ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

山、春のきざはし

2018-04-16 22:17:52 | Weblog




 4月16日

 まだまだ冬の名残りのうすら寒さの日もあり、春の盛りの包み込むような暖かさの日もあり、それぞれ繰り返すように日々が続いている。 
 こうして、ほんの少しずつ、季節は進んでいくのだろう。
 数日前、またいつもの九重に行ってきた。

 前日が快晴の天気で、さらに次の日も晴れの予報が出ていた。
 しかし、こうして春や秋に天気が続く場合、次の日に晴れの予報が出ていても、前日までに大気が暖められていて、空気が濁ってかすんでいることが多い。
 ところが今回の場合、最高気温の予測としては、冷たい空気が入ってきて、数度以上も下がるとのことで・・・つまり、それは空気が澄んだ中での春山歩きができるということになるはずだ。

 確かに、今までも書いてきたように、今の時期の九州の山は、霧氷や積雪の冬の時期から、新緑やミヤマキリシマなどの花の時期へと移行してゆく、その端境(はざかい)期にあたり、山には見るべきものが少なくて、積極的に山歩きをしたくなるような季節ではないのだけれども、それでもこの九重の山は、いつでも手軽にあの火山性の疑似(ぎじ)高山帯(擬高山帯とは違う)からなる、見晴らしの良い尾根道歩きが楽しめるのだから、山歩きとしては季節を選ばない山なのかもしれない。

 冬、雪山に登る時に出かけていたころよりは、ずっと早く家を出た。
 クルマに乗って、山の中の道を走って行く。家のヤマザクラの花は、もう数日前にすっかり散ってしまっていたが、この辺りは今が盛りで、それぞれに違う美しさがあり、一本一本写真に撮って行きたいと思ったほどだった。さらに、新緑の芽吹きの木も続いている。
 そうなのだ、出かける前には、どの山に行こうかと少し迷っていたのだ。
 前回書いたように、山麓のヤマザクラをめぐって歩くワンダリング(逍遥、しょうよう)の山もいいなと思ったのだが、この澄み切った朝の空を見て、元来は展望登山派の私として、思いはやはりあの九重の明るい尾根歩きへと向かってしまうのだ。

 7時過ぎには、いつもの牧ノ戸峠の駐車場に着いた。
 クルマは少なく、十数台余り。快晴の空が広がっている。
 冬の間はずっと雪道だった、舗装された遊歩道を登って行く。
 沓掛山前峰に上がると、南にはっきりと阿蘇山が見え、眼下にはまだ枯れ枝色の樹々が広がっていて、その向こうには、なだらかに九重の山々が続いていた。
 樹々の芽吹きはほとんどなく、ただ常緑のアセビの大きな株に小さな花が鈴なりに咲いているのを見るばかりである。
 しかし、低いミヤコザサに覆われた山肌などは、冬場とは違う何か明るい緑が増したような色合いに見える。
 そして、いつものなだらかな縦走路をたどり、行く手に星生山(ほっしょうざん、1762m)の西面が見えてくると、その枯れ枝色の山腹の中に、数はまだ少ないものの、幾つもの新緑の木が点々と見えていた。(冒頭の写真)

 樹々の中で、新緑の芽吹きが早いのは、ヤナギの仲間やカツラ、ミズキ、モミジなどであるが、こうして遠くから見ただけでは何の木かわからないけれども、ともかく冬場に雪に覆われている時は別にしても、あの無粋な灰色の山腹に、今、目にも鮮やかに、春の”きざはし”である萌黄色(もえぎいろ)の新緑が山腹を駆け上ってきているさまは、これこそ山の春が近づいてきていると呼ぶにふさわしい光景なのかもしれない。 
 私は四季を通じて、この九重には何度なく登っているのだが、こうしたほんの小さな春の始まりの光景を見たのは、初めてのような気がする。 
 いつも、特に冬場に集中的に登るものだから、この後のシャクナゲやミヤマキリシマなどの花が咲く時期との、端境(はざかい)期にあたる今の時期には、来たことがなかったということなのだろう。 
 つまり、その山にどれだけ多く登ろうとも、山のすべて知り尽くしているということにはならないのだ。
 山に登れば、いつもその時その時ならではの、自分にとっての新しい発見があるものなのだから。

