ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

曇り空の雪山

2019-02-04 23:02:42 | Weblog




 2月4日

 数日前、曇り空の雪山に行ってきた。
 日ごろから、”宵越(よいご)しの金は持たねえ”という江戸っ子並みの見栄っ張りで、”天気の悪い日の山には登らない”、つまり”天気のいい日にしか山には登らない”というのが、長年の私の口ぐせなのだが、そうした自分の決め事を破ってまで、今回、山に行ってきたのにはわけがある。
 
 一週間前、前回書いたように、この冬初めて積るほどに雪が降って、九州での雪山条件にふさわしい舞台が整えられて、今日か明日かと天気をうかがっていたのだが、山は雲に包まれていて、出かけられない日々が続いていたのだが、その合間合間には青空が出ていた時間帯もあったので、これではもう、あの時の山の雪も溶けてしまっているだろうと半ばあきらめていた。
 ところが、雪の三日後の朝、朝のうちは曇っていたが、昼前から、あの「日本百名山」の深田久弥氏の言葉を借りれば、”一転にわかに掻(か)き晴れて”、青空が広がり、ネットのライブカメラで見てみると、九重の山は霧氷と雪に白く覆われていて、牧ノ戸の駐車場にはさすがにこのチャンスを逃すものかと、もうクルマがいっぱいに並んでいた。
 今から準備して出かけても、着くのは午後になってしまうしと、晴れた青空の下の山のライブカメラの映像を見ながら、泣く泣く山に行くのはあきらめたのだ。

 すべて私が悪い。
 おそらくは、あの雪の後三日もたっているから、雪はだいぶん溶けているだろうからと、山に行く準備さえしていなかったし、天気予報で午後から晴れの予報が出ているのは知ってはいたのだが、ここまで天気が良くなるとは思っていなかったのだ。
 今にして思えば、山にはずっと雲がかかっていたから、雪が溶けるどころか、また新たな雪が降って強い風で霧氷にも覆われていたのに、私は自分の長年の経験から、この天気では今日は無理と決めつけていたのだ。

 それは、まさに千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスだったのに、私はむざむざ逃してしまったのだ。
 暖冬気味の今年の九州では、もう雪山の景色が見られるチャンスはあまりないのかもしれないし。
 まさに、私は不覚(ふかく)を取ったのだ。
 その日、私は家にいて、洗濯をした後、一面に広がる青空を”臍を噛む(ほぞをかむ)”悔しい思いで眺めていた。

 しかし、そうして悔やんだことで何になるだろう。自分を責めるのは、そのひと時の間だけでいい。
 今までにも、自分の決心がつかずに、快晴の日に山に登らなかったことが何度もあったし、もっと広く言えば、自分の人生の中でチャンスを逃したことなど、枚挙にいとまがないほどいくらでもあったことだし、今さらその小さなチャンスを逃したぐらいでくよくよすることはないのだ。
 九重の山の雪山景色など、こうして年ごとに暖かくなっていく一方の、昨今の雪山と比べれば、昔の雪山は雪の量も寒さも厳しかったし、幸いにもそのころの山々の雪景色を見てきているし、自分の部屋にも四つ切写真にして飾っているくらいだから、たかがこのくらいのことでと自分に言い聞かせた。

 しかし一方では、もう長い間山に登っていないし、雪山景色も眺めていないという、もどかしい思いが残っていたのも確かだった。
 その後、家の周りの雪は溶け、さらに次の日は、真冬だというのに一日中雨が降っていた。 
 そして、その次の日、ライブカメラを見ると、曇り空の下、山は雪と霧氷で白くなっていた。標高が高い分、山は雪だったのだ。 
 クルマが数台停まっていた。その牧ノ戸駐車場の前を通る道は、圧雪状態のようだった。しっかり雪が降ったのだ
 今日の天気分布予報では、九重山域も午後から晴れるとのことだった。
 キャイーン、ワンワンワンと、”じじいは喜び庭駆けめぐり”の状態になったのでした。

 山に向かう車道は、始めはシャーベット状の雪が残っていて、さらに長者原からは圧雪一部アイスバーンになっていて、冬用のスタッドレス・タイヤではあるが、注意して走って行く。
 1330mの高さにある、牧ノ戸峠の駐車場に着いたのは、もう昼近くになっていたが、青空は見えず雲が低く垂れこめていた。

 クルマを降りて登山靴に履き替え、白い雪に覆われた遊歩道を登って行く。
 いつものように、両側のノリウツギやリョウブなどの木々の霧氷が見事だが、いつもはそれを切り抜くようにあるはずの、青空がないのが残念である。
 後ろから来た若い人に一人、そしてもう一人と抜いて行かれたが、気にすることはない。
 この日、出会った人はほとんどが一人だけの単独行の人ばかりで、彼らの雪山への思いが伝わってくるようだ。

