11月20日
この秋は、9月半ばの大雪山黒岳(9月18日の項参照)に始まり、同じ大雪山の高原温泉沼めぐり(9月25日の項)と続き、九州に戻ってきてからは、九重山大船山(10月30日の項)から由布岳(11月6日の項)そしてその周辺の山々と、合わせて6回もの登山が続いて、私にとっては、近年にない満ち足りた紅葉登山の年になったのだ。ありがたや。
今回書くのは、その最後の山の紅葉についてであるが、この秋はこうして立て続けに山に行ったために、すぐに記述するべきところが間に合わなくなってしまったのだ。
もともと、このブログが私のもう一つの日記であることから考えれば、10日遅れもの記事になってしまったことで、どこかずいぶん前のことを書くような気がして、いささか後ろめたい気もするのだが。
それにしても、まだ近い記憶として、写真とともにあの時の鮮やか色合いがよみがえってくるのだが。いやー、よかったなあ。
前回から一週間たって、同じあの沢沿いの林の紅葉を見に行こうと思ったのは、もう山の紅葉の時期は終わりを迎えていて、今では山裾から山里の紅葉が盛りを迎えている時だから、山に登るのには遅すぎる時期でもあったからだ。
思えばあの沢沿いの林は、それだけに風当たりも弱い所だろうし、午後の暖かさを保つこともできるから、紅葉の進み具合が遅く、去年もそうだったあの紅葉の木々(’16.11.16の項参照)は、今でも十分に楽しむことができるだろうと考えたことと、併せて、前回見たあの白い花の正体を確かめたいこともあったからである。
前回と同じように、登山口を出たのは遅く9時くらいだったのだが、沢沿いの木々に日が当たるのを考えれば、それでもまだ早いくらいだった。
登山口には、他にクルマが2台停まっているだけで、先の方に一人が林道を歩いて行く姿が見えていた。静かだった。
その日は、終日快晴の素晴らしい青空が広がっていた。
私にとっての山登りとは、こういう日に山に登ることを言うのだ。
何という、年寄りのぜいたくだろう。だから年寄りはやめられないのだ。
むつかしく言えば、今までここで何度も取り上げてきたように、ドイツの哲学者ハイデッガー(1889~1976)が、その著書『存在と時間』の中で言っているように、死ぬことを意識し了解したうえで、自分の今生きている時間の意味を知ることにあるからだ。ああ、ありがたや。
林道の終点の土場(どば)跡から、沢沿いの登山道に入って行くと、すぐに紅葉の林に包まれる。
去年、私が心いやされるような、穏やかなひと時を味わった場所だ。
しかし、まだあの時と比べれば少し時期的に早く、それ以上に、まだ午前中の日の当たらない山陰の所だから、淡いいろどりの夢の中にいるようだった。
もっとも、それはそれで、昼間の紅葉とは違う、朝の山間の静けさを思わせるような、穏やかな色合いにも見えたのだが。(冒頭の写真)
沢沿いの道を登り、浅い三股に分かれた所から、山腹斜面の登りになるのだが、ちょうどそのあたりに、見事なイロハモミジがあり、ここもまだ十分には日が当たっていなくて、帰りの楽しみにしようと思った。
急斜面を登りきると、周りの山々に囲まれた平坦地の林に出る。
その先に去年と同じように、群れになった鮮やかな紅色の紅葉の木々がある。
ちょうど、そこに私より先に登っていた人が上の方から下りてきて、あいさつを交わし少し話をした。
彼が私と同じように一眼レフ・カメラを首から下げているのを見て、ついでにこの木の名前を聞いてみた。
去年その名前がわからずに、ネットや図鑑で調べて、まだ木々の名前には詳しくない私が、確信の持てないままに、メグスリノキではないのかと思っていたのだが、その時に彼が遠慮がちに言った名前は、コマユミだった。(写真下)
家に戻って調べてみると、良く知られているマユミの木とは別の、ニシキギ科に属するコマユミだと初めて分かった。
