5月14日
空気の澄んだ快晴の青空が広がる日が、三日も続いた後、一日中小雨が降ったりやんだりの日があって、恵みの雨に草木はうるおい、夜になるとひとしきりカエルの合唱が続いていた。
そして、今日はまた朝からからりと晴れ渡っていて、この天気があと二日は続くとのことだが。
山は新緑の季節の中、シャクナゲの花が咲き、もうすぐミヤマキリシマの花も咲き始めるだろう。
それなのに、私は買い物で外に出たほかは、ずっと家にいた。
前回から書いているように、ハシゴから落ちた時の脚の傷がまだ治らないからだ。
家の中を動き回ったり、少しの間散歩したりはできるのだが、長距離のトレッキングやまして山登りなどは、まだまだできそうにもない。
というのも、ひざ下全体の腫れは少しずつ引いては来ているし、内出血の青あざもだいぶん消えてはいるのだが、まだ触ると痛いところがかなり残っている。
しかし、これ以上病院に行っても、骨に異常がないので痛み止めの薬もらうだけだからと、家の中で治療に専念することにして、なるべく脚に負担がかからないように、歩き回らないようにしている。
さらには、痛む時に脚を冷やすのをやめて、温湿布薬に換えて、時々マッサージをしているし、それなりの効果はあるように思えるのだが。
ネットで調べてみると、普通の打撲なら2、3週間で治るだろうが、中には1か月2か月さらには半年と時間がかかる場合もあるとのことだった。
ハシゴから落ちた時はさほどの傷には思えなかったのだが、治るまでに1か月はかかる重傷だったのだ。
さらに、この足の痛みに加えて、歯が痛くなってしまった。
悪いことが重なる例えとして、”泣きっ面に蜂”とはよく言ったものだ。
そこで歯医者に行くと、歯髄炎(しずいえん)と歯根膜炎になっていて、前から言われていたことだが、知らぬ間に歯ぎしりをしたりして歯がすり減っていて、神経が露出しているとのことだった。
私は今まで、寝ている時の歯ぎしりを指摘されたことはなかったのだが、ひとりになって、気楽に構えてのんびりと暮らしているようだが、内心つらいことがいろいろとあって、それが夜寝ている時に無意識の歯の食いしばりや歯ぎしりになって、歯をすり減らすことになっているのだろうか。
ともかく、その治療と併せて、今は北海道に戻ることはおろか、山に登ることさえできないのだ。
というわけで、毎日家のベランダの椅子に座り、青空と新緑の樹々を眺めているだけだ。
その時、ふとある歌の一節が思い浮かんできた。
”こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ”
有名な「長崎の鐘」の出だしの一節である。
この二節後に転調して、”なぐさめ はげまし 長崎の ああ長崎の 鐘が鳴る”と、雄々しく歌われてゆく。
長崎の原爆投下時、当時の長崎医大に勤めていた永井助教授は、その原爆で妻を失い、自らも被爆したのだが、5年後の1949年にその時の長崎のことを記した手記を出版して、ベストセラーになり、それをもとにサトウハチロー作詞・古関祐而作曲による歌が作られて、藤山一郎の歌で大ヒットし、翌年には若原雅夫・月丘夢路主演で映画化もされている。(以上Wikipediaによる。以下も同様)
そして、特に2番の歌詞になると、私は歌えなくなり胸が詰まってしまう。
”召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙 ・・・”
当時敗戦後のGHQ(連合国軍司令部)統治下にあって、永井氏には、核爆弾投下の批判記事を書くことなどできるはずもなく、併せて妻を失った悲しみをも乗り越えて、それでも、医者であった自分が長崎の惨状を書き残しておかなければと思ったのだろうが、さらにはその意をくんで、詩人サトウハチローが書き上げた歌詞は、まさに万感胸に迫るものがあり、さらに転調後に曲の高まりを持って行った、古関祐而の見事な作曲手腕も高く評価されるべきだろう。
さらに付け加えれば、”長崎の鐘”とは原爆投下後に、その破壊された大浦天主堂のがれきの中から無傷で見つかったものだというけれども、その鐘が題名につけられたのは、あるいはキリスト教徒の教会が同じキリスト教徒によって破壊されて、という哀しみの気持ちが込められていたのかも知れない。
永井氏の妻が持っていたという、ロザリオ(十字架の数珠・じゅず)とともに。
この歌は、原曲の藤山一郎以外の歌手の歌ではあまり聞こうとも思わないが、もし新たに歌う歌手がいたとしても、正統的な声楽教育を受けた歌手以外ではと思ってしまう。
もちろん、この歌を私は同時代に聞いたわけではなく、ずっと後になって若いころに、NHK紅白か何かで初めて聞いて心打たれ、後になって東京で働いていた時に、音楽企画の中でさらに聞き直して、再認識した歌の一つだったのである。
私が好きな日本の歌は、こうした昔のいわゆる”昭和歌謡”と呼ばれる歌に多く、そしてそれらのいずれもが、しっかりとした歌詞と作曲によって作り上げられていて、歌そのものが一つのドラマになっている点にあると言えるだろう。
