ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪中の登山者

2019-02-18 22:39:12 | Weblog




 2月18日

 今日は、朝から快晴の青空が広がっていた。
 そよとの風もなく、暖かい春の日差しにあふれていた。 
 私は、洗濯をしてベランダに衣類を干しながら、幸せな気分だった。
 いつもなら、こうした天気の日には、山に行くべきだったと、多少の悔しい思いをするのが常なのだが、そうではなかった。
 その前の日に、雪の九重を十分に楽しんできたからである。

 この一週間、いつも見ている九重のライブカメラで、山が霧氷や雪で白くなっていた時が二度ほどあったのだが、残念ながらその時には、事務的な書類整理に追われていて、山に行く暇がなかったのだが、おそらく今回は、最後の寒波がやってきてその寒さがひいて行くときの、そのぎりぎりのタイミングで、九重の雪山に行くチャンスが巡ってきたのだと思ったのだ。
 これでは、いかに休日で混んでるとはいえ、”いかざあなるめえ”と心に決めて、いつもの山道をクルマで走って行ったのだが、前回の時は両側の樹々は霧氷に白く輝いていたのに、今回はその霧氷どころか、前回には圧雪状態だった道にも雪はなく、路肩に雪が残るだけで、楽に牧ノ戸峠の駐車場(1330m)に着いたのだが、駐車場はすでに満杯状態に近く、かろうじて一台分が空いていて停めることができたが、帰りに見ると、何台もの路肩駐車もあったようだった。

 ただ残念なことに、朝のうちは曇り空で、これまた前回と同じことになるのではという心配もあったが、昼前から晴れてくるとの予報を楽しみに、さてと遊歩道を歩きだしたのだが。
 この沓掛山前峰まで続く舗装された遊歩道は、特に下のほうほどひどく、雪が溶けた後の氷の張ったつるつる路面になっていた。
 ほとんどの人は、アイゼンを効かせてガシガシと登っていたが、まあどうしてもアイゼンなしで歩けないほど全面凍っているわけではなく、雪が十分にあるからと、年寄りの遅い足でゆっくりと登って行った。
 しかし、背に腹は代えられない、すぐの所にある展望台で、10本爪のアイゼンをつけた。といって、そこから足が速くなったというわけではないのだが。
 
 縦走路には、雪はそれほど多くはなく10㎝ほどで、ただ寒波が来ていたおかげだろうか、霧氷樹氷は前回(2月4日の項参照)と変わらずに、枝先いっぱいに氷がついてていた。
 とは言っても、相変わらずの曇り空で、前回の二の舞になるのかと心配したが、明らかに上空の雲が少なくなってきて、扇ヶ鼻分岐に近づいてくるにつれて、ちらちら見えていた青空が、特に北側の星生山(1782m)方面が、ものの見事に晴れ渡っていた。
 これこれ、これがあるから山登りは、やめられまへんな。
 雪の登山道には、上り下りともに人が多く、休日ならではの黄色い声にあふれていたが、私はそのあたりで、少しずつ位置を変えながら、何枚もの写真を撮った(写真下)。




 さて前回たどった扇ヶ鼻への道は、横目に見て通り過ぎて、そのまま西千里浜の平たん路を歩いて行く。
 この辺りから、行く手に見えてくる久住山(1787m)の三角錐の姿が素晴らしいのだが、上空には雲が広がっていて、私の思う絵葉書写真の姿にはなっていなかった。
 帰り道での楽しみにしよう。天気はさらに良くなってきており、高気圧が覆ってくるという予報通りに、青空が次第に増えてきていたからだ。

