ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

北の国から 春

2017-05-22 18:36:56 | Weblog



 5月22日

 数日前に、北海道に戻って来た。
 すべてが、緑に満ち溢れていた。
 ”芸術は爆発だ”といったあの岡本太郎氏の言葉を借りるまでもなく、そこは まさに北国の春の”爆発”だった。

 まずは、近くの高みに上がって、私の北の山々たちと対面する。
 北は芽室岳(1754m)から、南は楽古岳(1472m)に至るまでの、日高山脈主峰群が、いまだに白い残雪に覆われた姿で立ち並んでいる。
 今までに、私はいつもひとりで、これらの山々の頂きを目指して、幾度となく登ってきた。 
 それは、日高山脈の登山の記録に残るものとか、他人に誇るべき山行だとか言えるようなものは何一つなく、ただ”山好き”な男が、この日高山脈にあこがれて、それらの山々に登り続けただけにすぎない。
 そうして、私は多くの時間を山にあててきて、そのために自分の人生の中で、いくつかのものを失い、そしてまたいくつかのものを手に入れることができなかった。

 しかし、それでよかったのだと思っている。
 自分のためだけの、艱難辛苦(かんなんしんく)のひと時と、歓喜陶酔のひと時を味わい、今でも、そうしたあの時の思い出に満ちあふれた山々が、変わらずにいつもそこにいてくれるからだ。
 (写真上) 左からピラミッド峰(1853m)カムイエクウチカウシ山(1979m)、1903峰、1917峰、春別岳(1855m)。


 さて、わが家の庭に戻ってくると、すでに春の盛りの繁茂期を迎えた草花たちであふれていた。
 まず最初に取りかかった仕事は、”タンポポ抜き”である。
 もちろん、タンポポは春を教えてくれる大切な花であり、野原や道端を黄色一色で染めあげては、いつもの穏やかな田園風景を見せてくれるのだが、そのまま見過ごしていると、その勢力範囲がまさに爆発的に増えてしまうのだ。
 晴れた日の、一面のタンポポの原っぱは、確かに見ていて気持ちがいいものだが、それがいつしか花が終わり、白い綿毛に変わって種が四方に飛んで行くと、後にはしっかりと根付いた葉だけが、そのまま群れ集まって残っていることになり、他の草花や畑の作物にとっては、全くやっかいな植物になってしまうのだ。
 それも、今や希少種になった二ホンタンポポならば、何とかこのままにしておいてあげようとも思うのだが、しかし今では、日本のタンポポのほとんどが、花の付け根のガクが反り返った外来種のセイヨウタンポポだから、余計に何としてもこれ以上繁殖させないようにと、抜き取りにかかるのだ。

 それも、種を作る花だけを摘み取ったところで、また次々に茎の所から新しい花芽が出てくるし、それを防ぐためには、なるべく深く張った根ごと抜き取るしかない。
 さらに注意しないといけないのは、そのタンポポのたくましさであり、ただ一心に子孫を残そうとする花の根性には驚かされるのだ。
 抜き取ったタンポポをそのまま放置していると、本体はしぼみ枯れていっても、花の部分はしっかりと生きていて、そのまま花から綿毛に変わっていくし、まだ花になっていない花芽だったとしても、その後花になり、綿毛になるまで生きているというど根性の植物なのだ。
 自分が死ぬ間際まで、次の世代へとつなごうとする、生命力あふれたタンポポを見ていると、もはや枯れ果てたじじいだからとあきらめ、半ば達観しては、世の中を斜めに見ている自分が恥ずかしくさえ思われるのだ。

 そして、庭に咲く花々は、早春の花、フクジュソウやクロッカスなどはとっくに咲き終わり散ってしまい、その痕跡すらないけれども、チューリップは今が盛りの大きな花弁を開いているし、シバザクラもいっぱいに咲いている。 
 さらには家の林のふちには、あの北海道の春の野の花として代表的な、オオバナノエンレイソウが、その白い清楚(せいそ)な花を咲かせていた。(写真下)




 さらに、林の中には、もうツマトリソウやベニバナイチヤクソウが咲き始めていたが、気になるのは、先ほどのオオバナノエンレイソウの写真の左上にも少し映っている、あの北海道の春の山菜の代表でもあるアイヌネギ(ギョウジャニンニク)である。
 写真に写っているように、もう葉が大きくなりすぎていて、もともと地上に出ている茎から上の部分だけを採るのだが(球根が一番いいところだがそこまで採るともう来年以降は生えてこなくなる)、ともかく食べるにはもう遅すぎるくらいなのだが、それでも採りに行きたいし、なにはともあれ、それは急を要することなのだ。 
 そこで、こちらに戻って来た翌日には、いつもの裏山の沢へと出かけて行った。 
 そして、その通いなれた沢沿いの斜面には、たっぷりのアイヌネギの群落があった。
 確かに時期的に遅く、若葉のころの新鮮な葉からは成長していて、すでにみんな大きくなってはいたが、そのぶん茎の部分も大きくなっていて、食べごたえはあるのだが。
 ここは、相当に入り組んだ山の中だから、他に来る人とてなくて、もう何十年も私一人がとっているだけである。 
 このアイヌネギは、北海道全域に分布しているから、北海道の山野のいたるところで見ることができるし、まして私は、沢登りなどで山に登っている時に、何度もその大群落に出くわしたことがある。

