ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

歳歳年年、人同じからず

2017-11-06 22:20:53 | Weblog



 11月6日

 10月半ば、九州に戻ってきたころからの、十日余りも続いた秋の長雨の後、今度はそれに代わって、見事な秋晴れの日が続いている。
 そのうち、この連休を含めて一週間余りにもなる好天の日々は、ちょうど紅葉の時期と相まって、連日行楽地は大賑わいだったらしいのだが。
 もちろん、山登りにも最適の日々だった。
 特に、この一週間、月末と昨日今日は、風も穏やかで、空気も澄み渡り、雲一つない快晴の空が広がっていた。 
 それなのに、わざわざそんな絶好の日々を外して、私は二度も山に行ってきたのだ。

 もちろん、私が山に登った日も、それほど天気が悪かったわけではないのだが、日ごろから”快晴登山”を標榜(ひょうぼう)にして心がけている私にとっては、いささか”看板倒れ”ふうな結果になってしまって、いささか自分に後ろめたい気もするのだ。 
 もっとも、そんな自分の決断の小さな誤りなど、人生の中ではよくあることであり、いちいち気に病んでなんかはいられない。
 最適な時を選ばなかったことは、いつかまた最適の時に会える可能性があることであり、さらにはそのことが、最適な時に次ぐよい時だったと知っただけでも、十分に価値のあることだったと思うのだが。
 ”逃した魚は大きい”かもしれないが、手に入れた小さな魚があるだけでもありがたいことだし、つらつら鑑(かんが)みれば、その小さな魚は、今、唯一自分の手元にあるものとして、きらきらと輝いているではないか。ものは考えようだ。

 私は、二日間、快晴の日が続くと予報された二日目の日に出かけたのだが、確かに高気圧が帯状に続く天気図ではあったのだが、その日は高気圧と高気圧の間に入っていて、いささか冷たい空気が入ってきては、山には雲がかかるだろうことは予想されたのだが、連休も控えているし、今しかないと思って決断したのだ。
 朝から東の空には雲があって、それが山にかかっていたのだ。

 目指した山は、由布岳(1583m)である。
 今までに何度も書いてきたけれども、この由布岳は、あの深田久弥の”日本百名山には選ばれてはいないけれども、その二つの耳をそばだたせた個性ある姿から言っても、その興味深い植生をめぐる変化ある登山道から言っても、”見てよし、登ってよし”の、むしろ私が選ぶとすれば、”日本五十名山”の一つとして選びたいぐらいの山であり、そのことは、この度の紅葉時期の登山で、さらに思いを強くすることになったのである。

 この由布岳には、若いころから何度となく登っていて、その半分以上が雪のある冬の時期である。
 雪はひざ下ぐらいまでで、それほど多くはないのだけれども、独立峰だけに、北西の風を受けて、霧氷、樹氷にシュカブラ、”えびのしっぽ”などの雪氷芸術を見ることができる。もっともそのための、西峰からお鉢めぐりにかけての岩稜帯にはアイゼンなどの冬山装備が必携となるが。
 しかし、そうして何度登っていても、九州にいる時期が冬を中心として限られていたために、どうしてもその時期だけに偏りがちになり、あとは新緑のころと、ミヤマキリシマの花の終わりの方のころ、さらにはこの紅葉の時期にも、ほとんど終わりのころにしか登っていなかったのだ。 
 しかし、今年は他の用事もあって、早めに九州に戻ってきたので、これでやっと紅葉が盛りの山に登れると、意気込んでいたのだ。

 前回の、九重は大船山の紅葉も上のほうは終わりに近かったが、十分に楽しめたし、大船山よりは高度が200mも低い由布岳なら、まだ紅葉の時期に十分間に合うだろうと思ったからでもある。
 朝は、早く起きたのだが、由布岳の方向の空には雲の塊があり、すぐにはとれなかったこともあって、さらに天気予報、衛星画像とともに見ては、決断して出かけるまでに時間がかかり、遅くなってしまった。
 そのため、由布岳登山口(約770m)に着いた時には、もう9時半にもなっていて、数十台は停められる駐車場はいっぱいであり、そこに何とか空いている所を見つけては停めることができて、これはついているというべきか、さらには目の前の山の雲も取れつつあったのだ。
 由布岳は、誰もが立ち止まって見たくなるほどの、優美な裾野を広げた姿なのに、頂上部分だけははっきりとした二つの岩峰に分かれていて、昔の火山分類でいうコニーデ型とトロイデ型の複合系である、いわゆる”コニトロイデ”の特徴をそろえている。
 そして、その岩峰の頂上から山腹、裾野に至る山体には、明らかに上から下に紅葉が下りてきている様子がうかがい知れた。(冒頭の写真)

