ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

捨てる神あれば、拾う神あり

2017-07-24 21:27:57 | Weblog



 7月24日

 暑い日が続いている。
 そんな暑い夏の時期に、この九州の家に居るのだ。
 家にいれば、連日30度を超える気温はともかく、あのねっとりじっとりと体にまとわりつ、真夏の湿度の高さにはまいってしまう。
 ああ、北海道のあのカラッとした暑さと、朝夕の涼しさが恋しくなる。

 若いころの初めての海外旅行で、中継地の香港の啓徳飛行場に降り立った私に、熱帯特有の湿度の高い暑さが、わっと体を包むように取り付いてきた。
 その暑さは、歩くごとに汗となってにじみ出てきて、こんな所にはもう二度と来るものかと思ったほどだったが、考えてみればその時から、住むならば南に行くよりは涼しい北海道にいきたいたいという思いが、予定事項として私の頭にメモされたのかもしれない。

 それでも、北海道のあばら家に比べて、まだしもこの家にはクーラーがあるからいいようなものの、さらには毎日、寝る前の風呂だけではなく、朝に昨日の生ぬるい残り湯にも入れるからいいようなものの。 

 わざわざ暑い盛りに、この九州に戻ってきたのは、幾つかの用事があったからであり、しかし一週間余りでそれらの仕事を片付けた後は、いつでも出かけていいようにと準備し待っていたのだが、肝心の本州の天気が定まらない。 
 梅雨明け発表二日ぐらいは天気が続いたけれども、その後の天気予報の、曇りや雨の多さには、数日にわたる山行の予定など組めたものではない。(それなのに、山に登る予定のない西日本の天気はずっと晴れマークが続いているのだ。)
 ともかく、今日明日の天気図を見ればわかるように、梅雨前線が日本の真ん中にあるし、南から大きく張り出すいつもの太平洋高気圧などないし、どこが梅雨明けなのだろうか。もともと梅雨入りの発表時期もおかしかったし。
 さらには、年ごとに体力の低下を自覚しているだけに、今のうちにと考えて、東北の山々に花を見に行こうと思っていたのに、それは単なる天気が悪いという予報だけではなく、あの短時間記録的豪雨による水害が、このたびの北九州の被害だけではなく、東北・北陸にまで及んできているのだ。 
 山登りなどの話どころではない。

 去年は、脚のヒザの故障で、どこにも行けずに、毎年恒例の夏山遠征を棒に振ってしまった。
 今回は、そのヒザの具合と体力を確かめるための登山で、たいした問題は見つからずに(7月3日の項参照)、それではと、東北の花の山々を目指すべく予定していたのに・・・。
 「時は流れ、私は残る・・・・」というあのアポリネールの詩の一節ではないけれども。
 「すべて(満ち)足りたその上に、立派な心を持つなんて無理というもの」というジャムの詩の一節をも思い出す。

 その上に、私は久しぶりに体調を崩してしまった。 
 昨夜、あまりの蒸し暑さに、冷房のスイッチをつけたまま寝てしまい、今朝、お腹は秋祭りの”ぴーひゃらどんどん”に、吹き出す汗で、救急車が頭をよぎり、どうなることかと思ったけれども、これまた何年も飲んでいなかった風邪薬を、それも消費期限は5年前に切れていたが(賞味期限が10年前に切れていた缶詰も食べたことがあるくらいだから)、”えーい、ままよ”と飲んでみて、それが効いて何とか今は落ち着いて回復してきたというところだ。(このブログを書いている今、その風邪薬のために、頭がボーットはしているが、まあそれもいつもの私のぐうたらな頭の中と変わりはないが。)

 しかし、そうした悪いことばかりがあったわけではない。 
 いつもの夏は、この家にいる期間が短くて、十分には見られなかったクチナシの花が、今、次から次へと咲き続けてきては、その甘い香りが一日中家の周りに漂っているのだ。(写真上)
 さらには、春に植えておいたミニトマトの苗が大きくなっていて、ありがたいことに鈴なりに実をつけていて、今までに数十個余りも収穫できたことだ。
 いずれも、いつものように短い夏の滞在では、十分に味わえなかったことでもあるからだ。