マユミの紅葉の葉は、この木の近くにもあって、コマユミほどには垂れ下がっていないし、むしろ赤い実がが印象的なほどであり、かといって同じ科のニシキギは、家の庭にも生えていて、確かに紅葉の葉は少し下垂して色合いも似ているのだが、このコマユミには、ニシキギの枝にある背びれのような翼と呼ばれるものがないのだ。
なるほど、これがコマユミだったのか。年寄りになって、なお初めて知ることがあるし、人生とは生涯を通じての学びの場でもあるのだろう。
もう一つ、この先の方には、前回見た白い花のこともあるが、それよりも、この見事な青空だ。展望派の私としては、こんな日に、周りの山々を見るために頂上に行かない手はない。
さらに先に続く、火口壁の急斜面をジグザグに登り、明るい草地になった稜線に着いた。
由布岳も九重連山も祖母・傾も、雲一つない青空の下にくっきりと見えていた。
そこから頂上までは、紅葉の終わった灌木(かんぼく)帯の中の道をたどり、すぐだった。
しかし、そこには、表側から上がってきた観光客の声も聞こえてきていて、束の間、新たなる展望を眺めた後、そさくさと頂上を後にした。
山腹の紅葉も、ほとんどが終わってはいたが、まだ十分な色合いが残っているものは、それだけにひときわ鮮やかに青空に映えていた。
下りでは、登りの時とはまた位置が違って、新たな別の紅葉を見るような気がして、さらに写真を撮りたくなってしまう。
これは、前々回に書いた由布岳の紅葉の木々と同じことだが、紅葉している木は、コハウチワカエデやイロハモミジ、ウリハダカエデやコマユミなどがあり、黄葉しているのは、イタヤカエデにウリカエデ、ヒトツバカエデにチドリノキにリョウブ(紅葉も)などである。
私は、地面に落ちているそれらの葉を持ち帰って、さらに木の幹の写真を撮ったりして、少しでも木の名前を憶えようとしているのだが、”少年老い易(やす)く、学成り難(がた)し”ならともかく、今頃からの”年寄りの付け焼刃”では、なかなか身にはつかないものだ。
そして先ほどの、コマユミが群生する平坦地に戻ってきた。
さらに先にあったはずの、あの白い花を探しに歩いて行ったのだが、見つからない。
確かこのあたりだったと思ったのに、一房の花さえ残っていなかった。
あれは、最近視力が衰えてきた、私のかすみ目のせいか、あるいはそもそもが幻覚だったのか。しかし、前回あげたように、ちゃんと写真として残っているし。
周りをあちこち探しまわっているところで、その中には、赤い実をつけたマユミの木もあったのだが、何とずっと低い所に、ツル状に重なってあの白い花が咲いているのを見つけた。
これだこれだと、喜び近づいて行くと、それは花ではなく、がくの周りが白い綿毛に包まれた形からなる、種子の集まりだったのだ。
樹木・植物については、ありあわせの知識しかない私だから、前回その白い花が、高い木の枝の上にあったこともあって、遠目には、がくのふちから伸びた白い綿毛を合わせて見て、それらが枝先まで鈴なりについていたので、花として見間違えたのだろうが。
年寄りになれば、足腰は弱るは目はかすむは、と大変なことも多いのですが、はい。
それでも、年寄りでいることが好き!八丈島のきょん!(昔のマンガ「こまわりくん」のギャグ)
これも家に帰ってから、ネットにあげられた写真をいろいろと探し回って、やっと見つけたのだ。
ツル性の樹木であるのは分かっていたが、それだけでは探しようがなく、手あたり次第調べていたら、全く同じ綿毛の写真を見つけたのだ。
ボタンヅル。
樹木に詳しい人なら、遠目に見ただけでもすぐに分かって、私のような手間ひまをかけなくてすんだのに、まあ年寄りとしては、こうして物事が解決されて”アハ体験”を得られることで、認知症対策の一つにもなったのだと喜ぶべきなのだろうが。