 展望がきかないけれども、霧氷のトンネルが続く白い道の稜線をたどって行くのは楽しかった。
 ちゃんと登山靴を履いて山に登るのは、あの東北の栗駒山以来、なんと4か月ぶりにもなるのだ。(ハイキング山歩きだった、帯広郊外の金竜山に登った時から見ても、3か月半もの間が空いたことになり、たいした理由もないのにこれほど長く山に登らなかったのは、まさに自分の”ぐうたら”さにあると言えるのだが。)

 さて、強い北風の吹きさらしの縦走路を歩いて、扇ヶ鼻分岐下まで来た時に、一瞬空に明るい陰りが見えて青空がのぞいていた。
 そして、後ろから来た人に声を掛けられ、自分はこの天気では扇ヶ鼻までのつもりだと答えたのだが、彼も同じだと答えて、元気な足取りで先に登って行った。
 分岐の所には、ちょうど中岳(1791m)まで行ってきたという3人組の人たちもいて、彼らの話によれば、上では結構晴れ間が広がっていたと話してくれた。
 これなら、頂上からの眺めに期待が持てそうだ。
 そうなのだ、独立峰などと違い、その山群の山域が広くある場合、その周りに雲があっても中央部が晴れていることはよくあるのだ。
 この九重だけでなく北海道の大雪山や日高山脈、北アルプスや南アルプスなどでも言えることだが。 

 さて、ここまでほとんどの人がアイゼンをつけて歩いていたが、私はこのくらいならばとアイゼンはつけずに歩いてきたのだが、さすがに、この扇ヶ鼻の登りのてらてらに凍りついた道ではアイゼンが欲しくなった。(帰りの道では、この所だけはアイゼンをつけて下りた。) 
 そして切れ切れの雲の間から一瞬青空がのぞき、私は扇ヶ鼻本峰(1698m)には行かずに、その手前のいつもの扇ヶ鼻前峰の北の肩(1675m)の所にまで行って、そこで腰を下ろした。
 下の駐車場から2時間余りもたっていたが、そんなことは問題ではなかった、問題なのは、いっこうに晴れてくれる気配のない空で、相変わらず上空を流れる雲がうねり続いていた。  

 しかし、その岩陰の所でも、小雪混じりの北西の風が強く吹きつけいて、寒かった。 
 当然のことだが、薄着の私は、長そでの下着にフリース、その上に山用ジャケットを羽織っているだけだったから、その汗をかいた下着が冷たく、さらに手袋は厚手のフリース生地のものだけで、手は指の部分は脱いでグーにしていないと冷たいくらいで、いつもの冬山装備とは明らかに一つ軽めのいでたちであり、それは、暖冬気味のこの冬の雪山を、そのくらいにしか考えていなかった私が悪いのだが、風に吹かれるまま、初めてのこの冬の厳しさを前に、自ら反省しきりだった。(もっとも15分ぐらいで下の風の弱まった縦走路に戻ることができるので、そう大げさに考えることのほどでもないのだが。) 
  そうして待っている間に、また少しばかりの青空が広がり、待望の雪の九重主峰群が見えてきた。(写真下、肥前ヶ城越しに左から星生崎、天狗ヶ城、中岳、久住山)




 しかし、その後も時々青空が広がる時もあったのだが、それ以上には晴れずに、すぐに西側に続く暗い雲の塊が再び押し寄せてくるという繰り返しだった。 
 冷たい風が吹きつける中、そこで45分ほども待ち続けたのだが、これ以上晴れてくれることはなさそうだったし、何より体が冷え冷えで、熱い紅茶ぐらいではもうもちそうにもなかったので、この辺りであきらめて下りることにした。 
 ともかく、天気が悪かった時に来たのは、私の失敗だが、何より久しぶりに山を歩けたこと、久しぶりに雪山を見られたことで、それだけでも良しにしようと思った。 
 つまりは、それも私には、今までのこの九重での多くの冬山経験があり、そんな時々での冬山の景色をたくさん見てきているのだから、このぐらいのことでと自分に言い聞かせたのだ。
 例えば、下の写真は、去年の同じころに登った(’19.2,26の項参照)同じ扇ヶ鼻前峰からの左端の星生山を含めての眺めなのだが、青空はもとより雪も多かったし、何という違いなのだろうか、やはり山は晴れた日に限るのだ。





 さて、あとはこの扇ヶ鼻の斜面だけアイゼンをつけて下ってきて、ゆるやかな縦走路をたどって沓掛山に戻り、まだ山々の頂き付近には雲がついていたが、一部日の当たっている所もあり、明日は予報通りに朝から晴れるだろうと思った。 
 駐車場に戻ってくると、もうクルマは数台しか停まっていなかった、いつも午後にはもうだいぶん溶けているはずの道にまだ雪がかなり残っていた。
 山の上が寒かったように、下でも日の光が当たらずに気温も低かったのだろう。 
 そして長者原まで下りてくると、雪の草原の向こうに、夕方前の光に照らし出された、いつもの三俣山(1745m)の姿があった。
 私の大好きな、絵葉書風景だ。(写真下)
 この姿を見られただけでも、今日来たかいがあるというものだ。