 ”楽あれば苦あり、苦あれば楽あり””捨てる神あれば、拾う神あり”の例え通りに、いいことも悪いことも、いつも半分半分と考えるほうが、自分の心は楽になる。
 誰の心でもない自分の心だもの、他人や他の物事に簡単に左右されてたまるかと思い、いつも悪いことがあればいつかいいことがあるはずだと希望を持ち、いいことがあればいつか悪いことがあるかもしれないと、気持ちを引き締めて、いつも”人生は良し悪しは半々なのだ”からと思うことにしているのだ。

 山に行くことについても、今年、東北の花の山に行くことができなくなったと嘆くよりは、英語で言う”When one door shuts ,another  opens." という例え通りに、別の日に別の入り口から入ればいいだけのことなのかもしれない。

 さらには小さなことだが、家のベランダそばのアベリアの花に、ナガサキアゲハが来ていた。
 家の庭で見たのは初めてであり、少しうれしい気分になった。(写真下)




 さらに言えば、山に行かずに家にいたおかげでというべきか、何本かの良いテレビ番組を見せてもらった。(いずれもNHKのドキュメンタリーや科学バラエティー番組ではあるが。)
 
 21日(金):「逆転人生」
 7年前に秩父の両神山(1723m、険しい奇岩の山として有名な百名山の山)で遭難した人がいて、14日後に助けられたという話は憶えてはいたが、その詳しい遭難状況や救助の詳細については知らなかったし、今回のこのテレビ番組では、実際に現地でのロケをしていて、それがリアルな再現ドラマになっていた。
 (ある民放のドキュメンタリー・バラエティー番組で、冬の北アルプスの遭難のシーンを、おそらくは予算がないからだろうが、東京から近い秩父・奥多摩らしい山に行って、その薄く雪が積もった杉林の斜面を歩くシーンを撮って代用していて、思わず笑ってしまったことがあったが。)
 この遭難事件の場合、道迷いから強引に下って転落という、よく初心者にはありがちなパターンではある(私にも若いころに体験したことがある)が、何と言っても彼の場合最悪だったのは足首を骨折していたことである。
 さらには、その骨が飛び出すほどの重症を負いながらも、逆には、水のある沢から離れずにいて(足のケガもあって)、さらには増水した沢水にザックを流されてしまい、もうろうとした意識のまま死の一歩手前の14日目を迎え、一方ではその流されたザックが下流で見つかっていて、やがて救助隊がその沢の上流で彼を発見することになるのだが、その救出の時には、私も思わずもらい泣きしてしまった。 
 いろいろと批判はあるだろうが、日本の山岳遭難においては、生存可能の三日目以降に救出された人は極めて少ないということであり、ましてはこの14日目という日数が、いかに奇跡的な数字であるかがよくわかる。
 彼はその後、足を切断することなく何度もの手術に耐え、リハビリの後、前と同じように歩けるようになっていて、当時の彼女と結婚して、二人の子供とともに幸せな毎日を送っているとのことだった。
 しかし、前にもここにあげたことがあるが、ジョン・クラカワーの『荒野へ』の主人公が、アラスカの荒野で発見された結末のように、長期に及ぶ未発見の遭難者の場合、ほとんどは幸せな終わりとはならないのだが。 