 なだらかに続くすそ野の、カヤトの原の中の道をたどって行くのだが、この最初のさわやかなアプローチの道がいい。
 ススキや小ザサの間には、これまたすがすがしい紫色のリンドウの花が二つ三つと咲いていた。
 そして山腹の林の中の道となる。
 まだ緑色の木の葉が多い中でも、すでに赤く黄色く色づいた木々もあって、青空を背景にして輝いていた。



 前後に何人かの人はいたが、それも離れていて静かだった。
 しばらく、その山腹沿いの道をたどると、少し開けた合野(ごうや)越えに出る。
 このまま西側に下って行けば、西登山口のある由布院の町へと降りて行く間道が続いているし、途中で南側に盛り上がっているきれいな草山への道をたどれば、由布岳の側火山の一つである飯盛ヶ城(いもりがじょう、1067m)へと一登りである。
 そこで一休みした後、いよいよ由布岳山腹のジグザグの登りが始まる。
 しかし、その勾配はゆるやかだから、この樹林帯の紅葉を楽しみながら登って行くことができる。
 前後に人もいなくて、あれだけの車が停まってはいたが、多くの人は朝早く山頂へと向かったのだろうし、私の後ろから来た人たちも、たちまちのうちに私を抜いて先に行ってしまい、それでかえって、静かな山歩きができているのだろう。

 やがて、紅葉の木々の梢が低くなって、明るくなり、灌木混じりの開けたカヤトの山腹に出た。
 たちまちのうちに、見晴らしが開けてきて、由布院盆地の町が見え、遠くの九重の山々には雲がかかっていたが、この由布岳山腹の、白いススキから紅葉のつづれ織り模様と、その下に広がるまだ緑色の牧野うねりが、鮮やかな色合いになっていた。(写真下)




 この山裾の紅葉模様は、山頂に至るまでずっと見ることができて、その同じような写真を、私は何枚撮ったことだろうか。
 紅葉が美しいのは、単に赤い色が多いからだけではなく、対比する色としての、橙色から黄色薄黄色などの色も混じるからだと、この時また改めて知らされた思いだった。
 ようやくジグザグの道が終わり、そこでササやカヤに覆われた斜面の上に紅葉の帯が見え、さらにその上に岩稜からなる東ノ岳の頂上部が続いていた。(写真下)




 これからは、二峰への分岐点になるマタエへの急こう配の登りになる。
 もう下りてくる人たちもいるし、後ろから登ってきた若い人たちには抜かれて、やっとのことでマタエにたどり着いた。
 しかし、そこから見たお鉢火口の周りの木々は、もう葉がほとんど散っていて、数えるぐらいの紅葉しか残っていなかった。 
 マタエからは、人の多い東ノ岳(1580m)には行かずに、人の少ないに西ノ岳(1583.3m)に行くことにする。 

 この西ノ岳へは、すぐの所にゆるやかな鎖場が二か所あり、さらに先では、垂直に近い岩壁をトラバースする鎖場がある。 
 もっとも、それほど高い岩壁ではないから、落ちたところでたかが知れているのだが、慣れていないと足がすくむし、敬遠する人が多いようだ。 
 その岩壁をすぎても、まだ細い稜線の急な道が続くが、冬に雪がある時には、このあたりの雪氷芸術が素晴らしいのだが。
 やがて、道はようやくなだらかになり、西ノ岳頂上に着く。
 時間は、コースタイム2時間ほどの所を、40分近くも過ぎているが、写真撮るのが好きな足の遅い年寄りだから、それも仕方あるまい。 
 それよりも、頂上には数人しかいなかったが、その一角では、シートを広げた上で女子会が開かれていて、その楽しげな声に恐れをなしたこのじいさんは、その先に続くお鉢めぐりの道をたどって、そこでようやく自分の居場所を見つけたのであります。 
 もちろん山に登るのは、みんなそれぞれに目的があり楽しみ方があるのだから、分かってはいるのだけれど、と年寄りはつぶやくのですが。

