ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

世の中は空しきものと

2017-05-08 23:55:33 | Weblog



 5月8日

 ゴールデン・ウイークの前半は、これでもかというばかりの晴れの日が続いたが、後半に入ると雲の多い日が続き、一日だけだが雨も降り、最終日の昨日の午後になって、ようやく快晴の空になった。
 しかし、と思うのもつかの間で、今度は大陸からの黄砂の襲来で、朝晴れていた空も、いつものうす曇りとは違う、鈍い色の空になってきた。
 九州の高い山では、シャクナゲやアケボノツツジが咲き始め、新緑を迎えたばかりの木々もまぶしいばかりに見えるだろうから、山に行くにはいい季節なのだが、この黄砂の空を見ると行く気もしなくなってしまう。

 そこで、庭の樹々や周りの木立などを眺めているのだが、いつもよりは早く、庭のツツジの花が咲き始めた。(写真上)
 今までは、4月半ばくらいには、北海道の家に戻っていたから、わが家のツツジの花を見られないことが多くて、まだ母が家で元気に暮らしていたころには、この庭のツツジが咲きそろった頃の写真を撮っておいてくれていたものだった。
 そんな写真を見ていたものだから、その盛りの美しさは知ってはいたのだが、やはり実際にこうして目の前で見るにこしたことはない。

 家の庭には、普通のツツジと上の写真に写っているクルメツツジとがあるのだが、クルメツツジは、わかりやすく言えば、あの九重などの高い山々で一大群落として咲く、ミヤマキリシマの園芸用栽培品種なのだが、その間にキリシマツツジと呼ばれるものもあって、私はそれぞれの種類を厳密には区別できないけれども、普通にツツジと呼ばれている園芸用植栽品種とは明らかに花の大きさが違っていて、その点では誰でも簡単に見分けることができる。

 もっとも、同じく花が大きいツツジの仲間にはサツキもあって、それは花の時期(サツキが遅い)と、ヤマザクラとソメイヨシノのように、葉が先(サツキ)か、花が先(ツツジ)かの違いがあるのだが、ともかくいろいろなかけ合わせの栽培種の多いツツジの分類は、うかつには断定できないところもあるのだ。
 東京で働いていたころ、いつも今頃になると、道に沿ってあるいは会社などの敷地の生垣として植えこまれていて、鮮やかな色合いを見せていたのだが、今でも、あのツツジの植え込みを思い出すのだ・・・私も若かったし。

 この連休の間、いつもの家の周りの散歩はしたけれども、どこにも行かなかったが、やるべき日常の仕事などがいろいろとあって、ずっと家にいても退屈することはなく、のんびりとぐうたらにそれらを消化していって、いつもと同じ日々が続くだけの連休の10日間だった。 
 それでいいのだ。
 私が、望んでいるものが、”静かな生活”だけなのだから、そうした環境の中にいられるだけでも、十分にぜいたくなことなのだから、他に今さら何を望むというのか。

 そこで、近頃は、すっかり”万葉集かぶれ”になった、このじじいめの歌を一つ。
 元歌は、あの山上憶良(やまのうえのおくら)の有名な一首。

 ”銀(しろがね)も 金(くがね)も玉(たま)も 何にせむ まされる宝 子にしかめやも” より。

 ”ディズニーも ハワイもバリも 何になる 勝れる宝は 静けさなのに”
 
 と、風にそよぐ樹々を眺めながら、一人、じじいはうそぶくのであります。

 そこに、ジャージャージャーとセミの声。悪声で有名なハルゼミの鳴き声だ。
 北海道の家の林で、5月の終わりころから鳴き始める、あのエゾハルゼミとは違う別種のセミであり、有名なミンミンゼミ、クマゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ以外のセミ名前は、まぎらわしいものが多く、私もいまだによくは区別できないでいる。
 それは、このハルゼミとエゾハルゼミの他にも、ヒメハルゼミがいて、エゾゼミの他にも、コエゾゼミとアカエゾゼミがいたりするから、余計にむつかしくなるのだ。

 さて今回は、上にあげた山上憶良について書きたいと思うのだが、”きら星輝くばかり”にいる万葉集の代表的歌人たちの中でも、私にとって最も興味深いで歌人の一人であり、万葉集に収められた80首近くもの彼の歌については、そのすべてを紹介していきたいくらいなのだが、浅学の部外者にしかすぎない私の手に負えるわけでもなく、折に触れては、一つ二つと取りあげていきたいと思っている。
 山上憶良(660~733)は、後年、奈良時代と呼ばれるようになった、奈良平城京に遷都(せんと)された(710年)前後に生きた、下級官僚の一人にしか過ぎないのだが、疑いもなく万葉集を代表する歌人の一人であり、四期に区分される万葉集の歌人たちの中では、第三期の歌人として、万葉集第5巻の掉尾(とうび)を飾って、彼の歌の多くががまとめて載せられている。

 しかし、今回ここで取り上げるのは、彼が67歳にもなって、九州は筑前の国守(こくしゅ、朝廷から派遣された地方長官、今でいう知事)に任命され、当地に赴任していた2年後に、当時、外国である中国朝鮮に面と向き合う、九州方面の外交防衛の拠点として設置されていた大宰府(だざいふ)の、その太宰帥(だざいのそち、国の長官、今でいえば国務大臣・沖縄北方担当大臣のようなもの)として、名門家系の大伴旅人(おおとものたびと、665~735、万葉集編纂者の一人大伴家持の父)がやってきたことに始まる。