先日、連休の時に、テレビ朝日系列で”決定版これが日本の歌だ”という番組が放送されていて、そこでは最新の画像技術編集で、現実にはあり得ない美空ひばりと氷川きよし、テレサ・テンと千昌夫がデュエットしているような、仮想空間のステージが映し出されていたが、私が感心したのは、むしろそれ以外の記録映像として残されていた、白黒画面時代からの昭和歌謡曲の名曲の数々だった。
折り目正しく一本調子で歌われてはいるけれども、それだけに歌詞の持つ意味が、ひたむきに伝わってきて胸を打つのだ。
もちろん、私は今の歌謡曲や演歌が良くないと言っているわけではないし、この後で取り上げる「天城越え」のような名曲も作られているのだから。
ただ今の歌い方には、歌詞に表情をつけすぎて、過剰な感情をこめたものが多すぎるようにも思えるのだ。
それは、歌謡曲に浪花節の歌い方が浸透して以来のことだと思うのだが、それにしても、昔と今の歌でどうしてこうも歌い方が違うようになってきたのだろうか。
もっとも、すべて人間が作り出すものだから、時代とともに変化していくのは当然のことかもしれない。
先日、NHKのEテレで、あのビゼーのオペラ『カルメン』が放送されていたが、それは19世紀スペインでの話が、またも現代劇に書き換えられていて、なんと倦怠(けんたい)期にある現代の夫婦が”舞台セラピー“を受けて、そこで”カルメン”が演じられていくという筋立てになっていた。
もちろん私は、そんな現代オペラを、初めから通して見るつもりもなかったのだが、”エクサンプロバンス音楽祭”での上演であり、オーケストラ、歌手ともに熱演していただけに、録画したものを早送りで見ながら、思わずもったいないと思ってしまったのだ。
しかし、これが期待外れでも心配することはない、私には、2010年メトロポリタンのエリーナ・ガランチャがカルメンを歌い演じた、あのブルーレイ録画があるのだから。(2011.2.27の項参照)
というふうに書いてくると、新しいものを容易には受け入れない、いかにも懐古派じじいらしい頑固さだと、他人からは見られてしまうのだろうが。
以上、話がまた横道にそれたが、結論は単純であり、古かろうが新しかろうが、すべてのものの良し悪しは、それぞれの世代の好みとして判断されることになる訳であり、何も、頭の固いじじいが知ったかぶりに口を出すことではないのだが、哀しいかな”物言わぬは腹ふくるる業(わざ)”なればとて、このブログでひとり”うそぶく”ことになってしまうのだ。
そこで埋め合わせに、比較的に新しい歌の中から、私が”日本の歌”として選ぶとすれば、まず上にあげたあの石川さゆりの「天城越え」であり、歌詞・作曲・歌手と三拍子そろった名曲であり、その中でも不倫の愛を詠った情感あふれる言葉と、コマ落としのように流れていく地名の羅列言葉の響きが素晴らしい。
日本の歌謡曲の中で一曲を選べと言われれば、私は、あの昭和歌謡の多くの名曲や、美空ひばりの名唱の数々に目をやりながらも、悩んだ末に、この「天城越え」を選んでしまうだろう。
さらには、前にここでも何度も書いたことがあるが、”のど自慢THEワールド2015”でインドネシアの少女ファティマが歌って、思わず涙ぐんでしまうほどに感動させられた、”いきものがかり”の「ブルーバード」。(2015.10.5の項参照)
そして、最近は秋元康の作詞の力が、多くのAKB派生グループの誕生で弱められてしまい、もともとのAKBに対する歌曲のプロデュース力が低下したようにも思えるのだが、私にとってのAKB全盛期の一曲は、繰り返しいうことになるけれど、やはり6年前の「UZA(ウザ)」をおいて他にない(AKBファンたちの評価は低いけれども)。
当時のギャルと呼ばれた少女たちの生態を描いた作詞、斬新なリズム感に満ちた作曲、見事に集団の動きをとらえきったミュージックビデオの画面とを合わせて見れば、当時の反倫理的な社会の一面を鮮やかに切り取った、今の時代を映す歌になっていたと言えるだろう。
後世になって気づく”本物の芸術”とは、いつも同時代においては、反社会的だと言われていたものだったのだ。
と言いつつ、一方では『万葉集』『徒然草』などの日本の古典文学を読みふけり、ルネッサンス音楽やバッハを聞くのを楽しみとして、静かな自然の中にいることをのぞみ、時には山上を歩くことを無上の喜びとしている私は、確かに分裂症気味の”ヘンなおじさん”なのだろうが。
今日も一日家にいて、青空と新緑の樹々を眺めていると、遠くでホオジロのさえずりが聞こえていた。
そこに、何と今度は、カッコーの声だ。周りに響き渡るほどに何度か鳴いた後、もうその後は聞こえなくなったのだが。
おそらくは、繁殖地に向かう渡りの途中で、この暖かさに誘われての一声だったのだろうか(北海道で鳴き声が聞こえるのは6月の初めのころ)。
庭に降りると、ずいぶん前に、母が山の中から取ってきて植えつけていた”エビネラン”の数株が、今年もまた元気に花を咲かせている。
木漏れ日が当たるだけの場所で、肥料もやってはいないのだが・・・。
”花は 花は 花は咲く いつかあなたのために・・・。” (写真下)