ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

年年歳歳

2018-10-29 21:47:54 | Weblog




 10月29日

 三日前さらに今日と、風雨を伴った低気圧が二度にわたって北海道を通過して、大荒れの天気になっていた。 
 悪い時に、嵐がやってきたものだ。
 何しろ今は、平地の木々の紅葉の時期なのだ。
 それなのに、と思う。

 というのも、去年、一昨年と私は今頃には九州に戻っていたのだ。 
 それも長年、北海道や本州の山々の紅葉巡礼にかかりっきりになっていて、もともとの地元である九州の山々の紅葉風景を見逃していたからだ。 
 そこでじっくり腰を落ち着けて、九州の山の紅葉を見て回ろうと、幾つかの山に登ったのだが、特に九重の大船山は期待していただけに、その年の色づきがあまりよくなくて、さらには時期的に少し遅かったこともあって、十分に満足できるものではなかったのだが、一応の紅葉風景は見ることができたと思っていたのだ。
 そこで、今年は同じ時期に重なるが、自宅の林の紅葉をゆっくりと楽しもうと、待ち構えていたのだ。

 もともと、最初にこの地にやってきた時に、林にはモミジの木が二三本あっただけだったのだが、隣接する林が開墾(かいこん)される事になって、その前にと、その林の中のモミジ、カエデの木を数本移植したのだが、それらの木も大きくなってきて、さらには種子が発芽して自然に増えてきたものもあって(林内には、そうした小さな苗がまだ何十本も育ってきていて)、自宅の紅葉は年毎に見ごたえのある景観になってきたのだ。

 そういえば、話は変わるけれども、私は少し前までは、大きなくくりの大雪山系の山々の中では、地味な山々が連なる、東大雪と呼ばれる山域の中で、特に石狩岳(1967m)・音更山(1932m)・ユニ石狩岳(1756m)と連なる山なみが好きで、稜線が鮮やかに彩られる秋の時期には、足しげく通ったものである。
 というのも、この山域は日高山脈主稜線の山々に似た感じがあって、展望の良い稜線歩きができるうえに、登山者が少なく、まさに私のような静寂登山派の人間にとっては、うってつけの山歩きのできる山なみだったのである。
 といっても、春夏秋冬を通じてすべてが広く明るく美しい、表大雪の山々(一般的に大雪山と呼ばれている山域)の魅力には抗しがたく、多くの場合にはその大雪山へと足を向けたのだが。

 さて、まずはこの山々の東端にあるユニ石狩岳に登るとすれば、その稜線上のコルになる十石峠から取り付くことになるのだが、南北に二つある登山道の中では、単調な樹林帯の中を行く十勝三股側よりは、変化に富んで勾配も楽なユニ石狩沢からの道を選ぶことが多かった。
 そして、今では信じられないことだが、若くて元気なころには、その十石峠からのコースを、その日のうちに音更山から石狩岳へと足を延ばし往復して戻ってきたことがあるくらいだったが、今ではとても音更山にさえ行けないだろう。

 さてある時、そのユニ石狩沢コースからユニ石狩岳に登った私は、その頂上から北東の留辺蘂(るべしべ)方面に、低い山々がうねり続いていて、その一角が赤い魚の背のように染まっていて、あれは何だろうかと思ったのだが、すぐにそれが木々の紅葉のうねりだと気づいたのだ。 
 おそらくは、エゾ・トドマツ林が伐採されて裸地になった後の、二次林としてのモミジの木が、そのヘリコプターの羽根のような実を飛ばして増えたものだろう、と推測しては見たが、その場所に行ってみたいとは思っても、山に登るわけでもないのに、営林署管轄の林道に簡単には入れないだろうしと、見に行くことはあきらめたのだった。
 その後、何年かたってユニ石狩に登った時に、あの紅葉のうねりはどこだったのかと探してみたが、見つけることはできなかった。
 今ではもう、あれから何十年もたち、おそらくあの伐採跡には新たなエゾ・トドマツなどの苗が植えられていて、邪魔になるモミジの木などは、草苅りの時に切り倒されてしまっただろうし。 
 私が見たあの時の赤い山のうねりは、幻の紅葉だったのかもしれない。(その時の写真は残っているのだが。)

 こうして、話がわき道にそれたのは、自宅林内のモミジの木の増え方と小さな苗を見て、つい昔の山でのことを思い出したからなのだが。
 さて、自宅の紅葉に戻ろう。

 もちろん庭木ならば、きちんと樹々の配列を考え整備すべきなのだろうが、私としては、なるべくならば最低限の剪定(せんてい)作業だけで、その自然な勢いのままに任せるようにしているから、林の樹々は折り重なって勝手に枝葉を伸ばし、家にまで覆いかぶさっているほどであり、とても写真的な風景だとは言いがたいのだ。
 最も、私は今の、樹々が織りなす豪奢(ごうしゃ)な色合いを楽しんでいるだけなのだから、このままでいいのだとも思っている。(写真上と下)



