ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

-31.8℃

2019-02-11 21:53:13 | Weblog




 2月11日

 全く、この数日の北海道の寒さは、何というべきか。
 十勝地方陸別町での最低気温は、-31.8℃。(陸別町では、2月上旬の10日間だけでも、-20℃を下回った日が7日間あり、他の3日も当然ー15℃以下。) 
 その陸別町ほどには気温が下がらない帯広市だが、その郊外の泉(空港付近)での、2月8日から昨日2月10日までの最低気温は、-27.4℃、-29.6℃、-26.2℃。
 一方の最高気温は、-10.7℃、-11.6℃、-6.3℃。(今日の最低気温は、明日にならなければわからないが、相変わらず-20℃を下回っていることは確かだろう。以上気象庁発表による観測点の数値。)

 私も、3シーズンの間、冬の間も北海道にいたことがあって、真冬の寒さを経験しているのだが、その時でも-23℃くらいまでだったのだが、しかしそのころは、家にある薪ストーブを強めに燃やしていたのだが、ストーヴから離れると寒くて家の中でもダウンの上着を着ていたくらいで、-30℃というのは、そんな私にも経験のない寒さなのだが。

 一方、東京を含む東日本や西日本のこの暖かさはどうだろう。
 北海道にいる時は、周りの人から九州の冬は暖かくていいだろうと言われて、返す言葉で、家は九州だとは言っても内陸部の山の中にあって、雪は50㎝くらい積もることもあるし、-10℃以下になることもあるのだから、東北仙台くらいの感じだと答えていたのだが。
  しかし、いつもの冬なら1月から2月にかけて、家の一重のガラス窓が、毎日のように凍りついていたのだが、今年の冬は、まさに暖冬だといえるほどの暖かさの中にあって、結晶模様に凍りついたのは、わずかに二三度あったくらいなのだ。

 もちろん、年寄りになった私には、そんないつものような寒さがないから、暮らしていく上ではいくらかは楽になってありがたいのだが、いつも言っているように、若いころからの雪山、雪景色好きだから、むしろ毎日のように雪が降るような、例年並みの冬であってほしいとさえ思うこともあるくらいなのだ。
 ましてや、ただでさえ雪山になる期間が少なく限られている九州では、最も雪が多い九重の山でさえ今年は雪の日が少なく、ほとんどが冬枯れ景色のままで、時々霧氷を楽しめるほどの寒波しか下りてこなくて、雪山歩きが楽しめたのはおそらく二度くらいであり、私もその二度目の雪の時に、いつもは行かない曇り空ながらも、焦って九重に行ってきたのだが、その時のことは前回このブログで書いたとおりである。
 今日の牧ノ戸峠のライブカメラを見ると、今年三度目の雪景色になっていて、休日ということもあって曇り空の下ながら、クルマがびっしりと並んでいた。 
 みんな雪山が好きなのだ。

 私は、休日で混雑する上に、この曇り空ではと、とても出かける気がしなくて、そこはそれ、年寄りゆえに長年ため込んできた九重の雪山の思い出の中から、18年前の九重の雪山の写真を眺めてみることにした。
 以下の写真は、2001年2月15日、扇ヶ鼻から星生崎まで行った時のものであり、当時はまだデジタルではなく、中判のフィルムカメラで写真を撮っていたのだが、今と比べるとフィルム代がかかるので、枚数を気にしながら写真を撮っていて、かといって”一枚入魂”というほどに、立派な芸術的な写真を撮っていたわけではないのだが。
 ただ、今のデジタルカメラでのように、のべつまくなしにシャッター押しているのと比べれば、その枚数は五分の一、いや十分の一ぐらいの枚数しかなくて、まあ今見ても、その時々の景色を選んで撮っているのがよくわかる。
 もっとも、そうして写真を芸術としてではなく、あくまでも自分の思い出のために撮っているだけだから、そこには私の写真の技術的な限界があり・・・はい自分の写真の未熟さ拙さは十分に分かっております。

 そのうえで、ここにその時の写真をあげるのだが、まず冒頭の写真は、沓掛山からの縦走路の中間点辺りから振り返り見た雪景色で、アセビの木も半ば凍りついていて、左端にまとまって沓掛山、涌蓋山(わいたやま、1500m)、黒岩山(1503m)が見えている。 
 この時は雪がかなり積もっていて、深い所では40㎝くらいもあって、みんなが通る道以外は、ラッセル状態で歩くしかなかった。

 次の写真は、扇ヶ鼻頂上(1698m)下あたりから眺めた星生山(1762m)と右に星生崎への稜線が続き、その間の雲は、星生山新火口と硫黄山からの噴気である。
 ここでは、手前の雪原に続くうろこ型の風紋が美しい。



 さらにもう一枚、一番下のものは、同じ扇ヶ鼻山頂直下付近、南側寄りの所から見た九重山主峰群の眺めであり、前回あげた写真と比べてみると、雪の多さがよくわかるし、何より雪原に描かれた風紋が雪山の厳しさをうかがわせる。
 まあ、こうして今の時期の雪山を見られなくとも、私だけの山のアルバムを見れば、いつでもその時の光景が、吹きつける風の冷たさとともに、あの時の雪山の映像としてよみがえってくるのだ。
 写真はありがたいものだ。
 物言わぬ写真の中の風景には、いつも静寂と平穏さが漂っている。

