6月26日
緑色に満ち溢れた林の中。
萌黄(もえぎ)色から、黄緑そして緑色へと、木々の葉はその色を変えていく。
その中でひとり、薄紅色の葉先が目立つ樹がある。
秋には見事な紅葉で、私を楽しませてくれるヤマモミジである。
その新緑の、枝先の先端部分の葉が、まるで紅葉の始まりのころのように、淡い赤色に染まっている。
こうして、新緑の葉先が赤くなるのは、このヤマモミジだけではなく、他のモミジの仲間やヤマザクラなどでも見られることであり、さらには庭先のバラの芽なども、薄赤くなるのだが、生物学的に解釈すれば、幾つかの理由が考えられるとかで、その中でも最も大きな理由とみられているのが、まだ芽生えたばかりの若い葉の、自己防衛反応ではないのかということである。
つまり、まだ葉緑素生成能力が十分に備わっていない、芽生えたばかりの弱い赤い葉は、日光の強い紫外線から身を守るべく、あるいは虫たちから食べられてしまわないように、抗菌作用のある赤いアントシアニンを分泌しては、自らの体を守っているというのだ。
ともかく、人間の進化よりはさらいに古い歴史を持っていて、この地球上で繁栄し続けてきた植物たちには、新参者でしかない私たち人間の浅知恵では、とても解決できない多くの謎があって、それは生物の側から言えば、進化の過程の一つにすぎない当たり前の事実なのだろうが。
それにしても、植物と違い自由に動き回ることのできる、他の生き物たち動物たちは、子供のころどういうふうにしてわが身を守ってるのだろうか。
卵生などの場合には、卵からかえった子供たちは、もうその時からひとりで生きてゆかなければならないという、極めて危険な生存競争の場に放り込まれることが多い。
それは、今までに何度も書いたきたことであるが、あのガラパゴスのイグアナの子供たちのように、大勢の蛇たちがかたずをのんで待ち構えている中、その生と死の修羅場(しゅらば)を潜り抜けていかなければならない。
それだからこそ、その生存率を高めるために、その母親は数多くの卵を産むという手段をとったのだろうが。
そして哺乳類の胎生(たいせい)という形をとる場合でも、生活圏が危険に満ちた環境の中にある場合は、当然その数も増えることになるのだろうが、人間などのように、普通には一度にひとりという場合は、もちろんその分、母体の負担は軽減されても、一方では、成長に時間がかかる子供が独り立ちするまでには、長期にわたっての保護が必要となり、母親や父親の負担が増すことにもなる。
しかし、その成長の過程のただ中で、母親なり父親なりの庇護(ひご)が受けられなくなったとしたら、子供たちはどうなるのだろう。
ひとり、報道陣の待ち構える部屋に入って行って、自分の妻の死を伝える、39歳の男の涙にぬれた顔・・・。
おそらくは、テレビを見ていた多くの人々が、もうその姿を正視できずに、同じようにまぶたを熱くしたことだろう。
幾つもの思いが、錯綜(さくそう)する。
もちろん、誰よりもつらく悲しい思いをしたのは、ガンに侵され亡くなっていった彼女自身だったのだろうが。
まだ幼い4歳と5歳の子供を残して、夫婦としての絆に結ばれた夫とも別れて、その当代きっての歌舞伎役者の夫の、これから大成していく様も見られずに・・・。
数年前、私の友達の娘が血液のガンに侵されて、同じようにまだ幼かった二人の子供と、やさしい夫を残して亡くなってしまった。まだ28歳という若さだった。
私も病院に見舞いに行き、そして彼女も、家族みんなで私の家に来てくれたこともあったのだが、あの時のすっかり弱ってきていた、彼女の面影に重なってしまう・・・。
残された子供・・・私は同じ年頃のころ、父親がいなくて、母親の手一つで育てられていたのだが、苦しい生活の中、母親は遠く離れた町に働きに出ていて、一月に一度、私に会いに来てくれていた。
その母親が、歩いて30分もかかる駅に戻る時、まだ6歳の私は泣きながら後をついて行った・・・ほこりまみれの田舎道を歩いて。
それから数十年がたち、母は私が見守る中で、息を引き取っていった。
誰にでもそうした時があるものだろうが、その時、私は、これ以上泣くことはもうないだろうほどに、声をあげて泣いた。
