6月19日
晴れて、さわやかな日々が続いている。
朝は、まだ10度以下になっていて肌寒いけれども、日中は20度を超えるくらいにまで気温が上がって、日差しには夏の暑さが感じられる。
しかし、日陰に入れば、さわやかな風が吹き、汗ばんだ体もたちまちのうちに乾いてしまう。
そう、一か月前の、まだ九州にいたころの、あの春の盛りのころのさわやかさなのだ。
私が北海道を好きになった、最も大きな理由は、こうして一月遅れでゆっくりと来る、春から夏へのさわやかさと、それに対して、一月早く来ては足早に去っていく豪奢(ごうしゃ)な秋と、辺り一面が雪に覆われて、かたくななまでに変わらない、あの冬の厳しい寒さにある。
つまりは、春夏秋冬、一年中の北海道が好きなのだが・・・。
ここで、また同じことを繰り返し書くことになるが、そこまで言うのなら、北海道と九州半々の今の生活を改めて、ずっと北海道にいればよさそうなものだが・・・しかし、何しろ北海道の田舎の林を切り開いて建てた家だから、若いうちはその不便さが、野趣(やしゅ)あふれる楽しみにもなっていたのに、年を取ってきた今、一つ一つがこの上なく不便に思えてきたのだ。
すべてを独力で、安上がりに家を建てたものだから、浅井戸の水は涸れることが多く、何度も隣近所にもらい水に行かなければならないし、そのために、日ごろから水はけちけちと使うくらいだから、外に作った五右衛門風呂に、薪(まき)を燃やして沸かし入れるのは、その前に雨が降り続いて井戸の水量が豊富な時だけだ。
だから当然のこと、古い二層式の洗濯機を使って洗濯するなど、めったにできやしない。
さらに、トイレは外に木クズを振りかけての溜め込み式だから、夜や雨の日や雪が積もっている冬場などは、外に出るのがいやになる。
もっとも、小さい方は、庭のまわりにし放題だから気分はいいが、その分雑草の育ちが良くて、草刈りの回数が多くなってはしまう・・・。
そんなにまでして、この家に居たいのは、もちろん上に書いたように、心地よい北海道の季節感を味わうためであり、晴れた日に目の前に広がる十勝野の景色と、日高山脈の眺めがあるからだ。
さらに加えて、家を取り囲む林の木々や草花たちや鳥や虫たちを、日々眺め観察しては楽しむことができるからだ。
こちらに戻ってきてもう一月がたつが、その不便な生活に慣れるにしたがって、やはりここはいい所だと思う。
その一か月の間、エゾムラサキツツジに始まって、エゾヤマツツジから、さらにはレンゲツツジの赤桃色から、薄黄色に至るまでの花が咲き続けては、私の目を楽しませてくれた。
そんな庭のツツジも、もう終わりに近づいているが、その周りに群生しているチゴユリは今が盛りだし(写真上)、さらには、あちこちで群れになっている、地元の人がマーガレットと呼んでいる、フランスギクの花も咲き始めたところである。(写真下)
実は、このフランスギクは、最近、駆除対象の外来種植物に指定されたのだが。
確かに、いったん根づくとそこから根を伸ばして、密度の濃い集団を作って広がっていき、他の植物が入り込めなくなり駆逐されてしまうからだろう。
しかし、私としては、前回前々回と書いてきたように、セイタカアワダチソウやセイヨウタンポポは目の敵のような思いで、見つけ次第、引き抜いているのに比べて、このフランスギクだけはとても駆除するどころか、そのまま咲いていてほしいから、これ以上は広がらない範囲の限度を守って、あちこちの群落の部分だけはそのままに咲かせているのだ。
花を見ている人間の立場からすれば、いくら駆除すべき外来種とはいえ、マーガレットと呼ばれるほどに、清楚(せいそ)なその花たちの群れを、どうして引き抜いてしまうことなどできようか。
たとえて言えば、女の子が美人に生まれついていればやはり得をするように、私の家の庭に咲くこのフランスギクも、その可憐な姿から、抜き取られずに得しているのだろうか。
