3月4日
前回、家のウメの花が咲いている写真を載せたのだが、そのウメも今では満開になっていて、チュルチュルと甘い鳴き声をあげてメジロの群れがやって来る。
向こうのカヤ原の方からは、ホオジロのさえずりも聞こえている。
まさに春本番の光景だが、意外に気温は上がらず、雨や曇りのぐずついた日々が続いている。
もちろん、3月になったからといって、急に春の陽気いっぱいの、ぽかぽか天気になるというわけでもないのだが、今年は冬が短かっただけに、余計にそう思えてしまうのだ。
まあ、季節の初めはそうしたものだろうが、去年に続いて今年も、今頃になると何かやり残しているような、後ろめたい気がするのだ。
というのも、長い間、冬の間の自分の恒例の山登り行事になっていた、北アルプスや東北の山々への雪山行脚(あんぎゃ)の旅に、今年も出かけなかったからだ。
原因は、簡単なことだ。
年寄りになってきて、本来私の中に在る”ぐうたら”ぶりが、さらに勢いを増してきたというべきか。
遠征登山に出かける時、途中どうしても越えて行かなければならない、あの都会の雑踏や、宿泊先、交通便などを調べて手配することなどが思い浮かんできて、すっかりおっくうになってしまうのだ。
あの小津安二郎の不朽の名作『東京物語』(1953年)で、尾道に住む(笠智衆と東山千栄子演じる)老夫婦が、東京の息子や娘たちのもとへと訪ねて来たのだが、それぞれの子供たちのあわただしい家庭の事情を知ることになり、そのまま疲れ果てた旅を終えて尾道に戻ってきたのだが、その帰りの汽車の中で妻の具合が悪くなり寝込んでしまい、その知らせを受けた子供たちが尾道に駆けつけたのだが、彼女はそのまま亡くなってしまう。
葬式の後、それぞれに仕事のある子供たちは、あわただしく東京に戻って行ってしまったが、その後も最後まで残っていろいろ手伝ってくれた、戦争で死んだ次男の嫁である原節子に、義理の父親である笠智衆が、「東京に行った時から、実の子供たちよりはいわば他人であるあなたに一番世話になって」と言いながら妻の形見だとして、彼女に懐中時計を渡すのだが、それを聞いて目に涙いっぱい浮かべて両手で顔を覆い泣く原節子・・・、その彼女も東京に戻って行ってしまい、海峡の海を眺める家に一人ぽつねんと座る彼の姿・・・。
全く、心に残る見事なラストシーンだった。
若いころにはさほど気にはならなかった映画でも、年を重ねていくとともに、じわりじわりと心に響いてくるようになる、ということはよくあることだが。
それは映画だけに及ばず、もちろん小説や散文、詩歌、絵画、音楽などにも言えることだし、大きく広げて言えば、人生におけるすべてのことについても言えることなのかもしれない。
私がここにいつも書くことだが、”若いころに戻りたくはない、年寄りになった今が一番いい”と思うのは、何も強がりや体裁をつけて言っているわけではなく、まさに今の年になってからこそ、すべての物事が、ぼんやりとではあるが、定まった形で見えてくるような気がしているからだ。
それは、単純なことだ。
物事は、いつも多面的な側面を持っていて、今見えている正面だけではなく、見えていない様々な形や意味を含めての姿であるということ。
それを長年の実体験によって、自分の中で積みかさねられてきたものが、より確かな総合的判断力になって、今あるものの見方に影響を及ぼしているのではないのかと思うのだ。
もちろんそれで、世の中のことすべてが分かったなどと大それた口を利くつもりなどはないし、まだまだ自分が、経験値を重ねていく途上にあることは間違いないのだが、ただ少なくとも言えることは、感覚や感情に大きく支配されて、正面からしかものを見られなかった若いころと比べれば、年寄りになってからは、少なくとも一歩下がっての、時間はかかるにしても、昔よりは多少とも冷静な判断ができるようになったのではないかということだ。
だから、じいさんになった今の自分が好き!八丈島のきょん!(マンガ”こまわりくん”での意味のない感嘆詞)
それで、前回書いた十数年前の中央アルプスは宝剣岳での話だが、この時、無理をして千畳敷(せんじょうじき)の高額なホテルに泊まって、それだけに朝夕に素晴らしい光景を見ることができたのだが、この時の山旅の印象は、目的の木曽駒ヶ岳や宝剣岳の印象以上に、この千畳敷からの朝夕の南アルプスの眺めにあったのだ。