 天気は相変わらず、西の方から雲がわいてきていて、日が差したり陰ったりの繰り返しで、私としてはあまり良い天気とは言えないのだが、今まで見てきた紅葉風景は十分に満足できるものだった。 
 天気が良くて、まだ紅葉がきれいならば、1時間ほどのお鉢めぐりをして東ノ岳にも登って、と思っていたのだが、眼下に広がるお鉢火口周辺はすっかり冬木立の景観になっていて、そこにいくつかの紅葉の木が見えるくらいで、とても行く気にはならなかったのだが、注目すべきは、そのお鉢の剣ヶ峰の向こうに横たわる、鶴見岳(1375m)山群の姿であり、その山腹が、見事な赤い色に覆われていたのだ。あそこへは行かなければ。

 30分余りを過ごした頂上を後に、女子会のそばを、”ごめんやしておくれやしてごめんやっしゃー(吉本新喜劇の鉄板ギャグ)”と通り抜けて、少しもたつきながらも岩壁を下りて、マタエに戻ってきた。 
 さあ後は、ゆるやかな下り道だけだし、ゆっくりと紅葉風景を楽しんでいこうと、あちこちにカメラを向けては(写真下)、さらに日が差すのを待ってみたりと、女子会の彼女たちをはじめ多くの人に抜かれながらも、私にとっては、”紅葉ファースト”がすべてであり、天気が今一つだったと思いながらも、結局、160枚余りもの写真を撮って、登山口に戻ってきたのでありました。
 下りの時間も登りと同じくらいかかって、今日は6時間の、私にはちょうど良い山歩きになったのだ。

 ただ、この年になって初めて知ったことだが、あの九重の紅葉と同じで、由布岳にもおそらく二、三十回は登っていながら、恥ずかしながら、紅葉の盛りの由布岳がこれほどに素晴らしい景観になることを知らなかったし、ということは、まだまだこの九州の山だけではなく、全国にはどれほど多くの紅葉名所の山々があることか、まして、その紅葉を眺めるには、様々な見方があることを、今さら教えられたような山歩きの半日だったのだ。 
 私は今まで、余りにも北海道の山々の紅葉にこだわりすぎていて、足元の地元の山々に目がいかなかったのかもしれない。
 これからは、足腰が衰えてきたぶん私にはちょうど良い、こうした九州の低い山々の紅葉を、少しずつ見て回りたいと思う。なにごとも、生きていればこそのことだから。
 それにしても、若い元気なころに、北海道の日高山脈や日本アルプスなどの山々に登っておいて、本当に良かったと思う。
(この二日後に、私は、また紅葉の山歩きをしてきたのだ、次回に。)

 前にも、このブログであげたことのある有名な漢詩だが、唐代の劉希夷(りゅうきい、651~680)の一編。

 ”年年歳歳(ねんねんさいさい)、花あい似たり。歳歳年年、人(ひと)同じからず。”

 私なりに訳すれば、”毎年咲く花は大して変わらないけれど、それを見る人の顔ぶれは、毎年変わっていくのだ。”
 つまり、毎年の、山の紅葉の美しさには、たいした差はないけれども、それを見るために登ってくる登山者の顔ぶれは、少しずつ変わっているのだ。 
 木々の紅葉は、当然のことながら誰かに見てもらうためではなく、ただおのが生長生成過程で起きる、生きる過程の一つの姿でしかないのだが、それを美しいと思う人間たちにとっては、自分が生きている間だけにしか見ることのできない、一過性の貴重な感覚美なのだ。

 マーラー作曲の交響曲『大地の歌』第一楽章「大地の悲しみに寄せる酒の歌」からの第三節。
 それは、あの有名な唐代の名詩人、李白(701~762)の詩をもとにしたドイツ訳詩よるものとされる一編である。

  ”天空は永遠に青く、大地はいつまでも揺らぐことなく、春至れば花が咲き誇る。 
  だが人間よ、お前はどれだけ生きられるのか。百年もない期間、この世のはかないことを楽しむにすぎない。”

(『名曲解説全集2』交響曲2 音楽之友社)