 岩塊帯での登りで星生崎下のコルに着き、下の避難小屋付近にいる人々たちの話声がここまで聞こえていた。
 その避難小屋へと下り少し上がった所が久住分れで、その名の通りに、久住山に向かう道と、御池から中岳へと向かう道に分かれている。
 昔は圧倒的に、九重の主峰である久住山に登る人が多かったのだが、近年では改めての測量後、中岳の方が高いとわかって、御池中岳を目指す人が多くなっている。
 もっともこの両山ともに登っても大した登りではなく、九重中央部の山々はポコポコと出た溶岩ドームのトロイデ状火山の集まりだから、2,30分もあれば頂上に着くので、若い人なら、中央部の山々の、久住ー稲星ー中岳ー天狗ー星生と登って回ることはたやすいことだろう。
 私は、今回は天狗ヶ城(1780m)だけに行くことにしていた。
 こうした休日の日は、特に混雑するだろう久住山、中岳は避けて、どちらかといえば人の少ない静かな、そして展望の良いこの山を目指すことにしたのだが、もっとも平日で人が少ない時でも、この山だけを目指すことが多くて、星生山とともにこの天狗ヶ城は、私にとっては欠かすことのできない山なのだ。

 御池へと向かう人々の列から離れて、私は天狗ヶ城の急な岩塊帯の斜面を登って行く。
 すぐ右下には、中岳を背景に御池の湖面が広がっていて、真ん中を除いて凍っている所に人々が群れ集まっていて、歓声が聞こえてくる。




 どこかで、見たような構図だが、もちろんすぐに思い当たったのは、フランドルの画家ブリューゲル(1564~1637)の絵である、有名な「雪中の狩人」や「鳥罠のある冬景色」であり、そこには凍ったため池や川の上で滑ったりコマ回しをしたりして遊ぶ子供たちの姿が描かれており、鈍色(にびいろ)の空の下で遊ぶ子供たちの歓声が聞こえてきそうだ。
 特に「雪中の狩人」では、左側手前に描かれた、猟犬を連れて戻って来た狩人たちが主題なのだが、周囲には家の仕事に精を出す他の人々や、自分の遊びに夢中な子供たちなども描かれていて、ある種の教訓を含んだ人生の縮図のようにも見える。
 この絵については、あの『清貧の思想』で有名な中野孝次の、『ブリューゲルへの旅』(河出文庫)という優れた随筆集がある。
 さて今、日本では各地を巡回しての、1年にも及ぶ”ブリュ-ゲル展”が開かれていて、私も出かけるチャンスはあったのだが、年寄りの出不精(デブ症ではありません念のため)で、まだ見に行ってはいないのだ。12人もの画家を輩出したブリューゲル一族の絵画展としても貴重なものなのに。
 
 さて、”雪中の登山者”として歩いている、私の山の話に戻ろう。
 もともと天狗ヶ城は、中岳のついでに東側からの尾根続きとして登られていて、単独でこの急な西側から登られることは少なく、私は滅多に同じ登りで人に出会ったことはないのだが、もちろんこの人の少なさが、私にとっては魅力なのだ。
 しかし、年寄りにはこたえる山だ。一度二度と息を入れて、ようやく巨大な白鯨のような久住山(1787m)の全容が現れてきて、眼下はるか下に先ほどの御池があり、その向こうに稲星山(1774m)が見えていて、すぐそこの頂上に上がると、北東側が開けて中岳(1791m)がそびえ立ち、その後には黒々と灌木に覆われた大船山(1787m)が見え、坊がつる湿原の向こうにはミヤマキリシマで有名な平治岳(1643m)が盛り上がっている。
 北側にはその名の通りの三俣山(1745m)があり、また西側には、火山礫の斜面が白い雪と黄色に分かれた星生山の姿が素晴らしい。

 もう、1時を過ぎていた。私は、北側に少し下った石の上に腰を下ろし、持ってきた簡単な昼食をとり、温かい紅茶を飲んだ。
 風は少しあったが、それほど寒くはなく、長そでのスポーツ着と上に厚手のフリースを着ているだけで十分だった。
 前回の扇ヶ鼻での(2月4日の項参照)、その上に冬山用ジャケットを着こんだだけでは寒くて、さらには厚手の手袋をしていても、指先が冷たくかじかんだとの比べれば、まさに冬と春の違いがあった。
 周りには私の好きな、雪山が見えていた。
 今年の雪山は、(今後は暖かくなるとのことで)この二回だけで終わるのかもしれないし、大好きな雪の風紋(前回8年前の写真参照)やシュカブラ等にもお目にかかれなかったが、年寄りになっても、こうして雪山に来られるだけでも幸せなのかもしれない。