その時の、写真を二枚。(上、南アルプス北岳と間ノ岳の夕映え。下、同じ場所からの富士山を間にしての南アルプス北岳から塩見岳までの朝焼け。いずれも中判カメラによるフィルム写真よりデジタルスキャン。)
さてここで書いておかなければならないことがあるのだが、それはこの時の宝剣岳の話は、YouTubeからの一般の人の投稿画像を見ての話しだったのだが、実はYouTubeでは、一度自分でその項目を検索して見ると、次回からそれに関連付けた項目がリストアップされていて、まあネットの広告方法としては当然のことなのだが、そこには、この動画の作者であるKen Fujimotoさん制作の他の作品、岩登りや沢登りなどの動画が何本も表示されていたのだ。
パソコン画面に並んでいたこの動画のサイトに、山好きな私が食いつかないわけがない。
すぐに3本を見たのだが(制限付きのWiFiだから無制限には見られない)、それらはすべて岩稜登攀(とうはん)の映像であり、夏の剱岳三の窓雪渓から北方稜線、夏の西穂高岳からジャンダルム・奥穂高岳、そして冬の八ヶ岳中山尾根横岳西壁などで、どこかの総理大臣の土俵上での言葉ではないけれど、それは感心したといえるほどに、うまく編集された山の登攀動画の番組になっていたのだ。
まずはGoPro社製の、ヘルメット装着小型カメラの映像がいい仕事をしていて、ルート上の危険個所が目に見えてよくわかること、さらにはこの登攀前後のふもとに着くまでや帰りの時の彼らの話が、前回は邪魔だとも思っていたのだが、よく聞いてみると関西の掛け合い漫才を見ているようで面白いこと。
これらの動画シリーズからわかってくるのは、今40代初めになった作者のfujimotoさんが、大阪のある山岳会に所属していて、その仲間たちとのクライミングや沢登りなどが撮られていて、その会の仲間数人で写っていることもあれば、仲の良い先輩のHさんと二人きりの時もあり、この時の二人のテントやクルマの中での掛け合い話が面白くて、もっと聞いていたいと思うほどなのだ。
それは、何よりも彼の親しみやすい人柄と、時々外人に間違われるという彼のハンサムな外見もあって(登山道を歩いていて、彼のYouTubを見ていると声をかけられていたくらいだから)、どうしてなかなかの人気者なのだ。
さらに、これも言っておきたいのだが、彼の動画編集技術も大したものであり、始めと終わりに流れる音楽のセンスも、全くの素人とは思えないし、もしかしたらそうした会社に勤めているのかもと思ってしまうほどである。
ちなみに、この動画にも大手のCMが流れていたから、今ではもう立派なスポンサーがついているのかもしれない。
ただこの八ヶ岳の時の映像においても、同じように不満な点があるのだが、私は前回の話で、頂上からの展望映像がないことが残念だったと書いていたのだが、それはこの八ヶ岳の時も同じだった。
今回の横岳西壁、中山尾根登攀はともかくとして、それを終えて縦走路に出た後、そのまま横岳にも赤岳にも登らずに、地蔵尾根からの登山道で下山したことだ。
その日の天気は素晴らしく、富士山、南アルプス、北アルプスなどが見えていたにもかかわらず、それらをちゃんと撮った映像がなかったことだ。
つまり、彼らはロッククライマーとしての岩稜氷壁登攀や、シャワー・クライミングで滝などを登る沢登り屋であって、ハイキングやトレッキングをして眺めを楽しむ普通の登山者ではないということだ、まあそれらの要素が少しずつ組み合わさった、私のような人間もいるのだが。
ともかく、前回書いたように山登りというものは実に多岐にわたっているし、ロッククライマーの先には、オリンピック競技にもなった人工壁への速さとルートを競うスポーツ・クライミングやボルダリングなどの世界があるし、バリエーション・ルートをたどるアルピニストの先には、ヒマラヤ未登峰未登ルートなどの登攀などがあるのだろうし、それらは、私たち山歩きを主とするトレッカーたちとは全く違う世界であり、今では競技としてのトレイルラン(山岳マラソン)に参加する人も多いし、他にも山スキーを楽しむ人もいるし、沢登りだけが好きだという人もいるし、すべて一抱えにして登山というには無理があるような多様化の時代になったのだろうが。
