だったのだが、いつものように地球と成層圏のはざまにある広がりを、十分に楽しむことはできたのだから、それだけでもよしとしなければ。

 人間は、距離と時間を超えて飛行機で旅することができるようになって、それまでは不可能だとされていた遠く離れた人々との関係性をより密なものとして、新たな関係性を築きあげては、多くのものを得てはきたのだろうが、それによって新たに創り上げられて発展していった環境によって、逆にそれまで旧社会の中で長年守られていた、多くの良きものをも失うことになったのだ。
 物事にはいつも、見える表と見えない裏があるものなのだ。

 さて、東京羽田を飛び立った飛行機は、行く手にチラリと富士山斜面の陰を見せただけで、あとは雲の中に突入して行った。
 それは、積乱雲などの上昇気流が起きていて、機体が大きく揺れる不安定な気流の中ではなく、1万m以上にまで達する薄雲、巻層雲(けんそううん)や高層雲の中を飛び続けているような感じで、巡航高度で青空の下を飛んでいる時のような、揺れのない安定した飛行になっていた。
 もちろんどんな飛行機にもレーダーが備えつけられていて、航路上での不安はないのだろうが、例えば私たちが霧の中をクルマで走っている時のように、周囲が何も見えないことへの小さな不安感につつまれるのだ。
 何も見えない”雲の中の風景”は、心の中に乳白色の不安を映し出す。

 今までに何度かあったことだが、ひとりで山に登って霧に包まれた山稜を歩いていて、常に抱き続ける不安は、一人でいることの不安ではなく、周りの見えない景色に自分との距離を測りかねて抱く不安なのだ。
 それゆえに、今までの白濁色の空の中に一瞬の青い陰りを見つけて、それがたちまちのうちに広大な青空となって、広がりゆくときの喜びはいかばかりのものか。

 飛行機は下降を始めて、陸地が見えてきて、滑走路に滑り降りた。
 この度は、南九州で豪雨が続く中、私は無事に九州に戻ってくることができたのだ。
 つまり、この旅の第一の目的は、様々な用事を片付けるために九州の家に帰ることであり、それができればいいのだ。いつもの飛行機からの景色を眺められなかったとしても。

 しかし、これまではいつも、見通しのきく青空の大気圏を飛んでいたのに、あの何も見えない乳白色だけの空間での長い時間は、私にある映画を思い出させたのだ。
 1988年制作の、テオ・アンゲロプロス(1935~2012)監督による「霧の中の風景」である。
 このギリシア出身の巨匠、テオ・アンゲロプロスの名前を注目するようになったのは、あの有名な「旅芸人の記録」(1975年)を初めて見た時からである。
 まずは、その絵画のような静寂な映像美に打ちのめされ、心のうちに燃ゆる思いを秘めながら、あくまでも静謐(せいひつ)な絵画のように、長尺のワンカットでつなげられていく映画に、われを忘れて見入ってしまったのだ。

 ギリシアと言えば、あの明るい地中海に囲まれた有名な観光地であり、古代ギリシア文明やギリシア神話の舞台として知られているのだが、私たち年寄り世代がまず思い出すのは、昔のジュールズ・ダッシン監督メルナ・メルクーリ主演の「日曜日はだめよ」(1961年)に見られるような明るい現代ギリシア庶民たちの日常なのだが、このテオ・アンゲロプロスの映画では、暗い空の下で、延々と続けられる旅芸人一座の、その行動記録映画であって、そこには私たちの知らない、悲惨な現代ギリシアの歴史があったことに気づかされるのだ。

 その後の「アレクサンダー大王」(1980年)で、彼の名は巨匠として確かなものになり、さらに「シテール島への船出(1984年)」「霧の中の風景」(1988年)「ユリシーズの瞳」(1995年)「永遠と一日」(1998年)などの名作を世に送り出していたが、その後の三部作に至る作品から私は見ていないけれども、その三部作が完成する前に彼は亡くなってしまった。
 あのイングマール・ベルイマン(1918~2007)やエリック・ロメール(1920~2010)などとともに、その全作品を見たくなるほどの、私の敬愛する映画監督の一人である。

 彼の他の映画作品については、また別の機会に書くとして、今回は、飛行機での”雲の中の光景”の体験によって、私がふと思い出した、このアンゲロプロスの「霧の中の風景」という映画について、少しだけ書いておくことにする。

 あるギリシアの町で、母親一人の手によって育てられた二人の姉弟、少女と幼い弟の話である。
 二人は、ドイツに働きに出ていると聞かされていた父親に会うために、ギリシアからマケドニア、旧ユーゴスラビアを経由して、ドイツにたどり着くことになるのだが、途中で会った伯父さんに、父親がドイツにいるというのは母親の作り話で、二人は私生児だとわかるのだが、一路北へと目指すその姉弟の気持ちは変わらない。 

 その途中で、(あの映画「旅芸人の記録」を思わせる)一座の人々と出会い、彼女はその中の若者に淡い恋心を抱いたりもするのだが、その後親切にしてくれた長距離トラックの運転手に乱暴されてしまうことにもなる、それでもめげずにドイツを目指し、国境を超えた霧の彼方の丘の上に見たのは、一本の大きな白樺の大木だった。
 このラストの映像が心に残る。
 これは、あまりにつらく切なくなる、それでも生きていく子供たちの、現代の童話だったのだ。

 今の私の”霧の中の風景”の先には、何が見えるのだろうか。

 ところで家に戻ってきて、まずありがたいことは、蛇口を回せば水が出ることであり、炊事が楽になり、水洗トイレが使えて、毎日風呂に入れて、晴れている限り毎日洗濯できることである。 
 それまでの、北海道での小屋暮らしのあまりに不便な生活と比べれば、ここでの暮らしは別天地のようにさえ思えるのだ。 
 ただし、多くの庭仕事や家の中の仕事、あちこちへの支払いや、通知なども済ませてしまわなければならないし、こうして途中で一度この九州の家に戻ることは、どうしても必要なことなのだが、果たしていつまで続けられることやら。

 ただ、残念なことには、いつものウメの実が、お話にならないほど少ないことであり、今見えるだけでもわずか数個ほどである。(写真下)
 去年も少なかったのだが、ジャムを作ることはできた。しかし今年は、とてもじゃないが、ほんの一口食べる分だけだろう。
 このウメの木は数十年以上にはなるのだが、こんなに実がならないようになってしまうものだろうか。(ネットで調べると、花は咲き続けてもウメの実は二三十年で減少していくとのこと。)

 最近は、小さな事故があり、せっかくの飛行機からの景色も見られず、ウメの実もならずにと、あまり良くないことばかりが続いているが、次には何かいいことが待っているのだろうか、そして”これでいいのだ”ろうか。