4月30日
連休に入って、素晴らしい天気の日が続いている。
日本各地の観光地は、行楽客たちの歓声でにぎわっていることだろう。
テレビニュースで映し出される、家族連れの笑顔の数々・・・。
あの映画『男はつらいよ』の”寅さん”ではないけれど、日ごろから実直にして勤勉なる日本の労働者諸君が、年に一度の大型連休の休みの日を、日本晴れの空の下、家族連れで楽しんでいる様子を見ることができるのは、実に喜ばしいことだ。
私は、ずっと家にいた。
それは、若いころから、混雑している所に出かけていくのが嫌な性分だからという、単純な理由によるものなのだが。
今回はそれ以外にも、いやそもそも今は、どうにも動きが取れないという状況にあるからだ。
前回書いた、あの屋根から転落した時の、打撲傷の傷口がいまだに治っていないからだ。
もちろん、その後病院にも行って、レントゲン写真を撮って骨に異常がないことも確認してもらい、処方された薬も飲んでいるのだが、痛みはとれないし、ひざ下全体のはれも引かないし、全体に内出血の赤黒いあざが出てきている。
こうした痛みが続く時には、人は弱気になるものだ。
もしかしたら、敗血症で足が壊疽(えそ)して、右足を失うことになるかもしれないし、それがもとで死に至ることもあるのだからと、悪い疑念が最後を告げる雷雨の前の黒雲のように、湧き上がってくるのだ。
最近、年寄りになってきたせいでもあるのだろうが、目、歯、足腰の衰えが目立ち、さらに加えて高血圧の糖尿病気味の体調を考えれば、傷の直りが悪いのもその一因なのかもしれないのだが。
もともと生まれ持っての顔つきの悪さや、頭の悪さは、今や自分の体質の一つのようなもので、あきらめはつくけれども、たかだか脚の傷ぐらいのことでと思ってしまうのだ。
しかし、去年は足のひざの痛みに悩み、今年はそれ以上の足の傷の痛みに苦しみ、思いはどうどうめぐりをしてしまう。
そこで、思い至るのは、最近よくここにも取り上げることの多い”死の思索”についてである。
もちろん元来が、単純で”お天気屋”な私だから、深刻に厳かに定義づけられる死についての考え方にはなじめない。
それだからこそ、いつも書いているように、ハイデッガーの”死の意識からの時間の存在”の意義を、改めて思い直しているわけでもあるのだが。
そこで、今回取り上げる言葉は、16世紀”宗教改革”の嵐の中に生きたフランスの思想家、モンテーニュ(1533~1592)の有名な『エセー』からの一節である。
彼は、まず古代ローマ時代の詩人ホラティウスの言葉をあげる。
”明けゆく毎日をおまえの最後の日と思え。そうすれば当てにしない日はおまえのもうけとなる。”
そして続けて書いている。
「死はどこでわれわれを待っているかわからないから、いたるところでそれを待ち受けよう。
あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである。死を学んだ者は奴隷(どれい)であることを忘れた者である。死の習得はわれわれをあらゆる隷属(れいぞく)と拘束から開放する。
生命の喪失がいささかも不幸でないと悟った者にとってはこの世に何の不幸もない。」
(『世界文学全集11、モンテーニュ 原二郎訳 筑摩書房)
私は、心理学でいう”代償行動”あるいは”転移行動”(フロイトの”転移”とは別)として、今の自分の状況について、いろいろと思いを巡らせるのだ。
晴天の続く日々に、新緑の季節の山歩きができない代わりに、家の周りの新緑の樹々をじっくりと眺めまわすことができる。
今年はずいぶん咲くのが早かった、あのブンゴウメの花、そこに今はもう小さな緑の実が幾つもついている。(写真上)
後は、これからの雨や風にも負けずに元気に育っていって、二か月先にはそれが大きな実となって、枝先いっぱいになっているよう願うばかりであるが。
さらには、家のツツジもあちこちで咲き始めている。
ウメに始まった春の花は、ツバキ、サクラそしてシャクナゲへと続き、このツツジたちで最高潮の時を迎えるのだ。
もっとも、このツツジも、シャクナゲの時に書いたように、花が開いた時はもちろんあでやかできれいなのだが、その前のツボミのころも、それ以上に鑑賞するに値する美しさなのだ。
下の写真は、10日ほど前の大きな株のツツジのツボミだが、そのびっしりと集まり並んでいる姿は、あの夏の大雪山のお花畑に咲く、エゾノツガザクラの花を思い出せるものだった。
さらには、同じ時期のころに登った、北海道の雪山の写真を眺めては思い出すのだ。
これが、私なりにできる、今の”代償行動”なのだろうか。
当然のことながら、今頃はもうとっくに北海道に戻っていて、残雪の山に登っているころなのだ。
厳冬期には、その風雪の厳しさももさることながら、それ以上に雪が沈み込み、ラッセルに苦労するので、雪質が固めに安定してくるこの時期になって、ようやく雪山も歩きやすくなってくる。
そして、もともと登山道のない日高山脈の山々の多くは、この時期にこそ雪崩(なだれ)を避けて尾根通しに、自分なりにルートを定めて登って行くことができるようになる。
さらに、いつものような晴天の日を選べば、まさしくそのころは、一年の中で私の最も好きな雪の山歩きが楽しめるからだ。
10年程前くらいまでは、まだやる気も体力も十分にみなぎっていたし。
その時に向かったのは、日高山脈南部のオムシャヌプリ(1379m、アイヌ語で双子山の意味)である。
この山へは、それまでに夏の沢登りで三回ほど登っていたのだが、何としても雪のある時にぜひとも登ってみたいと思っていた。
