ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

そこは青い空だった

2018-05-28 21:15:09 | Weblog




 5月28日

 数日前、北海道に戻って来た。
 まだ脚の痛みは残ってはいるが、北海道での仕事や用事がいろいろとたまってはいるし、もうこれ以上先延ばしにすることはできないと、思い切って九州の家を離れることにした。
 それでもその時には、いつものことながら久しぶりに飛行機に乗る楽しみがあり、そして聞こえてくるのだ。
 ”夢のジェット機727(セブントゥセブン) そこは青い空だった・・・”と、まだ娘時代の吉永小百合ちゃんが歌っていたのだ。
 ”わかるかなー、わかんねえだろうなー”と、古い歌に古いギャグで、これまたどうも失礼しました。

 ともかく、あとは出かけるその日の天気を祈るばかりだった。
 もちろん、飛行機は、天気の変化が及ばない成層圏と地上の天気の変化を受ける大気圏との狭間の辺りを飛んで行くのだから、いつでも上空に見えるのは雲のない青空である。それは深い紺色の成層圏の空なのだが、しかし、一方でそれより下はと言えば、下界の天気が悪ければ雲が覆っていて、地上の地形の姿を眺めることはできない。

 ”三度の飯より~が好き”とか、”寝ても覚めても想うはあなたのことばかり”とか言うほどではないのだけれども、ともかく飛行機に乗れば、何とか窓側の席を選んで座り、窓にへばりついては、外の景色を眺めるのを無上の喜びににしている私にとって、その日の天気がいいか悪いかは、私の愉しみである下界の景色が見えるかどうかにかかわる大問題なのだ。
 もちろん今までには、何度も地上の天気が良くなくて、ずっと雲に覆われたままの飛行だったこともあるのだが、それでも負け惜しみで言えば、その日は、下層雲から上層雲に至る全部の雲の観察に、何と適した日だったことだろうかと思うことにしているのだ。

 さてその日の天気予報は、全国的におおむね太陽と雲のマークがついていて、悪くはなかったのだが、気になるのは、午後になってにわか雨の予報が出ていたことである。 
 まずは、福岡から東京羽田への便であるが、雲も出ていて大気はややかすんではいたが、九重の山や四国山脈それに紀伊半島の山々を見ることができた。
 そしてここからが楽しみの、日本の山々の核心部の眺めだったのだが、やはり雲が多くて、それでもさすがに富士山だけは、”頭を雲の上に出し”ひとりすっくとそびえ立っていて、何度見てもあきることはない。(写真上) 
 ただし、まだ5月下旬というのに何と残雪の少ないことだろう。
 それは、南側斜面ということもあるのだろうが、頂上直下のジグザグの富士宮登山道が見えていて、9合目から上は雪が残ってはいるものの、ともかく一か月は早いだろうと思われるほどの雪の少なさであり、今年は7月の山開きを前に、普通の登山者でも登られるようになるのではないのかと思ったほどだった。

 さて、羽田で乗り換えての午後の帯広行きの便だったが、やはり雲が多かった。
 それでも、まず関東平野の果てに連なる日光連山が見えてきて、中禅寺湖から立ち上がるどっしりと大きな男体山(2484m)や、関東地方最高の日光白根山(2578m)、そしてその上部には尾瀬の山々がよく見えていた。
 特に尾瀬沼、尾瀬ヶ原を囲む至仏山(しぶつさん、2228m)、景鶴山(けいずるさん、2004m)、燧ヶ岳(ひうちがたけ、2356m)などはまだ豊かな雪に覆われていた。(写真下)



 そこで、そろそろ始まるミズバショウの時期の、青空を背景にした燧ケ岳の姿を思い浮かべてみた。
 きっと、私好みの絵葉書写真が撮れるだろうし、思っただけでもドキドキするが、残念ながら、私は混雑に恐れをなして、まだその季節に行ったことはない。
 若いころから、私は混み合う所はいつも敬遠していたのだ。
 唯一秋に登った時には、さすがに会う人も少なくて十分に秋の湿原歩きの楽しさを味わうことができたのだが、忘れられないのは、その燧ケ岳の頂上から見た、見事に全山黄葉していた会津駒ケ岳(2132m)の巨大な山体であった。
 私は、その会津駒にも、さらには前回あげたホソバヒナウスユキソウで有名な至仏山にも登ってはいない。
 もうじじいになり始めた今、おそらくはよほどの決意をもって臨まない限り、これらの山々や谷川連峰の万太郎山(1956m、茂倉岳から見た北面の姿は絶品)や越後の駒ヶ岳(2003m)などの長らく憧れていた山々の頂上に立つことはないのだろうが。
 さらに思い出すのは、優先課題としては長らくその筆頭にあった北アルプスの毛勝山(けかちやま、2415m)と南アルプスの笊ヶ岳(ざるがたけ、2629m)だが、いずれもまだ雪のあるころに、その周りの雪山の展望に期待して、いつかは登りたいと思っていたのに・・・。
 ”夢は夢のままで”、それが、多くの人にとっても、人生の現実なのだろう。
                      
 ”・・・。
 とどのつまりは旅立つ身。
 なにを見たとて、一生は夢にすぎぬ、”

 ”おお、わが心よ、この世はつまるところ幻なのだから。 
 この長い苦の道を前にして、なぜそのように思い悩むのか。
 運命に従い、不幸を身に受けよ。
 天の筆は、書き直しをしないのだから。”

 (『ルバーイヤート』オマル・ハイヤール 岡田恵美子訳 平凡社ライブラリー)