 名門出身の名歌人の長官が赴任してきたことで、同じように朝廷から任命され赴任していた、歌に心得のある下級官僚の役人たちが喜んだのは言うまでもないことだろう。
 そこで、この大伴旅人に山上憶良、さらには前にもその歌をあげたことのある(’16.5.23の項参照)、あの沙弥満誓( しゃみまんせい、しゃみのまんぜい)や小野老(おののおゆ)などのそうそうたる顔ぶれがそろい、後年言われるようになる、いわゆる”筑紫歌壇”が形成されたのである。
 大伴旅人の歌は、あの「酒を讃(ほ)める歌十三首で」の中からの、特に有名な一首をあげておくが、他の歌についてもいつかはここで取り上げたいものだと思っている。

「験(しるし)なき 物を思わずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒をのむべくあるらし」

 私なりに訳すれば、”どうにもならないことを思い悩むよりは、今はともかく、一杯の酒を飲んだほうがいいようだ”(注:昔の酒は白濁した”どぶろく”だった)ということになるのだが、それにしても古今東西変わらぬ、”飲んべえ”たちの気持ちは、確かに、この一首に見事に代表されているだろう。
 
 ただし、大伴旅人には、悲しい出来事も待っていた。
 昔としては高齢にあたる、63歳の時に太宰帥(だざいのそち)に任命され、都からの長い旅についてきた同じく高齢の妻、大伴郎女(おおとものいらつめ)が、着いたばかりの大宰府の地で病に伏せて、やがては亡くなってしまい、悲嘆にくれているところに、さらに追い打ちをかけるように、都から、弟である大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)の訃報(ふほう)の知らせを受けることになったのだ。
 そして、その二人のことを思い大伴旅人が詠んだ挽歌(ばんか)が、”万葉集第五巻”の冒頭を飾る次の有名な一首である。

「世の中は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり」

 現代語に訳する必要もない、単純な悲しい歌だが、それだけに若いころには、この歌があまりにも単純すぎて、誰でも悲しい時にはそう思うことだからと、あまり評価する気にもならなかったのだが、こうして時代背景や相次いだ近親者の死という状況を知り、自分が高齢者になりつつあるという身を考えれば、確かに他人ごとではない、年寄りの悲しみとして、今さらながらに、心に深く響いてきたのだ。
 さらに注目すべきは、この歌の後に、山上憶良の作とされる、万葉集では数少ない、漢詩文で書かれた追悼文が付与されていることである。
 ここで、この長い詩文の全部を掲載することはできないが、その一部分だけでも・・・。 

「・・・四生(ししょう、生物の生のあり方)の起き滅ぶることは、夢の皆(みな)空しきがごとく、三界(さんがい、世の中のあり方)の漂い流るることは、環(たまき、腕輪の飾り玉)の止まぬがごとし。・・・。ああ痛ましきかも。紅顔(こうがん)は三従(さんじゅう、父夫子に従う)ととこしえに逝(ゆ)き、素質(白地)は四徳(婦徳など)ととこしえに滅ぶ。なんぞ図(はか)らむ、偕老(かいろう、おたがいに年老い)の要期に違(たが)い、独飛(どくひ、ひとり飛んで)して半路 (はんろ、人生半ば)に生きむことを。・・・腸を断つ哀しみいよいよ痛く、枕頭(ちんとう)の明鏡(めいきょう)空しくかかりて、染えん(竹の皮を染める)の涙いよよ落つ。泉門(せんもん、あの世の門)ひとたび覆われて、また見るによしなし。嗚呼、哀しきかも。
 愛河の波浪はすでに滅(き)え、苦海の煩悩(ぼんのう)もまた結ばるることなし。従来(むかし)よりこの穢土(えど、けがれたこの世)を厭離(えんり)す。本願をもちて、生をかの浄刹(じょうせつ、清らかな寺)に託(よ)せむ。」

 遣唐使の一人として、唐に二年滞在したとはいえ、当時としては優れた漢詩文の才能を持った山上憶良が、名門の学芸に秀でた大伴旅人に、上司としてだけではなく、深い敬愛の念を抱いていただろうから。
 その上司の妻の死に、衝撃を受けたのは、山上憶良にとっても同じことで、わが身のことのように思われるその悲しみの気持ちを、漢詩文の形をとって書き上げては、敬愛する上司大伴旅人に献呈したものなのだろう。
 60代半ばを過ぎていた二人の、相手を深く思いやる心に、私は胸打たれるのだ。
 年を取ってから失う、身内肉親の死ほどつらいものはないのだ。

 万葉集の中では、異端として、あるいは理屈が多すぎると敬遠されることの多い山上憶良だが、大伴旅人とともに60代になってからの歌が、この万葉集には多く収められていて、私は、同じ世代にあるからこその、思いや考え方をこれらの歌から学び取っていきたいと思っている。
 上にあげた、漢詩文をここに書き出し、注釈をつけるのにすっかり手間取り、他の歌や漢詩文をあげることができなくなってしまったが、この山上憶良については、また次回以降に、ことあるごとに取りあげていきたいと思っている。 

 その昔、母が山の中から取ってきては、庭に植えていたエビネランが、今年も半日陰の中で、いっぱいに花を咲かせてくれた。(写真下)
 思えば、家の草花庭木の多くは、母が一人で植えこんでいたものであり、その当時の母の年になった私が、今、その草花や樹々を見ているのだ。

(参考文献:「万葉集」(一~四)中西進訳注 講談社文庫、「万葉集」佐々木幸綱 NHK出版、古語辞典 旺文社、他)


 

  


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