さて、物事が二つ解決して(この時点ではまだ名前の最終決定には至ってはいなかったが)、いい気分になって斜面を下って行くと、行きに目にしたあの紅葉の木が、今や青空を背景に、いっぱいの光を浴びて明るく輝いているではないか。
それは、今年の、私の紅葉行脚(あんぎゃ)の山旅を締めくくるにふさわしい眺めだった。
紅葉のイロハカエデの木と、黄葉のアオハダ(幹と葉の形から)の木が、相立ち並んでいるのだ。
私は、斜面に立つこれらの木の周りをめぐっては、何枚もの写真を撮り、そして傍らに腰を下ろしては、静かなるひと時を過ごした。
先ほど出会った彼は、別のコースに行くと言っていたし、他に人の気配とてなく、時々、さわさわと梢(こずえ)を揺らす風が吹いて、その色づいた葉が二枚三枚と落ちていた。
しばらくして、腰をあげた私は、沢沿いの道を下って行った。
朝見た時のように、辺りの紅葉は進んではいたが、まだ去年来た時と比べると、一週間以上も早く、もうここでまた腰を下ろすほどではなかった。
むしろ林道の途中に、ひと塊りになって群生しているモミジのほうが、ちょうど逆光になってきれいに見えていた。
こうして、私の秋の山旅は終わったのだった。
これからあと何回、こうして秋の山道をたどり、冬の雪の上に自分の足跡を刻み、春の燃えあがる新緑を眺め、そして夏のお花畑を見ながら、歩いて行けることだろうか。
そして、今までの私の山歩きは、それぞれが一つずつ、確かにそこへ行ったことの思い出でとしてありながら、今では全体が曖昧模糊(あいまいもこ)とした大きな山という思い出のくくりの中にあって、私は、その記憶の大海原の中に浮かぶ一つの島である山に、ずっと登り下りを繰り返してきたような気もする。
その島が何であったのか。
それらの思い出の数々は、果たして、”夢か、現(うつつ)か、幻か”と思う時が来るのだろうが。
その時に、私だけの島は沈みゆくのだろう。
あの有名な、桶狭間(おけはざま)の戦いの前に、織田信長(1534~1582)が自ら吟じ舞ったとされる”幸若舞(こうわかまい)”「敦盛(あつもり)」の一節 、”人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり”の前にある詞書きには、以下のごとくある。
”思えばこの世は、常の住処(すみか)にあらず。
草葉に置く白露、水に映る月よりなほあやし。
金谷に花を詠じ、栄花は先立って、無常の風に誘わるる。”
(『新日本古典文学大系』59「舞の本」岩波書店)
すべて常ならぬものはなく、人も去り花も散る。この世には無常の風が吹くばかりである。
しかし、これらの言葉の言外に含まれている意味は、それだからこそ、今の一瞬一瞬を、強く生きるべきなのだと、聞こえてくるのだ。
彼は、無常の世界だからこそ、今を生きる強い力が必要なのだと、自らを鼓舞(こぶ)したのだろう。
それは、虚無的にも見えながら、おのれの存在を信じ続けた行動主義の作家たち、アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961)やアンドレ・マルロー(1901~1976)だけでなく、あの”アラビアのロレンス”(T・E・ロレンス、1888~1935)にさえ、私はそこに、挑むことを決めた男たちの、真摯(しんし)な眼差しを見る思いがするのだ。
私の若き日のオーストラリアに・・・。
今日北海道では、気温が-17度まで下がり、60㎝もの雪が積もったところもあるとか・・・九州の山々でも、九重や由布岳、そして阿蘇高岳からも初冠雪の知らせが届いている。
今朝、わが家の外に置いてある温度計では、ー1度だった。
九州の山の紅葉の秋は、あの時で終わってしまい、今はもう雪氷の冬が来ているのだ。