思えば、人間が見い出して育ててきた花は、そうして見た目がいいものだけが選ばれて、園芸種として守り育てられてきたということになるのだろうが。
しかし、草花たちの間には、そうして人間に忌み嫌われ、引き抜かれても、セイタカアワダチソウやセイヨウタンポポのように、外来種の旺盛な繁殖力から、相変わらず増え続けているものが、他にも数多くあるのだ。
さらには、在来種の中でも、雑草として草取りの対象になることが多いのは、オオバコである。
見た目にもあまりきれいだとは言えないし、地面に固く根づいていて、平たく伸ばした葉の間から、種子のついた茎が伸びてきて、その種が人間や動物たちに踏まれては、先の方へと運ばれゆき、そこでまた発芽して根づくことになるのだ。
特に山に登る時、登山口から続く登山道の道の両側に、ずっとオオバコが生えているのを見て、がっかりすることがあるが、それはオオバコが、高山植物とは真逆の、下界を思わせる道端に生える雑草だからである。
というのも、それは登山者の登山靴の裏にくっついて運ばれてきたからであり、すべては私たち登山者の責任でもあるのだが。
”憎まれっ子、世にはばかる”と言うべきか、それでも彼らは生命力たくましく、人に踏まれ車にひかれて葉がボロボロになっていても生き続けては、何とか次の世代のための種をつけた茎を伸ばしていくのだ。
しかし、そんなオオバコにも、”一寸の虫にも五分の魂”があって、実は重要な漢方薬草の一つでもあるということも言っておきたい。
振り返ってわが身を見れば、確かに、見た目がいかつく怖くて、”イケメン”に生まれなかった私は、それだけにいろいろと差別を受け引け目を感じることもあったのだが、それならば、その分どこかに得するところや利するところがあったかというと、もちろん目立ってこれと言えるようなことや、他人から評価されるようなことは何もなかったのだが、ただこうして今、自分が望んだような静かな生活を送ることができているということは、これまでのそうした負の重荷の代わりに、均衡を取るかのように、神様がつかの間の平穏のひと時を、私に与えてくれているからに違いないし、そう考えることにしているのだ。信じる者は、救われるものだから。
さて今は、この愛するその北海道の山々が見える所に戻って来ていながら、まだ一度しか山に行っていない。(5月30日の項参照)
それは一つには、前回の登山でいつものことながら、ひどく疲れて足を痛めてしまったからであり、さらには、これから山に登るとしても、若い時には気にならなかった登山口までの長時間の行き帰りのドライブがあるし、そう思うと、登山への思いや意欲が失われてしまうのだ。
さらには、山に行かなくても、ここには家の周りに広がる自然があり、遠くに山々が見え、毎日の大工仕事や庭仕事に林内仕事があるし、そして一昨日には、とうとう自分の家の五右衛門風呂を沸かして入ることができたのだから、もうそうしたことだけでも、十分に北海道生活を楽しんでいるのだからと思ってしまうのだ。
まあ、とは言っても、それらは単なる言い訳にすぎず、要するに年寄りのおっくうさ、面倒くさがり、腰の重さからきていることなのだ。
こうして年寄りは、自分で自分を年寄りにしていくのだろう。ああ、なげかわしい。
この一週間の仕事と言えば、草刈り鎌による二度目の芝生の刈込みに三日間かかり、さらに畑に野菜苗を植えこみ、イチゴ畑に肥料をやり、相変わらずのセイタカアワダチソウの抜き取りをして、そして大工仕事としては(DIY,”do it yourself"なんて言葉は使いたくない)、古くなって壊れた郵便箱を新たに作り直し、道からの入り口の柵を補修し、林内作業としては、新たに見つけたスズラン群生地のまわりの草刈りをし、去年切っておいたカラマツの皮むきをして、五右衛門風呂を沸かすための薪割りをしてと、それぞれ一日二三時間だけの仕事を午前午後として、日高山脈に沈む夕日を見ては、今日も一日、生きながらえたことに感謝し、後は自分で作った簡単な夕食を食べながらテレビを見て、10時過ぎには寝るという毎日なのだ。
