ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

遥かなる山の呼び声

2016-11-07 23:03:29 | Weblog



 11月7日

 今日は、終日快晴の一日で、風も穏やかで、暖かく、秋の山歩きにはもってこいの一日だった。
 しかし、ヒザの調子が思わしくなく、これ以上悪くなって、少し前のあの夏の時のように、三か月もの間、階段の上り下りにも差しつかえるようになってはと、山に行くのはあきらめることにした。

 前回の、九重山は扇ヶ鼻(1698m)へのハイキング登山は、実に三か月もの間を空けての、久しぶりの山歩きだったのだが、5時間足らずという時間もあってか、ヒザ痛、筋肉痛ともに大したことがなかっただけに、一安心していたのだが。
 さらに天気の日が続いて、大体がお調子者でお天気屋の私としては、じっとしていられなくなり、次なる目的の山に行きたくなったのだ。
 扇ヶ鼻で出会った人から、”今年の紅葉はよくない”などと漏れ聞いていたから、あの時の扇ヶ鼻、星生山の紅葉具合を見ても、これなら山頂稜線付近の紅葉はどのみちもう遅いのかもしれず、それならば、この九重山系の中でも標高も低く、樹林帯におおわれた黒岳ならばまだ間に合うだろうと思い、行くことにしたのだ。

 前回書いたように、秋の黒岳へは、もちろん紅葉の盛りの時には行ったことがなく、数年前に、やっと晩秋の黒岳山麓周遊のトレッキングをしただけなのだが、その時の、紅葉がまばらに残っているだけの山歩きが、今でも思い返すほどの良い思い出になっているのだ。(’11.11.20の項参照)
 今日のような、穏やかな秋の日で、青空の下、わずかばかりの紅葉を眺めながら、誰にも会わない静かな山道を、一人歩いたのだ。
 ただ、日ごろから登山者が歩いているような道ではなくて、小さな古い標識がたまにあるだけで、枯葉に埋もれた踏み跡道を探していかなければならなかったが。
 それだからこそ、そうした静かな山歩きが楽しめたのだし、時間に関係なく、所々で腰を下ろしては、晩秋の山の陽だまりを楽しんだのだ。

 かすかに、梢(こずえ)に吹きつける風の音が聞こえ、遠くでシジュウカラやヤマガラの鳴く声が聞こえていた。
 あの時、あのまま、腰をおろしていた石の上で、もしこと切れて、それが私の最後だったとしても、あの陽だまりの中、遠のいていく意識、青空が見え紅葉の木が見え・・・、それでも、後悔することは何もなく、私はそのまま目を閉じていただろう。

 若いころにはそうした、いかにもヒマな年寄りが好みそうな、”じじくさい”山歩きなど、馬鹿にしていたくらいなのだが、人はいつしか自分の年とともに、自分の体に合わせた山登りをするようになるものなのだ。
 この十数年の間、私はずっとそのことを意識して山登りを続けてきた。

 昔、登った北アルプスや南アルプスの山々に、今再び、そして最後になるかもしれないという思いで、山旅を続けてきたのだ。
 あの北アルプスは黒部五郎岳の、カール底の水場での憩いのひと時、斜面を埋めるコバイケイソウの大群落・・・。(’13.8.23の項参照)
 長年の念願の一つだった南アルプスは塩見岳への再登頂、その手前北荒川岳からの、深い谷を隔ててせり上がりそびえ立つ塩見岳の”天下一品”の姿。(’12.8.10の項参照)
 雪のある初冬から厳冬期にかけての山々、剣御前からの剣岳、八方尾根からの白馬三山、燕(つばくろ)岳からの朝日に染まる槍ヶ岳、中国地方きっての名山、大山(だいせん)の頂上稜線、雪の芸術を堪能した蔵王と八甲田(はっこうだ)、白山(はくさん)や木曾御嶽(きそおんたけ)の火口湖の神秘的な輝き、富士山のまさに”通俗的な”偉大さと宝永火口の見事さ・・・などなど思い出は数限りなく、まるで走馬燈(そうまとう)のように次から次に 湧き上がってくる・・・まだ私が元気なころに、いずれも私が強い思いを抱いて登った山々たちであり、その条件はただ一つ、ともかくすべては、山々を見るための晴れた日の登山だったのだ。
 (もっとも例外的な一つもあって、頂上周辺では晴れたものの、行程の半分は雲や小雨の中だったあの屋久島山行は、逆にそのことで、この大きな島が水にあふれた豊かな自然の中にあることも実感したのだが。’11.6.17-25の項参照)