たとえ肉親でも、遠く離れて暮らしていれば、まずは自分の今の家族と身の回りの人々のことが第一の関心事になり、どうしても日々の親への思いは疎遠になってしまい、訃報(ふほう)を聞いてその時にやっと気づくものだが、一方では、毎日生活を共にして傍にいた、妻や子や肉親などの家族などが、目の前で死んでいくのを見ることほどつらいものはないのだ。
さらに、この度の小林麻央の、まだ34歳というあまりにも早すぎる死は、子供たちや夫に与えた衝撃もさることながら、残された夫である市川海老蔵が背負っているものを考えると、さらなる大きな影響が及ぶことだろうと憂慮せざるを得ないのだ。
たいした歌舞伎ファンでもない私から見ても、歌舞伎界第一の名門である”成田屋”市川團十郎の門跡を継ぐ、海老蔵が、その家柄だけでなく、その明快華麗で躍動的な演技・口跡が、歌舞伎界の次世代を担う筆頭の位置にあることは、誰しもが認めるところであり、時を経て市川團十郎の襲名をしてくれるのだろうが、さらに私が生きている間にも、更なる見事な”市川團十郎”像を確立させてくれるものと期待しているからなのだ。
4年前に、父親であり芸の師匠でもあった先代の十二代目市川團十郎を、血液のガンである白血病で失い(66歳)、この度は、今後の大きな支えとなってくれるだろう妻を乳ガンで失い、それだけに、まだ39歳の彼の涙の会見が、なおさらに胸を打つのだ。
この世には、誰にでも、仏教に言う”四苦八苦”の世界が待ち構えている。
有名な”四苦”である、”生、老、病、死”はもとより、さらなる”愛別離苦”(あいべつりく、愛するものと別れる苦しみ)、”怨憎会苦”(おんぞうえく、怨みや憎しみに出会う苦しみ)、”求不得苦”(ぐふとくく、求めるものを手に入れることのできない苦しみ)、”五蘊盛苦”(ごうんじょうく、様々なものに執着するる苦しみ)がある。
(こうしたことをネットで調べていたら、最初の”愛別離苦”に対して、普通一般に言われている”大乗仏教的”な、”愛別離・苦”という解釈ではなく、”上座部仏教(旧小乗仏教)”的な解釈をすれば、”愛別・離苦”つまり愛するものと別れることによって苦しみからも離れることになる、という解釈も成り立つのではないかとの質問が投げかけられていた。
私もそうした解釈のほうが、”四苦八苦”の苦しみからは離れられる、いわゆる”ブッダの教え”に近いものだと思うのだが、しかしそうすると、その次にまだある三つの苦しみとの整合性がなくなってしまうのだ。)
ともかく、今回の市川海老蔵の悲劇は特別なものではなく、世の中には同じような、いやそれ以上の不幸・不運に見舞われた人々など、いくらでもいるはずだ。
そして、彼ら彼女らは、そのような運命の試練にくじけることなく、自暴自棄になることなく、やがては、そこからの自分の道を切り開いていったのだ。
死者は、周りの者たちの胸に永遠に残るとしても、もう二度と戻ってくることはないのだから。
時は、時間をかけて、そのことを私たちに教えてくれる。
そして、それが初七日か、四十九日目か百日目か一年目か、あるいは十三年目にまでなるのかどうかはわからないけれども、その時こそが、私たちが新たな道に向かう第一歩になるのだろう。
「・・・。
彼の魂は雪の降る音を耳にしながら、次第に知覚を失っていった。
雪がかすかな音を立てて宇宙に降り、最後の日の到来のように、かすかな音を立てて、すべての生者たちと死者たちの上に降りそそぐのを耳にしながら。」
(ジェイムズ・ジョイス著『ダブリン市民』より「死者たち」高松雄一訳 集英社)
(あの往時のアメリカの名優ジョン・ヒューストン監督によって、1987年に映画化された名作、この『ザ・デッド/ダブリン市民』のラストシーンは、まさに原作通りの情景にナレーションが流れていて、素晴らしい余韻を残しつつこの映画は終わっていったのだ。)
夕暮れの日高山脈に、少し雲がまとわりつきながら、茜(あかね)色に染まっていった。(写真下)
このところ、ぐずつき気味の天気が続いていて、なかなかすっきりとは晴れてくれないのだ。そろそろ山に行きたいのに・・・。
こうして記事を書いていたところに、何と遠方に住む友達夫婦が、久しぶりにわが家を訪ねてきてくれた。
他にも用事があるとかで、短い間の談笑のひと時だったが、電話で声を聞くよりも、こうして目の前に二人の顔を見ながら話ができることが、何よりもうれしかったし、ありがたいことだったのだ。
年寄りになってからは、なおさらのこと。