そこで、その前の年の同じ時期に、このオムシャヌプリの南にある十勝岳(1457m)へと、その長い雪の西尾根をたどって登って行ったのだが、その時に、この西尾根の真向い側にある、オムシャヌプリ南西尾根をつぶさに観察していて、十分に頂上へとたどっていけることを確認していたのだ。
しかし、このオムシャヌプリ南西尾根の記録は、ネットや資料にもなく、参考にすべきものがなかったのだが、今までの日高山脈春山の経験から言えば、それほど危険なコースとも思えなかった。
野塚トンネル日高側にある、湧き水公園の駐車場にクルマを停めて、このオムシャヌプリや十勝岳への沢登りのルートとなる上二股ノ沢を対岸に渡り(まだ雪解け期前で水量は少ない)、林道跡を少したどって左に分かれて、さらに古い荒れた林道跡に入って行き、そこから地図と照らし合わせながら、道のない雪の残る斜面を真上の尾根に向かって登り続けて、ようやく日高特有の細い尾根に出た。
その辺りでは東西に続く雪の尾根は、所々南側が切れ落ちていて少し気を使ったが、樹林帯の尾根だから手掛かりになる木はあった。
所々雪にはまるところもあったが、尾根が南西にと曲がる辺りからようやく全面が明るく開けてきた。
今までたどってきたこの尾根には、ずっと薄い霧がかかってはいたが、上空には青空が透けて見えていて、心配するほどのことではなかった。
やがて、その薄い霧が取れて、見事な青空の下、白い頂上とそれに続く雪面が見えていた。(写真下)
これこれ、これだから雪山はやめられないのだ。
そして、誰の足あともついていない、その雪面を登って行く。
固く締まったところと、柔らかくはまり込むところがあり、雪面の表面を見極めながらストックをついて登って行く。
もちろんピッケルは持ってきていたが、使うところはなく、足元は登山靴にアイゼンをつけただけだったが、もぐり込むにしてもそれが一番動きやすかった。
振り返ると、このオムシャヌプリとを分ける南側の谷の向こうに、薄い霧に見え隠れしながら十勝岳の雄大な山容があり、その後ろには楽古岳(1472m)も見えていた。
日差しを受けながら、雪面をたどると、上部では歩きやすくなり、4度目になるオムシャヌプリの頂上だった。
すぐ隣の東側に、その双子山(ふたごやま)の名の通りのもう一つの頂き、オムシャヌプリの東峰がそびえ立っていた。
そして、新たに開けた北面には、日高山脈の主稜線が北側に続いていて、これまた二つの頂きが印象的な野塚岳(1353m)が見えていた。(写真下)
もしその先に続く主稜線に雲がかかっていなければ、ずっと先の十勝幌尻岳(1846m)までが見えるのだが、しかし、こうして雪のオムシャヌプリの頂に立つことができて、周りの雪の山々も眺めることができたのだから、もう十分だと思った。
帰りは、同じ道を自分の足あとをたどって、下りて行ったのだが、何とその森林限界の辺りの雪の尾根に、私の足あとを横切って行くような、生々しいヒグマの足あとがついていたのだ。
一瞬、鳥肌が立ってしまうほどで、すぐに周りを見回したが、ヒグマの姿はなかった。
頂上にいた時間を含めて、2時間足らずの時間の間に、ここをヒグマが横切って南側の谷に下りて行ったということだろう。
ただし、足あとはそんなに大きくはなかったから、おそらくは母離れして1,2年目のまだ若いヒグマでそれほど大きくはないだろうから(成獣で2m以上、300㎏超えのヒグマもいるほどだから)、さらには冬眠明けで、ヒグマは自分に体力がないのがわかっているから、人を見れば逃げるのだろうが、それでも、お互いに近距離でばったり遭うというパターンが一番怖いのだ。
登る時にも、要所では鈴を鳴らしていたのだが、その後はずっと駐車場に帰り着くまで、鈴を鳴らし続けたことは言うまでもない。
・・・と、爽快な雪山の思い出とヒグマの足あとを見て少し怖い思いをしたという、10年前のオムシャヌプリ登山だったのだが。
それも、こうして足をケガしていてどこにも行けない、私の山への想いの”代償行動”として、昔の山の思い出をデジタル写真で”プレイバック”させたのだけのことなのだが。
しかし思えば、誰でも自分の思い通りにはいかないことがあり、時には我慢して、あるいはこうした代替物に置き換えて、折り合いをつけているのだろう。
ただし、その心の葛藤(かっとう)による想いの抑圧が、無意識の反応として夢になって現れるという、あのフロイト心理学を、まだ私は十分に納得できないでいるのだが。
つまり、自分の欲求が抑えられているとしても、それが無意識の形として、夢の作業により夢となって表出されるばかりだとは思えないからだ。
私は、ほとんど毎日のように夢を見ているのだが、そのほとんどは脈絡もないわけのわからない話ばかりなのだが、いやな後味の悪い夢を見ることが多々あるのに、幸せで満足した思いになる夢を見ることなど、十に一もあれば良いほうであり、山の夢でも不安になる場合のほうが多く、実際の登山にあったような爽快な思いになったことなどあまりないからだ。
実を言えば、生来脳天気な私は、眠っている時に見る夢など、それが自分の深層心理を表しているものなどと、大仰(おおぎょう)に考えたことはないのだ。
またしても、あのアランの『定義集』(神谷幹夫訳 岩波文庫)からだが、”夢”についての一節をここにあげることにする。
「夢はちょっとめざめかけでも続いている。それは眠るしあわせ、すなわち休息の貴重な条件である無関心の命令である。
したがって、夢の脈絡のなさは、われわれにとって別にどうということでもない。恐ろしい夢でも我々は、それを信じてしまうほど強く打たれない。」