 下りでは、もう雪が溶けて水浸しの登山道が多くなったが、気温がそれほど高いわけではないのか、例の岩塊帯からの久住山の姿も、まだ溶けていない霧氷を入れて写真を撮ることができたし、扇ヶ鼻分岐の所から眺めた、霧氷を前景にした肥前ヶ城(1685m)も、行きとさして違わないように見えた。(冒頭の写真)
 しかし、そこからが大変だった。
 長い縦走路の下りと沓掛山への上り返しは、もうひどいぬかるみになっていて、靴がはまり込むところもあるほどだった。
 九重の春先のぬかるみ道は分かっているからと、春先にはあまり行かないようにしているのだが、2月中旬というのにこのひどさは何と言うべきか、私が経験したた最もひどいものの一つだと言ってもいいくらいだった。
 "きれいなものには、えてしてこういうことがあるものなのだよ”。
 しかし、それだけではなかったのだ。
 行きには、雲に隠れていた沓掛山頂(1503m)からの眺め、雪の三俣山と星生山の姿、そして尾根を彩る赤いアセビのツボミ。
 春が近いことを知らせる、見事な光景だった。(写真下)



 
 まだ相変わらずすべりやすい、雪の遊歩道をのろのろとたどって、牧ノ戸峠の駐車場に戻って来たのはもう4時を過ぎていた。 
 コースタイムでは、休みを入れないで往復4時間足らずの所、今回休み時間を入れたにせよ、何と7時間余りもかかっているのだ。
 さらに、家に戻ってからも脚はつるわ、今日にいたっては筋肉痛は出るわ(明日はもっとひどくなっているだろうし)、何より年のせいにするだけではなく、自分の常日ごろからの不摂生をとがめるべきではありますが。
 私はどうあがいても、あの老人の星、三浦雄一郎さんのようにはなれないのでありまして、それは、山上たつひこの描くマンガ『ガキデカ』で、警察官の帽子をかぶった”こまわり君”が、しどけなく寝そべって”ワタシってダメな男”といっている時のような、”八丈島のきょん”(意味のない感嘆詞)ではあります。

 今回も、書いておきたいことがいろいろとあったのだが、山に行ってきたので、どうしてもまずそのことを書いておかなければならず、いつもの『日本人のおなまっ』やパリでの『ブラタモリ』そして『ポツンと一軒家」などについての話は割愛せざるをえなくなったが、というのも、他にも気になったテレビ番組からの話しがあって。
 それは、たまたま偶然にその所だけを見たのだが、民放フジテレビ系列での『アンビリバボー』で、”70年の時を経て明かされる初恋ミステリー”と題された一編である。 

 今から75年前の、第二次大戦当時のイギリスはロンドンで、アメリカ軍空挺(くうてい)師団に所属していた若きノーウッドは、休暇の時に友達の一人とともにロンドンの公園に遊びに行って、ちょうどそこに来ていた、同じ二人連れのロンドン娘と出会い知り合うことになった。
 彼女はジョイスという名前で、その後もデートを重ねていたが、ある時からぴたりとノーウッドからの連絡が途絶えてしまった。
 後でわかったことだが、彼は、あの有名なノルマンディ上陸作戦(映画『史上最大の作戦』)に加わったパラシュート部隊の一人として、当時ナチスが占領していたフランス海岸に降り立っていたのだ。
 この日だけでも1万人の死者が出たという激戦の中、彼は生き残ってさらにドイツに向かって進撃を続けていたのだ。 
 その後ノーウッドは、休暇のたびごとにロンドンに戻ってきて、二人はずっと会い続けていたのだが、ある時、彼女のもとへといつものようにノーウッドからの手紙が届いたが、それはジョイスへの求婚の思いが込められていた手紙だった。しかし、彼女は彼の申し込みに断りの返事を書いてしまったのだ。