 今までもたびたび書いてきたことだが、私にしてみれば、展望が見えない日の山に登ったところで、その山の景観としての評価ができないからだ。
 上にあげた山々は、いずれも、晴れた日のほぼ快晴の日の登山であり、きわめて満足度の高い、一回性の意味合いの強い登山だったのだ。
 もちろん登山の満足度など、人それぞれの思いで違うものであり、雨の日だからかえって良かったという人もいれば、グループでおしゃべりしながらの登山で楽しかったという人もいるし、もちろん日本百名山踏破をめざしていて、天気はともあれ、その頂に立つことだけが目的の人もいるし、他の山には目もくれず、例えば富士山だけに登り続けている人もいるし、写真が目的の人も、あるいは花や昆虫、鳥に動物たちを見るのが目的の人もいる。
 さらには近年目立つようになった、”トレイル・ラン”いわゆる山岳マラソンの人々さえいて、それらの人すべてが、大きなひとくくりの中での登山者であり、山登りをする人たちなのである。
 だから私のように、ぜいたくにも、快晴の日に、静かな山に、一人で登りたいなどとほざいている人間がいても、やはりただの登山者の一人でしかないのだ。

 ここまで、簡単にすませるつもりだった前置きが、この時の気分のままにキーボードを叩いては、すっかり長くなってしまった。
 つまり、前回の九重は扇ヶ鼻への登山の時でも、いくらかは人のいない静かなひと時を持てたのだが、今回も、黒岳への登山では、あの”九重銀座”ともいわれる、牧ノ戸峠から久住山に向かうメインルートほどのにぎやかさはないだろうし、まして頂上付近までずっと林の中の道だから、折々紅葉も楽しめるだろうと考えたのだ。
 ただし、ヒザの不安はあるし、黒岳山頂への急坂の分岐になる、風穴(かざあな、ふうけつ、地下の冷気が噴出している所で、富士山や北アルプス穂高岳などが有名)まで行って戻ってくるだけでもいいと思っていた。
 最近まで、山は周囲の景色が見える山頂に登ってこそ、価値あるものであると、かたくなに思い続けていた私が、上に書いたように、数年前の黒岳周遊トレッキングで、山頂に登らない山歩きの楽しさに目覚めて以来、今では年相応の山麓歩きの計画を立てるほどになったのだ。

 その日は天気予報とは違って、朝から快晴の空が広がっていた。
 急いで支度をして、クルマで走って名水百選で有名な男池(おいけ)駐車場に着くと、平日とはいえ、紅葉シーズンのさ中なのに、クルマは数台ほどで、前回の牧ノ戸峠の数十台とは比較にならない静けさだった。ありがたい。
 いつもの時間よりはずっと遅く、9時過ぎに、ゲート入り口で協力金100円を払い、静かな清流の流れる男池園地に入って行く。
 だれもいない静かな林の中を、こぼれ日を浴びながら歩いて行くが、まだこの辺りは、何本かの木が色づき始めているだけだった。
 ゆるやかな道の先には、いくつかの紅葉した木々があり、”隠し水”の水場を過ぎるころから、色合いもぎやかになってきた。コミネカエデの赤、ヌルデのあずき色、カエデ、コナラ、リョウブなどの黄色と、まだ緑色の木々も多く、それらが混然一体になって、色彩の音階を奏(かな)でているようだった。(写真上)

 やはり山の紅葉の見ごろは、ほとんどが色づいた極彩色の盛りの時よりは(もう枯れてしまった葉などもあるから)、むしろまだ色づいていない葉が多いくらいの時のほうが、それぞれの色彩の細かな変化が見られて、それなりに楽しめるのかもしれない。
 小尾根に取りついて、少し勾配のある道を登って行く。
 まだ紅葉は、全体的にはこれからだと思えるのに、道の上には、すでに赤いモミジや黄色いカエデの葉が落ちている。
 そういうことだと思う。紅葉の時期なんて、あの桜の花時のように、真っ盛りの時からいっせいに散るというのではなく、それぞれの木がそれぞれのタイミングで色づき葉を落とすのだから、上に書いた、11月中旬の黒岳周遊の山歩きの時でさえ、まだ紅葉を楽しめたくらいで、大まかな期間で言えば、この九重山域では、おそらく10月から11月いっぱいまで、どこかでそれなりの紅葉を見ることができるのではないのだろうか。
 それぞれに、自分が見た時の紅葉風景を楽しめばいいのだろう。