 ただ、上に書いたように、三日前と今日の強い風で、この紅葉が吹き散らされてしまうのではと心配していたのだが、ハウチワカエデとヤマモミジの紅葉は赤くなりたての所で、ほとんどの葉は残ってくれたのだが、ただイタヤカエデの大きな黄色い葉が、何枚も落ちていた。
 今までわが家の林の紅葉は、年ごとの大きな変化がなく、いつも写真に撮りたくなるほどに、青空に生える赤い色をしているのだが、一方では、山の紅葉が年ごとにその色合いが大きく変わるのは、どうしてなのだろうか。 
 つまりは、人里の紅葉は、いつも人に見られて恥ずかしいからぼうっと赤くなっているのだと、軽口をたたいては見るのだが。
 ”年々歳々、紅葉相似たり。歳々年々、人同じからず。”

 ただ、こうして家の紅葉を、その始まりの緑の葉に赤いサシが入る頃(写真下)から、少しずつ全体的に赤や黄色になって行くまでを、日々観察できるのは、家の樹々ならではのことだし、晴れた日の紅葉と比べて、曇り空や雨の日の紅葉風景は、陰影部分のどぎつさがなくなる分、色合いだけの変化をよく見ることができて、こんな日に見るのもまた悪くはないのだと気づかされたりもするのだ。



 ただ正直に言えば、今年の九重の山の紅葉は、ネットにあげられた写真で見る限り、去年私がわざわざ早く帰って山に登って見たもの(2017.10.30の項参照)と比べると、明らかに鮮やかな赤の色が多くて、やはり悔しく思ってしまうのだ。
 一か月前に見てきたばかりのあの栗駒山の紅葉は、十分に満足できるものだったが、遠く離れた山に行く遠征登山での紅葉は、例えば北アルプス穂高連峰の、涸沢(からさわ)の紅葉を見に行った時のように、時期が少し早すぎた場合もあるし、または、あの槍沢・天狗池を見に行った時のように色自体が明らかによくなかった時もあり、なかなか紅葉最盛期の時に巡り合うことは難しいようだ。
 とは言っても、この年齢になるまで、毎年欠かさず見続けてきている大雪山の紅葉は、それぞれの登山口から登って行った所に有名なポイントがあるし、今までにそのいずれもで、満足できる色合いの時に出合ってはいるのだが。 
 つまりは、同じ山での回数を重ねれば、いつかは満足できる山の紅葉を見ることができるのだ、ということになるのかもしれない。

 誰でも、何に対しても、まずは期待して、あてにして事に当たるものだが、多くの場合には、その期待にそぐわないものだったり、あてが外れて失望したりするものだが、まさに山の紅葉にも同じようなことが言えるだろう。 
 そこで思い出したのは、いつもここにあげるあの兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(つれづれぐさ)』からの一節なのだが。

 ”万(よろず)の事は頼むべからず。愚(おろ)かなる人は、深く物を頼む故(ゆえ)に、恨(うら)み、怒る事あり。勢いありとて、頼むべからず。強(こわ)き者まず滅ぶ。財(たから)多しとて、頼むべからず。時の間に失い易(やす)し。才ありとて、頼むべからず。・・・。 
 身をも人をも頼まざれば、是(ぜ)なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右広ければ、障(さわ)らず、前後遠ければ、塞がらず。・・・。  
 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性(しょう)何ぞ異ならん。寛大にして極(きわ)まらざる時は、喜怒これに障(さわ)らずして、物のために煩(わずら)わず。”

(『徒然草』二百十一段より 西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫)

 漢・唐代の詩文にも精通していた吉田兼好ならではの一節であるが、私なりに意訳してみると。

”何事に対しても、最初から期待してあてにしてはならない。浅はかな人は、ひたすらに物を頼み込むから、それがかなわなかった時には、怒り恨むことになるのだ。相手が今を時めく実力者だからといって、あてにして頼ってはならない。権勢を誇るものがまず先に消え去るものだから。金持ちだからといって、あてにして頼ってはならない。いつ相手が失敗して財産を失うかもしれないのだから。相手が頭のいい人だからと、あてにして頼ってはならない。・・・。 
 自分自身のことを過信したり、他人を頼みにしたりしないことだ。そうすれば、結果が良ければそのことだけを喜び、うまくいかなかった時にも、自分や誰かを恨むことはなくなるはずだ。・・・。 
 いつも自分の思いに幅があり余裕があれば、障害となるものはないはずだし、進むことも退くこともできるはずだ。・・・。 
 人は天地が生み出したその申し子なのだから、天のように深く受け容れられる心があるはずだ。すべての物事に寛大な心で接すれば、一つ一つのことに大きく動揺することもなく、自分を失うこともないし、物欲のために執着することもなくなるだろう。"


 これまた、ここで前々回にもあげていたように、”老荘(ろうそう、老子・荘子)の思想”そのものの世界であって、とても私ごとき迷いの多いおいぼれじじいが、到達することのできない、彼方に輝く神のおつげのようで、・・・ただただ、ありがたや、ありがたや。