 もちろん、そんな道なき山の沢沿いに歩いて行くわけだから、ダニにやられることは覚悟しなければならない。 
 途中で気づいて払い落としたものと、家に戻ってきて、つなぎの服を脱いでダニを探してつぶしたりして、合計7匹、さらに翌日になって、体のわきに食いついているダニを見つけたが、時すでに遅く、脂ぎったこのおやじの体の肉身に深く食い込んでいて、後は、その痛みを感じたまま、ダニが血をいっぱい吸って、自然に自らポトリと落ちてくるのを待つしかないのだ。 
 
 さらに山菜は、すべてが今が出盛りになっていて、ワラビ、コゴミ、ウド、フキなどといった具合で、さらには、いつもそのてんぷらが絶品なあのタラノメが、なんと遅すぎて、というよりは例年よりははるかに早く芽が出て葉が開いてしまっていて、食べられるタラノメは、わずかにその小さな脇芽を二つ三つ採っただけなのだ。 
 私がこの北海道に戻って来た時から、すでに気温が高く、その時からずっと27度から30度にもなる、快晴の日々が続いていて、ようやく曇り空になった今日から、平年並みの15度くらいの気温になってくれてはいるのだが、このふり幅が15度にも及ぶような気温の日較差、変化の激しさこそが、この北海道は十勝地方の特徴ではあるとわかってはいても、どうしても思ってしまうのはこれが世界規模の、地球温暖化の前触れの一つでなければと・・・。

 ともかく、こうして北海道に戻ってくると、春の盛りになったからこその仕事がいろいろとあるうえに、冬の間そのままにしていて、すぐに片づけなければならない仕事もあって。 
 その一つが、去年三度も襲ってきた台風による、自宅林の被害であり、そのほとんどは九州に戻る前までには、伐木し整理してはいたのだが(’16.10.3,10の項参照)、まだ傾いたままの木もあり、そのうちの一つは、隣の農家の畑に少しかかっていて、これは早急に処理してしまわなければならない。
 町のガソリンスタンドに行って、ガソリンを買ってきて混合燃料を作り、それをチェーンソーに給油しては、その大きなカラマツの倒木を切っていく。 
 林の中は、風が吹き抜けて少しは涼しいけれども、この日の気温は30度くらいもあって、切り倒した後は大体一間(180cm)くらいの長さに切り分けて、汗まみれになっては奥まで運び並べる。 
 一本終わっただけで、のどはカラカラに疲れ果てて、家に戻って一休み。 ありがたいことに、外は30度あっても丸太づくりの家の中は涼しく20度以下くらいで寒いくらいだ。
 一休みして、もう一本も切ってしまうが、やはりのどが乾いて疲れ果て、再び家に戻って、ノンアルコール・ビールを一杯飲む。

 ああ、うまい。生きててよかった。

 さらに昨日は、私の髪の毛のように、薄くなりハゲちらかしていて、部分的にふさふさの、形ばかりになっている芝生を、まずは草苅りガマによる粗(あら)刈りをして、その後で電気芝刈り機で刈り込んで、そのほかの草刈りと併せて、夕方までには、終えることができた。
 ただし、芝地とシバザクラの境目をきちんと作っておかなかったために、両者が入り乱れて、芝刈り機が使いにくくなっていて、そんなところに、早くもミヤマカラスアゲハがやってきては、その小さなシバザクラの花の蜜を吸っていた。(写真下)
 3年前に同じミヤマカラスアゲハを撮った時には、シベリアザクラの花を背景に、そしてシバザクラの所では二匹並んできれいだったのだが。(’14.5.19の項参照)

 さて、今日は朝から曇り空で、気温も15度くらいの平年並みの気温に戻って、このブログ書きもあって、一段落ついての一休みの日になったのだ。
 それまでは毎日、仕事が終わり夕食の後、テレビを見ていると、もう9時くらいには眠たくなり、すぐにバタンキューというありさまで眠り込んでしまい、そのぶん朝5時には目が覚めて、極めて正しい田舎のおやじの一日を送っているのだ。
 九州にいた時は、ぐうたらに過ごしては、万葉集だ古今集だとのめり込んでいたのに、労働が前面に出たこちらに来ると、もうそうした”万葉の時代の時間の流れ”など、遠い昔のことのようで。
 九州にいた時には、あんなに水に不自由して、風呂にも入れず、溜め込み式の外トイレしかない北海道の家になんか、できれば行きたくはないと思っていたのに、いざ来てみると、やはりここは、自分で決めて、自分一人で家を建て、ずっと住み続けようと思っただけのことはある、素晴らしい所だったのだと考え直すばかりで。

 かつて、”不倫は文化だ”とうそぶいて、ひんしゅくをかった芸能人がいて、私も当時は、二人の女を愛するなんて何と嘆かわしい言葉だと思っていたが、もちろん対象となる意味こそ違え、こうして今、二つの家の間を行き来している私には、この違う土地をそれぞれに愛することが、どちらか一つに決めてしまうのではない、ゆるやかに連環する二つの地元愛にも思えてきたのだ。
 ”ぜいたく”だとか”優柔不断”とか言われ続けようとも、いよいよ体が動かなくなるその時まで、私はこの二つの家の間を行き来し続けたいと思う。 

 姉妹である二人の女を愛した男と、二人の男友達を愛した女の、それぞれの物語、私の敬愛するフランスの映画監督、フランソワ・トリュフォー(1932~1984)の『恋のエチュード』(1971年、原題『大陸の二人の淑女』)と『突然炎のごとく』(1961年、原題『ジュールとジム』の話が、今にして少しはわかってくるような。