ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

錦繍(きんしゅう)の山(2)

2018-10-08 21:45:49 | Weblog



 10月8日

 10日ほど前に、東北の栗駒山(1626m)に登って来た。
 今回は、その登山記の前回からの続きである。

 しかし、その時、頂上には人が多すぎた。
 いつも、静かな頂上で憩いのひと時を過ごすことにしている私には、明るい声の喧騒が、どうにも居心地が悪かった。
 ほんの10分ほど休んだだけで、西に向かう頂上稜線をたどって行くことにした。
 もちろん、こちらも行き交う人が多くて、にぎやかな登山道だった。
 無理もない、東北一とされる栗駒山の紅葉が今盛りを迎えているのに、このところ天気が余り良くはない日々が続いていて、そうした中で晴れの天気予報が出れば、人々が今行かなければと思うのは当然のことだ。

 その日の天気は、予報通りに雲の多い天気だったが、次第に良くはなってきているようで、先ほどの東栗駒山では頂上付近の雲が取れなかったのだが、今では頂上付近に雲がかかることもなく青空も見えていて、天気がさらに回復してきているいることは確かだった。
 そして、そこからの稜線をたどる道の両側は、深紅のコミネカエデに鮮やかに彩(いろど)られていた。
 時折、ガスが吹きつけてきて、行く手がぼんやりとした景色になっていたけれども、むしろその時は、その邪魔な霧さえもが、乳白色の中から浮かび上がる紅葉の色合いを、かえって色鮮やかに際立たさせているようにも見えた。

 あの泉鏡花(いずみきょうか)の描く、幻想世界の中に現れるような、深紅の長襦袢(じゅばん)をまとったなまめかしい女性がそこにいて、こちらに手招きをしているかのような・・・。
 ・・・私は、いつしかその鮮やかな色に導かれて、一歩また一歩と霧の中へ、その藪の繁みへと足を踏み入れて行き、気がつくと足元は崖になっていて、叫び声をあげる間もなく、暗黒の奈落の底へと落ちていく・・・ああ夢だったのか。

 風が吹きつける中、再び霧が取れて、紅葉の道が続いている。
 振り返ると、栗駒山の山頂が見えていた。(冒頭の写真)
 栗駒山は、古い時代に噴火活動した火山とのことであるが、南に面しては崖になっていて、その障壁のようにめぐっている姿は、火口壁のようにも見えるが、その稜線からのむき出しになった傾斜地の表面は、レンガ色の火山礫(かざんれき)に覆われていて、この山が火山によって生成された証でもある。(写真の手前の火山礫からカヤ・スゲ類の草モミジ、黄緑のササにハイマツの緑、そして紅葉のドウダンツツジやミネカエデといった色分けが見られる。)

 そして少し下った、天狗岩と呼ばれる大岩の辺りから、その下に広がる天狗平にかけては、まるで錦のじゅうたんのような光景が広がっていた。(写真下)

 

 そこは、写真中央左端に見える高い道標で示されるような十字路になっていて、そのうちの一本、写真中央上に西側へと続く道は、秣岳(まぐさだけ、1424m)への縦走路になっていて、さらに写真左手に行けば御沢・世界谷地(せかいやち)コースへと続き、そして手前のこの栗駒山から下りてきた道を、右手に(写真右手)に下って行けば須川温泉に至り、それぞれの登山コースの要衝の分岐点になっていたのだ。
 こういう所でゆっくりと休みたかったが、やはり多くの人々が腰を下ろして休んでいて、仕方なくそのまま通り過ぎ、予定通りの須川温泉への下山路をたどることにした。

 この栗駒山は、それほど大きく高い山ではないのに、いくつもの登山コースが開かれていて、地図上で確認するだけでも、主なものだけでも、6本もあり、それだけ地元の人に親しまれている山だとも言えるのだが、私は今回、初めての栗駒山登山で、二本のコースをつなぐ道を選んで歩いてきたのだが、それは、この山への初見参(はつけんざん)にふさわしい道だったのだと、今さらながらに思っている。
 それは思うに、まず前半の東栗駒山からの紅葉の眺めにあり、そして後半は、ここから須川温泉に至る道での、栗駒山北面の眺めにあったからだ。

