ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

忘れるから生きていける

2017-11-27 21:58:56 | Weblog




 11月27日

 毎回ここに載せている記事は、いつも言うように、私の日記の一つでもあり、この一週間ほどの間にあったことで特に深く感じたことについて、ただ思いつくまま書いているだけにすぎないのだが、しかし、山に登った後には、その思い出について書くだけでいっぱいになっていて、他の様々なことどもは、何事もなかったかのように、省略され行き過ぎてしまうことになり、また私の記憶も薄らいでいってしまうのだろう。
 もっとも、先日、ふと見たテレビの中で、誰かが言っていたのだが、確かに人間は、”忘れることができるから、生きていける”、のだとは思うのだが。
 ”忘れようとする”ことは、今まで何度もここで書いてきたように、ある種の自己防衛本能であって、記憶がいっぱいになりすぎないように、適度に取捨選択しているからか、さらには、つらい記憶につながるものを排除しようとする思いからなのだろうが、そうして私はいつも、頭の中が、”おつむてんてん、チョウチョウが飛んでる”状態になれるようにと、心がけてはいるのだが。

 どうして、こういうことを最初に書き始めたかというと、この一週間の間に起きた出来事の他に、私がテレビを見て、新聞を読んで、本を読んで、人と話をして、その時々に様々に思い感じたことなどがあって、しかし、その中には、人生の機微(きび)にふれる極めて重要な事柄があったかもしれないのだが、それ以上に鮮烈な思い出として残っている山歩きについて、まずはいつも優先して書き残そうとするから、それは、私の自己満足的な性癖によっているからでもあるのだが、そうした大切なことが後回しにされて、いつしか私の記憶の中では薄らぎ消え去っていっているのではないかと思ったからである。 
 もちろん私は、世の中で起きるすべての出来事を、まるで法界悋気(ほうかいりんき)の思いを起こして、残らず知っておきたい記憶にとどめておきたいと思っているわけではない。

 それらの、実は重要な物事は、ひとたび記憶の海に深く沈んでいたとしても、やがてそれが必要な時が来れば、感情の嵐によって奥底深い中から、巻き上げられ浮かび上がってはくるのだろうだが。 
 しかし、記憶は自分のうちにあって自分では制御できない領域にも属しているから、それを少しでも自分の意の中にあるものとして残すには、事前の工作が必要だと思うのだ。 
 例えば、そのことを繰り返し思い出すようにするとか、あるいは書き残したり写真などに撮るとかして。
 それは前にも書いたことがあるが、昔の一枚の写真が残っていることで、併せてその時の前後のことや情景を思い出すことがあるように、そのことについて書き残すことで、記憶がより確実に自分の内に残る事にもなるのだ。

 というわけで、まずは最近のテレビから。 
 いつも見ている、NHKの「ブラタモリ」から、前回の”ものづくり名古屋”編から、名古屋発展の起点になったのは、その昔、徳川家康が作らせた一本の川、その運河によって物資の輸送能力が飛躍的に向上し、さらには明治期に瀬戸や常滑(とこなめ)から外国への陶器輸出の一大拠点となり、名古屋はそのころから陶器の絵付け作業の町としても栄え(あの有名な”Noritake”ブランドなど)、その運送のためにこの運河が使われて、その水面高低差調整のための閘門(こうもん、ヨーロッパの運河で普通に見られる)が作られていて、そこでは”下ネタ”好きのタモリ一同が大いに盛り上がり、われらがマドンナ”近江ちゃん”も、笑顔で受け流すほどになってきたのだ。
 ともかく今や、自動車や電子部品などの”ものづくり名古屋”が、その時代から、さらには有名な豊田の自動織機発明へとつながり、そして今日の隆盛につながっているというのがよくわかる番組だった。