 縦走路をたどり、西千里浜から主峰の久住山(1787m)が見えてくるが、やはり雪がないと、単純な山の形があるだけで物足りなく感じてしまう。
 もちろん、これからの新緑や初夏のミヤマキリシマのころになると、そして紅葉の時期になればまた、山もその装いを変えて鮮やかに見えるものなのだが。
 とは言っても、少しすじ雲が出ているだけの快晴の空の下、そよ風がやさしく吹きつけていて、暑くもなく寒くもなく、何という素晴らしい山歩きの日なのだろうと思ってしまう。 
 さらに平日ということもあって、人が少なく、その山の静けさの中にいることも心地よかった。 
 今回は、この冬の間、珍しく登ることのなかった中岳(1791m)に、まず行くことにした。
 翡翠(ヒスイ)色に照り映える、御池の湖岸をめぐって半周して、また対岸から眺めてみる。
 ありがたいことに、辺りには人の姿ひとつなく、ただ青空の色を映して、池は静まり返っていた。
 
 思い出すのは、あの加賀の白山(2702m)の、残雪の翠ヶ池(みどりがいけ)の光景だ。(’09.8.2の項参照) 
 この時も、周りに誰もいなかった。
 目の前に、残雪に縁どられた翠ヶ池があり、その向こうに御前峰と剣ヶ峰が並び立ち、上空にはそれまでの雲が取れて青空が広がりはじめていた。 
 そうした絵葉書写真の構図の中に、自分もまた同化して、そこに在ったのだということ・・・。
 あの翠ヶ池の光景は、同じ加賀出身の神秘的耽美派の作家、泉鏡花(いずみきょうか)が書いた『夜叉が池(やしゃがいけ)』の世界へとつながっていく。 
 もっとも、この泉鏡花の小説の舞台は、越前の三国岳(三周ヶ岳)なのだが、最後に池の精が飛び立っていく先は、剣ヶ峰になっていた。

 今はもう、深く取り上げられることもなくなった、日本各地に残る伝説や伝え話しなどを、実証的民俗学の立場から書き残していった柳田国男(『遠野物語』など)と、他方それを文学的に脚色して日本の神秘的世界観を示してくれた泉鏡花、いずれもその行き方こそ違え、今となっては、日本人の本性に迫る貴重なドキュメンタリーであり戯曲であったと思い知るのだが。
 若いころ、少しでも日本の文学に目を向けたことのある人ならば、少数派ではあったとしても、この日本的耽美派の世界に興味を抱き、この泉鏡花の短編小説群、『高野聖(こうやひじり)』『歌行燈(うたあんどん)』などを読みふけった人もいるだろう。
 思い起こせば、『万葉集』に始まった日本人の感情表現の文学作品は、『源氏物語』『平家物語』『方丈記』『徒然草』さらには『古今集』『新古今集』から近松門左衛門や井原西鶴の世界へと流れ続き、明治以降の自我意識の日本近代文学へと連なっていくのだ。
 そして、私たちは今、それらの時代ごとの作品すべてを、興味さえ持てば、いつでも自由に読むことができるし、それによって脈々と流れる、変わらない日本人の心を知ることもできるのだが。 
 はたして、スマホ・ケイタイの短文表現に慣れた若者たちが、この日本文学の伝統をどう受け継いでいってくれるのだろうか・・・。

 話がすっかり横道にそれてしまったが、九重の山歩きに戻ろう。

 さて私は御池のそばを通って、ゆるやかに尾根道をたどり、岩塊帯の上にある中岳の頂上に着いた。
 後で一人が来ただけの、ここも静かな頂上だった。 
 快晴の空の下、周りの九重の山々はもとよりのこと、天気の良い空気の澄んだ日に見える、九州の山のほとんどが見えていた。
 ただ、あの霧島山(1700m)は、脊梁(せきりょう)山地のかなたに、かすかに山影は見えたものの、新燃岳(しんもえだけ)の噴煙を確認することはできなかった。

 それでも、阿蘇山(1592m)に祖母山(1756m)・傾山、坊ヶツルの湿原の彼方には由布岳(1583m)、北に英彦山(ひこさん1200m)、西に遠く雲仙岳(1486m)と申し分なかった。
 何度来ても飽きることのない眺めであり、隣の天狗ヶ城(1780m)とともに、九重の山の中では私の最も好きな頂きである。
 