ところで、彼らは次の日に赤岳の主稜尾根に取り付いていたのだが、悪天候で断念して、登山口の美濃戸(みのと)から下の駐車場がある美濃戸口まで歩いて行くことになるのだが(私も下山時に歩いていて車に乗せてもらったことがあるが)、その時に二人の間で”百名山”の話になり、先輩のほうが”あんなじいさんが一人で作った百名山なんてくだらない”といって彼に話を振ったが、彼は”はなからそんなもん興味ありません”と答えていた。
私は今までも書いてきたように、”百名山”にこだわって登るくらいなら、好きな山に二度三度登るほうがましだと思っているし、世の中には知られていない名山が数多くあるし、私が長い間、北海道の日高山脈に集中して登ってきたのも、そんな思いからであるが、一方では、深田久弥氏自体の山への考え方は、尊敬するに値するものだと思うし、彼が書いた山の本を私は何冊も持っているくらいだが、こと“百名山”の選定においては、彼があまりにも歴史的にという項目に重きを置いているために、私の考える名山基準からは外れるものが多く、彼の”百名山”の選定には異を唱えたくなる一人なのだが。
ただ、こうして彼らから悪(あ)しざまに深田氏のことを悪く言われると、私の反骨精神が起き上がってくるのだ。
若いころは、岩への技術が楽しい岩稜登攀だけにはまっていても、それはそれでいいことだが、そうしたクライミングの技術は果たして幾つまでやれるものだろうか、さらには、一時期夢中になっただけで、若くしてクライマーの世界から離れてしまう人が数多くいて、彼らは山登りからも遠ざかってしまうことが多いようだ。
しかしそうではなくて、危険要素の少ない普通の山歩きから山登りを楽しんでいれば、それは年をとっても自分が歩ける間は、いつまでも山を楽しめるのにと思ってしまうのだが。
要するに、岩登りという冒険の中に自分の身を置くのが好きだということと、大自然である山の中に身を置くのが好き、というものの違いではないのだろうか。
それは、どうこう言うべき良し悪しのものではなく、ただ自分の好み性向の差に過ぎないのだろうが。
それでも私は山が好き、八丈島のきょん!
今回もまたしても山の話で、長々と書いてきてしまったが、例のごとく、「ポツンと一軒家」からのお話を。
まずは前々回の番組から、岐阜県の山奥に住む昔は豪農だっという家の、三男坊だった今年93歳になるというおじいさんの話しで、昔はこの家に両親祖父母そして11兄弟の子供たち含めて15人で住んでいたというが、今では自分たち老夫婦とその娘の60代の夫婦の4人で住んでいるとのこと。
しかし、このおじいちゃんは見た目も若く足腰もしっかりしていて、ちゃんとした足取りで二階の階段にも上がっていた。
そして、この家の庭先から見える光景がまた素晴らしかった・・・木曽川が流れ下ってきていて、遠く拳(こぶし)を伏せたような形の恵那山の姿も見えていた。(左手遠く連嶺の形で見えていたのはあの木曽御嶽山では。)
何回か前にここにも書いていた、あの宮崎の山奥の一軒家に住む夫婦も、谷間の先にある眺めがあるからいやされると言っていたが。
そして、昨日放送されたものは、宮崎県と広島県の山奥にある一軒家であり、それぞれに似たような話で、昔は集落があって人々が住んでいたが、今はすべての家から人々が離れて行ってしまい誰もいなくなり、ただ自分だけがシイタケのほだ木作りのために、あるいは野菜を作るために時々来ているとのことで、そして一年に一度集まる昔の集落の人たちが帰ってこられるように、道の整備をして、あるいは孫たちがいつでも遊びに来られるように家の手入れなどをしているのだと言っていたが、それぞれに73歳と76歳にもなるおじいちゃんたちが、あと何年できることだろうかと思ってしまうのだが。
周りにある、朽ちかけて倒壊しかかっている集落の他の家と同じように、今あるこの家もやがては朽ち果ててしまうのだろうが。
そこに、昔から続いてきた日本の山奥の集落の、栄枯盛衰の歴史を見る思いがして・・・これも時の流れかと思うのだが。
何よりも、人は”今を生きる”ことが、もっとも大切なことなのだから。