 21日(金):岩合光昭の『世界のネコ歩き』津軽の四季(後編)
 2年前に放送されたものの再放送であるが、またまた画面に引き込まれて見てしまった。
 特に冒頭シーンの、紅葉の樹々を背景に映し出された半逆光の中のネコ一匹、屋根の上の月とネコのシルエット、雪の屋根と二匹のネコなど。
 すべてが、動く映像なのに、一枚の写真のような映像美にあふれているのだ。
 あらかじめネコが来る位置を予想して、アングルを決め、カメラは固定してむやみに動かさずに、そのひと時を切り取って行く見事さ。
 動物写真家として出発し、その蓄積された経験を生かしての、岩合氏の美意識と生き物に対する愛情がにじみ出るような、それぞれの時の印象的な映像シーンだった。
 秋から冬が過ぎ、そして春、櫻の下、顔に一枚の花びらをつけたネコ一匹・・・。
 私に、映画監督の素養があれば、自分の映画のカメラマンには、ぜひとも岩合氏をとお願いして、何事も起きない静かな山里の、人とネコや生き物たちの姿を描いた、映画を作ってみたいものだ。

 22日(土):『AI(人口知能)に聞いてみた どうすんのよニッポン』
 様々な社会データをコンピューターに入れて、人間の思考だけでは生み出すことのできない、今後の日本への様々な提言をコンピューターに出させているのだ。
 ”病気になりたくなければ病院を減らせ””男の人生のカギは女子中学生のぽっちゃり度にある””ラブホテルが多いと女性が活躍する””少子化を食い止めるには結婚よりもクルマを買え””40代の一人暮らしが日本を滅ぼす”と、いずれも過激な週刊誌並みの、キャッチフレーズになっているのだが、一つ一つの要因を見て行けば、きわめてまともなデータ集積によるものであることがわかるし、確かに生身の人間が発想できる領域を超えていて、実に興味深いものではある。
 しかし、大多数の意向だけによる、社会・行政の政策施行が、すべての人への正しい答えにはならないということもあるはずだし、そのあたりの人間個人個人の思いと、大多数だけを基準の判断にするコンピューターの判断の危うさとを、もっと提示してほしかったという思いが残る。
 それまでに、バラエティー番組の司会者などとして活躍するマツコ・デラックスという巨漢女装タレントを、まともには評価していなかったのだが、この番組を見てはじめて、なかなかに正直なバランス感覚を持った人なのだと理解しただけでも、この番組を見たかいがあったと思う。

 23日(日):『ジオ・ジャパン(GEO JAPAN)  奇跡の島はこうして作られた。
 40数億年前の地球誕生から、今日に至る、日本列島誕生の過程を、コンピューター・グラフィックスの画像と実写映像を交えて、最新の理論で説明していく、地理地学ファンにはたまらない番組だった。
 先週の「ブラタモリ」ではあの有名な、秩父(ちちぶ)武甲山(ぶこうさん)とその盆地周辺の、地層岩石の見て歩きがテーマになっていただけに、併せて見た人も多いことだろうから、地学ファンにはさらなる喜びになったはずだ。
 その昔、高校の教科書に載っていて初めて知った、ヴェーゲナー(1880~1930)の唱えた”大陸漂流説”が、すでに100年も前からあったことも驚きだったが、その端緒から一気に”プレート・テクニクス理論”(地球上には多くの巨大岩盤があり、それが地球表皮を動いて様々な地形を生成している)が発展し、さらに研究されて今日に至っているのだ。
 その中でも、確かに日本列島の生成過程は、劇的な変化があり、あの有名な丹沢山地や伊豆半島の衝突、富士山の噴火など、こちらもドラマにできるほど盛りだくさんの内容があった。
 来週は、日本の山々の形成ということで、これも楽しみではあるが。
 
 ついでにもう一つ、番組冒頭には内容あらすじ語りの映像が流されていたが、その中で一瞬ではあったが、冬の日高山脈、カムイエクウチカウシ山周辺の、隆起山脈の浸食彫琢(ちょうたく)された山肌が映し出されていて、これが素晴らしかった。(写真下、NHK総合『ジオ・ジャパン』より、手前から春別岳、1917m峰、左に張り出して1903m峰、中央に暗くカムイエクウチカウシ山、重なって遠く1839m峰)
 とても2000m以下の山々とは思えない、アルプス級の冬の日高山脈の美しさを、もっと映像として流してほしかったのだが。
 ”八丈島のきょん”ならぬ、”日高のクマ”は怖いのだが、山は一級品である。