 30分近くそこで休んだ後、次に天狗ヶ城に向かい、その頂上から真下にある火口湖の御池と稲星山(1774m)、その後ろに祖母・傾山のいつもの眺めを楽しんだ後、下りて行くことにする。(写真下)

 

 その急斜面の下りで、少し足がふらついて滑って尻をついてしまった。
 先ほどの短い登りの時に、呼吸が苦しくなって二度三度と立ち止まったこともあったし、やはり寄る年波には勝てないと、自分の体力を考えないわけにはいかなかった。
 もっとも、それも日々、自分を鍛えるという意識が欠如しているためでもあろうが。
 あの、三浦雄一郎さんを見習えと、日ごろから思ってはいるのだが、たらふく食べた後、部屋で横になってだらだらとテレビを見るという悪癖は、いつまでたっても治らないのだ。
 若いころのスマートだった(ホント)身体に比べると、”牛になる”の例え通りに、今までにステーキ何十枚分かの体重が増えたし、もうこれ以上は、牛の脂肪はつけなくていいのだが・・・。
 とわが身のふがいなさを嘆きながら、急斜面を下りて行き、ふと立ち止まり眼をあげると、頭上には快晴の空にいくつかのすじ雲が走るだけで、硫黄山の噴気から星生山、涌蓋山(わいたやま1500m)、万年山(はねやま1140m)、英彦山と、まだまだ遠くまでを見通すことができた。(写真下)




 ところが、久住分れの鞍部の降りるころから、人々の声が聞こえ始めて、避難小屋のある火口跡の平坦地には、併せて100人近い中高校生たちの姿があり、まるで休み時間の運動場のような賑わいだった。それでも、道の途中で出会ったわけではないからよかったのだ、あの元気な生徒たちの声に一人一人挨拶を返していたらと思うと・・・。
 こうした学校の集団登山について、その是非については議論が分かれるところだろうが、それはともかく、生徒たちがこの天気の中で山に登ることができたのは、良かったと思う。
 さてそこから、星生崎下の鞍部まで登り返し、再び静かな縦走路になって、周りの景色を楽しみながら下って行き、昼過ぎには牧ノ戸の駐車場に戻ってきた。
 往復6時間の、簡単なハイキング山登りだったのだが、年寄りの私には、この帰り道ではそれなりに疲れてしまっていた。 
 だからこそ、こうして定期的に山歩きをすることが必要なのだが、果たして今年の遠征登山は、実行に移せるのだろうか。
 
 あの貝原益軒(かいばらえきけん)が『養生訓(ようじょうくん)』(石川謙校訂 岩波文庫)の中で言っていることなのだが。

「老後は・・・、心静かに、従容(しょうよう)として余日を楽しみ、怒りなく、慾すくなくして、残躯(ざんく)をやしなうべし。老後一日も楽しまずして、空しく過ごすは惜しむべし。老後の一日、千金にあたるべし。」

 最近のテレビ・ニュースの中から二つ。 

「あの東日本大震災で被災した東松島市のお寺の住職は、それに先立つ8年前の地震でも寺の本堂が全壊するという被害を受けていたのだが、周りの檀家(だんか)の支援もあって半年後には再建することができて、そのお礼と被災者支援の意味を込めて仏像を彫り始めて、そうした人々に贈っていたのだが、7年前のあの東日本大震災に再び遭遇して、家族を失った遺族のためにとさらに仏像を彫り続け、今回の3月11日の法要の時に手渡された仏像十数体で、都合1000体を越えたとのことであり、その仏像を受け取った一人の老婦人は、あの人が帰ってきたと涙ぐみながら、亡き夫に見立てたその仏像を撫でさすっていた。」

「2年前の熊本地震で被災したある老婦人は、その倒壊した家で自分も重傷を負いながら、夫を救い出せなかったことを悔やんでいたのだが、ある時、見つけた夫の日記には、毎日の二三行の書き込みの後に、いつも最後には、”今日もすてきな一日だった。”という言葉が書き添えられていたという。」

 


 

 


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