 ただし、懸念もあった。
 何しろ、道が良くないのだ。
 あのいわかがみ平から東栗駒山への道のように、粘土状の小沢の中を歩いていくような道で、ここまで何とかテープを巻いただけで歩いてきた靴底のはがれた登山靴で、これから下まで歩いて行けるのだろうかと。
 さらには灌木樹林帯の中の狭い道だから、すれ違いだけでなく、団体の足の遅いグループと若い元気な人たち年の差が出てきて、渋滞ができてしまっていた。
 しばらくは、私も足の速い人たちの列についていたが、何もこんなところで若者ぶってがんばることはない、しばらく必死になって前を追って歩いた後、いつもの年寄りペースに戻して、その足元が悪い小沢のような道を下って行った。

 そしてその合間に振り返り、あるいは右手を見ると、それまで山腹から見ていた頂上稜線の山体が、いつしか斜め後ろに鈍重なしかし柔らかな大きな山として見えてきて、その山体のすべてが、見事な紅葉に覆われていたのだ。(写真下)





 黄色と朱色を主体にしてところどころに緑を混ぜた、まさに錦織なす光景だった。
 この眺めだけでも、このコースを選んで良かったと思わせるほどの景観であり、岩手県側の須川温泉側から見たこの山が須川岳(すかわだけ)と呼ばれているのも、十分にうなづけるものだった。
 ただし、あえてひとこと言えば、この時の天気が、青空も見えてはいたものの、いかんせん雲が多くて、山のすべてを照らし出しているわけではなく、まだら模様の光に照らし出されてムラになっていたことだ。
 単純な”絵葉書写真”を撮りたいと思っている私は、やはり背景が、ベタ一面の青空で、すべてが光に照らし出されているところを見たかったのだが・・・まあそれはぜいたくというもので、これほどまでに雲が取れていて、紅葉の盛りにある山の姿を見られただけでも、幸運だったと感謝すべきだろう。
 この下りの道の途中どこでもが、撮影ポイントになっていて、そのたびごとに立ち止まり、写真を撮って行った。
 そして山が真後ろになり、しばらく見えなくなるだろうその手前の所で、青空を背景にして光に照らし出された、栗駒山山頂斜面を撮ることができたのだ。
 それは、まさに”錦繍(きんしゅう)”の山と呼ぶにふさわしい姿だった。(写真下)





 そしてそれは、この時の私の栗駒山登山の象徴ともなるべき、掉尾(とうび)を飾るにふさわしい眺めでもあったのだ。
 これだけでも、私がわざわざ不便な交通機関を乗り継いで、この山のためだけに、東北にまで出かけて行って登った甲斐があったというものだ。

 その後の道のりは、もう振り返る道すがらでは山に雲がかかったりして見えなくなり、その上にわか雨にあったりして足早に須川温泉にまで下って来た(今日の行程は6時間ほどであまり疲れてはいなかったが)。
 そこで、運が悪いのか良かったのかわからないけれども、ここまで一関(いちのせき)から客を乗せて来て空身で下るというタクシーに出会い、安い料金で乗せてもらったのだ。
 バスを待つことなく、すぐに安い料金のタクシーに乗れた幸運と、天下の名湯である須川温泉に入ることができなかった不運とで・・・。 

 しかし、私とは一世代離れた運転手と二人、1時間ほどもよもやま話をしては、朝来る時のくりこま高原駅からのタクシー運転手と同じように、実に有意義な話の時間を過ごすことができたのだ。
 一関駅に着いて、今から新幹線に乗って東京まで行って、羽田から帯広行きの夜の便に乗れば、今日のうちには家に帰ることもできるのだが、そうまでして何も見えない夜に旅行したくはなかった。 
 そこで、くりこま高原駅まで行って、昨日泊まった宿にもう一晩泊まることにした。
 ただし、これならば、須川温泉のお湯に入ることもできたのに、とも思ったのだが、物事すべてがうまくいくとは限らない。ただ当初の目的であった、紅葉の栗駒山の姿を見ることができただけでも、十分にありがたいことだったのだから。

 さて、今日の登山だけで、秋の栗駒山を知ったことにはならない。 
 一番有名な中央コースからの、火口壁のごとく連なる南側からの栗駒山の姿は見られなかったし、ましては秣岳(まぐさだけ)のコースや御沢・世界谷地コースなども歩くことができなかったし、朝のうちの東栗駒山からの眺めも,半ば雲に隠れていて今一つ残念だったし、さらに欲を言えば、秋以外の冬の雪のある時期や、初夏の高山植物も見てみたい気がする(今回は、時期的なこともあってかオヤマノリンドウとシラタマノキを見ただけだったが、イワカガミ平と名づけられている所があるように、この山にはいたるところでイワカガミの葉が見ることができたのだが)。
 ともかく今回、私はこの栗駒山の初歩的な山歩きをしただけにすぎなかったのだが、何と言っても、この栗駒山の紅葉が、名だたる日本の山の紅葉の一つに数えられる景観であることを、目にすることができただけでも、十分に幸せなことだったのだ。