こちらに戻って来て以来、あまり本を読まなくなってしまった。
一応、寝る前には本を広げて読もうとするのだが、すぐに眠たくなって、本を閉じて寝てしまう。
その眠りに落ちて行く時は、なんと気持ちが良いのだろう。
おそらく、永遠の眠りにつく時も、それとは知らずに、毎日の眠りに落ちて行く時のように、すべての意識が遠のいていくような、苦痛さえも遠のいた、穏やかな導入部になっていくのだろう。
死は、死を思う人たちが未知なるがゆえに恐れているだけであり、あるいは、死にゆく者を見ている人達が恐れているだけであり、当の死にゆく者ものにとっては、実は眠りゆく中にあるだけのことであって、それほど怖いものではないのかもしれない。
そう考えることによって、ひとりでいて何もない私でも、来世などあるはずもない個人の終焉(しゅうえん)となるもの、つまり死というものが、まさに誰でもが一人で向かうしかない、永遠の眠りでしかないのだからと思われてくるのだ。
私たちは、生まれたその時から、日々繰り返しては、永遠の眠りにつくその時のために、繰り返し眠りの訓練をしているのではないのか。
『最期のことば』(ジョナソン・グリーン編、苅田元司・植松靖夫 著訳、教養文庫・社会思想社)より。
「眠れる!やっと眠れる。」
アルフレッド・ド・ミュッセ(1810~57、フランスの詩人・劇作家。ジョルジュ・サンドの恋の相手としても有名だったが、晩年は多病で孤独のうちに世を去った。)
「生きている方がいいのだが、でも死ぬのは怖くないよ。」
ベンジャミン・ディズレリー(1804~82、イギリスの政治家。首相も務めたが、総選挙に敗北して辞職して翌年に死去。)
今日は、一日中、曇り空のままの肌寒い天気で、気温は、朝の9度からあまり上がらずに13度と、ストーヴの薪を燃やしてもいいくらいだったが、部屋の温度は16度と、まずは何とかそのままでも過ごすことができるくらいだった。
そんな中、昼過ぎに一眠りした後で、つい日ごろから思っている、眠りに近い死について書いてみたくなったのだが、それも、この重たい曇り空の下、私の生来の”お天気屋”な性格ゆえかもしれない。
日々、私の頭の中の太陽は行ったり来たりしていて。
二日前には、”AKB総選挙”があり、あのごひいき番組『ブラタモリ』を見るのも忘れて、さらには眠たくなるのも忘れて2時間20分にも及ぶ生中継番組を見てしまった。
いつものことながら、ファンたちの投票でランクインして、センター・マイクの前で感謝のスピーチをする、ひたむきな孫娘たちを見ては、このおいぼれじじいめは、ひとり涙するのでありました。
それにしても、これほどまでになったAKBグループの最大のイベントなのに、事前のコンサートが中止され、せっかく沖縄まで行ったファンたちの思いも考えないで、公民館での無観客の選挙結果発表になってしまい、いつもの盛り上がりに欠け、AKB衰退に拍車をかけるようなもので、運営側の取り返せないほどの失態ぶりが、あまりにも情けなかった。
数年にも及ぶAKBファンの私の思いも、明らかに今までほどの熱がなくなってきた気がするし、それは、年のせいかもしれないが。
もっとも、控えめなAKBファンとして、老後の数年間を楽しませてもらって、作詞家兼総合プロデューサーの秋元康とAKBの孫娘たちには、ありがとうと言う他はないのだが。
前掲『最期のことば』より。
「素晴らしい。フィナーレが少しだけ早かったが。」
ユージン・イザイ(1858~1931、ベルギーの名ヴァイオリン奏者・作曲家)
数日前、日高山脈の稜線に雲がかかり、その上に強い風によるレンズ雲がいくつもできて、群れで泳ぐ魚のように見えた。それを夕日が彩ってゆく・・・。(写真下)