  戦後、傷心の彼はアメリカに戻り、ジョイスのことはあきらめてアメリカの娘と結婚して3人の子供に恵まれたが、今から8年前にその56年間連れ添った妻を亡くしていて、今は息子のもとで暮らしていた。
 一方看護婦になったジョイスは、イギリスからオーストラリアに渡りそこで結婚して二人の子をもうけたが、彼女が50代のころ、36年間連れ添った夫と離婚して、もう二度と結婚しないと覚悟して、今は息子の家で暮らしていた。

 何が二人を再会させたのか。 
 それはある時、ジョイスの息子が、生きている今のうちに知っておきたいことはないかと母に尋ねて、ロンドンでの初恋の話を聞きだし、息子がパソコンで相手の名前を調べると、何と母の相手ノーウッドの名前が、そこには88歳でスカイダイビングの記録を作ったというニュース映像が、若いころの写真とともに幾つも出てきたのだ。 
 そこで、お互いの息子たちは連絡を取り合って、ネット電話で二人を対面させることにした。
 ノーウッドは前立せんがんにかかっていて、一方のジョイスは加齢黄斑変性で視力がすっかり衰えていたが、二人はテレビ画面の前で2時間も話し合ったという。  
 その時、ノーウッドが”あの時なぜ君は僕の申し出を断ったのだ”と言うと、彼女は”私は家政婦としてあなたの家に手伝いに行くなんてできないと思ったからよ”と答えたのだ。

 そのノーウッドの手紙の文面の一節はこうだ。
 ”Woud you come to the states and make my house a home .(アメリカにきてくれないか。そして僕の家を君との家にしてみないか)”
 この言葉は、そのころ人気のあったアメリカのエッセイストが書いた、当時のアメリカ人ならだれもが知っている求婚の言葉だったのだが、一方イギリス人であるジョイスはそんなアメリカの流行りの言葉を知る由(よし)もなく、彼女は文面通りに、自分に家事をしてもらうためにアメリカに来てほしいのだと思い、そんな家政婦のような仕事をさせるなんて、イヤだと思ったのだそうだ。(アメリカの英語とイギリスの英語の微妙な違い。) 

 さて二人が画面で対面した後、お互いの息子たちは、なんとか二人を再会させるべく、ネットのクラウド・ファンディング(みんなの募金)を呼びかけた所、所定の額が集まったのだが、それを知ったニュージーランド航空が、ノーウッドと息子の二人分の旅費とホテル代をもつことになり、二人は再会したのだ。
 今から3年前の2016年2月11日、二人は70年の歳月を経て、再会したのだ。
 93歳のノーウッドと88歳のジョイスが、万感の思いを込めて抱き合うシーンが映し出されて、私は不覚にも涙した。

 二人は、2週間を一緒に過ごし、最後の5日間は、息子たちが相談して、マスコミ抜きで彼らも離れて、二人っきりで一緒の時を過ごさせてあげたそうだ。
 その間、ノーウッドは目が見えにくいジョイスのために、本を読んであげていたという。 
 その再会の時から10か月後の、2016年12月、ジョイスは亡くなってしまった。
 ノーウッドは、去年95歳の誕生日の日に、またもやスカイダイビングを実行したそうだ。
 彼は、テレビ画面に向かって、私たちに語り語りかけていた。

” もし愛する相手を見つけたら、自分の心のすべてで愛してください。”

 思い出すもの・・・ヘミングウエイの小説と映画『武器よさらば』、主題歌が大ヒットしたメロドラマ映画『慕情』、小説と映画の『マディソン郡の橋』、若いころのヨーロッパ旅行のノルウェーで知り合い、日本に戻ってきても、しばらくは手紙のやり取りをしていたアイルランド娘、その他の様々な出来事・・・みんな私が悪いのです。

 

 
 


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