 ということで、今回は久しぶりに山に登ってきた話を書くことができて、いくらか楽しい気分になった。
 そして、この山に行った翌日は、朝から快晴で、牧ノ戸の駐車場はクルマであふれていた。しかし、雪山を十分に味わうには少し遅かったようで、気温はここでも、前日よりは一気に10度近く上がって15度にまでなり、ライブカメラで見ると、午前中には、もうほとんどの霧氷が落ちていたし、上の登山道もぬかるみになっていたことだろう。ネットにあげられていた写真も、背景は青空で素晴らしかったが、周りの山の風景は、雪が溶け落ちたものが多かった。
 私は、曇り空で強風が吹き付ける日に雪山に登ったのだが、良い時期だったのだ。 

 さて話は変わるが、いつものように、自分の人生を振り返り考えることにもなる、例のテレビ番組などからその幾つかを。
 いつも見る、テレ朝系の「ポツンと一軒家」、昨日の番組は、九州は長崎の離島の山中を切り開いて作った牧草地で、11頭の親牛と6頭の育成牛の子牛を育てている、66歳になるというオヤジさんが紹介されていたが、彼は山道の反対側にある集落に奥さんを残し、毎日一人で牛の世話のためにここまで通っているということだった。365日休みなしで通うおじさんは、ここで牛と一緒にいる時が一番気が楽だと言っていた。
 もう一本は、青森県の八戸の山中で、ひとりで200本もあるリンゴの木の剪定(せんてい)作業をしていた65歳になるおやじさんの話で、最近、昔はこの辺りにはいなかったというシカの食害に悩まされているとのことだったが、今までにもこの番組でそうした深刻な被害を何度聞いたことか、それは前々回のこの番組で紹介されていた、鹿児島県の山奥で60代の夫婦二人で作業している梨(なし)園でもそうだったのだが、将来、日本の山村地域は高齢化に加えて、こうして辺境農村で働く人たちには後継者がいなく減少していくだけだから、そこにはシカやサル、イノシイ、ツキノワグマなどがさらに進出してきて、やがては都市部との接点における一般市民たちとの問題にもなるだろう。
 つまりは、これらの農園・畑・田んぼなどは、やがては耕作放棄地になって荒れ果ててしまい、野生の獣たちが歩き回る山地荒野になるだろうし、その土地を買うのは外国人たちだけだろうから、この先日本の山村は一体、どういう自然形態、社会形態になって行くのだろうかと思う。
 私たちじじいの世代は、そんな先まで生きていないから、無責任な意見は言えないのだが・・・。

 二三日前の新聞の読書欄に「水道」という題名で、3冊の新刊本を紹介したコラム記事が載っていた。
 それは、昨年制定された改正水道法が、自治体の浄水施設の運営権を民間に移譲できるというもので、いまだにその是非をめぐって各地で議論が続けられているということだが、このコラムの作者は、古代シュメール文明や、古代ローマの治水設備(前々回のこのブログでも書いたように「ブラタモリ」ローマ編でもその遺跡が紹介されていたが)を例に挙げて、利害関係のない水供給の原点を示し、さらには諸外国では外国人の土地所有に一定の防衛策を講じているのに、日本の土地が、外国人であっても買収・利用・転売できるという危うさをあげていた。
 現実的に、北海道でも数年前に、あの石狩川水系にもつながる、芦別夕張周辺の広大な山林が外国人に買い占められたという新聞記事が載っていて、その時に、この日本という国はいったいどうなるのだろうか・・・と、暗然(あんぜん)たる思いになったものだが。
 
 今は何も心配していない。
 私たち世代は、幸運にも平和な時代に暮らして、それなりの人生を送らせてもらったと思うし、そうした感謝の言葉をつぶやきながら、やがて消え去って行くだけの運命だし、後は、今の時代を生きる迷える子羊たちがどうするのか、誰について行くのかなどは、もう私のあずかり知らぬ遠い先の話だからだ。

” みろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう”

(「だまって俺について来い」歌 植木等 作詞 青島幸男 作曲 萩原哲晶 1964年)

(追記: 前回の記事で、昔の思い出の山の景色として、誤ってグリンデルヴァルトのユースの窓から見たマッターホルンと書いていたのだが、もちろんこれはツェルマットのユースから見たものであり、さらには、ニーチェとエピクロスとの関係も一部間違った書き方をしていて、二日後に読み直して気がついたのだが、自分の原稿校正能力が落ちてきているのに、今さらながらに気づかされるばかりで。)


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