 一方で、同じNHKの「日本人のおなまえっ!」、これまた毎週見続けていて、名前に関することで毎回”目からうろこ”的に教えられることが多いのだが、今回は北陸地方などでわずかに残っている名前、”四十物”さん、普通は誰もこれを”あいもの”さんと呼ぶなんては思わはないだろうが。
 どうして”あいもの”なのかというと、つまり生魚と乾燥させた干物乾物との間には、一夜干しなどの干物があり、その二つのものの間のもの、いわゆる”あいもの”つまり、”相物や合物”と呼んでいたのだが、それらが40種類にもなることから、”四十物”と書いて、”あいもの”と呼ばせるようになったというのだ。 
 そこで、なるほどと感心したのだが、しかし、最後に出てきた築地市場の相物協会の会長さんの話では、”昔、年寄りから聞いたんだが、”四十物”と書いたのは、”しじゅう食べられるもの”という意味からだってえことで、いわゆる江戸っ子の言葉の遊びだろうがね”、と言うのだ。

 そういえば、日本人は、万葉の昔から”掛詞(かけことば)”や”言葉合わせ”などの言葉遊びを楽しんでいて、江戸時代にはその言葉遊びが”駄洒落(だじゃれ)”となって日常会話に欠かせないものになっていたし、当時の浮世絵や草紙・読本には、そうした言葉遊びの数々が書き連ねられている。
 しかし、その言葉遊びの流れは、その後の外国語の流入とともに、次第に勢いを失い、今日ではわずかに、伝統芸能としての寄席の落語などでうかがい知るのみである。
 もちろん、”おやじギャグ”としての”だじゃれ”の存在は、今日もなお健在であるが、それを聞いた若者たちが”シーン”と白けて、いわゆる”潮干狩り”状態になってしまうところに、昭和から平成への世代の落差を感じてしまう。
 ましてや、今の時代は、江戸時代の終わりのころからしても、もう二百数十年もの時を経た、遠い昔のことなのだから無理もないとは思うのだが。

 それだからこそ、昔の人々について知りたいと思っている今の人々にとっては、こうして数多くの日本の古典文学作品が残されていること自体が、何にもましてありがたいことだし、何よりもそうした作品から、私たちは当時の人々の生々しい息づかいを聞こくことができるし、変わらぬ人間の本質を知ることもできるのだ。
 私にとっては、こうして、昔の本を読みあさることのできる、年寄りになれたことがありがたいことなのだ。

 そして、さらに同じNHKの番組が続くが(何度も言っていることだが私はNHKとは何の関係もありません)、昨日の「ダーウィンが来た!」では、ボルネオの密林に棲む、体長5㎜という小さなアリと食虫植物ウツボカズラとの、全く奇妙な共生関係が実に興味深かった。
 他の虫たちは、その消化液の入ったウツボカズラのツボの中に落ち込んでしまうと、そのまま這い上がれずに沈んでしまうのだが、この小さなアリだけは、消化液への耐性があり、ツボに落ちた他の虫を引き上げてその場で細かく砕き、巣のあるウツボカズラの茎にまで運んでいくのだが、そう見るとウツボカズラには何の利点もないようだが、ツボに落ちた虫を消化するには長い時間がかかるから、むしろアリたちに細かく砕いてもらって、そのおこぼれが再びツボの中に落ちたほうが消化しやすいのだ。
 さらには、ツボの中の水のような消化液には、蚊の幼虫のボウフラがわき、それもこの小さなアリたちのエサになるから、ウツボカズラとしても大いに助かっているのだ。
 この小さなアリたちの行動範囲は、このウツボカズラの周りだけでしかなく、他の大形アリが襲って来た時には、素早くこのウツボカズラの中に隠れて、難を逃れることもできるのだ。 
 このアリとウツボカズラの共生関係は、彼ら両者の進化過程の中で少しづつ形作られていったのだろうが、逆に、脳だけを発達させていった人間の進化過程についても考えざるを得なかった。 
 その人間進化のあげく、私たち人間は、どうしてこうも、ただ無益な殺し合いを続けているのだろうか。