 前掲5月7日の項でも、この有名なペルシア詩人の4行詩からなる『ルバーイヤート』の中の別の詩に触れていたのだが、雲上の天空を旅するわが身にはふさわしい詩だと思い、再びここで取り上げてみることにした。
 もっとも、この100編もの四行詩からなる『ルバーイヤート』で詠われていることといえば、今のイスラムの教理とは相反した”酒を讃える”歌であり、わが国で言えば、『万葉集』の中に収められている、あの大伴旅人(おおとものたびと)の余りにも有名な一首、「験(しるし)なき 物を思わずは 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし」から始まる歌を思い出してしまうのだ。 
 洋の東西を問わず、酒が好きな人の気持ちは変わらないということだろうか。
 私は”もどき酒”であるノンアルコール・ビール派ではあるが。

 話がいつものようにわき道にそれてしまった。元に戻って、その後の空の旅の話を続けよう。
 期待した東北の山々は、予報通りに雲が多くて、稜線は雲の覆われていて、かろうじて残雪模様が駆け下りる中腹の辺りが見えているだけだった。
 そこで、見え隠れする山々の眺めはあきらめて、周りに群れ集う千変万化の雲たちを見ていたのだが、特に目を引いたのは、東北北部にかかっていた巨大な雲のかたまりである。
 先ほどの機長のアナウンスでは、いつもよりは高く高度12,000m辺りを飛行しているとのことで、気流が不安定になっている積乱雲をよけたりさらに上を飛んだりしていたのだろう。
 そこで気づいたのは、普通なら積乱雲の雲の峰が並ぶところを見ているのに、それらはまとまって、巨大な航空母艦のような台地上の雲に変わってしまっていたことだ。(写真下)



 写真ではその大きさを写せなかったのだが(座席が翼の近くで、視界が十分には開けていなかったし)、この台形の雲は、この写真のあと3倍ほどの長さで右後ろに続いていたのだ。
 積乱雲の発達できる限界は1万数千m位までであり、その辺りからは成層圏になってしまうからなのだろうが、さらに上空を吹く西からのジェット気流、偏西風によって、こうした西に向かう航空母艦のような形になったのだろう。
 もちろん、飛行機からの展望マニアでもある私は、今までこうしたいくつもの積乱雲のなれの果てを見てきたのだが、今回ほどに大きいものを見たのは初めてだった。
 残雪の東北の山々を見ることができなかった分、珍しい雲を見て、”元は取ったどー”。
 機内のモニター画面で見る飛行ルートは、少し迂回していたが、おそらくは揺れを抑えようとするベテラン機長の判断だったのだろう。
 やがて、日高山脈南部の山々が見え、飛行機はほとんど揺れることもなく、十勝帯広空港に着陸した。

 わが家のまわりの木々や草花は、すべて春の盛りの中にあった。
 あるえらい芸術家が”芸術は爆発だ”と言ったそうだが、北海道の春の野山は、まさに”春の季節の爆発”の中にあった。
 今回は事情があって、北海道に戻ってくるのがいつもよりは一月半近く遅れてしまったから、いつもなら枯草色の中から、少しずつ芽吹きの緑が増えていき、花々が咲いていくのだが、今やすべての草花の緑の葉が芽吹き花が咲いていて、木々は新緑の葉を広げていて、カッコーは一日鳴いていて、エゾハルゼミもうるさいくらいに鳴いている。
 やることは、うんざりするほどある。
 第一に、まずタンポポの抜き取りであるが、もう綿毛を出して飛び散ったものがあるにしても、ともかくこれ以上タンポポ原にならないように、手あたり次第抜いていくほかはない。百本…二百本・・・。
 そして次には、道まわりから庭に至るまでを、草刈りガマ一本による草刈り作業をしなければならないが、今はまだ道半ばで・・・腕も足腰も痛い。
 さらに悪いことに、井戸の水が出ない。
 浅井戸の上に、毎日ずっと使っていて周りからの水の道ができている井戸ではないから、こうして放っておくとすぐに水が枯れてしまうのだ。
 隣の農家に水をもらいに行き、それを細々と使うしかないが、不便きわまりない。
 水がふんだんに使えて、シャワートイレがあり、毎日洗濯ができて(毎日衣類を着かえられて)、毎日風呂に入ることができる九州の家に居ることがどれほどありがたいことか。

 しかし、水枯れといい垂れつぼトイレといい、いくら不便なことが多いとはいえ、木々や草花に囲まれ、家の前には残雪の日高山脈が見える、静かなこの丸太小屋での暮らしを、私は捨てることができないのだ。

 ”フランシス・ジャムの詩にもとづく私自身のためのエレジー(哀歌)”

 神様、私がたとえば、二人の女を同時に愛してしまい、それをどちらか一人の女に決めることなどできないように、私は、こうして遠く離れた二つの家での暮らしを、どちらかだけに決めてしまうということができないのです。
 そうした優柔不断さと、物事をあいまいなままにしておくという、私の情けない性格を、神様はお咎(とが)めなさるでしょうか。
 おそらくは、私の命もそう長いことはありますまい。
 どうか、その短い間だけでも、年寄りのわがままとお見過ごししてはいただけませんでしょうか。
 若いころから今日まで、何度もの危険な目にあった”くたばりぞこない”の私めのこと、ここまでも生きながらえさせていただいたので、最後には何の悔いもなく、”ああいい人生だった”といって目を閉じることができるでしょうから。
 私が、死にゆくときは、どうか天気の良い晴れの日にしてください。
 そして、できることなら花々が咲き乱れている季節にしてください。
 その花の向こうから母の笑顔が見えて、ミャオが鳴きながら近づいて来て、私を迎えてくれるようにしてください。
 お寺の鐘が鳴りまする。


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