 昨日のテレビ朝日系列の「ポツンと一軒家」は、今回はまず、岡山県の山の中の一軒家に一人で住んでいるいう73歳のおばあちゃんの話しである。
 しかし、そこには男の人が働いていて、彼女の弟さんで下の集落から毎日通っているとのことだった。
 昔は、家族12人という大家族で暮らしていたが、弟さんは若いころ都会に出て行ってしまって、そのまま戻らずに、年老いた両親の世話を姉に押し付けていたからと、今はその恩返しのために毎日通って家の手助けをしているのだと言っていた。
 まだまだ元気なそのお姉さんもまた、毎日7キロ離れた下の町の地元名産の食品加工場にクルマで通っていて、大雪の時には歩いて2時間かかって工場にたどり着いたこともあると笑っていた。

 もう一つは、宮崎県の山奥の一軒家に住む、63歳のご主人と59歳の奥さんの話で、二人の子供はひとり立ちして出て行ってしまい、今は夫婦で林業と農業に携わっているが、林業の方は持山の植林の伐採ではなく、今はシイタケ原木の伐採加工をしているとのこと。ときどき口げんかをしながらも、二人して軒下の椅子に座って、(標高700mもある)その家の前から眺める夕日の光景が一番だと言っていた。

 この番組を私がいつも見ているのは、始めは謎解きミステリーふうであり、スタッフたちが山奥の道の先にある一軒家を探しに行き、次にはそこに住む人たちに会って、それぞれの住んでいる理由を聞き、家族の歴史を聞いていくという、ドキュメンタリー仕立ての面白さにあると思うのだが、もちろん”きゃぴ”ついているような若い世代の話ではなくて、世の中の苦労を一通り体験してきた人たちの話であり、もちろん私と年代が近いこともあって、彼らの話を聞いていてうなづけることが多いからでもある。
 そして、毎回最後は、こんな不便な山奥に住んでいても、満足そうなその一軒家の住人たちの顔が映し出されるのだ。

 こうして、毎回わかりきったような状況の話ではあるが、長年住み慣れたこの家が好きだからという、その小さな満足の中で、穏やかに暮らしている人々の姿を見て、私たちもなぜかほっとした気持ちになるのだ。
 考えてみると、私たちが子供のころから繰り返し見てきた『忠臣蔵』『赤穂浪士討ち入り』の物語は、その最後が本懐(ほんかい)をとげ目的を果たすことで終わるとわかっていても、繰り返し見てしまうのと同じようなもので、さらにはテレビドラマの『水戸黄門』での一話ごとの話が、結局は勧善懲悪(かんぜんちょうあく)で終わることが分かっていても、毎回似たような話でも繰り返し見てしまうように。

 さらに今回学んだこともある。北海道の自宅林内で木を育てている私としても興味深かったのは、木々の苗は、もともと林の中や道のそばなどにひとりでに生えた苗を引き抜いてきて、植え替えていたのだが、この農村で行われていた、若い木の枝先を切って毛根促進材をかけ、土を入れたポットに入れて一年置いておけば、野菜花苗のようにいつでも植えることができるという方法は知らなかった。
 もともと挿(さ)し木といって、土団子や土に直接枝先を差し込んで苗に育てるという方法もあるのだが、この九州ではうまくいっても、寒い北海道ではなかなか根付いてはくれなかったし。

 さらに、テレビ・スタッフにどうして町に住まないのですかと尋ねられて、彼女が答えていたのだが、”都会や町の人は怖くていやだ”と。
 思うに、おそらく若いころには、田舎の若者の90%が都会の生活にあこがれて、都会に出て行ってしまうのだろうし、先になって田舎に戻ってくる人は果たしてどのくらいいるのだろうか。
 つまり、都会の便利さから離れられなくなって住みついてしまう人と、不便な田舎に住み続ける人、あるいは戻ってくる人たちを含めても、そこには依然として大きな差があるのだろうし、それだからこそ、田舎の過疎化はさらに進んでいき、都市集中化はさらに増え広がって行くのだろうが。

 私には、それが差別化につながる悪いことなのか、それとも、効率化としてむしろいいことなのかは分からないが、タワーマンションの最上階で、グラス片手に都会の夜景を眺めて過ごすのが、安らぎのひと時だという人もいれば、小型車が一台やっと通れるだけの、不便な山奥に住んでいても、遥か遠く山間に沈んでいく夕日を見るのが、何よりの楽しみだという人もいるのだということ。

 そこで、今までも何度も取り上げてきた、あのドイツの良心と呼ばれたヘルマン・ヘッセ(1877~1962)の言葉から。

 ”老齢と老衰は進行する。時として血液はもうそれほど正常に脳を通って流れようとしなくなる。ただしこの弊害(へいがい)は、よく考えてみるとよい面ももつ。人はもう必ずしもすべてのことをそれほどはっきりと、強烈に感じなくなる。人は多くのことを聞き逃すようになり、多くの打撃や、針の刺し傷などもまったく感じなくなる。かつて自我と呼ばれた存在の一部は、まもなく全体とひとつになってしまうところに行ってしまうのだ。・・・。
 
 ある者が年を取り、そして自分の義務を果たし終わった時には、静寂の中で死と友達づき合いをする権利を持つ。彼は人間を必要としない。彼は人間を知っている。人間なら十分に見てきた。彼が必要とするのは静寂である。・・・。”

(『人は成熟するにつれて若くなる』ヘルマン・ヘッセ著 フォルカー・ミヒャエル編 岡田朝雄訳 草思社文庫)