 西側にそびえる、あのミヤマキリシマで有名な平治岳(ひいじだけ、1642m)との間のくぼ地になっっている、ソババッケの紅葉にはまだ早かった。
 さらに、そこから、右手に平治岳へと向かう道と分かれて、大船山と黒岳に挟まれた数か所のくぼ地が連続する、ゆるやかな登り道になる。
 その所々は岩塊地帯になっていて、足元が気になるが、明らかにそのあたりから、見事な紅葉の木々が増えてきて、あたりが明るく照り映え、木々の間からは、全山紅葉し始めた黒岳前衛の山も見えていた。(写真下)



 さらに先では、同じように木々の間から、黒岳の二つの頂である高塚と天狗岩が見え隠れしている。
 にぎやかな声で先を歩いていた中高年グループを抜いて、風穴に着き、そこから急坂の登りになる。
 ここまででもコースタイム以上の時間がかかっていたが、ヒザの調子もまだ悪くはなっていないし、彼らから離れるためにもと、さらに登り始めた。
 少し登ったところで、遠く離れた下の町から、お昼のサイレンの音が聞こえてきた。私は、そこに座り込んで一休みをした。
 頭上には、コミネカエデなどの紅葉があり、それらの木々の向こうに大きく大船山(だいせんざん、1786m)が見えていた。
 再び登り始めるが、なかなかの急坂で、息は切れるし、足は疲れるし、空は曇ってきたしと思っていると、後ろから来た若者が一気に私を抜いて行った。

 ”それでいい。若者よ、若さは何よりも頼もしいものだ、君は思いのままに、金の翼で翔(と)んでゆけばいい。
  さて、私は、しばし憩うことにしよう。ありがたい命の、金のしずくを味わいながら。” 

 さしもの急坂も一段落ついて、中腹の段丘のところに出て、このあたりは木々の紅葉がきれいだったのだが、いかんせん周りに重なり合う緑の木々が多すぎて、十分に眺めることはできなかった。
 再び急坂になり、上から一人二人と降りてきたが、朝早く出ていればそれくらいの時間になるだろうに、私は、はじめは風穴までのつもりで来たものだから。
 そして、坂道もようやくゆるやかになり、行く手に空が低く見えてきて、ミイクボと呼ばれる火口原のふちの分岐点に出た。
 右に行けば、標高は少し低くなるが、大きな岩の上からの展望が楽しめる天狗岩(1556m)への道であり、左は高塚(1587m)へと向かい、北側の由布岳方面の展望が少しままならないところもあるが、大船山、三俣山、平治岳と並んだ姿はこちらのほうが素晴らしい。
 いつもは、両方に登るのだが、今回は時間も遅く、高塚のほうに登ることにした。
 低い木々の下をゆるやかに登り、ミヤマキリシマの株が出てくると、展望が開けてきて、紅葉の火口原の向こう側に、天狗岩の尖峰と左に荒神森(登山道はない)が見えている。(写真下)

 少し先の岩の上で腰を下ろし、簡単な昼食をとった。
 先ほどから晴れてきて、周りの紅葉も光に映えて、鮮やかな色合いになってきた。
 ここからの眺めは、なんといっても、左に大きなすそ野を引いた大船山と、その頂から続く米窪(こめくぼ)と呼ばれる火口とそれに続く段原(だんばる)の火口原の連なり、そして三俣山、平治岳の眺めだろう。
 そこに、別の中高年のにぎやかなグループがやってきて、私は早々と下りて行くことにした。
 これからは、再び見通しがきかなくなる道を戻るので、最後にもう一枚と、紅葉の大船山を撮った。
 左手の雲海の上には、遠くまだ祖母山(そぼさん、1756m)も見えていた。(写真下) 
 
