ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

百花繚乱

2019-05-13 21:09:26 | Weblog



 5月13日

 青空、日高山脈、そよ風、鳥の声、そして百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のごとくに咲き乱れる花々。
 何をか言わんや。
 西行法師は、辞世の句として、あの有名な歌、 ”願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎ(如月)の 望月のころ”を詠んだと言われているが、私には、こうして白雪の連嶺が眺められ、樹々や草花がいっせいに咲き出す今の時期こそが、望むべきふさわしい、末期の舞台にも思えるのだが、と言いつつ、厳冬の時期の凛(りん)とした寒さの中にも憧れを残しつつ・・・はてさて雲のゆくえと人の定めは、お釈迦様でもご存じあるまいに・・・。

 上にあげた写真は、前回書いたように先月の終わりに雪が降った後、二日後の近くの丘の上から撮った写真であるが、稜線のところどころの溶け始めていた部分が、再び雪に覆われて、冬の時期と変わらない山々の姿を見せていた。
 左から1823峰(後年測量1826m)、ピラミッド峰(1853m)、前回”ヒグマ遭難事件”で取り上げたカムイエクウチカウシ山(1979m)、1903峰、後ろに1917峰である。
 前景に映っている木々やカラマツ林は、まだ冬枯れの色のままであるが、あれから2週間、今ではすべての木々の芽吹き新緑が始まっていて、すっかり若緑色の林になっているし、山の稜線も雪解けが進んでいるのか、所々黒く見え始めている。

 地上に目を移せば、北国の春は、まさしく”春色特急”といえるほどに、辺りの草木のすべてをあわただしく花開かせていくのだ。
 4月の終わりにこちらに戻って来て、まず最初に目にしたのは、前回書いたように、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)を採りに行ったときに目にした、ミズバショウにフクジュソウやエゾノリュウキンカぐらいのものだったのだが、今は丘向こうに出かけなくとも、家の林のふちにはオオバナノエンレイソウ(写真下)が咲いているし、庭ではシバザクラとチューリップがあでやかに咲きほこっている。
 


 しかし、今年何よりもうれしかったのは、庭のコブシの花がいっぱいに咲いてくれたことだ。
 それはもう、20年近くも前に帯広の植木市で買ってきた苗から、ここまで大きく育ってきてくれた木なのだが、そのわりにはなかなか花を咲かせてはくれずに、この木は花の少ない木なのだとあきらめかけていた時に、あの3年前の湿った大雪で、枝の何本かが折れてしまい、ますます期待が持てなくなってしまっていたのだ。
 そして、一昨年去年と、まあ何とか数えるほどの花を咲かせて回復していたから、これだけでも十分だと思っていたのだが、今年は何と、一気に木全体に白いコブシの花を咲かせてくれたのだ。(写真下)


 
 それは、九州のわが家の庭にあるコブシの木とは比較にならないほどに大きくて、花数も多くて、ようやく他所で見るコブシの木と変わらないものになってくれたのだ。まずはふつうの花の多いコブシの木だったことに一安心して、眺めるたびにその喜びが湧き上がってくるのだ。
 それは、長年一緒に暮らしてきた子供の成長ぶりを見るようで、年寄りたちが草花や樹々たちに手をかけてその成長に目を細めるように、それが園芸の一つの愉しみなのかもしれない。

 ”木は私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなしているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。・・・。
 しかし木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、その命の全力をもってただひとつのことだけを成就(じょうじゅ)しようとしている。それは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分自らを表現することだ。・・・。
 一本の美しく頑丈(がんじょう)な木ほど神聖で、模範的なものはない。・・・。
 ある木は語る。「私の力は信頼だ。私は自分の父祖のことは何も知らない。私は年ごとに私から生まれる幾千のもの子供たちのことも何も知らない。私は自分の種子の秘密を最後まで生きぬく。それ以外のことは何も私の関心ごとではない.私は神が私の中に存在することを信じる。この信頼に基づいて私は生きている。」

(『庭仕事の愉しみ』ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 草思社)

 他にも、庭の周辺には、サトザクラとシベリアザクラ(花モモの一種)があり、さらには白い花の咲くスモモの木が三本あり、林の中には数本のエドヤマザクラがあるのだが、それぞれに小さいながらも今年も咲いてくれて、これまた毎年の春の愉しみである。

 さらに私を驚かせたものがある。 
 それは、家のカラマツ林の中にあるミズキである。
 これもまた花数が少ないものの、林間の木漏れ日を浴びて、毎年同じように10輪ほどの花を咲かせてくれていたのだが、今年はなんと、これまた木いっぱいになるほどに白い花を咲かせてくれて、まるでその木の所だけがスポットライトを浴びているかのようだった。(写真下)




 木々や草花たちは、私たち人間のように無駄に年をとってはいないのだ。
 いつも、たゆまざる自己向上心をもって、次の世代に届けるべきしるしを、自らの体に刻み付けては遺していくのだ。
 それは、自然界の永遠に向かっての、何という見事なたくらみなのだろうか・・・。

 それに引きかえ、お天気屋でぐうたらで日和見(ひよりみ)的なこのじじいは、昔大好きだった残雪の山に登りに行くこともなく、家でゴロゴロしているばかりで、この情けない”ていたらく“ぶりを、何というべきか。
 ”八丈島のきょん!”(漫画「がきデカ」こまわりくんの意味のない感嘆詞)

 昨日今日と朝は0度近くまで冷え込んで、昨日は霜が降りていたが、日中は16℃くらいまで上がって、ちょうどいい春の穏やかな気温になっている。 
 九州や本州では、30度超えの真夏日が続いているというのに、夏が苦手な私には、この青空の下の心地良い涼しさが何にもましてありがたい。
 しかし、晴れた日が続く分、家の井戸は相変わらず干上がったままで、相変わらずもらい水と市販天然水で何とかやりくりしているところだ。
 去年と同じように、井戸の水が使えないことは覚悟するとしても、せめて雨が降って、その雨水で一般生活用水だけでもまかなえればと思うのだが・・・大山祇大神(オオヤマツミノオオカミ)、高龗神(タカオカミノカミ)、八大竜王、なにとぞ雨降らせ給え・・・。




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