 この「ダーウィンが来た!」では、前の週まで2週間続けて”ネコ特集”の特別番組があった。
 福岡は玄界灘の相島(あいのしま)には、百匹余りのネコたちがいて、その中の若い一匹のオスに焦点を当てて、彼の成長行動を見事にとらえていた。 
 若いオスネコは時が来れば、生まれ育った環境から離れて、ひとりで旅に出なければならないこと、そこには自分の存在を認めさせるための壮絶な闘いがあること、場合によっては、自分の遺伝子を残すために、メスネコの子殺しさえもするということ(ライオンやクマやサルの世界にあることは知っていたが)、そのためもあってか、子供を産んだメスネコたちはお互いに近い場所にいて、いわゆる共同保育的な態勢をとるということなど、いつもの岩合さんの「世界のネコ歩き」とはまた違った、生々しい生の現場を見せてもらった気がした。 
 みんな、生きることに一生懸命なのだ。

 さらに次は、日本テレビ系列で春と秋に放送される、あの「のどじまんTHEワールド!」。
 今回もまた、日本の歌を愛する海外の人たちがそれぞれに自国の民族衣装的な服を着て、歌を披露していくのだが、さすがに世界各国での予選大会を勝ち上がってきただけあって、音程・技術・声量ともに確かなうえに、日本の歌手以上に発音がきれいだし、さらには、日本に対するあこがれが歌に対するひたむきさになっていて、聞く私たち日本人の胸に訴えかけてくるのだ。
 私は、歌を聞くのは好きだから、テレビでいろいろな歌番組を見ているのだが、毎回、感動を覚えるほどに引き込まれてしまうのは、この「のどじまんTHEワールド!」だけである。
 今回も、期待にたがわず素晴らしかった。
 手持ちハープのような民族楽器を弾きながら歌ったウクライナの歌姫、日本語翻訳者だという圧倒的な歌唱力を持ったケニヤの娘、そして天才だと思わせるほどのラオスの13歳の少女などなど、聞きごたえ十分だった。 
 もしこの歌番組に、日本の歌手が混じったら、はたして何人が彼女たち以上にそん色なく歌うことができるだろうかと、考えさせられてしまった。
 しかし、今回はともかく、今までのこの番組で、私が最も心を動かされたのは、あの2015年秋に、インドネシアの女子大生ファティマが歌った”いきものがかり”の名曲「Bluebird」であることに変わりはない。('15.10.5の項参照、youtubeに動画あり)

 いつもこの番組を見て思うのは、もちろんここでの歌声が、あの「Imagine」や「We are the world」ほどに、全世界的規模の歌には成りえないだろうが、少数だけではあっても、確かに”歌は世界をつないでいる”、ということを実感してしまうのだ。

 さらに、他の音楽番組では、今やオペラの世界に冠たる女王であるアンナ・ネトレプコの、ザルツブルグ音楽祭での、ムーティ指揮ウィーン・フィルによるヴェルディのオペラ「アイーダ」についてや、さらには世界的なバロック・チェロの名手、あの鈴木秀美が指揮者となって、古楽器のオーケストラ・リベラ・クラシカを指揮して演奏する、モーツアルトの第40番や、同じ古楽器で、クラヴィコードからピアノへの移行期に使われたという、タンゲンテンフリューゲルでのピアノ協奏曲9番のことにも触れておきたかったのだが、ここまで書いてきただけですっかり疲れてしまった。
 また別の機会に改めて書くとして、今回はここまでにするが、この秋は様々な用事が重なって、早めにこの九州に戻って来たのだが、その大半がようやく片づいて、今は多少のんびりとしている所であり、誰でもそうなのだろうが、懸案の事項がいくつか終わった後の、この力の抜けた安堵感がいいのだ。
 ベランダの椅子に座り、秋の日差しを浴びて。

 年寄りには、もう何事も起きなくて、毎日が同じように過ぎていくだけの、静かな時間であればそれでよいのだ。
 庭の紅葉も、ほとんどが散ってしまって、あとは風に揺れる葉が、数枚、やがて一枚になり、それも落ちてしまうことだろう。
 
 夕焼け空とともに、秋の日が終わっていく。(冒頭の写真)
 いい、秋だった。