 もう思い残すことはなかった。あとはヒザの痛みが出ないように祈るばかりだ。
 急坂の下りを、登りと同じ時間でゆっくりと下りて行った。
 相変わらず所々での紅葉はきれいだったが、下りきった風穴から先も、気を使う岩塊帯の小さな登り下りがあり、やっと着いたソババッケの登り返しから、あとは下りだけの道のりだったが、それまでに二三度滑っていたし、もうすっかり疲れ果てていて、やっと男池園地の林の中に出て一安心し、ようやく、クルマを停めていた駐車場に戻った。もう4時半に近かった。
 
 翌日、筋肉痛は大したことはなったのだが、例のヒザ痛はヒザの裏側に出て、その後の家の庭での、脚立(きゃたつ)に立っての刈り込み作業などで、おぼつかない足元になってしまった。
 今ではあまり使われない言葉だが、いわゆる”足萎(な)え”の状態で、ひざに力が入らなくてふるえる感じなのだ。

 余談だが、この言葉は、今では”気持ちが萎える”とか言う意味で使われてはいるが、”足萎え”の意味では、あまり使われてはいない。
 方言かもしれないが、昔、”足萎えのおじいちゃんの面倒見るために”とか言っているのを聞いたような気がするが、私もとうとうその年になってしまったのか。
 もっともこの”萎える”という言葉は古くから使われてきた言葉らしく、ここでも何度も取り上げてきたあの鴨長明による『方丈記』の中でも、”おおなゐ(い)”、つまり大地震のことについて書かれているのだが、私は長い間、この地震の〝なゐ(い)”のことを、”萎え”からきた言葉だと思っていたのだが、なんと、これは全く別な言葉だったのだ。
 つまり、”なゐ(い)”とは、古い言葉としては”大地”を意味していて、動詞は”なふる”であり、地盤がふるい動く”こと、つまり”地震する”という意味であることを、最近になって知ったのだ。(「広辞林新訂版」 三省堂 昭和11年発行)

 思い返せば、小学校の唱歌の一つだった「ふるさと」の出だしの部分、”うさぎおいしかのやま”のところを、私は恥ずかしながら、ずっと高校生になるくらいまで,”ウサギの肉が美味しい、かのという名前の山”だとばかり思っていたのだ。
 まあ、人の思い込みというものは、ことほどさように、誤解や曲解に満ち満ちているというわけであり、いまさらながらに浅学軽薄なわが身を嘆くのであります。

 そんな反省はともかく、今回の黒岳登山には、往復7時間余りもかかってしまい、前回の扇ヶ鼻登山の5時間足らずの時間を考えれば、やはり無理があったと言わざるを得ない。
 つまり、ヒザの痛みを抱えた”病み上がり”登山には、明らかに長すぎる行程であり、いまだに続くヒザ裏の痛みが出たのも当然のことであり、じん帯の損傷は何度も再発するのだということを、改めて身にしみて知った次第である。
 これからの、年寄りの登山は、それなりに余裕を持った、短い距離の山歩きにすることだ。
 ただそう考えてくると、失うことになるものも多く、例えば、この夏にでもと思っていた、あの東北の朝日連峰、以東岳から大朝日岳への縦走ができなくなったのが、何よりも心残りになる。

 しかし、足が動かないわけではないから、簡単に登ることのできる山に行くことはできるし、林の中の小道を歩くこともできるだろう。
 山に登れないなら、それなら、海に行くかといった単純な話ではない。
 私の心の中では、いつも、”遥かなる山の呼び声”が聞こえているのだ。
 ”シェー、カムバッーク!”

 違うこれでは、昔の漫画、赤塚不二夫作の『おそ松くん』に出てくる、イヤミ先生の”シェーー”になってしまう。
 正しくは、あの西部劇映画の名作、『シェーン』のラストシーン・・・アメリカはワイオミングの岩山を背景にして、一匹狼の流れ者、アラン・ラッドふんするシェーンが馬にまたがって去っていくシーンであり、そのシェーンに助けてもらった、開拓農家の坊やが叫ぶラストシーンなのだ。
 "SHANE COME BACK"
   その声がこだまして・・・やがて、あの有名なメインテーマ曲「遥かなる山の呼び声」が流れてくるのだ・・・あふれんばかりの余情を残して、”THE END”タイトルで消えていくスクリーン・・・。
  映画の主人公が、正義の味方であり、いつも最後には勝っていた、いい時代だったのだ。