 さらに言えば、この栗駒山からの他の東北の名山たちが見えなかったことも、残念ではある。
 近くの焼石岳(やけいしだけ、1548m)や神室山(かむろさん、1365m)などの山影は見えたものの、岩手山に早池峰山、鳥海山に月山、蔵王などの山々が見えなかったことは残念ではあるが、空気の澄んだ冬に雪の栗駒に登れば、その思いは叶うのだろうが。
 それにしても、東北には、まだまだ登りたい山がいくつもあって、上信越の山々とともに、私の大きな課題となる地域ではあるが、はたして生きているうちにその幾つに登ることができるのだろうか。

 ところで、先週の「日本人のおなまえっ!」(NHK)でも興味深い名前が取り上げられていた。 
 山の名前とは関係ないが、まず最初は、”毒島”さんであるが、これは”ぶすじま”と呼び、その姓の家に生まれた相談者の母親が、”ブス”と呼ばれたりして子供ころは嫌でたまらなかった、と言っていたのを気にかけていて、調べてもらったのだが、結果は江戸時代の堺の豪商が大元にあり、魚問屋の他に漢方薬も取り扱っていて、あの猛毒で知られるトリカブトの種子は、実は有効な漢方薬として使われるものであり、”附子(ぶし)”と呼ばれていて、それを取り扱っている店だから、”毒島(ぶしじま)”という姓を与えられたとのことであり、つまり恥ずかしい名前ではなく、実に誇り高い名門の名前だったのだ。
 そのことを知った相談者の婦人は、涙を流しながら母が元気なうちに教えてあげたかったと言って、それでも墓前で手を合わせて報告していたのだった。 

 さらには、この毒島(ぶすじま)という呼び名の姓は、実は私も見覚えがあったのだ。
 というのも、子供のころから野球大好き少年であった私は、少年雑誌の付録としてついていた、プロ野球記録年鑑か何かで、その中に確か昔の東映フライヤーズの選手で、毒島という選手がいて、何かの記録保持者としてその年鑑に載っていたことを憶えていたからだ。もちろん、その選手がプレーしていることなど見たこともなかったのだが、子供心にも変な名前だなと思っていたことは覚えている。
 さらにもう一つ、毒島に関して、その語源となる”附子(ぶし)”という呼び名は、実は植物に詳しい人ならだれでもが思いつくように、実はトリカブト属の名前として付けられていて、リシリブシやカラフトブシとして図鑑に載っていて、私は今まで同じトリカブトの種類なのに、どうして呼び名が違うのだろうと思っていたのだが、ここでやっと合点(がてん)がいって、”ガッテン”とこぶしを叩くことができたのだ。
 
 さらに今回の「日本人のおなまえっ!」(NHK)では、さらにもう一つ、今回の栗駒山登山に関係することだが、番組では、”禿(かむろ)”という姓を取り上げていて、それは当然”はげ”とも呼ぶから、その姓の人たちには嫌がる人もいたのだが、実はあの”親鸞上人(しんらんしょうにん)”が、自分のことをいつまでも迷いの消えない”愚禿(ぐとう)親鸞”と、卑下(ひげ)して名のった言葉からとられたそうである。 

 ところで、そのことと関係があるかどうかは分からないが、上に記したように、栗駒山から見える山で、同じ二百名山にも選ばれているほどの山、神室山(かむろさん、1365m)があり、さらにその南には同じ呼び名の禿岳(かむろだけ、1262m)があり、その語源は定かではないが、写真で見ると、低い山の割には頂上が草に覆われていることから、他の森林に覆われた山と比べれば、”はげた山”であるから名づけられたのだろうか。 
 この「日本人のおなまえっ!」(NHK)では、こうした山の名前や植物の名前、昆虫の名前などにもその語源探索の域を広げてほしいものだ。

 この二週間、栗駒山の話ばかり書いてきて、このブログの主たる目的である、日記的な私的備忘録の役目が果たされたとは言い難いが、年寄りは一つのことしかできないから、それも仕方のないことだろうとは思うのだが。

 最近少しは我慢していたのだが、今日いつもの年よりは遅く、薪(まき)ストーヴに火をつけた。 
 家の林の中の、樹々の色づきが始まり、足早に紅葉の季節がやって来て、やがて、雪の降る冬が来るのだ。